断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

貨幣が負債だとしたら、ではそもそも負債とは何か、というお話。

2015-12-23 22:24:34 | MMT & SFC
今年も残すところあと一週間だが、
本年はほとんどブログを更新しなかったような気がする。。。
このままではなんなので、
年末までの間、なんとか頑張って
いくつか書き加えようとも思うのだが。。。。

本日のネタは、毎度似たような話ばっかりで申し訳ないのだが、
マクロ経済モデルにおける「負債」概念のお話。
これを書こうと思ったきっかけは先日
過去のブログに好意的なコメントを寄せてくださった方がいらしたのだが、
その中で、ご本人は、「ベースマネーを中央銀行の負債とは考えていなんだけれども」
というという内容のコメントを付けてくださった。
これを見て、ちょっと思い出したことがあったので、今回は
「負債」概念のお話をしよう、ということに相成った。
おいらの書くようないい加減なブログの中で
何も厳密な定義が必要だというわけではないけれど、
それでも一つの言葉を、書いている人と読んでいる人が全然違うイメージを描いていたのでは
やっぱりいろいろとうまくないこともあるかもしれない。
寄せていただいたコメント自体は好意的なものだったので、
細かな意見の違いがあるからといって、いちいち噛みつこうということでもないんだけれど、
自分自身の「考え方」を明らかにしておくことには
意味があると思う。

さて、いただいたコメントは上記のとおりだが、
それを見て思い出したのは、
ある高名な先生がとある対談で「お札を中央銀行の負債とすることには実質的な意味がない。
なぜなら、中央銀行にお札を持って行って負債を償還してくれ、といっても
他のお札に取り換えてもらえるだけだからだ」というようなことを
おっしゃっていたことである。
もう20年以上も前のことではないかと思うので、
うろ覚えになってしまう(最近は前日のこともうろ覚えだが)が。

実はこの見解には、少なくとも3つの問題がある。
第1に、これは実際の「企業会計原則」や「IFRS(そのころまだ無かったが)」などに代表される
負債概念を理解していない。ある人が(例えばおいらやその先生が)
日銀に日銀券を持って行っても、日銀券としか交換してもらえない、
という事実は、日銀券が負債であることを妨げるものではない。「負債」とは
何も不特定多数の人に義務を負うことではない。
第2に、今後、多少なりとも詳細に詰めていかなければならない話になるが、
日銀券(および日銀当預)は、おいらが個人的に考えている
マクロ経済モデル(概念モデルであって、計量モデルではない)に適用されるべき
負債概念から考えても十分に負債といえる。ただし、これはあくまでもおいらが
サーキット・セオリー(CT)やMMT、ストック=フロー・コンシステント・
アプローチSFCに即して考えているものではあり、
一般の企業会計原則とも全く違うし、世間には全く流通していない考え方。
おいらと考え方が違うから間違いだ、などというわけではないが、
異なった考え方と対照することで、自分の考えをより明確にできるのではないか、
などと思ったりして。。。。
最後に、これが一番問題だが、
財務の実務的観点から言えば、日銀券や日銀当預はどう考えても完全に負債である。
「日銀券を持ち込んでも、日銀券と交換してもらえるだけ」だから
負債ではない、というのは、「負債」というものが日常的に、企業
(あるいは団体)の財務実務でどのような取引が行われているのかについて
全く理解がないため、言葉を著しく狭く概念規定してしまっているために生じる
誤解ではないかと思う。主流派経済学者(件の先生は「主流派」というわけではないが)にとっては、
「負債」とはつまり「借金」のことであり、
「借金」とは将来の所得と現在の所得の交換のことであり、
この交換比率から1を差引したものが金利になる。ジ・エンド。だが、
実務的にはこのような負債概念では包摂しきれない様々な取引がある。
むしろ逆に、現実に広範に行われている経済的実践を全く反映できない経済学など、
あまり意味がないのではないかな、
と感じる次第。

というわけで、今日の一般的な企業会計の理論(日銀が
これに従わなければならないという理由は必ずしもないが)からは
日銀券・日銀当預を負債として扱うのは定義上、全く正当だし、
マクロモデルとしても、これは負債として扱うことは整合的だし、
さらに実務の観点から言えば、これは負債以外の何ものでもない。


さて、おいら自身は繰り返しマクロ経済学における複式簿記理解の
必要性を説いているわけだが、だがそれは必ずしも
企業会計原則に基づいてモデル構築をするべきだ、という意味ではない。複式簿記のルールとは
突き詰めていってしまえば単純なルールに解消できる。企業会計においては
このルールは「簿記の基本等式」と呼ばれているものになるが、これによれば
A:資産 L:負債 E:純資産 R:収入 C:費用
としたとき、

⊿A - ⊿L - ⊿E - ⊿R + ⊿C = 0

になる、ということである。もちろん企業会計以外では、「資産・負債・純資産・収入・費用」という
項目の区分自体が当てはまらないケースがある。企業会計においては、
収入から費用を差引したものが所得(利益)として認識されるが、政府機関やNPO、家計には
こうした分類は適切ではない。家計や政府にとっては、賃金収入や税収といったものは
直接に所得的な付加価値の分配を示すのであって、ここから「費用」を差引きし、「利益(所得)」を
計上しているわけではない。むしろ企業会計になぞらえて考えるのであれば、
生活費の支出は「配当」に近いものである。企業は、「利益」を得るために賃金や経費といった費用を
支払う。家計が消費支出をし、政府が公務員を雇用するのは「利益」を上げるためではない。
とはいえ、政府部門が公務員を雇うのは、何か政府として提供すべきサービスを処理するためであって、
配当のように公務員にお金を配ってしまっている、というのとも異なっている。
実際、フローをどのように区分するべきかはややあいまいな問題がある。
したがって、企業会計の考え方を家計部門や政府部門に当てはめることできないし、
「たとえ」として持ち出すにしても十分な警戒が必要だが、
ただしいずれにしても、経済的資源(就中、貨幣的資産)の流入と経済的資源の流出の差額が
純資産の増加となり翌期に繰り越されるという構造は、国内のすべての経済主体に同一である。
(Wrayが入門レベルのMMT解説本でバランスシートによる資産負債の残高変化だけによって
すべての取引を表現しようとしているのには、このあたりの事情もあるように思う。)
そして海外部門については、単に国内の経済主体が海外の経済主体に対して
持っている取引(資産・負債・収入・支出)を裏返したものに過ぎない。

企業会計原則は複式簿記のルールに従って構築されているといっても、
会計原則自体はさまざまな取引について事細かに取り決めているのであって、
おまけにこうした取り決めはしょっちゅう変更される。簿記の必要性=企業会計原則を理解すること、
というわけではない。日商の簿記検定(工業簿記)を受験したことがある人なら
「異なる目的には異なる原価(費用)」という言葉を聞いたことがあると思う。
実際、目的が異なれば異なった原価や費用や収入が計算されるのは当然だし、
それを反映して、利益や損失も異なった値になり得る。「制度会計」つまり
公開企業の決算書や税務会計ではルールに従い一つの行為からは誰が計算しても
(採用される原則・計算方法が同じである限り)
共通の収入、費用、利益、損失が出なければ困るが、「制度会計」以外の「内部会計」については
会計を行う人の目的に応じて、様々なルールをとることができる。当然一つの取引から
相異なる金額の「利益」が計算されることもあり得る。実際、制度会計であっても
企業会計と税務会計とで計算される「所得」の違いがあるので、これを調整するために(一致させるため
ではない)企業会計側では「税効果会計」が採用されている。制度会計ですらそうであるのだから、
企業会計原則をベースにマクロ経済を語るのは不適切であろう。(関係ない話だが、
税務会計でも「公正・公平」な報告が目的とされているが、それは納税者間の
公平・公正を維持するためであって、特定の経済主体を取り巻くステイクホルダー全体の公平・公正を
守るためではない――まあ、どちらも建前に過ぎない、といえば
建前でしかないんだが、簿記のような形式的・機械的なテクニックでさえ、
政治経済的な立場によって異なったものになり得るという一つの例である。)


実は日本の企業会計原則は、あくまでも営利企業が
ステイク・ホルダー「公平・公正」な財務報告を行うための指針として
作成されている。アメリカのGAAP(一般に公正妥当な会計原則)や
IFRS(国際財務諸表原則)は必ずしも企業会計だけに
限定されておらず、NPOや政府機関向けの内容も含んでいるが
一般に日本語で流通しているのは企業会計の部分だけである。
なお、英文ではNPOの会計や政府機関の会計についてのテキストも
しばしば見かけるが、日本では本屋に行っても団体向けの
会計原則の解説書などは見たことがない。これは
まあ、様々な理由があるんだろうが、日本の会計原則というのが
あくまでも明治維新の後、大蔵省(当時は何と言ったかな)の指導で各地の商工会議所を中心に
普及が進められてきた、という事情と無縁ではないだろう。税理士試験の簿記論や
財務諸表論も企業中心なのは当然(どの国も一緒)だとしても、NPOなどほとんど存在しないかのようだ
(医療法人など、全く扱われていないわけではないとしても)。
いずれにせよ日本の企業会計原則も米GAAPもそれをそのままマクロモデルに当てはめることは適切でもないし
必要でもない。マクロ集計モデルに登場する経済主体は
営利企業ばかりではない。政府部門もあれば家計部門もある。
さらにめんどくさいのが海外部門で、これは何ら個別の経済主体を
想定していない、ただ、経常収支の赤字黒字を「海外部門」と
呼んでいるに過ぎない。企業会計原則を当てはめようにも
あてはめようがないわけだ。


企業会計原則をマクロモデルに当てはめることが不適切なのは
他にも理由がある。
例えばIFRSでは、負債は大意次のように定義される。
「過去の取引の結果として、将来、ある程度の確実性で
経済的資源の流出が行われ、その現在価値を
金額表示できるもの」のことである。他方で、
資産は、というと、
「過去の取引の結果として、将来、ほぼ確実に
経済的資源の流入があり、その現在価値を
金額表示できるもの」のことである。
負債のほうは「ある程度の確実性」、資産のほうは
「ほぼ確実なもの」である。つまり、企業会計では
取引参加当事者間で債務者側の
金融負債と債権者側の金融資産は、必ずしも一致しないのである。これは
会計学上は「保守性の原理」といわれ、簡単に言えば、悪いことは早めに認識、
いいことは確実になるまで認識しない、ということである。まあ、
おいらのように財務畑の仕事をやっていると、記帳に限らず何事においても
万事、悪い方へ悪い方へと考えるように日々トレーニングされるわけだが、
企業会計上、財務諸表もこうした原理に基づいている。
そうなると、企業部門全体で見れば、同一の取引から発生した
債権者の債権のほうが債務者の負債より少なく計上されることが生じるのである。
例えば「保証債務」などはこうした例である。保証債務については債務者側は、取引発生時に
ある程度の金額をルールに従い計算して計上する場合でも、債権者側は、
実際に受取額が確定するまでは、資産として計上できない、ということがある。
一例をあげると、火災保険の場合、保険会社側は
合理的に見積もられた支払額を引き当てることが必要だが、
保険者側は、実際に火災が発生し、少なくとも損失額(補償額)が
ややはっきりするするまでは、これを資産に計上することはできない。
他にも類似の例は、手形譲渡に関する遡及義務や、
輸入消費税の延納納付に関する銀行の保証債務などがあり、
それぞれ仕訳や計上のルールが異なる。いずれにせよ、こうした保証債務自体は
ビジネスをやっていれば常に発生するもので、珍しいものでは全くない。
他にも企業会計における年金費用(退職給付手当)の引当金(年金債務)についても、
毎年将来発生するであろう金額を負債計上し、実際に
資産として確保している金額(金利その他収入が加算される)との差額を損益処理しなければ
ならないが、受け取る側の家計がそれをいちいち資産として
認識しているわけではない。長期請負工事の場合は、発注者側の仕入認識と
受注者側の売り上げ認識とが一致していない可能性もある。
売掛金/買掛金や、受取手形(割引分も含む)/支払手形などは、
通常は社会全体では(誤差脱漏がない限り)一致するであろう。しかしこれさえも
債権者側では別枠で「貸倒引当金」を計上しているのである。もしも
売掛金や受取手形といった営業債権から貸倒引当金を差引して純額表示にすれば、
営業債権のほうが営業債務より小さくなる。
つまり、「複式簿記は貸借が一致する」とはいっても、それは
一つの経済主体の内部で貸借が一致することを保証しているだけで、
社会全体あるいはマクロ経済全体で貸借が一致させることなど
最初から全く考えていないのである。企業会計原則に従ってそれぞれの企業が
作成した財務報告書を全部合計したところで、
(採用している原則が異なるという事情は別にしても)整合性のあるマクロモデルなど作成できない。
マクロモデルとして整合性あるものを作るためには、
取引の両当事者間で、貸借が一致するような配慮が必要になる。
資産側は「ほぼ確実なもの」負債側は「ある程度確実なもの」を認識する、
という「保守性の原則」のもとでは、両者が一致することは無い。

また金額についても、「将来の経済的資源の流入・流出の現在割引価値」を計上する、
というのでは、実際に行われた取引の結果の資金・資源の動きが示されるわけではない。
取引当事者間で異なった計算結果が生じることも当然ある。保守性の原則は別としても
将来のリスクの見込みは、すべての経済主体で共通というわけではない。
こうした点は、どのように考えるべきか非常に難しい問題があるが
しかしマクロ経済金循環モデルとしては、取得原価主義、すなわち実際に行われた取引時点において
契約され、移転されたものを原則として記帳する方がいいだろう。どの部門からどの部門に
どのような理由で資金が実際にいくら渡ったのかを、まずは示す。その後の市場価値の変動は、
表示したほうがいいとしても元の資産負債の価値とは別枠にしたほうがいいだろう。

また、払込み資本金は、通常の企業会計では当然のことながら純資産項目であるが
これもマクロ経済循環モデルでは負債項目に示す方がいいだろう。
IFRSの定義から考えれば、株式は現在時点で決まった金額の将来の経済的資源の流出(この場合、
キャッシュアウトであるが)を示すものではない。株式の所有者に対しては、
配当が支払われることが道義上約束されているとはいえ、いついくら支払われるかは、
全く不確定である。これを現在価値に割り引いて示すことはできない。実際、経営が不振な場合、
企業はいつでも配当をゼロにするだろう。経営難に陥った企業が、無配のまま数年を経て、
最終的に閉鎖へ至ることも珍しくない。したがって、企業会計の定義上も財務実務の上からも、
株式を負債に分類することは適切ではない。現代の企業会計上、資本金が負債項目から区別され
純資産項目に分類されるのはこうした会計上の定義によるものであって、これが「負債」ではなくて
「持分」を示すものだ、という法律的根拠は会計原則とはまた別である。(法律的根拠は
会計上、必ずしも「実質的」なものとはみなされない。)しかしながら、マクロ資金循環モデルを
構築するうえでは、こうした事情で株式を純資産項目に分類することは適切ではないだろう。
株式であろうと社債であろうと企業部門は証券を発行することによって何らかの経済的資源を
調達する(または決済をする)ことに変わりはない。均衡においては、負債の元本プラス利払の現在
価値が無限に続く株式の期待配当の現在価値と一致するというバカげた妄想を共有する必要は
ないが、実際、個別の借入口についてはともかく、資本金も借入金もゼロにできる企業など
例外的にしか、存在しない。個別の証券については、株式は
(買戻しがない限り)元本が償還されることは無いのに対し、負債は元本の返済が行われるのが
一般的(確定利子付永久債券など特殊なものもある)である、と言う人もいるかもしれない。
それも個々の借入口についてそうであるに過ぎない。部門全体として考えた場合、
株式にしろ負債にしろ、元本がゼロになる可能性は全くない。企業部門は
個別の企業については有利子負債をゼロにすることがあり得るとはしても、部門としては
繰り返し債券を発行し、過去の調達資金と同等あるいはそれを超える(場合によってはそれより少ない)
資金を調達し続けなければならないのであって、その点では株式を純資産に区別し
他の有利子債券を負債に区別する理由はない。また、たとえ個別の株式については
配当が必ず支払われるとは限らないとしても、
株式全体としては常に配当が支払われなければならない。もしもすべての株式が
一斉に無配になり将来にわたってそれが継続するような予想が成立するようなことがあれば、
それは株式市場のみならずあらゆる資産市場の機能マヒにつながるであろう。
その場合には、当然負債も償還・発行ともに不可能になるであろうから、事実上、
有利子負債と株式を区別することには意味がない。このことはつまり、
マクロ経済資金循環モデルでは、「将来のキャッシュアウトを現在時点で金額に表示できる」かどうかは、
あまり判断基準としては適切でないことを意味する。個々の借入口の償還義務も
問題ではない。要は、ある経済部門が金融証券を発行したことによっていくら調達ができたか、であり、
将来どれだけの償還義務を負っているかである。そして株式は、確かに個別には
確定した支払いを約束するものではないにしても、発行者の配当を通じて「償還」をしなければならないものと
みなされるのである。
なお、法人税計算上、金利は損金計上できるが、配当は当期利益から支払われる。
こうした事実も、個別の企業にとっては重要であるが、
マクロ資金循環を検討するうえでは大した意味を持たない。要するに証券を発行することによって、
将来の償還を約束し、それと引き換えに
現在の経済的資源(契約・利益機会等々も含む)を得ることを「負債」と呼んでいるわけである。

さて、MMTやCTのモデルでは、銀行券が中央銀行の負債といえるかどうかより先に、
企業部門の株式のほうが純資産ではなく実質的に負債だ、ということになってしまった。
念のため繰り返し強調しておくが、「実質的に」負債だといっても、ここでの「実質的に」という言葉の意味は
「実務上」という意味ではない。制度会計上はもとより、
一般的な会計・財務の実務の上でも、やはり株式は負債ではない。
マクロ経済モデルを構築するうえでは株式と債券を区別することには意味がない、と
言っているのである。株式を発行するにしても債券を発行するにしても、そうして
外部から調達された資金によって必要な資産が購入され費用が支払われることには違いはない。
むしろマクロ的な資金循環の動きを考える上では、払込資本金残高と、過去の利益の累計を示す繰越利益を
「純資産」の下に一括して表示することの方が、はるかに不適切であろう。株式は
個別的にはともかく部門全体で見れば、必ず将来のキャッシュアウト(配当支払い)が
必要になるのである。繰越利益、いわゆる内部留保は、こうした将来の費用の発生が一切ない資金源であり、
その増加に外部からの資金調達を要さない(第三者の金融資産の増加を伴わない)
資金源だからである。資金循環から見れば、これだけが企業の自己調達資金源であり、
内部資金源である。

会計原則的に考えてみれば、負債(株式も含む)の増加は必ず、資産の増加か費用の発生、または負債の減少、
収入の消去が伴う。(株式を負債の一部としてみれば、ある負債の増加と資本金の減少があっても、
ここでは「負債の増加、純資産の減少」とはみなさない。そうすると、純資産の変化は
損益の変化とイコールになり「収入・費用の変化」に含まれてしまうので
実質的に「負債の増加に伴う純資産の減少」の項目はなくなる。)
負債の増加について、企業財務の現場の観点から、具体的な例をいくつか挙げてみよう。

負債といって、もっとも誰の頭にも思い浮かびやすいのは
「借入金」、要するに借金のことであろう。負債(社債、手形、借入金)が増えて、貨幣(現金預金)が
増える。これが最も代表的な負債であることには異存はないが、しかし企業財務の場合、
負債はそればかりではない。商品を仕入れて、代金は後日支払う、という繰延払も、負債の一つである。
こうした負債の代表項目が「買掛金」「支払手形」「未払金」「未払費用」である。
それぞれ少しずつ違うが、日本では特に「支払手形」は他の項目に比べ、
流動性(流通性)が著しく高い、という特性がある。要するに、仕入代金を
一端、支払手形で支払っておき、後日、この手形の決済日にはこの手形と交換で
現金預金を払い渡すのであるが、支払手形を受け取った人は、決済日までの間にこの負債を
銀行その他第三者に売却譲渡できる。他人の振出した支払手形を、自分自身の仕入の代金支払いに使えるわけである。
こうして裏書譲渡されたその手形がどのような経路で自分のものになったのかはわからないが、
たまたま期日にその手形を手にしていた人が、最終的に現金預金による支払いを
受け取ることになる。日本では、こうして手形そのものが現金の代わりに支払い手段となって
流通するが、海外では売掛金や未収金を銀行やファイナンス会社に割り引いてもらうことの方が
普通とのことである(動産担保融資やファクタリング)。これは企業間の信用取引が
比較的遠隔地の取引先との取引で多用されていたヨーロッパやアメリカと、もっぱら
企業城下町で利用されることの多かった戦後日本の信用取引の発展の形態にも依存するところがあったのではないか、
と個人的には思っているけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。
なお、未払金や未払費用を買掛金から区別するのは
日本独特の習慣のようだが、未払金というのは主たる営業活動以外から生じた短期の負債、
未払費用というのは、時間的に区切ることのできない継続的な取引の結果発生する費用を
一括して支払う契約がある場合に、支払いが行われるまでに累積する費用のことで、
細かくは未払賃料、未払利息、未払給与等々に区別することもある。
賃料や利息といったものは、何事もなくても時間の経過とともに発生するもの、あるいは、
電気料や水道料のように使用の度に支払いを起こすことが不適切なものを、1か月分・2か月分などの形で
区切って支払いをする場合の、実際に費用が発生してから支払いが行われるまでの累計額である。
こうした細かい区分は、企業会計ではともかくマクロモデルではほぼ全く意味がないだろう。
ここで強調したいのは、「負債」という言葉の多義性である。例えば、
どこかの会社の貸借対照表を見た時「未払賃金給与」という項目にある程度まとまった金額が載っていたら、
どう思われるだろうか。中には「えっ、この会社、従業員にまともに給料が払えないの?遅配?」などと
思う人がいるのではないだろうか。あるいは、そもそも、従業員からお金を借りているわけでもないのに、
なんで未払賃金給与が負債なの?とでも思う人だっているかもしれない。
だが、「未払賃金給与」というのは、実は金額の多少はあっても、
必ず決算の貸借対照表には載ってしまうのである。たとえば3月31日に決算日(貸借対照表日付)を迎える企業の
給料の〆日が20日であれば、10日分の未払賃金給与が発生してしまうのである。
これも「負債」である。企業は、形の上で従業員からお金を借りているわけではない。
だが、会計的には、企業は3月31日時点では3月21日から3月31日分の賃金給与を、
将来確実に発生する経済的資源の流出であり、その金額を計算できるものであると考え、貸借対照表の
「負債」項目に表記することになる。こうした営業債権債務は、実際に
現金預金が動くか動かないかに関わらず、常に発生しており、そして、
多かれ少なかれ現金預金の代わりに流動する。こうした営業債権の発生は、
主流派経済学の描く負債とは全く違う。将来の所得と現在の所得の交換などという意味は
全くない。単に、支払いが繰延されているというだけである。それにもかかわらず、この
支払いの繰り延べがしばしば流動化され流通するのである。
営業債務もまた、他の負債同様、「将来の(ある程度確実な)経済的資源の流出(金額表示可能)」である。
会計的な定義においても、マクロ経済資金循環モデルを考える上でも、企業の財務実務上も、
負債と考えて、全く差し障りがない項目である。マクロ資金循環モデルでこうした延払いの項目が
省略されることがあっても、それはモデルの単純化に過ぎないし、同じ延払いであっても
売掛金や受取手形のようなものであれば省略されることなく、「貨幣に準ずる流動資産・負債」として
扱われることもあるだろう。

同じような営業債務の一つとして、「前受金」「前受報酬」がある。企業が、取引先に商品を販売するあるいは
何らかの業務を請け負う際に、それに先立って取引先から現金預金を受け取るのであれば、
これは「前受金」として貸借対照表の負債項目に掲げられることになる。支払った企業の側は、
資産項目に「前払金」「前渡金」などの資産が計上される。「前受金」もまた「将来、
ある程度確実な経済的資源の流出」を伴う。ただし、ほとんどの場合、それは現金預金を意味しない。
将来流出する経済的資源とは、商品や物的資産、サービスである。これもまた、
企業会計原則から見ても、マクロ経済モデルの立場で考えても、実務上も負債に間違いない。


中にはやや面倒なケースもある。例えば、ある企業が他の企業に業務を発注し、
自分の支払手形で前払金を支払う場合である。これは、発注企業から見れば、
一方で前払金という資産が増加し、他方で、同時に支払手形という負債が発生している。
資産と負債が同時に同額増加している。受注企業側からすれば、資産側では受取手形が増加し、
負債側では前受金が増加している。両者ともに資産と負債が同時に同額増加しているのである。
また、この段階ではどちらからどちらへも、実質的な経済的資源は移転していない。発注者側は、
将来の業務遂行を約束してもらい、その代金の一部(または全部)を前払しているわけだが、
ただ支払ったのは負債である手形によってであって、この手形は将来決済しなければならないものだ。
他方で、受注側は、将来の業務の遂行を約束し、その報酬の一部(または全部)を前払として
手形で受け取った。この手形は、割引いて現金化してもいいし、支払い手段として譲渡してもよい。
あるいは、期日まで手元に置いておき、実際に必要な費用の支払が期日前に生じた場合には
自分自身の手持ち現金か、あるいは新たに自分自身の手形を振出して支払うこともできるだろう。
そうすると、一見すると、両者の負債を交換し合っただけの形式的に思える取引にも
意味があることがわかる。というより、おいらのブログを読んでくれている人ならすぐわかると思うけれど、
これって、銀行が普段やっていることと全く同じです。。。。

一般に「負債と負債を交換する」という取引は、普通の企業ではあまり頻繁にはない。
だが、「珍しい」というわけでもない。上記の例では、「前払金」を「支払手形で支払った」ということになっているが、
例えば、ある下請け企業が、当座の資金繰りに不足したが銀行に借入に行くわけにもいかない事情がある場合、
客先である大手の企業に資金の融資を願い出ることは珍しくなかった。近年ではずいぶん減ったに違いないが
高度成長期の企業城下町全盛だったころであれば、普通に見られた光景だったのではないかと思う。
いずれにせよ、こうした場合、現在もそうだが、大手会社側は融資に応じる場合でも
現金を渡すのではなく手形を振出すことがある。大手企業側からすれば、貸付金という資産の増加に対し、
現金預金という資産が減少するのではなく、支払手形という負債が増加する。下請け企業側では
前受金(または借入金)という負債が増加するのに対し、現金預金ではなく、受取手形という資産が
増加する。下請け会社はこの手形を自分自身の支払いに充てる。その結果、下請け企業の大手企業に対する借入金は
そのままだが、大手企業の負債の側は、支払先の企業に対する負債へと振り替えられることになる
(支払手形の支払先の変化がいちいち振出企業側で記帳されることはないが)。
下請け企業の負債はその後、現金で支払われるか、より多くの場合、実際に月々の受注をこなしてゆく中で
受注額の中から一定額を分割で相殺されてゆくことになるだろう。他方で手形のほうは
期日には振出した企業自身によって、決済される。結局、借入金と支払手形は、
決済を全く異にする独立した取引として扱われる。両者は全く流動性もリスクも異なっている。
それ故この「負債同士の交換」は取引として成立するのであり、ビジネスとして意味を持っている。
会計理論的にも、この二つの負債は、明らかに「将来、ある程度確実な経済的資源の流出があり、
その流出額の現在価値を金額表示できる」ものだ。したがって、負債で間違いない。
マクロ経済モデル的にどうかといえば、これもやはり負債として処理するのが適切である。
(もっとも計量モデルならいざ知らず、概念モデルでこのような些末な例をいちいち
取り上げること自体が適切だとは思えないが。)大手企業の負債として発行された手形は、
確かに決済手段として企業から企業、銀行から銀行へと移転され続ける可能性があるのであり、
これによって決済が行われている以上、経済的な実態はあるものとしなければならず、
そしてその流動する価値を保証しているのは何かといえば、
将来、振出した大手企業自身により決済されるという信用なのである。これは振出した企業の
負債として扱うよりほかに手はない。前払金の方も、現在それだけの決済手段が移譲され、
そして将来、請け負った業務が遂行されたときには代金としてそれだけの金額を差引したものしか
受け取れないわけだから、明らかに負債、一種の借金であろう。この考え方に慣れないうちは
下請け業者は、業務の代金をいったん全額受け取ってそこから現預金で返済した、と考えれば分かりやすい。
だが慣れてくれば、むしろ直接「業務と負債を相殺する」と考えたほうがすっきりする。
費用の発生と負債の増加が結びついたように、その逆で負債の減少は収入の発生と結びつくのである。
互いの負債と負債を交換し合う、というのは、慣れないうちはバカバカしい無意味な行為に思われるかもしれないが、
会計や、企業財務の実務においては実質的な意味を持つし、
マクロ経済資金循環モデルでも、やはり可能性としては十分考慮しなければならないのである。


さて、ここで話を少し変えて、銀行の話題が出たので
銀行と企業の取引を見てみよう。
企業が銀行から資金を借り受ける場合、銀行は預金設定によってこれを実行する。
預金者は自分自身の負債(借入証文)か、資産(第三者の負債)を銀行に差し入れるのと
見返りに、「預金」を得る。
銀行が預金者に「預金」を提供する場合、銀行は預金者に対して
次の責務(obligation)を負っている。
銀行は、預金者に対し、預金残高を上限として、

①現金の払い戻しに応じる

②預金者の指示に従い他の名義の口座へ振替・振込みを行う。また、預金者の代理として
小切手の支払いに応じ、手形の決済を行う。

③政府・日銀への支払いを代行する。

④預金者がその銀行自身に義務を負っている場合、例えば借入金の償還や金利・手数料の支払に際しては
この負債と相殺することで、責務が履行される

金額が額面で固定されている以上、
これは企業会計原則(銀行会計は必ずしもこれと同一ではないのだが)上は、明らかに負債であるし、
実務上も、これを負債として扱かわなかったら、いったい他にどのような形で処理可能になるのか
全く見当がつかない。いつ、どのタイミングで現金への払戻請求があるのか
(少なくとも要求払い預金の場合は)必ずしも明確ではないが、
銀行は常に、個別の預金に関して言えば残高がゼロになる可能性があるわけで、
残高通りの負債を負っていると考えなければならない。他の銀行の口座への振込や政府への支払は
日銀当座預金を通じて行うわけだが、これを行ったときには自分自身の負債(預金)残高は同額減少する。
④の、預金者自身の銀行に対する義務の履行、つまり借入金の償還や金利・手数料の支払に際しては
この預金から「引き落とされる」、つまり、預金者の負債(義務)が銀行自身の負債(預金)と相殺される。
銀行は、これらの約束を預金者と結んでるのであって、契約に定めがない限り
この義務を履行することを避けることはできない。これが銀行の負債の内容である。「経済的資源の流出」というのは
必ずしも、債権者自身に対して商品や資産・サービスを提供することではない。銀行は
預金者に代わって他の銀行への送金を行うとき、あるいは政府へ納税や手数料の支払いを代行するとき、
日銀当座預金やほかの銀行に対する債権といった自分自身の経済的資源を減らしているのである。ただ預金者自身に
それが見えないからといって、これが負債にならないわけではない。また、④は、実際に
預金者の銀行に対する負債が、銀行自身の預金者に対する負債と相殺されることを示している。
もしも預金に何ら実物資産価値もないにもかかわらず、
預金者自身の銀行に対する債務をこれで償還できるとしたら、それは預金が誰かの負債(誰かが将来の
支払いを請け負ってくれる)でなければならないが、そうでもないとしたら、これは当の銀行自身の負債である、
ということだ。

さて、ここで話をおおもとに戻そう。日銀の当座預金口座や現金は、日銀の負債とみなされるべきか否かである。
日銀が日銀当預の残高を増やすとき、銀行手持ちの国債あるいは優良企業の手形(短期債務)が日銀によって
割引される。あるいは銀行自身が借入れることになる。つまり、日銀は銀行自身の負債か第三者の負債と
引き換えに、日銀当座預金を発行しているのである。そして、日銀とその有価証券を振出した相手は
相互に相手に対して負債を負いあうことになる。ここで問題なのは
日銀当座口座の預金者自身が必ずしも日銀が保有している負債の発行者自身とは限らない、という点である。
必ずしも、というより、たとえ日銀当預の預金銀行自身が日銀に負債を振出したとしても、
そうして入手された日銀の負債が誰かほけの金融機関の口座へと振り替えられてしまえば
この関係は断ち切られ、当初の借入銀行は、一方的に日銀に対して
債務を持つことになる。こうした矛盾はもちろん
何も日銀に限った話ではない。一部例外はあるものの、ほとんどの銀行は、上記の①、②、③については
等しくすべての預金者に責任を負っている。こうしたサービスを提供することが銀行の預金者に対する
責務であって、その預金と引き換えに何かそれ以外に特別な物的商品やサービスを提供することを
何一つ約束していない。これは銀行ばかりでなく、先の、貸付金として、あるいは前払金として
手形を提供する大手企業の行動とも同じである。受注企業側は、将来にわたって
無料で(先払いされた手形相当額に至るまで)製品を提供することを約束する。受注企業側は、
これを第三者に譲渡することはあるだろう。この場合、この第三者は期日になれば、
銀行預金あるいは銀行券という第三者の負債を得ることができる。だがそれだけである。
受注企業のみは、約定通りに納品を実行することによって、債務から解放されることが必要になる。
手形の受取先は、期日に銀行預金が振り込まれることで、決済を済ませることができる。
銀行預金の預金者は、日銀券を受け取ることで、銀行預金を決済することができる。
日銀当座預金や日銀券は、その所有者はいかにして決済できるか、というと
政府への支払いを実行する(政府に対する債務と相殺できる)ことによってである。
実は、これは日銀当預と日銀券によってしかできない。もちろん、一般の納税者は
銀行で銀行預金を介して納税できる。そればかりでなく、銀行に第三者の手形を持ち込み、それを
銀行に割り引いてもらっても、納税や罰金の支払いは可能である。だがそれらはいずれも
直接ではない。手形割引であれば、必ずまず預金が振り込まれ、それが引き落とされ同時に
今度は銀行が日銀に、日銀当座預金を引き落とされることで可能になっている。つまり上記③を銀行が
代行できるのは、銀行が日銀当預を保有している限りのことであって、
そして日銀当預や日銀券はそうして決済可能なのである。
勿論、日銀に支払い義務(債務)のある銀行は、期日までにしかるべき日銀当預を積み立てて、
それで決済をするしかない。これは、銀行に債務を持っている経済主体が
期日までに銀行預金を積まなければならないというのと同じことで、何も特別なことは無い。
債務者の負債は、日銀の負債と相殺される。日銀は、債務者に対する債権という「経済的資源」を
手放さなければならない。この金額は、現時点で発行されている日銀当座預金の残高として確定している。
会計理論上も、実務上も、まぎれもなく日銀当預は債務以外の何ものでもない。

今回の内容をここまで集中して読んでくれる人がどれだけいるのか、
多分、一人もいないんではないか、と思う。そのぐらい、ほとんどの人には退屈で、意味が分からない話だったのでは
ないかと思う。今回、書いたことは、一つは、マクロ経済資金循環モデルにおいて扱われる
「負債」がどのように定義されるべきであるか、という技術的な考察であった。しかし、それと同時に、
貨幣がなぜ、負債の一種でなければならないか、負債以外ではありえないか、ということを
説明することにもなった。会計実務に興味のない人には、読んでもピンとこない話が多かったろうし、
あまりにも実務的すぎて、マクロ経済学とは関係ないのではないか、という疑問もあったことと思う。
しかし、おいら自身は、この辺の話は、そもそも貨幣とは何か、を巡って思考を凝らすとき、
非常に重要な問題になってこなければおかしいと常日頃から感じているのだ。「お金とは何か」とは
しょっちゅう見かける問いである。そして多くの論者が「貨幣とは、数多くの資産の中で、もっとも
取引の媒介として便利なものである」と主張する。明らかに無茶苦茶な議論だ。そのほかの人たちの中には
「貨幣とはものではない。人間関係である」と教えてくれる人もいる。だがその内容は、どうも今一つはっきりしない。
その理由の一つは、「貨幣はモノではない」と言いながら、「なぜ、お札のようなただの紙切れが
価値を持つのか」と、あくまでも「紙切れという価値のないもの」にこだわっているからではないだろうか。
「紙どころか、データが貨幣の代用品となる」という言葉も、ずいぶん昔から予想されていたし、
そして現にいまではデビットカードやら電子マネーやら、文字通り電気データが貨幣の「代用品」として
流通するようになっている。にもかかわらず、こうした論者のほとんどの人は、
実際にいかにしてこのようなデータが流通し、決済されているのかについてはほとんど無頓着なままだったのである
貨幣は、データになろうと記号になろうと、貨幣のままだ、つまり紙幣のように流通するだろう、というわけだ。
それ故、データになるかもしれない記号になるに違いないと長年言われ続けながら、その実、貨幣は、
あくまでも紙や金属のような手渡しできるものというイメージから離れることができないままでいたのではないだろうか。
抽象理論はあまり個別・特殊な実務にとらわれるべきではないかもしれないが、しかし
そう主張をする人たちでも、実際は貨幣理論については実務のとりこのままなのである。ただ、その実務の内容が
学生時代までの、お金といえばお札や鋳貨といった手渡しできるもので、その受け渡し意外に貨幣についての
実務の知識が何もない、というに過ぎない。そしてそうした極めて狭い実務に依拠した理論のことを
「個別・特殊実務にとらわれない抽象理論」と思い込んでいるに過ぎないのではないだろうか。
特殊実務にとらわれない抽象理論を目指すのであれば、
むしろさまざまな実務について知識を得てからのほうがいいように思われるのだが、
しかし、そうしたことは、とりわけ経済学においては、
一切行われないようなのである。(マルクスやケインズは、数少ない例外であった。)
貨幣を「負債」の一種であるである、と考えることは、次にはそもそも「負債」とは何か、という問いを
発生させる――不思議なことに、貨幣について考察を巡らせる人たちの中に、この「負債とは何か」という
問いに真剣に向き合っている人がいるとは思えなかったのである。その結果が、
「貨幣とは負債ではない。負債を決済するものだ」という定義にならない定義が出てきたり、
「日銀当預は実質的には負債ではない。負債といったって、銀行券をくれるだけだ」というような
これまた意味不明な議論が発生してしまったのであろう。そしてその背後には、
負債=借金であり、借金=将来の所得と現在の所得の交換、という硬直した発想があるのではないだろうか。
そして、この「負債=将来の所得と現在の所得の交換」という発想の背後にあるのが、やはり
負債を生み出す取引というものが、市場において個人の選好をベースにした合理的な決定に基づくものという
近代的個人概念から導き出されたものであることは、容易に察しが付く。実際には、
個人・個別企業として、経済主体が差異化・自立化される前提として(G.ドゥルプラス的だが)、
制度としての貨幣や負債は存在しているのである。
その点を解き明かすために(といったって、この短いブログでそこまでやろうというわけじゃないが)
細かい実務的な話にまで、今回は立ち入った次第。
貨幣とは、お札や鋳貨のような物的な存在ではない。もちろん、現実に日常的に使われる
貨幣の中には、お札や鋳貨といった物的形態をとるものも少なくない。だが、少なくとも
現代社会において使われている貨幣の大部分はそれではない。大部分は預金通貨である。
ところが、この預金通貨とは、お札や鋳貨の代理物などではない。お札や
鋳貨といった日銀が発行している物質を、銀行が代わりにどこかへ運んでくれているわけではない。
X銀行にAさんが預金をしている、ということは、X銀行とAさんの間の貸借関係に過ぎない。
そして、AさんからBさんへ送金が行われるとき、X銀行/Aさんの貸借関係が消滅し、
新たにX銀行/Y銀行の貸借関係と、Y銀行/Bさんの貸借関係が発生する。そして、その後
X銀行/Y銀行の貸借関係が清算されるために、X銀行/日銀の貸借関係が新たに作られるか
もともとあった関係を利用して、Y銀行/日銀の貸借関係を創り出す。ここには物的な性格をイメージさせるものは
何一つない。貨幣とは何か、を論じるのであれば、紙幣や鋳貨を、むしろ無視して、
こうした銀行為替決済を議論の中心に添えたほうがいいのではないか、
というのが、今回の結論である。


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5 コメント

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質問です (tamurin)
2015-12-31 22:20:49
大部分、納得できるお話なのですが、少し分からない部分がありましたので質問させてください。

>日銀は、債務者に対する債権という「経済的資源」を手放さなければならない。

ここで言う日銀の(というより、おそらくは統合政府の)経済的資源というのは、未収の税金(や罰金等)のことでしょうか?
そうだとすれば、単年度の未収税金は日銀当座預金の残高とはもちろん一致しませんし、将来に渡る未収税金の割引現在価値を総計しても(そんな計算自体不可能だと思いますが)やはり日銀当座預金残高とは一致しないのではないでしょうか。
返信する
コメントありがとうございます (wankonyankoricky)
2016-01-06 21:10:48
コメントをありがとうございます。

ご質問の件に関しましては

①そもそも、負債と資産は全く別物なので、
負債には、現時点でそれを担保する資産が必要とされているわけではない、

という簿記の一般的な話でお答えするのが
ストレートなのですが、

②実際には、負債に対応する資産が必要なのでは
ないか、という疑問は常に生じうるし、
企業財務の実務上、そうしたほうが
適切なケースもある。
企業会計で典型的なこうした例として
退職負債/資産
が挙げられる。だが、一般的には
企業会計に関する限り
問題となっている項目も含む負債全体が
総資産額を下回っていれば
問題はない。
(典型的には、固定資産除却負債)

ということで、ご質問の論点には
勿論、重要な意味があるのだ、
ということを具体例を挙げてご説明し、
そして、最後に、ちょっとご質問を離れて

③ところが、統合政府部門に関して言うと
むしろ負債>資産となっていることに意味があり、
そうでなければ国内経済が成立しない。
むしろ政府部門は常に、一種の
「債務超過」になっていなければならない
(「債務超過」になってはいけない、
というのは、企業会計や家政を無批判に
政府に当てはめたもので、
全く混乱している)という話の仕方を
したいと思います。

と、いうわけで、長くなるので、
次のブログでお答えさせてください。
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貨幣と金利 (経済素人)
2016-11-09 23:18:06
毎回色々ご教示いただき誠にありがとうございます。 貨幣の話ですが、貨幣は金利を生む機械であり、複利は資本主義の精神だとか。貨幣の時間選好を聞くのですが、--貨幣自体ではなく貨幣を有する社会の信用性に対する利子方法が金利として表出すると思うのですが、--如何でしょうか。これは貨幣の起源と金利の起源は双子なのでしょかーー改めて金利とは何かを考える契機になれば質問ですが、考えをーーよろしく願います。
返信する
Unknown (wankonyankoricky)
2016-11-12 22:01:40
コメントありがとうございます。ただ、申し訳ないのですが、ちょっとご質問の趣旨をとらえかねています。金利とは何か、という点に関するおいらの考え方をご説明すればいいのでしょうか。。。そうなると、この欄だけでご説明するのも苦しい話になってしまうので、また機会を改めてブログで、ということになってしまいます。といっても、特別目新しいことを言えるわけではありません。ごく平凡な考えしかありませんが、そのうち折を見て触れていきたいと思います。今後もよろしくお願いします。
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貨幣と金利 (経済素人)
2016-11-13 09:52:55
金利とは何かという点をMMTを踏まえて説明して頂ければ、どうもうまく伝えれなくてすいません。私としては貨幣の起源を言及している金融の話は非常に興味深く思っていましたのでーーブログを期待しています。2
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