ベンジャミン・フランクリンら、アメリカ建国の父たちは、理神論者であると整理される。もちろん、この整理でとくに問題はない。しかし、もう一歩踏み込んで彼ら自身に「あなたは理神論者ですね」と聞けば、少し嫌な顔をすると思う。『フランクリン自伝』によれば、フランクリンは理神論は、「非常によく出来ていて、牧師の古臭い説教よりよほど説得力がある」と語る一方、「しかしながら、理神論者には信用のならないタイプが多い」とも語っている。どうも、来世に関心が薄く、神の賞罰を恐れなくなった結果、不道徳で、性的にも放埓な人々が多かったようなのである。これを見て、フランクリンは、理神論は教育的にはよくないと考えたようである。フランクリンの場合、「結果」として人間が道徳的によくならないならば、その教えは何か欠陥があるのではないかと考える人であった。これはプロテスタンティズム神学の問題が根本にあった。一口にプロテスタント神学と簡単に言うが、もちろん一口にはいえない。ただ、エキスを言えば、「予定説」であろう。要は、これが信じられるかどうかである。
予定説とは、要するに、「人間の魂が死後、天国に赴くか、地獄に赴くかは、その人間の魂がつくられるはるか以前に、すでに神によって予定されている」というのである。つまり、全知全能の神は、人間の行為には一切左右されない。善行を積めば天国へ、悪徳を改めなければ地獄へというのは、見方によっては、神を人間がコントロールする行為である。もちろん、神は人間の制約は受けない。その神の唯一の契約こそが聖書であり、だからこそ聖書主義になるのである。プロテスタンティズムは良心の自由を基礎とし、聖書のみをよりどころとし、万人司祭説をとなえているが、これはトレルチの『宗教改革とルネッサンス』によれば、各人が好き勝手に生き、聖書を自由に読んでよいという意味ではない。プロテスタント神学では、人間はアダムとイヴの原罪により、そもそも良心を自立的に持つことはできない。良心を持ちうるのはひとえに神の恩寵なのである。つまり、ルターの言う『奴隷意思論』である。人間の意志は、基本的に悪魔に支配されていて、特別な恩寵によってのみ神に支配されるのである。だから良心の自由とは、神の意思のみに忠実であることである。それゆえ、自分の上には神しかいないという意味でのみ万人が司祭なのである。だから、聖書のみが重要であることは、即座に聖書を自由に解釈してよいことにはならない。「正しい」解釈というのはやはりあるのである。だから、信徒は牧師に学ばなければならない。ただし、その結果天国に行くかどうかは、まったく別問題なのである。
ヴェーバーはどう思うかは分からないが、アメリカ建国期のインテリたちは、どうしてもこういう考え方が受け入れられなかったのである。後に第三代大統領になったトマス・ジェファソンは、第二代大統領であったジョン・アダムズへの書簡で、「このような神を私は認めません。なぜなら悪魔だからです。カルヴァンというのはおそらく無心論者でしょう」と述べている。アダムズは、聖書をあくまでも人間の徳を補強するものとみていたが、徳の源泉とは考えていなかった。彼は、道徳は人間が自立的に打ち立てられると考えていた。そして、来世の賞罰は、人間の徳性に対応すると考えていた。フランクリンに至っては、「13の徳」という戒律を自ら考え自らに課した。ジェファソンは、あらゆる国で出された聖書の翻訳を見比べ、神話を検討し、自分で聖書の完全版を作ろうとした。正統神学の見解では暴挙もいいところである。こうした人々であったので、確かに「理神論者」というくくりで間違いではない。しかし、彼らは理神論者よりは神を真面目に信じていた。
理神論とはやはり、プロテスタントの風土でうまれたものである。あの神と人間との距離の大きさは確かにプロテスタントである。それゆえ、カトリック世界の理神論者は無神論に傾いた。しかし、プロテスタント神学自体がもつ、あの非人間的な世界が、神を括弧にくくるような思考様式を結局は生み出したのだろう。
ただ、注意すべきは、現代アメリカにも、このプロテスタンティズムをまともに信じている人たちがたくさんいるということである。
予定説とは、要するに、「人間の魂が死後、天国に赴くか、地獄に赴くかは、その人間の魂がつくられるはるか以前に、すでに神によって予定されている」というのである。つまり、全知全能の神は、人間の行為には一切左右されない。善行を積めば天国へ、悪徳を改めなければ地獄へというのは、見方によっては、神を人間がコントロールする行為である。もちろん、神は人間の制約は受けない。その神の唯一の契約こそが聖書であり、だからこそ聖書主義になるのである。プロテスタンティズムは良心の自由を基礎とし、聖書のみをよりどころとし、万人司祭説をとなえているが、これはトレルチの『宗教改革とルネッサンス』によれば、各人が好き勝手に生き、聖書を自由に読んでよいという意味ではない。プロテスタント神学では、人間はアダムとイヴの原罪により、そもそも良心を自立的に持つことはできない。良心を持ちうるのはひとえに神の恩寵なのである。つまり、ルターの言う『奴隷意思論』である。人間の意志は、基本的に悪魔に支配されていて、特別な恩寵によってのみ神に支配されるのである。だから良心の自由とは、神の意思のみに忠実であることである。それゆえ、自分の上には神しかいないという意味でのみ万人が司祭なのである。だから、聖書のみが重要であることは、即座に聖書を自由に解釈してよいことにはならない。「正しい」解釈というのはやはりあるのである。だから、信徒は牧師に学ばなければならない。ただし、その結果天国に行くかどうかは、まったく別問題なのである。
ヴェーバーはどう思うかは分からないが、アメリカ建国期のインテリたちは、どうしてもこういう考え方が受け入れられなかったのである。後に第三代大統領になったトマス・ジェファソンは、第二代大統領であったジョン・アダムズへの書簡で、「このような神を私は認めません。なぜなら悪魔だからです。カルヴァンというのはおそらく無心論者でしょう」と述べている。アダムズは、聖書をあくまでも人間の徳を補強するものとみていたが、徳の源泉とは考えていなかった。彼は、道徳は人間が自立的に打ち立てられると考えていた。そして、来世の賞罰は、人間の徳性に対応すると考えていた。フランクリンに至っては、「13の徳」という戒律を自ら考え自らに課した。ジェファソンは、あらゆる国で出された聖書の翻訳を見比べ、神話を検討し、自分で聖書の完全版を作ろうとした。正統神学の見解では暴挙もいいところである。こうした人々であったので、確かに「理神論者」というくくりで間違いではない。しかし、彼らは理神論者よりは神を真面目に信じていた。
理神論とはやはり、プロテスタントの風土でうまれたものである。あの神と人間との距離の大きさは確かにプロテスタントである。それゆえ、カトリック世界の理神論者は無神論に傾いた。しかし、プロテスタント神学自体がもつ、あの非人間的な世界が、神を括弧にくくるような思考様式を結局は生み出したのだろう。
ただ、注意すべきは、現代アメリカにも、このプロテスタンティズムをまともに信じている人たちがたくさんいるということである。