猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

古浄瑠璃 信太妻 あらすじ 

2014年05月27日 19時25分13秒 | 調査・研究・紀行

「信太妻」は猿八座の演目の中でも公演回数が一番多い演目です。歌舞伎(芦屋道満大内鑑)でも演じられあまりにも有名なので、「忘れ去られた物語シリーズ」には入れていません。しかし、長い物語の内、演じられているのは、ほとんどが第3場の「信太の森」の場面だと思いますので、全体を簡単な粗筋に要約しておきますので、ご参考にして下さい。

 
「しのだづまつりきつね 付 あべノ清明出生」延宝2年(1674)靏屋喜右衛門板

第1: 
書き出しに「ここに中頃、天文地理の妙術を悟りて、神通人と呼ばれし、安部の清明の由来を詳しく尋ぬるに」とあります。そして、清明からすると、祖父の「保明」とその子「保名」、つまり「清明」の父の話から、始まります。「保名」は、宿願があって、毎月、信太明神に参詣します。一方の登場人物は、歌舞伎の外題にもなった占方「芦屋道満」とその弟、石川悪右衛門です。
 悪右衛門の妻が、死の病に倒れたことが、そもそもの始まりです。兄の道満は、こう占いました。「若き女狐の生き肝」を薬として与えれば、平癒するというのです。悪右衛門は、数百人の勢子を連れて、狐が多く住むという信太の森へと急ぐのでした。
 信太の森では、「保名」一行が、参詣し、陣幕を張って休んでおりました。そこで突然、悪右衛門の勢子達が、おめき叫んで、狐狩りを始めたのです。子連れの狐夫婦が、追い回されて、逃げて行きますが、子狐は、保名の陣幕の中へ逃げ込んでしまったのです。狐を出せ、出さぬで、とうとう戦になってしまいましたが、多勢に無勢。無念にも「保名」は捕縛されてしまうのでした。
 そうしているところに、悪右衛門の檀那寺の「らいばん和尚」が現れて、「この囚人の命を助けて出家させ、私の弟子にさせてくれ」と頼むものですから、悪右衛門も仕方無く、「保名」を和尚に渡すのでした。しかし、この和尚は、先ほど、「保名」に助けられた子狐の親狐だったのでした。

第2:
「保名」は、危うい所を、狐に助けられました。受けた刀傷を洗う為に、沢に降りて行くと、水汲に来た、若い女と出合います。そして、「保名」は、この女の埴生の小屋で戦いの傷を癒やすのでした。
 さて一方、父の「保明」は、信太での次第を聞くと激怒して、数万の軍勢で、信太の森に突撃します。悪右衛門は、漸く狐を仕留めて、山を下りる所でしたが、今度は「保明」の軍勢との戦いとなったのでした。残念なことに、父「保明」は悪右衛門に斬り殺されてしまいます。主君の敵と、三谷の前司が、悪右衛門を追いかけますが、悪右衛門は、なんとか逃げ延びました。しかし、もう日も暮れました。道に迷っていると、微かな灯火が、見えます。急いで立ち寄って、隠して欲しいと頼みますが、断られます。それもそのはず、その小屋は、「保名」が居る小屋だったのです。やがて、三谷が追いついて斬り合いになりましたが、どうした訳か、刀がポキンと折れてしまったのでした。そこで三谷は、力で悪右衛門をねじ伏せますが、首の掻きようもありません。悪右衛門は、「俺は石川悪右衛門だ。山賊に襲われているから助けてくれ。」叫ぶのでした。これを聞いた、「保名」は飛んで出でて、親の敵を討つのでした。

第3:
父を討たれた「保名」は、敵も取りましたが、世間の噂を避ける様に、信太の森近くの女の家に住み続けていました。安部の童子は、もう七歳です。この子が、後の安部の清明になるのです。さて、安部家の毎日は、保名は畑仕事をし、女房は機織りをして、貧しいなりにも幸せな暮らしでした。ところが、ある日、籬の菊に見惚れていた女房は、ふっと油断したのでしょう。狐の本性を現してしまったのでした。狐の顔になった姿を童子に見られてしまったのです。有名な歌「恋しくば、尋ね来てみよ、和泉なる、信太の森の、恨み葛の葉」を、障子に残して信太の森に帰る名場面はここです。
 その後、「保名」と童子は、母を捜しに、信太の森にやって来ます。漸く姿を見せた狐は、又、母の姿に戻ってくれますが、形見の品「龍宮世界の秘符」という「黄金の箱」と「水晶玉」を童子に与えて、永遠の別れを告げるのでした。この形見の品は、後に、陰陽師としての活躍に大きく寄与するのです。

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2013年9月9日(於てぃーだかんかん)

第4:
安部の童子は、八歳から勉学を初め、天才ぶりを発揮します。今は十歳となり、名を「晴明」(はるあきら)と改めました。ある時、伯道上人が現れてお告げがありました。「金烏玉兎」(きんうぎょくと)という巻物を与えると言うのです。この巻物があれば、死んだ者でも、一度は生き返らせることができるのでした。晴明は、益々、神通の力を高めて行ったのでした。
 或る日、烏が二羽飛んで来て、鳴いています。不審に思って、水晶玉を取り出すと、耳に当てて聞いてみました。二羽の烏は、「御門のご病気の原因は、内裏造営の際に、生きたままの蛙と蛇が、柱の下敷きになったからだ。」と話しているのでした。金烏玉兎で占ってみると、間違いありません。喜んだ「保名」は、「晴明」を連れて急いで、参内するのでした。折から、御門は、伏せっておりましたが、親子の占いに従って、柱を調べると、占い通りに、蛇と蛙が出てきたのでした。これを掘り出した所、御門の病気は忽ちに平癒したのでした。この功績によって、「晴明」は「清明」(せいめい)と改め、陰陽の頭(かみ)になったのでした。
 これが、面白く無いのは、元々の陰陽師である「芦屋道満」です。ましてや、弟の敵でもあります。「蛇や蛙も、奴らが仕組んだことだろう。偽物を暴いてやるから、占い競べをさせろ。」と言うのでした。御門は、これを許しました。負けた方が、勝った者の弟子になるという約束です。さて、その占い競べというのは、箱の中身を当てるものでしたが、「清明」にも「道満」にも、その程度のことは朝飯前のことです。「道満」は「ミカン十五個」と答えました。しかし「清明」は、「ネズミ十五匹」と答えたのでした。道満はせせら笑い、「保名」は慌てました。清明は少しも騒ぎません。既に箱の中身を念じ変えていたのでした。箱を開けたら、ネズミが走り出て大騒ぎになったのは言うまでもありません。「清明」の名声は益々高まるばかりです。

第5:
負けた「道満」の怒りと恨みは浅くはありませんでした。道満は、先ず敵の「保名」を、一条戻り橋で暗殺する計画を立てました。清明が夕方に参内した後、偽の勅使を送って、「保名」を誘い出すのでした。「道満」の手下どもは、橋の下に隠れ待ち、橋の板を引っ外したので、「保名」はもんどり打って転落しました。あとは、よってたかって、ずたずたに切り裂いたのでした。
 明け方に、何も知らない「清明」が帰って来ました。橋板が無いので、下を見ると、なんと父「保名」の惨殺死体です。「清明」は、「道満」の仕業と直感しましたが、証拠もありません。そこで、「清明」は、今こそ、「生活続命」(しょかつぞくめい)の法を行い、父を蘇生させようと決心するのでした。
 「清明」は、一条戻り橋に祭壇を設け、鳥や獣が引き回した死体を取り集めました。「金烏玉兎」の巻物によって、肝胆砕く大祈祷が始まったのでした。やがて、イノシシが、持ち去った腕を返しに来ました。だんだんに、手や足や、肉が寄り集まって、元の「保名」へ復活するのでした。
 その頃、「道満」は、参内して、「清明は、父親が亡くなったので物忌みです」と奏聞しておりましたが、遅れて、「清明」も参内して来たので、「保名が死んで、物忌みであるのに、参内するとは何事か。」と血相を変えて怒鳴りました。
 「清明」は涼しい顔で、「父が死んだとは、いったいどういうことですか。今ここに、父が出てきたら、どうしますか。」と言うのでした。「道満」は、「死んだ者が再び現れるというのなら、この首をくれてやる。もし出なければ、お前の首をもらうぞ。」と言ってしまうのでした。さて、それから、蘇った「保名」が「道満」の罪状を暴き、とうとう、「道満」は打ち首となってしまうのでした。

 
 重ねて清明 四位の主計頭(かずえのかみ)、天文博士と召されて、栄華に栄え

 末代まで、その知恵をあらわす。これ、偏に、文殊菩薩の再誕なり。

 上古も今も末代も、例し少なき次第やと、皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

おしまい


文弥人形 野浦双葉座 東京公演

2013年11月17日 11時26分48秒 | 調査・研究・紀行

佐渡の文弥人形は十座ほどはあるはずですが、それらを事細かく見て廻るのは大変
なことです。平成21年に、佐渡文弥人形大会が開かれて以来、人形座が一堂に会する機会は無いようですが、
この4年前の文弥人形大会では、

佐和田の松栄座(ひらかな盛衰記)
野浦の双葉座 (門出八島)
相川の文楽座 (一谷嫩軍記)
畑野の真明座 (山椒太夫)
大崎の大崎座 (天神記)
羽茂の大和座 (ひらかな盛衰記)
金井の常磐座 (出世景清)
説経人形廣栄座(小栗判官)

という、豪華な顔ぶれが揃って、それぞれの人形を駆使しました。改めて、ビデオを
見直してみると、どの座も素晴らしい遣い手と太夫が揃っているなあと感心します。
特に、その中でも、野浦双葉座の太夫、山本宋栄氏は、三味線が上手で、節回しがしっかりしています。

その双葉座が、東京に来るという情報を得たのは、つい2週間程前のことで、それも
ネットでうろうろしていてのことでした。

『第5回 よみがえれ!トキ 佐渡「文弥人形」上演会』

早速出掛けることにしました。演目は、文弥人形では珍しく、
「奥州安達ヶ原三段目」、いわゆる「袖萩祭文」でした。

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今回、宋栄太夫は、民謡出身であると伺って、その奏法の巧みさを納得しました。
毎週、稽古を欠かさないという双葉座の人形は、太夫の息とぴったりでした。
座員が全員、農家であり、年に一度の芝居の為に一年を掛けて稽古するという、
地芝居本来の形を持っている貴重な文弥人形です。

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双葉座の皆さん。中央が、座長の北野源栄氏。右から二人目が太夫の山本宋栄氏。


洛中洛外図(舟木本)の世界  国立博物館京都展

2013年11月17日 00時01分05秒 | 調査・研究・紀行

猿八座が、阿弥陀胸割(あみだのむねわり)を初演したのは、昨年、平成24年の話だが、
それが、本当に演じられていたのは四百年前の慶長年間のことである。ビデオも録音も
無い四百年前の説経が、どんな人形操りだったのかを、古活字本以外に知るすべは無い。
しかし、この「胸割」を、四百年前に、絵に描いた人がいたのだった。
岩佐又兵衛という方だ。
洛中洛外図は、e国宝で閲覧ができるので、以前、上越教育大学の川村先生に教えて戴いてから
デスクトップに愛用していたが、とうとう実物を見る機会が訪れたのだ。
今、上野の国立博物館で開催されている特別展京都。各種の洛中洛外図その外の襖絵が
展示されているが、舟木本はやはり圧巻であった。その躍動感は、他の絵では味わえない。
もう足は釘付けであった。幸い、双眼鏡を用意していたので、ややさがった位置から、
じっくりと俯瞰させていただいた。人波を掻き分けて、間近くで見るのもいいけれど、
そもそも鳥瞰図であるこの絵図は、遠目に観察するのも面白く、時間を忘れて、タイムスリップをした。
やはり実物は凄い。きっと、四百年前のこの世界に、自分は居たな。この中のどれかが
自分だなと、探し回った。むう、それらしい、変なおやじが居る居る。
こんなに夢中になれる絵が外にあるだろうか。とにかく面白い。

Photo

e国宝洛中洛外図(舟木本)右双5扇部分:人形浄瑠璃小屋の場面

左が、「むねわりあやつり」右が、「山中ときわあやつり」と書き込んである。
ここは四条河原の部分で、外に「かぶき」とあって、遊女歌舞伎の図があるが、
そこには、演目の記載が無い。つまりこの時代、ストリーを持った芝居は、まだ説経が
中心だったのだろうと窺える。


続 ひらかな盛衰記 あらすじ

2013年10月29日 18時25分23秒 | 調査・研究・紀行

ひらかな盛衰記:頼朝に追討される木曾義仲とその一族や、源氏の譜代である梶原家一族のお話

つづき

大津宿屋

鎌田隼人と山吹御前・駒若・お筆は、落武者狩りから逃れる為、巡礼姿となって木曾へと向かう。
その道すがら、大津の清水屋に泊まります。隣合わせた船頭一家にも駒若と同年代の子供が
いました。旅に疲れて、大人は寝入ってしまいますが、子供同士は目を醒まして、遊びはじめて
しまいます。そんな所に、追っ手の番場の忠太が踏み込んで来ます。

笹引き

山吹御前達は、急いで逃げ出しますが、多勢に無勢。追い詰められて鎌田は討ち死に、若君
も取り上げられて、首を切り落されてしまいます。しかし、斬り殺された子供の死骸を良く見て
みると、駒若の着物ではありません。同宿の子供と取り違えたことに気が付くのでした。
しかし、余りのショックで、山吹御前は息絶えてしまいます。一人になっていまったお筆は、
死骸を葬ることもできず、辺りの笹を切り集めて、死骸を乗せ曳くのでした。お筆は、駒若を救出
するために、妹千鳥を頼ろうと考えます。

松右衛門内

船頭権四郎と娘は、取り違えた子供を、仕方無く連れ帰りました。そこが、婿松右衛門の家
です。きっと、取り違えた相手方が尋ねてくるだろうと、過ごしていると、お筆が、死んだ槌松
の笈摺を手がかりに尋ねて来ます。槌松が死んだことを聞いた権四郎は、駒若を殺そうと
しますが、婿の松右衛門が現れ、実は、この子は、主君義仲の遺児であり、自分は、樋口
次郎兼光であると、名乗るのでした。真相を知った権四郎は、槌松の菩提を弔うのでした。

逆櫓

松右衛門は、梶原から、逆櫓という操船法を伝授するように頼まれていましたが、これは、
松右衛門を四天王樋口と知っての計略でした。しかし、それを見破った樋口は、相手方の
船頭を叩き殺します。その頃、権四郎は、槌松は、松右衛門の本当の子供では無いと
訴え出ていたのでした。駒若を逃がすための機転でした。やがて、樋口は軍勢に取り囲まれ
ますが、若君の無事が分かると、大人しく畠山重忠の縄につくのでした。
畠山は、槌松を駒若と知っていましたが、見逃したのです。

辻法印

お筆が、妹千鳥の居所を占ってもらうために立ち寄った占い師は、辻法印という山伏であった。
お筆は、法印のデタラメな占いを聞いて、神崎(尼ヶ崎)の廓に向かう。
  一方、勘当された梶原源太は、この辻法印の元で、再起のチャンスを窺っていたのだった。
義経一の谷出陣の情報を得た源太は、出陣の準備をしたいが、鎧兜は、神崎の傾城、梅が枝
(千鳥)に預けてある。それを取りに行くのに、紙子の風体では、上がれないと、金の工面に
一計を案じます。源太は、尼ヶ崎を回って、武蔵坊弁慶が兵糧を集めにくるので、辻法印の所に
もってくるように、言ってまわるのでした。しかし、本物の弁慶が来る訳がありません。無理矢理、
辻法印を俄弁慶に仕立てます。集まった百姓達は、怪しみますが、なんとか誤魔化して、切り抜けます。

神崎揚屋

源太と一緒に梶原の家を追われた千鳥は、神崎の傾城梅が枝となっていました。妹のお筆が、
尋ねて来て、久しぶりの対面となり、これまでの事の子細を互いに語り合い、敵討ちの話になります。
その後、今度は準備を調えた源太がやって来て、一ノ谷に出陣するから、鎧兜を受け取りに来た。
と告げますが、鎧兜は最初から身の代三百両に売っていたのでした。
それを聞いた源太は、切腹しようとしますが、千鳥は、三百両ぐらい直ぐになんとかなると言って、
ひとまず、源太を帰すのでした。千鳥には身請けの話が来ていたので、その客を殺して、三百両
奪おうと思い詰めるのでした。手水鉢を無間の鐘になぞらえて、つきかけますが、その時、
三百両が、二階からばらばらと降って来るのでした。
身請けをしようとしていたのは、源太の母、延寿だったのでした。

奥座敷


産衣(うぶぎぬ)の鎧を取り戻した千鳥が戻ると、やがて、源太も戻ってきました。直ぐに出陣
という所に、敵討ちをしようと妹お筆がやってきて、梶原源太の父親平三が、親の敵だと
告げるのでした。おろおろする千鳥をよそに、お筆が源太に斬り掛かります。出陣の時刻が迫ります。
その時、鏃の無い矢が飛んできて、お筆と千鳥に当たります。射たのは、源太の母延寿でした。
延寿が、切々と事の次第を語り聞かせ、お筆を慰撫するのでした。そうして、源太は、宇治川
での汚名をそそぐため、一ノ谷へと出陣して行くのでした。

生田の森

梶原源太景季は、生田の森で、平家方の菊池の陣を撃破して、父の勘当を許されのでした。

大切り

一ノ谷で勝利した義経の御前には、義仲の四天王、樋口の次郎、お染千鳥姉妹、船頭権四郎
に抱かれた駒若らが出頭しています。義経は、樋口の忠臣の心に感心して、助命し、自らの
子供を犠牲にして、主君の子供を助けた権四郎も許されます。
この裁定に異を唱えたのは、梶原平三景時でした。平三は、射手明神でのことを根に持って
いたのです。頼朝の判断も聞かずに、大将顔に勝手な裁定するなと、詰め寄ります。
源太は父を押さえますが、次男平次が義経に飛び掛かります。すかさず、樋口が飛んで出て
平次を投げ飛ばし、番場の忠太を押さえ付けると、姉妹に親の敵を討たせます。さらに、
樋口は、平次の首を落とすと、自害して果てるのでした。

潔い忠義の最期に感激し、義経一行は凱陣するのでした。

おわり

ついでにとは言え、
下手な粗筋を書きました。
古浄瑠璃に比べると新しい浄瑠璃なので、
大変、複雑です。


秩父 萩平歌舞伎 正和会「ひらかな盛衰記」 

2013年10月28日 20時49分10秒 | 調査・研究・紀行

 台風27号28号が、日本列島をかすって行きました。28号は鉄人の様に凄い低気圧でした。
本当に来なくて良かったです。さて、10月27日(日)は一転して、終日秋晴れでした。そんな
秋の一日を、萩平歌舞伎舞台で過ごしてきました。

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津軽三味線はカッコイイですね。          長唄「羽根の禿」は可愛いかったです。

 さて、秩父歌舞伎正和会の演目は「ひらかな盛衰記」でした。この浄瑠璃は、度々目にしますが、
結構、話が込み入っていて、全体を把握するのがなかなか大変です。自分の為に、読み直して
見ました。もう、ご存知の方は、飛ばして下さい。

「逆櫓松矢箙梅(さかろのまつえびらのうめ)ひらかな盛衰記」元文四年(1739年)大阪竹本座初演

射手明神

木曽義仲討伐の為に兵を進めていた源義経が、射手(いとど)明神に参詣した折、梶原平三が、
しゃしゃり出て、朝日将軍木曽義仲をなぞらえた日の丸を射貫くと広言するが、射損じて、
義経の白旗を射てしまう。自害しようとする梶原平三であったが、佐々木四郎高綱がとりなしを
して難を逃れる。それから、義経軍は、宇治川へと向かう。

義仲館

木曽義仲の館には、正室山吹御前と長男駒若、女中お筆らが居る。そこへ、義仲が帰還して
来るが、朝廷にも相手にされないと、味方の劣勢を告げる。さらに、側室の巴御前が、帰還し、
宇治川での敗走を報告する。観念した義仲は、討ち死にをするために、巴御前諸共に、再び
出陣して行く。

巴奮戦

側室巴御前は、男勝りの武勇者であるが、義仲の子を身ごもっている。巴御前は、敵方の
秩父重忠に尻餅をつかせる等の奮戦をみせる。混戦の中で、義仲を討ったとの勝ち名乗り
を聞いた巴御前は、驚いて落馬し、生け捕りにされる。義経の前に引き出された巴御前は、
やがて届けられた義仲の首と対面する。そこで、義経が、源氏の面汚しと怒って、義仲の
生首を打ちたたくので、たまりかねた巴御前は、義仲が謀反人の汚名を着て、三種の神器を
平家から取り戻そうと自ら仕組んだのだと告白する。義経は、早合点を侘びて、巴御前の縄
を解く。和田義盛が、巴御前を預かることになり、その後、巴御前が生んだ子は、後の
朝比奈三郎義秀となる。

楊枝屋

正室山吹御前と駒若は、女中のお筆に守られて、お筆の父の所に落ちる。お筆の父(鎌田隼人清次:かまだはいときよつぐ)
は、元々、源氏の武士であったが、今は、しがない楊枝けずりである。
 しかし、直ぐに、梶原の郎等である番場の忠太に、嗅ぎつけられてしまい、取り囲まれてしまう。
そこで、隼人は、一芝居打って、若君の代わりに小猿を抱かせると、さらに取り手を家の中
に閉じ込めて、一行と共に出奔する。

梶原館

梶原平三景時の館では、嫡子源太景季(かげすえ)の誕生日祝いの飾りに忙しい。その腰元
の中で、千鳥というのは、お筆の妹、隼人の娘であった。千鳥は源太と恋仲であったが、弟の
梶原平次景高が、横恋慕をする。平次は、仮病を使って出陣もせずに、千鳥を手籠めにしようと
していたのだった。平次が千鳥に言い寄っていると、突然、横須賀軍内が走り込んで来て、
千鳥は難を逃れる。軍内は、梶原平三の文を持って、源太がおっつけ戻ることを知らせに来
たのだが、その内容は、宇治川の先陣で、源太が、佐々木高綱に後れを取って、都の笑いもの
となったから、鎌倉で切腹させろと言うものであった。

※ようやく、今回の舞台の場面に辿りつきました。

先陣問答

父平三の命令で、梶原源太景季が帰国してきます。何故早く帰国したのか、母は不思議がり、文を読んで驚きますが、弟平次は、軍内から事の次第を聞いたので、宇治川での合戦
での手柄話をしろと迫ります。

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源太は合戦の様子を話ますが、平次は横槍を入れて邪魔をします。健気にも千鳥が、源太の
肩をもって、そんなはずは無いと、食い下がります。しかし、平次は、まるで見たかの様に、
佐々木の計略にはまって、先陣争いに負け、大恥掻いただろうと詰め寄ります。図に乗った
平次は、母宛の文を奪い取ろうとしますが、母の叱責を受けます。平次は、父の文を代読し、
源太に切腹を迫るつもりだったのです。文を読めなかった平次は、刀を抜いて、兄源太の首
を討とうとしますが、逆に、源太に引き据えられて、お尻ぺんぺんされるのでした。

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※平次役の三代目関竹寿郎さんは、憎たらしい平次の役を見事にこなします。我等が師匠の
猪野さん(十二代目坂東彦五郎)は千鳥の役で、綺麗でした。

源太勘当

人払いをした源太は、母延寿に、父が射手神社でしくじり、佐々木高綱に助けられた事の次
第と、その恩返しの為、宇治川の先陣を、佐々木に譲ったのだと、語るのでした。
暇乞いをする源太を、母は、様々諭し、夫からの文を散々に引きちぎるのでした。

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しかし、検使役の陣内に切腹を迫られて、母は、源太の「阿房払い」を決意します。

※軍内役の鈴木清一さんは、おどけ役が得意な方ですね。「阿房払い」にしろと言われた時、
自分が「阿房払い」になるかと思って、「JJJ」と飛び上がって、大受けでした。

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大小を取り上げられ、ぼろを着せられた源太に、驚いた千鳥が取り付きますが、母は許しません。母が、千鳥を連れて奥に入ると、再び、平次が襲いかかりますが、やはり兄には、敵いません。ほうほうの体で、平次は逃げ出しますが、陣内の首は刎ねてしまいます。
 母は、それとなく、飾っていた鎧を源太にもたせ、手柄を上げて汚名を晴らせと、千鳥共々
送り出すのでした。

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今回のお芝居はここまでですが、
これでまでで、やっと二段目の切りです。
さすがに、疲れたので、ここで、一休みしましょう。

お疲れ様でした。

「ひらかな盛衰記」は、

続く


石川雲蝶作:道元禅師猛虎調伏の図

2013年08月27日 14時00分49秒 | 調査・研究・紀行

関越道で通過していまうと、あっという間のことですが、やっと魚沼市の辺りを散策
する機会を得ました。その中でも、永林寺と西福寺は、越後のミケランジェロと言わ
れる石川雲蝶の作品で有名です。


 石川雲蝶は、幕末の方なので、古説経の時代とは離れていますが、古説経:越前国永平寺開山記の物語を西福寺開山堂の天上いっぱいに彫り込みました。「道元禅師猛虎調伏の図」です。
 このお話は、
忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20111130 

で紹介した説経節です。この調伏の場面を再録いたしましょう。開山堂内は、撮影禁止
ですので、パンフレットの写真を載せておきます。

永平寺開山記 ⑥

 道元、道正の二人は、偉大なる達磨大師の座禅の姿を心にしっかりと刻むと、急ぎ帰朝をしようと、天童山を下り始めました。達磨大師より頂いた有り難い柱杖を突きつつ、元の山道を辿って、谷よ峰よと越えて行きました。

 しかし、どうも様子が、変です。いつの間にか、見たことも無い、広い野原に出てしまいました。

「どうも、おかしい。道正よ。ここで、道が途絶えたぞ。どこで道を間違えたのだろうか。方角も分からない。どうするか。」

 二人は、道は一本道で、間違えるはずもないと、不思議に思われましたが、慌てる様子も無く。草むらにどっかと座して瞑想を初めました。ところが、さすがに山道の疲れから、二人ともとろとろと眠り始め、とうとう前後不覚に眠りに落ちてしましました。

 すると、どこからともなく、悪虎が一匹飛び出してきました。悪虎は、牙を鳴らして、二人に近づくと、只一口に食らわんと飛びかかりました。眠り込んでいる二人は絶体絶命の危機です。ところが、不思議にもその刹那、道元が突く柱杖が、たちまち大蛇と変化して、悪虎の前に立ちはだかり、かっぱと口を開けて悪虎に襲いかかりました。竜虎血みどろの戦いは、凄まじいばかりです。さらに、道正の小刀が、おのれとばかりに飛び出したかと思うと、たちまち巨大な剣となりました。剣は虚空を飛び回り、周囲の山をかち割りながら、猛然と悪虎目がけて突きさそうとします。悪虎は、怒り心頭に発して暴れまくりましたので、二人も目を醒まし、この有様を目撃しました。大蛇が悪虎の平首に食らいつくと、剣は、虚空より悪虎の腹のまっただ中を貫き通しました。大蛇が、悪虎の首を食いちぎると、巨大な剣は、すうっと草叢に下りて、剣の先を上にして止まりました。すると今度は、大蛇がするすると太刀に巻き付き、剣の切っ先を飲み込むよと見えたその途端に、元の手杖と小刀に戻って、地に落ちました。不動明王が右手に持つ倶利伽羅剣(くりからけん)とは、この時に始まったのです。

 両僧は、奇異の思いをしながらも、諸天のご加護に礼拝し、天童山を伏し拝みました。その後道元は、この柱杖を決して手放すことはありませんでした。これが、永平寺の重物である「虎食み(とらばみ)の柱杖」であります。(※永平寺蔵:虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう))

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一日中見ていても飽きません。説経で大蛇と言うのは、龍の事です。


佐渡 真明座 長岡公演 

2013年07月12日 22時30分14秒 | 調査・研究・紀行

平成25年7月7日(日)七夕。新潟は時折、集中豪雨の一日。梅雨明けしたという関東平野とは

別世界でした。それは、さて置き、真明座の平均年齢が若返り、座長の川野名さんの操りまで

若々しくなった今年の舞台は、沈滞ムードの文弥人形に新風を吹き込んだ感じです。高校生の

若林君の弁慶が光りました。若者の緊張感は、舞台全体を引き締めますね。やっぱり、年寄り

ばかりで、馴れ合った舞台はよくありません。今後の真明座が楽しみです。

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写真の場面は、五条橋での弁慶と義経の戦いの場面ですが、近松門左衛門が、義経の母、

常磐御前に着目して。「孕常磐」という浄瑠璃を書いた分けがなんとなく分かる気がします。常

磐御前は、さぞいい女だったのだろうなあと、読む度に思うのです。源義朝の側室でありなが

ら、敵の平清盛の妾にならざるを得なかった常磐御前の数奇な運命。と言うか、清盛に入れ込

めたからこそ、その後の源氏の再興を成し遂げることができた女。清盛が女ぼけしていたとい

えば、それまでですが、虎視眈々と生きた常磐御前に惹かれるのです。


伝統芸能「佐渡人形芝居上演会」 新潟県立歴史博物館

2013年05月31日 21時32分37秒 | 調査・研究・紀行

昨年もご案内いたしましたが、佐渡の文弥人形「真明座」が今年も、長岡で公演を予定しています。

7月7日(日) 長岡市の県立歴史博物館にて

午前の部 「孕常磐(はらみときわ)」

午後の部 「出世景清」

詳細は以下新潟県立歴史博物館へ

http://nbz.or.jp/?p=3513


「壺坂霊験記」 ひとみ座乙女文楽

2013年05月05日 09時05分59秒 | 調査・研究・紀行

5月4日、初めて川崎にある「ひとみ座」に行って参りました。乙女文楽若手公演
「壺坂霊験記:澤市内の段~山の段」でした。この浄瑠璃ができたのは、明治時代
とごく新しいので、当然説経には無い物語です。説経では、壺坂寺といえば、「松
浦長者」の小夜姫の出身地として登場してきます。

 壺坂寺に行きますと、澤市とお里の石像が作られていますが(写真左)、本堂を
良く見ていただくと、松浦長者の話の元となった「坪坂観音縁起」に関する額も掲げ
られています(写真右)。

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 壷坂霊験記で、澤市の目を開かせる観音菩薩は、この大蛇(龍)であるというのが、壺阪寺の
縁起に書かれており、小夜姫は竹生島弁財天であるというのが、古説経でのお話です。

説経松浦長者http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20111117

 さて、ひとみ座の乙女文楽は、そもそも三人遣いの人形を、一人で遣うという人形です。大きな
人形を一人で支えるために、大きな金具をお腹や足に付けているのに驚きました。

Dscf3378お里:山下潤子さん

実は、お目当ては、義太夫を語った女義の竹本越孝さんと三味線の鶴澤寛也さんでした。
昨年12月に、車人形公演で、同席させていただきましたが、客席で聞くのは初めてです。山
台の前に陣取って、じっくりと勉強させていただきました。改めて語りの奥深さを感じ、台詞回
しの巧みさが、大変勉強になりました。又、終段で、澤市の目が開き、喜んで踊る場面の連れ
弾きが、今後の作曲に参考になりそうです。ありがとうございました。


梅若塚(木母寺)芸道成就祈願

2013年03月15日 21時44分53秒 | 調査・研究・紀行

 前回、角田川を訳出していて、梅若丸の忌日が、3月15日であるとい

ことが分かりましたので、木母寺の行 事を調べた所、梅若供養は、4月

15日になっていました。旧暦で行うのでしょう。(因みに、今年の旧暦3

15日は4月24日)しかし、4月のその頃は忙しいので、急遽、思い立

って、3月15日(金)に、梅若塚へお参りをして来ました。

 木母寺に到着したのは、丁度お昼頃で、人影もまばら。本堂に声を掛

けても反応もありません。のんびりとした春の日を浴びた梅若塚には、

梅の花が丁度咲いておりました。梅若が遺言したという印の柳は、枝

打ちをされてまだ冬の様相でした。 Dscf2814

1時過ぎに、再び大声を掛けた所、お昼が終わったのでしょうか。ようやく

芸道成就の絵馬を手に入れることができました。700円也。4月15日の

梅若祭りでは、梅若音頭を踊るとのことでした。

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梅若塚の裏手には、様々な石碑が納められていますが、その中でも、浄瑠璃塚が目を引きました。

竹本紋太夫・倉太夫と併記してあるのは、江戸中期の1750年代に活躍した

二代目竹本紋太夫のことのようです。

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佐渡文弥人形 真明座 畑野地蔵堂祭

2012年08月27日 21時02分44秒 | 調査・研究・紀行

8月23日(木)畑野地蔵堂で文弥人形が演じられました。昨年は雨で大変でしたが、今年は天気に恵まれました。暑かったですが。

地元青年団は、「源氏烏帽子折」を、真明座は、「吉野都女楠」の「麦盗人」の場を演じました。どちらも太夫は久保宗香師匠です。

地蔵堂をすっぽりと覆って作られた特設舞台の様子。ほんとに道端です。

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源氏烏帽子折を見る子ども達。地蔵祭りは子ども達のお祭りとのことです。

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吉野都女楠で、麦を盗んだ女房を演ずる八郎兵衛師匠。

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鳥越文蔵先生と過ごした二日間

2012年08月19日 22時49分30秒 | 調査・研究・紀行

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲。ラーニングアーバー横倉・樹庵の10周年記念イベントに集まったのは、早稲田大学名誉教授の鳥越文藏先生とその教 え子達でした。猿八座の八郎兵衛師匠も教え子の一人であることは言うまでもありません。私にとっては、近松門左衛門を始めとして浄瑠璃の専門家である鳥越先生と見える機会に便乗して、日頃より疑問に思っていたことを様々質問することができた二日間でした。前夜祭で、八郎兵衛師匠や文弥人形のお話をする鳥越先生。

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鳥越先生のご講演の後に、猿八節山椒太夫を演じました。

二日目は、屋外の特設ステージを炎天下の中、汗だくで作りましたが、開始直前に雷雨となり、急遽、体育館に移動となりました。写真は、強風で倒れる前の車曳きの幻の舞台です。

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今回は小栗判官の車曳きを公演するので、実は、谷汲に上がる前に、墨俣の正八幡、安八郡の結神社、青墓の照手の墓にもお参りしたのですが、何かお怒りに触れてしまったのでしょうか?大騒ぎでした。

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青墓にある照手の墓


猿八節 「弘知法印御伝記」 の作曲

2012年07月12日 16時17分58秒 | 調査・研究・紀行

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弘知法印御伝記

江戸孫四郎正本

大伝馬三町目うろこがたや新板

貞享2年(1685年)

大英博物館所蔵

 この古説経は、昭和37年に早稲田大学の鳥越文蔵先生が大英博物館で発見されたものである。この正本は、日本国内にはもう存在していないということであるので、大変貴重な資料ということになる。この古説経を300年ぶりに復活上演をしたのが、「越後猿八座」であり、平成21年から22年にかけてのことであった。当時の太夫、越後角太夫(鶴澤淺造)が浄瑠璃を作曲している。

 平成23年に角太夫が退座して、後を引き受けたのが私であるわけであるが、弘知法印は、お蔵入りとなっていた。道具や人形は揃っていても、私が浄瑠璃を付けない限り再演の可能性はほとんと無いと言っても良いだろう。しかし、全六段の長大な古説経を作曲するには、それなりの覚悟が必要である。

 外部からの弘知法印上演の声もあり、この貴重な古説経を埋めたままにはしておけないなあと、浄瑠璃の作曲に取りかかったのは6月の下旬であった。しばらくブログに手がつかなかったのは、この作業に没頭していたからであった。

 今回の作曲は、ここ一年で育ててきた文弥節を基調とした「猿八節」をさらに発展させて、謂わば、これまでの研究の総決算のような様相となってきた。まだ、これから改善していくべき所が多々あるとは思われるが、ようやくここで全六段分、おおよそ4時間分の浄瑠璃が完成した。

 これまでの手に、新しい手を付け加えながら、めまぐるしく展開していくこの物語を、どうテンポ良く運んでいくかが、最大の課題であるが、それは、また人形との摺り合わせをしながら改善をしていかなければならないであろう。

 今後、上演の予定があるわけでは無いが、これで「弘知法印御伝記」再演の可能性はゼロではなくなった。

この写真を見る Photo_5


壬辰の年、辰の月、壬辰の日、辰の刻

2012年04月02日 08時14分16秒 | 調査・研究・紀行

4月1日(日)は、旧暦三月十一日、壬辰の日でした。

辰の年辰の月辰の日と言えば、わりと沢山ありますが、

壬と限定すると、60年に一度しか訪れません。

水の兄(みずのえ)と辰の組み合わせは、

まさに水を得た龍であり、

生命力に溢れた瞬間であると言えるでしょう。

さて、古説経「阿弥陀胸割」に取り組んでから

ほぼ1年が経とうとしていますが、

いよいよ、今年の11月頃に公開できそうです。

主人公の天寿と松若の生まれは、

壬辰の年の辰の月の辰の日の辰の刻とされていますので、

昨日は、辰の刻(午前八時頃)に供養を行い、

新作の「阿弥陀胸割」を稽古いたしました。

60年に一度のチャンスに「阿弥陀胸割」が公開できることは、

阿弥陀様のお導きでしょうか。

仏説阿弥陀経には、極楽浄土が如何なる物かが美しく描かれ、

その世界に生まれるよう祈念しなさいと説きます。

遍く世界を照すという阿弥陀如来の光を感じながら、

「阿弥陀胸割」を演ずることにいたしましょう。

公演に関する詳細が決まりましたらお知らせいたします。


もうひとつの「さんせうたゆう」

2012年02月24日 10時05分03秒 | 調査・研究・紀行

 佐渡に渡った時に、不思議に思ったことは、安寿の墓とされる「安寿塚」があることである。佐渡の安寿塚は、安寿姫の慰霊塔であり墓でもあるという。

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左:外海府の海を望む鹿の浦の安寿塚  右:畑野の市街地にある安寿塚

 説経節の山椒太夫は、与七郎正本(年代不明)、七太夫正本(明暦)、山本久兵衛板(寛文)、七太夫豊孝正本(正徳)等の比較的多くの版本が残っている。それだけ、人気があったのだろう。

 さて、これらの説経節山椒大夫では、安寿の姫は、売られた先の由良山椒太夫の館で、三郎の拷問によって殺されてしまう。このストーリーはどの説経にも共通していて例外が無い。いったい、佐渡に渡ったとされる安寿はどこに居るのだろうか。安寿が佐渡に渡ったとする話しと出会えないまま、長年不思議に思っていたが、ようやく、安寿が佐渡に渡ったという記述に出会うことができた。

 「文弥節浄瑠璃集」という本の下巻には、佐渡文弥人形で演じられる「山椒太夫」が収録されている。山本角太夫正本(山本久兵衛板:延宝頃)とあるので、分類上は浄瑠璃に属する。調べて見ると、この角太夫という方は、浄瑠璃者ではあるが、仏教ネタが好みで、説経物を得意としたらしい。近松と同年代にもまだ、そういう太夫もいたのかと、妙に感心した。しかし、この「文弥節浄瑠璃集」に掲載されている浄瑠璃が本当に角太夫の作なのか、多少疑問が残る。まず他の角太夫板と異なっている。また「佐渡が島人形ばなし」(佐々木義栄著)によると、北村宗演が所持していた嘉永五年に書かれた写本が底本になっている可能性が大きいが、この本がどのような写本であったのか不明なのである。

佐渡の文弥節で語れる角太夫山椒大夫のあらすじを紹介する。

 岩城の判官正氏が、筑紫に流罪となる発端は、説経と同じであるが、ライバルの讒言と計略によって陥れられるという、浄瑠璃的な書き出しとなっている。最後に厨子王を助ける梅津の院は、厨子王の祖父として設定されていて、父が流罪された後、御台と兄弟は都の梅津の院を、頼ることになる。供は姥竹とその子小八。一行五名が、越後直江津で、人買いに騙されるのは説経と同じであるが、そこから小八がさまざま活躍して武勇を奮うところが、浄瑠璃的な筋で面白い。しかし、結果的には、御台と姥竹は佐渡に売られ、安寿、厨子王兄弟は、山椒大夫の所に売られて来る。小八は、海に落とされてしまうが、なんとか人売り山角太夫を捕虜として、兄弟の行方を捜索する。

 山椒太夫の所で、兄弟が苦しみを受け、安寿が厨子王を逃がすのは、説経と同じ。説経では、厨子王を逃がしたことで拷問を受けた安寿が、殺されてしまうが、ここでは、小八がようやく追いついて、安寿を助ける。厨子王は山椒太夫の追っ手を国分寺のお聖の助けや地蔵菩薩の功徳によって振り切り、やがて都へ辿り着く。

厨子王は、梅津の院と会い、養子となるが、父正氏を陥れた計略を劇的に暴くのも浄瑠璃的で面白い。

 一方、小八に助けられた安寿は、小八と共に、佐渡島に流された母を尋ね、再会を果たすが、残念なことに安寿は母に抱かれて絶命してしまう。野辺の送りを済ませた頃に、ようやく厨子王丸が母を尋ねて佐渡に渡って来る。厨子王は、母と再会し、姉の死を知り悲しむが、地蔵菩薩の功徳によって失明していた母の目を治す。

その後、厨子王達は都へ戻り、本領安堵され、山椒太夫と三郎の首を竹鋸で引き切るというのは、説経と同じ結末である。

 佐渡の安寿は、この浄瑠璃によって存在していたのだ。佐渡の文弥人形はこの話しを語り継いで来たのである。これで、納得が行った。ところで、この山椒太夫は、佐渡ではあまり人気が無かったらしい。どうやら、金平物(ちゃんばら物)の方が人気で、一度途絶えたという。現在残っている文弥節山椒大夫は、北村宗演師が、節付けして復活させたという記録がある。

現在この浄瑠璃の内、鳴子曳き・母子対面の場を猿八座で演ずるための準備を進めている。猿八節のレパートリーが増えそうである。