断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

共通試験高校政治経済の信用創造の説明が変わったことについて

2022-01-30 08:56:12 | MMT & SFC
共通試験の政治経済の信用創造の問題及び回答が、従来の現代社会におけるそれと全然違い、内生的貨幣供給論へとシフトした、ということが話題になった。共通試験でそうなっているからにはおそらく実際の教科書もそう変わっているのだろう。まあ一般に教科書に書かれていることが、世の中で全く行われていない学者の空想から、ともかくも現実を反映したものになった、ということでとりあえず喜ばしいんだと思う。もっとも銀行の信用創造の説明が内生説になったからと言って、それで政府の赤字が正当化されたり国債はデフォルトしない、という話になったりするわけじゃないので(現に日銀周辺には内生説の立場に立ちつつ赤字財政批判をする人はたくさんいる)、一部のMMT(日本版であれ何であれ)界隈の人の喜び方を見ていると、ちょっとはしゃぎ過ぎじゃないの?という気もしてしまう。

ただまあ、なんで今?という気もしないでもない。

大体、又貸し説がおかしいものであることは日本と海外とを問わず、常に指摘され続けていた。古くは銀行学派(フィリップス流の信用創造論なんてまだまだこの世にあらわれる前)に始まり、グッドウウィルとかカルドアなどといったイギリスの中央銀行の実務にかかわっていた人たちや、日本でも翁氏など様々な人たちから指摘されていたことである。銀行関係者だって、まあ営業畑の人とかは違うのかもしれないけれど(「私どもも預金者の皆様からお預かりした大切な資金をご用立てする以上、いい加減なことはできないのです」というとき、目つきが真剣だった。。。。。まあそりゃ真剣に決まってるけど。。)、融資担当部署とかであればみんな知ってたことだろう。端的に言ってしまえば日々銀行と借金と契約とその返済とでばたばたしているような人間であれば、ちょっと考える機会さえありそして実際に考えたなら、誰でも気が付くことである。それが今日に至るまで何十年も続いていて、それがなんだって今になって変わったのだろう。

この何十年にもわたり教科書では現場実務とは著しく矛盾するおかしな説明がなされていたのだが、それがなぜ問題にならなかったのだろうか。。。。まあ一言で言えば、高校の教科なんてそんなもんなんだろう。英語だって何十年も「使えない英語」ってんで、話題にはなり問題にもされたけれど、しばらく前まで、実際それで多くの人が困ったわけではなかった。実際に日本で暮らしていて、せいぜい流行歌謡曲で適当なカタカナ英語が流れてぐらいのもので、英語に接する機会なんかほとんどなかった。勿論、英語を使う仕事がなかったわけではないけれど、実際に世に出て英語を使って働く人たちは自分たちで英語を学習していたのだけれど、そんな人たちの数はそれほど多かったわけではないので、口先だけでは「6年間も勉強して全く身に付かない」と問題にされることはあっても、それほどまじめに考えられていたわけじゃなかった。時代が変わって今のように多くの人にとって海外に出る機会も頻繁になり—―まあ、ポストコロナでどうなるかわからないけど——、ネットだなんだで英語に接する機会も頻繁になると、だんだん学校の授業もそのままというわけにはいかなくなるだろう。英語ですらそんな状態である。信用創造の話なんか一層どうでもよかったのだろう。とはいえ、英語の教育が変わってくることの背景事情というのはそれなりに理解できないわけじゃない(それが望ましいとか適切だと言ってるわけじゃない)が、なんでまたいま信用創造?

まあ一つには、世界的な潮流の変化もあったのかもしれない。日本でも話題になったイングランド銀行の説明資料の件もある。グレーバーの『負債論』の補論では(日本語版は増補版が底本になっているので載っているが、おいらの手許の版は古くて載っていない)イングランド銀行があのような説明資料を公表したのはMMTの影響ではなく自分の影響じゃないのか、と強調していたけれど(そんなこと言ってるMMT派っていたのだろうか。。マーフィーさんあたりが言うとったんかなあ。。。)、どちらでもないと思う。カナダから総裁を招き、そして所要準備制度を廃止するという一連の流れの中で行われたと理解すればそれでいいのではないだろうか。内容的にも民間銀行に中央銀行がアコモデートしなければならない最大の理由が財政活動であり、中央銀行が決済システムを守るべく行動している限り政府債務は決してデフォルトしないのであり、そして中央銀行が最高位の準備銀行として国内に最終的決済手段としての準備通貨を提供できるのは、国庫が中央銀行に開設され中央銀行の準備通貨でのみ納税できるようになっており、そして税納付を拒否する者を強制的に経済活動から排除する能力を政府が持っているからで、何よりの問題として、銀行が通貨を発行したところで誰の純資産が増えるわけでもなく、使える金額は均してみれば変化ない、民間にとって純資産の増加を伴うという意味で自由に使えるお金が増えるのは政府支出の局面だけだ、というMMTの中核的ポイントには何も触れられていないのであれば、まあMMTの影響というわけにはいかないだろう。さりとてグレーバーの影響というのもどうかな。。。せいぜい、グッドウイルからカルドアやムーアを経て今日に至るまで一連のイギリスの伝統的内生的貨幣供給論の内容に沿った話に変わった、という程度という気がするのだが。。。。まあそれはそれとして。。

日本の高校でずっとおかしなことが教えられてきたにもかかわらず、現場から異論が出なかった理由というのは、現場にしてみれば大学や高校で何を教えていようとどうでもよかったからだ(どっちにしろそんな知識はがそのままで使い物になるわけではない)というのはそうなんだろうけれど、ただ銀行業界にしてみればどうだったのかな、むしろ高校や大学あたりでは又貸し説を教えていてくれた方が都合がいい、という面もあったのじゃないだろうか。
 教科書で改訂された(かどうかホントは知らないんだけれど、テストが変わったんだから、、、、)内容が分かりにくいのは、何より「通貨を民間営利企業が発行している」という点だろう。これは理屈の話ではなく、感覚的に多くの人にとって納得しにくいことだというのはそうだろう。通貨というのは政府なり日銀なり、公的に責任ある立場の人が社会経済の状況を慎重に検討しながら公平な立場で決定しているのであり、民間営利企業が自分の利益のために発行するようなものではない。そんなことをしたらすべての人がお金を銀行から借り受けて物を買いだすようになり、途端にハイパーインフレになってしまうだろう——というのは、岩井克人先生の不均衡動学の理論だが、まあ、岩井先生の話はともかくとして、「お金を民間銀行が勝手に発行できる」というのは著しく公平感を欠くストーリーなわけで、銀行業界にとっては高校や大学でそんな中途半端な説明をされても困る、というのが正直なところだったのではないか。
 
 ただMMTを学習した立場(かつ、日常的に自分が手形だのでんさいだのに接する立場)からすると、ちょっとまた別の考え方も浮かんでくる。というのは、銀行がやっている「負債の増加(信用供与)による支払い(これがcredit creation の直接の意味ではないか)」ということ自体は銀行に限らず、数多くの企業や個人が行っている。こうした負債は、範囲が限定されているとはいっても第三者にとっての支払い手段として流通している。それは銀行預金と比べれば、裏書保証債務が残るとか、流通時にディスカウントされてしまうとか、いろいろ異なっているが、発行それ自体の理屈は同じである。違うのは発行の仕方ではなく、銀行の方はその額面価値を中央銀行と政府とが保証すべく何重ものセイフティーネットを与え、システムとして保護していることである。そしてその保護の見返り(というわけではないとしても)に、銀行は一般企業よりはるかに数の多い様々な財務面での規制監督に服すことになる。銀行の負債が一般的な通貨として流通するのは個々の銀行の財務自体が信用されているから、というよりは政府中央銀行の規定に服し、それに忠実であり、それゆえにシステム的に保護されているからだ、と考えたほうがいいだろう。ここで言っている「保護」というのは、預金保険機構の存在や中央銀行の「最後の貸し手」機能、あるいはいざという場合の政府の資本注入といった個々の保護政策というよりも、銀行部門全体として、どの銀行の負債であってもよその銀行に額面通り送金できるシステムのことである。たとえトヨタの手形でもおいらの勤め先の工場が銀行に持ち込めば割引料をとられてしまうが、町の信用金庫からの送金なら、割引料をとられることはない(手数料はいずれにしてもかかる)。それはその銀行がトヨタより信用金庫を信用しているという意味ではなく、中央銀行を中心にした決済システムがあるからに過ぎない。
 となってくると(これがMMC論のポイントの一つであるわけだけれど)、銀行にとって「又貸し説」は、規制緩和・金融自由化を推し進めるうえで、重要な役割を果たしていることになる。債務ヒエラルキー構造を念頭に置いた「内生説」の立場に立つ場合、銀行預金通貨の発行はまず「規制監督保護ありき」である。銀行は、それ自体としては民間の営利組織であるとしても、重要な社会的インフラを担っている。その役割の一つが預金通貨を発行できることであり、そして政府中央銀行はそれが通貨として流通するように、他の手形などとは全く次元の異なる決済システムや保護を与えている。政府中央銀行は、個々の銀行というより、このシステムを守るために、銀行がおかしな行動をしないように規制監督を強いている。それゆえ銀行もいたずらにリスキーな行動で利益を膨らますことができない。利益を膨らますことを最重要視するなら、銀行は当局の規制がかからない金貸しに転じるべきであろうが、その場合にはもはや自分の負債を通貨として使わせることはできない。
 逆に言えば、銀行は、決済システムはそのまま規制だけがなくなれば、自分自身で預金通貨を発行することでいくらでもリスキーなビジネスに手を出せるようになってしまうし、出すだろう。個々の銀行の財務内容とその発行する負債の割引率の間の関係はシステムによって断ち切られているので、財務内容が不安になっても当面の負債の発行ができなくなるわけではない。こうしたリスクの拡大はいずれシステム全体を危機に陥れるほどに巨大化するだろう。規制を外すなら決済システムからも切り離すことが必要だ。
 たとえまともに経営された銀行であっても危機に陥ることはあるだろうが、それへの対処法は銀行の負債である預金通貨(当座性預金)がデフォルトされることはないようにしなければならない。貯蓄性預金はパーになっても(まあ保険がかかっているけれど)当座性預金債務は100%保護する。銀行の破綻処理は通常のビジネスとは全く異なる手順で行われることになる。それは(少なくとも建前上は)個別銀行の保護のためではなく、システムの保護のために行われるわけだ。そうならないように普段から厳しい規制と監督に服してもらわなくてはならない。それが自前の預金通貨を発行するための条件だ。そもそもそうしたシステム的な保護がなければ現代の銀行というビジネス自体が成立しないのだから。

 しかし「又貸し説」に立つなら、銀行もまた他の一般企業と変わらず、特別な地位にあるわけではない。銀行は顧客の現金を集め、それを又貸しする。短期の預り金を長期の貸付金に変え(又貸し説に準拠する教科書の言う「資産変換機能」)、あるいは個々の融資先のリスクと預金者のリスクを分離するという重要な機能を果たすことが銀行の存在理由であり、その対価として銀行は金利収入を得ている。預金者が一人一人で個々の投資先の情報を集めていたのでは非効率だという問題(これは新しい金融商品の登場によって、銀行でなくても投資会社でも表向きかなりの程度カバーできるようになった)、個々の預金者ではリスクを負いきれないという問題、こうした深刻な問題に銀行は対処しているわけだけれど、これはビジネスなのだから政府や中央銀行による規制監督保護より自己責任で自由に自己決定させた方が効率的だ、そうしないと銀行にも預金者にも甘えが出てモラルハザードが発生し、社会全体が非効率になる。金融自由化論の背後に、こうした認識がなかったと言えないだろうか。実際、自由化は大学で経済学を教えている教職の立場にある人たちからも強く主張されていたことである。そしてその背後にあった認識が「又貸し説」である。又貸し説と金融自由化論のイデオロギー的結びつきについては、一度きちんと検討されてもいいように思う。アメリカにおける政官学の癒着構造はすさまじいものがあるようで(映画の、なんだっけ、インサイド・ジョブだっけ?にあった)、この辺、大学教育が銀行の利害に合わせてゆがめられており、日本のようにアメリカの学会のケツをなめることが出世の道という地域では現地の銀行の利害関係なく、ずっと又貸し説を続けるようになっていた、ということもあり得る。

 さて、銀行部門には学校教程における「又貸し説」教育を改訂する積極的な理由がないどころか、むしろ「又貸し説」を維持したほうが都合がいい、と考える理由すらあったのではないか、という話になったわけだけれど、アメリカはともかく、日本にそんな流れってあったのかね?
 日本の場合、銀行はアメリカやヨーロッパで聞くような極端な「強欲」なふるまいはしていないように思う。まあおいらも身をもっていろんなことを経験してしまい「うわーこんなえぐいことするん」というようなこともなかったわけじゃないんだけれど(退職して、十分古い情報になったころに書くつもり)、それだってアメリカあたりでリーマンだのゴールドマンだのがやってた「毒饅頭」に比べればかわいいもんである。あとはまあ東海地方の銀行だったっけ?なんかマンションオーナービジネスに手を染めるようなことやっちゃって、ありゃまあ、みたいなこともあったわけだが、それはそれとしても、アメリカやらヨーロッパの例と比べるとちょっと次元が違う気がする。
 まあ平成バブル崩壊の後始末の影響もあってか、日本の銀行業界からはそこまで極端な自由化論というのは、少なくとも表向きは、出てきていないような気がする(ホントのことを知ってるわけじゃない)。それにさあ、アメリカなんか、住宅融資を証券化して売っぱらって、後は野となれ山となれ、でしょ?日本だとさ、まだまだ「銀行の社会的責任」「地域経済における銀行の役割」というようなことが本気で考えられているという面もあるみたいなんだよね。おらの勤め先のケースだと、信じてもらえないかもしれないけれど、借入金の返済ができなくなり、リスケジューリングした際には、CLOの回収なんかやったんだよ。債務の一部がCLOに組み込まれていたんだけれど、全借入金を残高プロラタ按分にするってんで、いったんCLO発行元の金融機関がウチの組み込み分を買い取るという荒業をやったの。どうすればそんなことできるんだかまでは訊かなかったけど。まあ知ってるわけじゃないけどアメリカじゃあ絶対やらないよね。てか、普通、日本だってあり得んのじゃあないのかなあ。だってそれをやらないためのCLOでしょ。それやるんなら、最初っからCLOなんか意味ないじゃん。。。。だから「銀行の社会的責任」ってなことを重視しているとそういうことになっちゃうんだよね。レイ&ティモワーニュの’Rise and Fall of Money Manager Capitalism’ では証券化・ストラクチャー化が進展した結果として、銀行は組成した融資を最後まで面倒見る必要がなくなったことが重視されているんだけれど、それ以前は融資先のビジネスが破綻すれば金利収入と貸付残金が失われるわけだから、危機に陥ったビジネスをどうするのか、低コストで再生できれば一番いいけれど、その判断をどうするのか、これが銀行ビジネスにとって重要なノウハウだったというわけで、で、証券化・ストラクチャー化はこうしたくびきから銀行を解放したんだ、それがMMC隆盛にとって極めて重要なポイントだったんだってこと。逆に言えば、こうしたくびきをそのままにした状態で証券化はまだしもストラクチャーかなんか、したくたってできない、しても結局効果はないんだよね。こういう金融商品って発行するときは購入者にいい顔できるからいいんだけれど、いざ債務者が危機に陥り、それを資金提供者が「社会的責任」とかいう理由で何とかしなきゃならない、というときには手間が増えるばっかりで、結局意味なくなっちゃうんだよね。つまり金融自由化、証券化、ストラクチャー化、、、、こうしたことを駆使して利益を上げまくろうとするなら、社会的責任なんて負った存在じゃあり続けられない。社会的責任――例えば自分の負債を通貨として発行できる――なんてことからは自由でなければ(あるいはそう周囲に信じてもらっていなければ)ならない。でも実際には保護だけは受けるけれど、責任は負わない――これが金融自由化の一面でもあったわけで、それを世間に悟られないようにするためには内生説であってはならなかった。

 まあついでだから書いちゃうけどさあ、おいらの勤め先んときはさあ、銀行の人たちはさあ、事業承継の手続きなんかも、一円の得にもならないだろうことを一生懸命やってくれたん。最後のころなんか銀行の本社の担当部門の責任者が電話がかかってきてさあ「普通の社長さんは事ここに至ると『俺はどうなってもいいから、会社と従業員のことだけはお願いします』と言って積極的に協力してくださるもんなんですけれど、こちらの社長さんはちがうんですよね。ご自分のことしかおっしゃらないんですよ。。。ちょっと困っちゃってるんですよね。。。」だぜ?そんなことおいらに言われたって、まさか「ウチの社長いつもそうなんですよ」とも言えないし、まあ銀行より社長の方がむしろアメリカ型の考え方だったってことだったのかもしれないけれど、そういう困難を乗り越えて銀行の皆さんとスポンサー会社さんと後はまあ行政の方々がね(おいらは何にもやってない)事業承継の話をまとめてくれたおかげでおいらも失業しないで済んでるんで、どうしても銀行さんの悪口は言いにくいところがあるんだが。。。
 まあ、それはそれとしても、銀行の今の低収益を前提としたらとても大胆な自由かなんかできるわけないじゃん、というのはまあその通りなんだろうけれど。だからまあ、そういう意味では日本で「又貸し説」を維持することを望む業界側の事情なんか、特にあったわけじゃないと思う。結局はどうでもよかったってことだろう。じゃあなんで今?

 まあ日本の特殊事情というのを考えてみると、やっぱりあれかねえ、黒田日銀かれこれ10年の(正確にはまだ9年か)結果を見てのことかねえ。。。主流派経済学では日銀にはマネーストックコントローラーとしての地位が与えられており、いわゆるリフレ派というのはその役割を極端に過大視した人たち、という言い方もできるんじゃないかと思うんだけれど、実際には黒田時代の大掛かりな実験の結果、日銀にはそんな役割はないことが明らかになった。日銀がマネーストックコントローラーではないとしたら、ではだれがどうやってマネーストックを決定しているのだろう。学校の先生は生徒学生からの質問に答えにくい立場に置かれてしまう。大学の先生だったら、まあご自分で何とかして、ってとこだが、高校の政治経済の先生にその負担を負わせるのはちょっと酷だろう。その辺の配慮もあったんじゃないかな(誰がそんなこと配慮するんだか)。。。

 とはいえ、内生説も融資の局面だけを切り取って説明しているのであれば、今後結局、いろんな問題が発生して、最後は又貸し説に戻す、、、なんてことになりかねないんじゃないかなあ。結局のところ、銀行は融資を実行するときには、何か手許になるものを貸し出ししているわけではない。その意味では銀行は「無から」通貨を生み出している。しかし預金を生み出したことでそれに伴って発生する様々な義務を履行するときには銀行は結局、様々な資産を必要としているわけで、その意味では内生説は単に「所要準備は制約にならない」と言っているに過ぎない。ところが信用創造の局面だけを切り離して説明してしまうと、銀行は無からお金を生み出している、ズルい、あるいは日本の景気が悪いのは銀行が貸し出しをしないからお金が増えないせいだ、というようなやや的をはずした話に向かってしまいかねない。そうなると、今度こそ本当に業界内部から、こんないい加減で中途半端なことを高校で教えてもらっちゃ困る、というような話が出て来ることになりかねないんじゃないかなあ。。。いろんな意味で、そうならないように祈念するよ。。

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1 コメント

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共通試験高校政治経済の信用創造の説明が変わったことについて (nano)
2022-02-03 18:09:14
現在使われている実際の教科書を確認したところ、フィリップス流のいわゆる又貸し説は従来と変わらず教科書に載っているようです。
下記の知恵袋の質問者が貼り付けている「信用創造のしくみ」と題する画像は、実教出版の政治経済の教科書136ページのものだと確認しました(『高校政治・経済 新訂版』実教出版、令和2年発行)。
実教出版の教科書はシェアが結構大きいらしく、フィリップス流又貸し説は未だに高校で教えられているのが現状だと思います。

「教科書に載ってる信用創造って正しいですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13249116948

ではなぜ大学入試共通テストの政治経済で教科書と違う説明で出題がされたのか?というと、理由はおそらく、
丸暗記で解けるような知識問題ではなく、文章や図表を読み解く力を試す意図があると思います。
昨年度から大学入試センター試験から大学入試共通テストに変わりましたが、『大学入試共通テスト受験案内』によると、
「これまでの大学入試センター試験からの主な変更点」(2ページ)として、「知識の理解の質を問う問題や、思考力、判断力、表現力等を発揮して解くことが求められる問題を重視して出題します」
とあります。
実際、従来のセンター試験では世界史ようないわゆる文系科目は知識を覚えていさえすれば解ける問題が多かったのですが、
共通テストへ変わってから、問題文中に文章や図表が多く、それらを読み解かせる問題が中心になっています。そのせいで解くのに時間がかかるし難しくなったと(伝聞ですが)。
件の政治経済の問題についても、教科書を丸暗記しただけの知識では解けませんが、文章と図表を素直に読めば無理なく解けるようになってるとは思います。

「大学入試共通テスト受験案内」
https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00038531.pdf&n=00_%E4%BB%A4%E5%92%8C%EF%BC%93%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%85%B1%E9%80%9A%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E5%8F%97%E9%A8%93%E6%A1%88%E5%86%85.pdf

以上のような状況なので、実際の教科書が昔と変わったわけではなく、
入試では頻出論点とされているようなので受験生は又貸し説による計算方法を暗記させられている現状だと思います(おそらくは公務員試験等の「経済学」科目も)。
入試を出題している大学教授らの中には、今の教科書の説明をよしとしない者も居たためにこのような出題をしたのかもしれませんね。
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