研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

理神論(1)

2005-09-17 23:03:33 | Weblog
啓蒙主義の時代に、「理神論」というキリスト教理論が形成された。これは、強大な神が世界とその世界の法則を定め、「第一原因」を作動させ、世界を始め、その後は、どこか遠くの計り知れないところに引っ込んでしまい、もう世界には干渉しないというようなキリスト教観である。つまり、この世には法則のみが神の存在証明として残された。

ユダヤ教の異端者イエスが3年間伝道しただけで作られたキリスト教には、いろいろな側面がある。ユダヤの神ヤーヴェは恐ろしい「裁きの神」である。もともとユダヤ世界も大昔は、多神教であったが、ある時期からその中のヤーヴェという神が自己主張を開始し、一神教となった。ここから発生したキリスト教は、ローマ帝国の国教となることで、世界宗教になった。ただ、ユダヤ教の神ヤーヴェとイエスが父と呼んだ神は実は違うのではないかと言ったのがグノーシス主義というキリスト教の異端派で、イエスが父と呼んだのはヤーヴェとは別の「愛の神」なのではないかと言っている。つまり「旧約」の神様と「新約」の神様は別物かもしれないと。もちろん真偽は知るよしもないが、キリスト教は裁き(旧約)と愛(新約)の混在する宗教となった。キリスト教はもともと教義が不完全であったがパウロや教父たち、カトリックの大秀才たちによって、次第に確立されていった。この間に発達したのがスコラ哲学である。スコラ哲学の全容は私などには分からないが、中心課題は、実念論(イデアリズム)と唯名論(ノミナリズム)との間の普遍論争である。実念論とは、例えばまず「人間」という理念が実在し、しかる後に、「太郎」「花子」なども個人が存在すると考える。一方唯名論は、人間一般などは存在せず、まず「太郎」「花子」など具体的な個人が存在し、その共通項を抽出・抽象化して、「人間とは」何であるかを言えるという考え方である。前者はプラトン的、後者はアリストテレス的とルネッサンス期の人々は考えた。コジモ・ド・メディチのプラトン・アカデミーの時代、フィレンツェではこういう分類論が非常に流行った。

いずれにせよ、こうした知的動向の中で、ドミニコ修道会の大神学者トマス・アクィナスが、アリストテレスの方法論とそれまでのキリスト教神学を融合し、やや実念論よりに実念論と唯名論を折衷し、カトリック神学を確立した。一方、フランチェスコ修道会の系列では唯名論が独特な進化をとげ、ベーコンや、オッカム・ウイリアムなどの修道士がでた。教会分裂を経て、カトリック世界は教皇派と皇帝派に分かれたが、オッカム・ウイリアムは皇帝派に身を寄せ、ここで教育活動を行い、彼の学校から後に、マルティン・ルターが現れ、宗教改革が起こる。カトリックの権威に不自由を感じ続けていたドイツ諸邦の君主たちはプロテスタントとなるが、一方カトリック側にも、イグナチオ・ド・ロヨラが出て巻き返し、新旧両派は拮抗した。こうして延々と異端審問・宗教戦争が続き、さすがに人々は疲れ果てた。寛容論がこうして形成されていく。

この宗教改革の流れとは別にルネッサンスは進行していた。ルネッサンスは教科書的には、人間主義を特徴とするといわれており、第一義的にはそれでもいいのだが、実際には、中世的な魔術的な要素は濃厚にもっており、人々の関心が基本的には来世の魂の処遇であることには代わりがなかった。しかし、こうした流れは啓蒙主義の胎動とともに変化していく。胎動のなかに出現した巨人が、アイザック・ニュートンである。

ニュートンは、人々の視線を来世から現世に移した。ニュートン自身は信仰厚い人であり、頭の中は生涯を通じて神を探求した人だが、彼の功績が人々の目を現世に移した。ニュートンは、被造物の世界を観察し、その観察の結果、万有引力の法則や光学上の発見を行い、この現世には神の存在を証明するさまざまな法則があることを示した。彼自身、自分の『プリンキピア』によって、モラル・フィロソフィーは新たな局面を迎えると語っている。モラルとは、日本語で道徳と訳されるが、これは「現世にまつわる事柄」という意味である。モラル・フィロソフィーとは、神学のようなエクレジアスティカル・フィロソフィーに対置するこの世に関する哲学・科学である。このイギリスにおける知的動向の中から、スコットランド啓蒙が展開していく。

つまり、理神論の魁はニュートンであった。そしてニュートンの理神論はあくまで神への信仰と密接な関係をもっていた。しかし、これがドーヴァー海峡をわたり、フランスにたどり着くと変化した。「ニュートン氏の自然哲学」をフランス人は例の調子で熱狂的に受け入れ大ブームになったが、そこは『プリンキピア』である。物凄く難しい。文系のフィロゾーフたちは、なんとか自分たちの教養で理解しようとしたが、その時彼らが持っていたのは、デカルトの方法論であった。面白いことに、ニュートンが大嫌いだったデカルトでニュートンを解釈し、その結果、独特のニュートン自然哲学がフランスで育った。この中で独自の成長を遂げた理神論は、ニュートンのそれよりも明らかに無神論に近いものだった。神の存在以外は、ほぼ世の中は法則で運行される唯物論である。これが再びドーヴァー海峡をわたり、イギリスに行く。スコットランド啓蒙は、当時の宗教的熱狂主義と戦う一方、こうしたフランスから逆輸入された唯物論的理神論とも戦うことになる。ちなみに、この理神論者の少なからざる人々が、フリーメイソンの会員であったことから、また独特な言説が人々の間でささやかれる。