猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ③

2015年01月06日 17時59分39秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ③

 都に残された御台様は、種直が捕らえられたことも知らずに過ごしておりましたが、やがて、玉の様な男の子を産んだのでした。御台様は、大変お喜びになって、御乳や乳母を付けて、大切にお育てになりました。そうして、3年の月日が流れたのでした。しかし、種直からは便りも無いので、御台様は、
「恨めしい種直様。鎌倉で美しい花と戯れて、私たちのことを忘れてしまったのでしょうか。」
と、恨み事を言うのでした。御台様は、通りに出て、鎌倉から来る人に、種直の事を聞いてみようと思い立ちました。道端に立っていますと、山伏が三人、通りかかりました。御台様が、
「申し、客僧達。あなた方は、どちらからお出でですか。」
と訪ねますと、客僧達は、
「おお、我等は、鎌倉より来ました。何かご用ですか。」
と答えます。そこで御台様は、
「鎌倉では、何か大きな事件はありませんでしたか。」
と尋ねたのでした。客僧は、
「おお、ありましたよ。ちょうど三年前の事になりますが、原田の二郎種直という者が、由比ヶ浜で、討ち死になされました。」
と、言い捨てて通り過ぎたのでした。これを聞いた御台様は、夢か現かと、泣き崩れました。
「私は、なんと馬鹿なのでしょう。種直殿は、都の事を忘れてしまったと思い込んで恨み、都の事を思い出す様にと、賀茂神社に祈誓を掛けておりました。ああ、恨めしい憂き世です。」
と口説く様子は、哀れな有様です。やがて、涙を押しぬぐった、御台様は、
「三歳になる若君を、出家させて、後世を弔ってもらう外はありません。」
と考えて、若君を山寺に登らせたのでした。
 若君は、大変優秀でした。他の子供達は及びもしません。一字を十字に覚ったので、十三歳になる頃には、山一番の稚児学者と呼ばれる様になりました。御台様は、大変お喜びになり、若君を呼び戻しました。御台様は、立派になった若君に、父の事を話すことにしたのです。
「良く聞きなさい。お前の父親の種直は、十三年前に、由比ヶ浜で討たれたと聞きました。」
と、泣きながら、父の話しをしました。若君は、これを聞くと、
「それでは、私は、鎌倉へ行って、事の子細を確かめて来ます。」
と言いました。御台様は、
「七月半で捨てられた父を恋しく思って、鎌倉まで行くというのですか。しかし、十三年も前のことです。恨めしいことですが、鎌倉へ行ったとしても、白骨すらもみつからないでしょう。」
と、歎くばかりです。しかし、若君は、
「いえ、それでも私は参ります。許して頂けないのなら、如何なる淵へでも身を投げて、死ぬ覚悟です。」
と、がんとして譲りませんでした。とうとう、御台様は、
「それ程までに、思うのであれば、尋ねて行ってごらんなさい。」
と、折れるのでした。若君は、
「このままの姿では、人売りに、売られてしまう。」
と考えて、修行者の姿に身をやつすと、鉦鼓を首に掛けました。御台様はこの姿をご覧になると、
「もし、父と巡り逢った時に、何を証拠とするつもりですか。」
と、守り袋と黄金作りの御佩刀を取り出しました。
「これこそ、父、種直の形見の品ですよ。」
と、若君に手渡すと、
「夫に別れてよりこの方、袖を絞らない日は無いというのに、今日から、子にも別れて、明日からの恋しさを、誰に話して慰めればいいのですか。」
と、重ねて歎き悲しむばかりです。しかし、若君は、名残の袖を振り切って、鎌倉へと旅立ったのでした。
 馴れない旅でしたから、若君の足からは、血が噴き出し、道端の砂や草を朱に染めるのでした。それでも、日数は重なり、いよいよ相模の国に着きました。由比ヶ浜まで、あと三里という辺りです。日が暮れて来ましたので、とある人家に一夜の宿を乞いました。その家の夫婦は、若君を見ると、奥の座敷へと招き入れました。
 しかし、その亭主は人売りだったのです。亭主は、しめしめと、早速に、人買いを呼びに行きます。それとも知らずに若君は、旅の疲れから、前後不覚に寝入ってしまいました。しばらくして、亭主は人買いを連れて戻って来ました。寝入っている若君を見定めた人買いは、
「年寄りでは、鮫の餌にもならぬが、このように若い者であれば、買いましょう。」
と言うと、二人は又連れだって浜の方へと、下りて行きました。若君の心の内は何に例え様もありません。
つづく


忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ②

2015年01月06日 13時25分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ②

 明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
 種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
 さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
 そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく