猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ①

2015年01月05日 16時36分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
原田種直(はらだたねなお:1140年~1213年)という人は、元々、平家方の武将で、清盛の信頼を得ていた人物でした。平家滅亡の後、幽閉されましたが、1190年に赦免されて、御家人として筑前国を与えられたという、数奇な運命を辿っています。種直が、平家一族を弔う為に建てた言われる地蔵堂は、後に建長寺となりますが、建長寺を創建したのは、北条時頼(1227年~1263年)です。時頼は、出家して「最明寺殿」と呼ばれました。
この二人が、この浄瑠璃「はらた」の登場人物なのですが、ご覧の通り、時代的にはミスマッチです。作者の意図は、良く分かりませんが、古説経や古浄瑠璃は割と史実に沿った設定をしますので、この様に、実在の人物の年代を無視した設定というのは、珍しいことの様に思います。又、後半の主人公になる、種直の子供に関しては、はっきりとした活躍の記録は得られませんでした。おそらく、創作であろうと思われます。

古浄瑠璃正本集第11(22)天下一若狭守藤原吉次正本 正保4年(1647年)正月二條通草紙屋喜右衛門板

はらだ ①
 筑紫筑前の国には、原田次郎種直(はらだのじろうたねなお)という文武二道に優れた武士がおりました。鎌倉に、その一族がおりましたが、種直の繁栄を嫉んでおる者がいたようです。その者が、鎌倉殿に讒奏(ざんそう)をしたので、種直の本領は、全て召し上げられてしまいました。種直は、日々に衰え、眷属郎等も次々に去って行きます。庭に草が生え茂り、館の軒は、蔦に覆われるという凋落の有様です。訪ねる人も無く、とうとう、種直と、北の方の二人だけになってしまったのでした。種直は、いっその事、山に籠もって世を捨てようかとも思いましたが、まだ再興の機会はあると、思い留まるのでした。
さて、時の鎌倉殿は、曲がるを憎み、正直をもって御世を治める方でした。ですから、「最明寺殿」と呼ばれたのでした。最明寺殿は、諸国修行の旅に出られて、やがて、筑紫の国を訪れました。宿を取ろうと、やって来た所は、原田の館でした。しかし、門はありますが扉がありません。軒の檜皮(ひわだ)もこぼれ落ちて、余りにもひどい傷み方でしたので、最明寺殿は、諦めて帰ろうとしました。すると、その時、種直が出てきました。最明寺殿が、
「一夜の宿をお貸し下さい。」
と言いますと、種直は
「ええ、お宿を、お貸ししたくは思いますが、宿らしいおもてなしもできません。それでもよろしいでしょうか。お僧様。」
と言いました。最明寺殿は、
「おもてなしはいりません。只、寝るだけで結構ですので、一夜の宿をお貸し下さい。」
と言うので、種直は、仕方無く僧を招き入れました。それでも、種直と御台様は、御酒を出してもてなしたのでした。最明寺殿は、その様子をご覧になって、
『このような、優しい夫婦の者達が、どうして、このように落ちぶれて居るのだろう。』
と、不思議に思って、色々と話しかけてみました。すると、種直は、
「御僧様は、どちらの方ですか。」
と聞いて来ましたので、最明寺殿は、
「ええ、私は、鎌倉の者です。何か、鎌倉に御用事でもあれば、どうぞ仰って下さい。」
と、答えました。すると、種直は、
「そうですか。鎌倉の方ですか。鎌倉では何か変わった事は起きていませんか。御僧様は御所にお出でになられる事はありますか。」
と、矢継ぎ早に聞いて来ました。最明寺殿が、
「鎌倉には、これといって事件はありません。私は、御所へも時々、出仕いたしますので、何かご用事があれば、お取り次ぎいたしましょう。」
と答えると、種直は喜んで、
「おお、これは実に有り難いことだ。良いついでがありましたなら、鎌倉殿にお取り次ぎ願います。実は私は、筑紫筑前の住人、原田次郎種直という者ですが、一門の中で、讒奏をした者がおり、本領を全て召し上げられてしまい、この様な有様です。しかし、もし明日にでも、鎌倉に一大事が起これば、ご覧下さい。この千切れた具足を身につけ、やせ細ったあの馬に乗り、錆びたこの長刀を掻い込んで、真っ先に討ち死にする覚悟でいるのです。それなのに、本領を召し上げられたことは、本当に無念でなりません。」
と、身の上を吐露するのでした。最明寺殿は、これを聞くと、
「おお、それは、まったく道理というものです。良いついでが、ありましたら、必ずお伝えいたしましょう。」
と、答えるのでした。種直は、更に、
「この事は、絶対に外へは漏らさないで下さい。鎌倉の一門が知ったなら、何をするか分かりませんので。」
と、言い添えると、臥所へと下がりました。最明寺殿は、鎌倉殿でしたから、
「さては、この者は、あの原田であったか。一門の讒奏を真に受けて、浪人させたとは、なんと口惜しいことであるか。よし、これは、なんとしても本領を安堵させなければならん。」
と、扇を取り出すと、扇の面に、
『原田が本領、返し与うる所なり、鎌倉殿 御判』
と、書き置きして、夜陰に紛れて、鎌倉へと帰って行かれたのでした。
つづく