断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Money and Banking Part 16 続き、というのか。。。。

2017-03-17 21:40:51 | MMT & SFC

PDFについては、まあ

前の回をみてもらうとして、

テキスト版です。

繰り返しになるが、

あくまでも、個人的なお勉強用にお使いください。

誤訳等については、一切責任負いませんので。



Money and Banking Part 16: FAQs about Monetary Systems

Posted on May 28, 2016 by Eric Tymoigne | 31 Comments

By Eric Tymoigne

 以下ではPost 15を詳しく説明するため、そしていくつかの点をさらに発展させるため、疑問に回答する。

 

Q1. ある商品a commodity が貨幣性商品a monetary instrumentであるということはあり得るか? 別の訊き方をすると、貨幣は木に成るのか?

まずは「金は貨幣である」という発想を批判しよう。金のインゴットは明らかに貨幣性商品ではない。発行者もいなければ数字もなく、満期もなければその他いかなる金融的性格も持っていない。金のインゴットはただの商品だ。実物資産は金融資産ではない。だが金貨は貨幣性商品であったし、現在でもしばしば発行される(図1)。

 

 

Figure 1. Gold (ingots) vs. Gold Coin (2009 $50 American Buffalo Gold Coin)

同じく、「塩が貨幣である」というのも正確ではない。というのは塩は商品であり、何の約束もしていないからだ。しかしマルコ・ポーロ は中国のKain-du 地方について記している。[※Kain-du というのは実際にはKien-ch'ang渓谷(Sze-ch'wan州)のNing-yuenであると考えられているらしい。。。]

そこには塩の泉がある。そこでは泉の水を小さな鍋で沸騰させることで塩が生産されている。1時間も沸騰させれば糊状になり、一塊が2ペンスの価値を持った塊に仕上げられる。[…]この後者の貨幣については、汗王の刻印が押される。彼の役人以外の誰もこれを作ることはできない。80個の塊で1サッジオ[一盛り]の金と交換される。しかし、こうした塊は山岳地域の住民たちの間で取引されるために持ち出されるが、人がほとんど行かない地域では、文明化が劣るに応じて、60個あるいは50個、場合によっては40個の塩の塊で1サッジオの金と交換されている。

なるほど国王(「汗王」)が発行した塩の塊が貨幣性商品として流通していたのかもしれない。しかし細かく考えると、この説明には見落としがある。

  1. 額面の単位は何か?(ポンドでないことは明らか。中国なんだから。)
  2. 満期の条件は?帝王に対する支払いはいつでもこの塊でできたのか?
  3. 帝王はいかにして上記の金融的性格を実現したのか。つまり還流のメカニズムは何か? 帝王は塩塊で額面通りに支払われるべき義務を国民に課したのか? 塩塊は何かと兌換されたのか? 等々。そして塩塊を受け取る人々bearersが発行者は必ず額面で回収するはずだと十分に信頼trustしていることが必要である。
  4. 塩塊が購入できる金の量は関係ない。マルコ・ポーロはただ、商品(金地金)は山中にあっては塩より安価だと伝えているに過ぎない。彼は同じようにこの国内でリンゴやジャガイモの価格がどれほど違っているかについて伝えることもできただろう。

大雑把な言い方をすると、貨幣性商品financial instrumentというものはなんらかの商品commodityから作ることができるが、商品それ自体で貨幣性商品になることはない。誰もが知るとおり「カネは木に成らない」。貨幣性商品は自然発生物ではなく、ただの商品が貨幣性商品になるとしたら、ある特殊な金融的性格が付与されなくてはならない。計算単位、額面価値、満期条件、その他もろもろ。これらは、発行者がその金融的性格を守るために履行しなければならない約束なのである。

 

もし採金者が採掘した金塊に貨幣性商品としての性格を与えようとするなら、採金者は次のような約束をしなくてはならない。

 

  1. 自分の金塊を他人の金塊と区別する
  2. 額面価値を計算単位で明確にする
  3. その額面価値を現実のものにする。つまりいかなる時でもこれで支払われたときにはその額面価値で引取る約束する。

さて、第三条件は問題をはらんでいる。というのはこれは、採金者は彼自身の金塊で支払われたときにはいつでも彼自身の金塊を提供しなければならない、と言っているからだ。経営戦略としては疑問だ。

 

Q2. 貨幣性商品は商品a commodityであり得るのか?

然り。古銭収集家は現在および過去 の貨幣性商品現物を商品として取引する専門家である。その際、紙幣や硬貨の価格は希少性、珍しさ等々の条件で決められる。例えば、図2の1ドル連銀券は1200ドルの価値がある。そのシリアルナンバーの珍しさゆえである。しかしそれはその貨幣性商品の額面価値ではない。仮に誰かがこれを買い取り商店なり政府のオフィスなりに出向いて何かの支払いに使っても1ドルの価値にしかならないだろう。同じことは先に出したバッファロー図柄の金貨にも当てはまる。これを使って政府債務の支払いに充てることはできるだろうが、その価値は50ドルにしかならない。それより多くも少なくもない。たとえそのコインがコレクション・アイティムとして数千ドルの価値を持っていようとも。

 

Figure 2. A $1 FRN worth $1200 as collectible items
Source: here

同じことは金銀兌換券にも当てはまる。合衆国財務省がなんと記載しているか。

 

今はもう発行されておらず兌換もされない金証券であっても、法的位置づけは維持されている。その金証券は財務省あるいは金融機関を通じて償還することができる。ただし、償還額は額面通りとなる。ただしこれらの紙幣は、効果通貨のコレクターやディーラーの間では「打歩」が付くこともあるかもしれない。

(U.S. Treasury)

これを財務省で償還する(財務省に対する債務を支払うとか、連銀券と交換してもらうなど)こともできるし、銀行で預金することもできるが、ただし額面価値しかない。これらはまだ貨幣性商品として価値を持っているのだ。コレクター・アイティムとしての価値は、それよりかなり高いことがある。

 

最後に面白い例を挙げると、現在の少額硬貨についてだが、これは現代も貨幣史の暗黒時代もあんまり変わらないという話だ( 第17回参照)。少し前のことだが、米公共ラジオ局National Public Radioは小銭蒐集家達についての番組を放送した。その人たちは趣味で1982年以前の小銭を集めている。中には夕方になると地域の銀行を訪ね、小銭箱の小銭を選別して過ごす人もいるという。なんだってそんなことをしているのか疑問だろうか? 1982年以前の小銭はほとんど銅で作られているのだが、過去10年後度で銅1ポンド当たりの価格は三倍になっており、1ペニーの素材価値(つまり平均的に含有されている銅の価値)は額面の倍になっているのである。1セント玉の額面価値は1セントだが、素材価値が2セントあれば、含まれている銅を売ることで100パーセントの利益になるわけだ!現在ではこのポートフォーリオ戦略にはちょっとした問題がある。政府の通貨を破壊するのは違法なのである。実は政府は将来的には少額硬貨の廃止を検討している。というのは原価のほうが額面より高いし、合衆国ではほとんどの住民が少額硬貨を煩わしいと感じているからである。もし政府が少額硬貨を廃止したら小銭蒐集家たちはスクラップ業者へと殺到することになるだろう。

 

Q3. 貨幣とは貨幣がなしていること、か?

フランシス・アマザ・ワーカーFrancis Amasa Walker は19世紀末、「貨幣とは貨幣がなしていることである」と結論付けた。これは経済学、人類学、法律学その他数多くの分野で貨幣システム分析に大きな影響を与えた。

この言葉は交換媒体機能に焦点を当て 実物交換経済のフレームワークで考えるエコノミストの間では狭い意味で用いられている。物々交換によって強いられる欲望の二重一致の問題(ジョーはリンゴを所有しているがナシを欲しがっており、ジェーン話を持っているがしかし桃を欲しがっている)を回避するため、ある特定の商品が徐々に市場交換に最も都合の良い媒体として選ばれていった。というわけだから、貨幣システムとは交換媒体の存在を確認すればわかることになる。ただし人類学者は特に、こうした狭い機能主義的アプローチを拒絶している。原始社会においては、交換が中心に行われているということはなく、場合によっては全く行われていない。したがって欲望の二重一致は問題にならない。ところが広い機能主義アプローチでは、 貨幣性商品に割り当てられた機能をすべて、あるいは一部でもはたしていれば、なんでも貨幣性商品に分類されてしまう。そしてその中で「全目的貨幣」と「特殊目的貨幣」とに区分される。

機能主義アプローチの大きな問題は、正確なところ何が「貨幣」なのか定義していないことにある。そしてそこからいくつかの問題が派生する。

  • 研究者はその社会の状況によって貨幣なのか、貨幣だとして全目的貨幣なのか特殊目的貨幣なのか選択選別しているのだろうだが、実際には研究者自身の経験を根拠にして、まったく研究者の生活世界とは異なった社会における内的機能を説明しているのかもしれない。
  • 研究者は、貨幣が物質的実体を持たないかもしれない場合でも、物質的形態をとらなくてはならないものと想定しがちである。
  • 研究者は実際には貨幣性商品としての機能を果たすために使われていないものは貨幣には含めないこともある。だが今やコレクション・アイティムでしかない硬貨や紙幣であっても、発行者が廃止していない限り貨幣は貨幣なのである。

もっと広く言うと、選ばれた機能を果たしているものを探し出すことがあまりにも強調され過ぎている一方で、使われている計算単位に関する細かな説明、市場価値fair valueがどのように決定されているか、それが不安定な場合、還流メカニズムがどのように働いているのか、などへの注力があまりに軽んじられている。上記の塩の塊の例ではまさにこうした点が明瞭になっている。ただ何かが交換媒体として或いは支払手段として用いられており、交換対象と交換され持ち手を次々と変えてゆく、という記載だけで貨幣分析を行うのはかなり心許ない。

 

このアプローチはモデルの中に「貨幣」を説得力ある形で組み込むことを難しくする。経済の金融的側面および 名目値の果たしている役割を無視する方向へと押し出すのである。貨幣性商品は単なる商品であり、自然と木になるものだ――果物と同じだ――。そしてすべての債務償還はこの果物で数えられるとされる。

最後に、こうしたアプローチを使う研究者は貨幣支払と実物支払とを混同し、貨幣システムのないところに貨幣システムを仮定し、単に物質を繰り返し収集するだけの行為を貨幣システムと同一視できるように後者の概念を切り詰め、その結果現に存在している貨幣システムの方は見落とすことになる。たとえば、クイギンは、アラブの商人の言葉や9世紀・10世紀のアラブの歴史家の言葉に依拠して、千年以上も前の小安貝貨幣について報告している。 

…王家の財宝が形成された[…][そして]資金が減ると、支配者は奴隷にココナッツの枝を折らせ、それを海に投げ入れさせた。小さな貝が枝を上ってきたところで枝を回収し、砂浜に並べて貝殻だけが残るまで日干しにした。これで王家の銀行は再び満たされた。インドからの船がモルディブへと商品を運び、何千というココナッツの葉にくるまれた数百万の貝殻を持ち帰っていった。これは収益の上がる貿易だった。17世紀になっても9,000個から10,000個の小安貝が1ルピーで売られ、それがインド亜大陸では3倍から4倍もの金額で転売されていたとのことである。(Quiggin, 1963, 25-26)

 

だがこの説明からでは小安貝が貨幣性商品として国王が外国からの財・サービスの購入の資金調達するために使われたと結論付けることはできない。実際、ここではモディブルで何が計算単位であったのか説明がないし、どのように子安貝が貨幣化されたのか、つまり、誰が(仮に誰かいたとして)小安貝を金融商品として発行したのか(王家の執務官が発行し、王家の銀行が決済に際しては常に子安貝を受け取ったのか?)、そして計算単位と子安貝の関係はどのようにつけられていたのか、などの疑問も説明されていない。加えて、貨幣性商品としての小安貝の役割はモルディブに関する限り怪しいものである。というのは、小安貝は「船荷として輸出されない限り」(Polanyi 1966, 190) 商品に対する価値などなかったからである――まったくもって不便な決済手段・交換媒体である。この記述から結論付けることができることと言ったらモルディブの執務官はインド及びアラブの商人とモルディブの間の貿易に関わっていた、ということだけである。モルディブは小安貝を輸出しそれと引き合えに他の商品を輸入していた――普通の双務貿易の状況であり、小安貝貨幣システムの状況ではない。

 

Q4. 現代政府の貨幣性商品は償還していないのでは?あるいは現代政府貨幣性商品の市場価値fair valueはゼロなのか?

 

否。貨幣システムがしかるべく機能するためには、すべての貨幣性商品が償還可能でなければならない。連邦準備券は償還可能である。銀証券はたとえもはや兌換性がなくなっても償還可能である(Q2参照)。銀行預金も償還可能である。これらは発行者自身に戻り得る――願わくば額面通りに――限り、償還可能なのである。これら貨幣性商品が発行者に戻るのは二つのチャンネルによってである。

  • 保有者Bearersが所定の率で何かとの交換[兌換]を求める。銀行預金に対しては政府通貨を、政府通貨に対しては外貨を、等々。
  • 保有者Bearersが発行者に支払いをする。政府は、銀行と同じで、自分自身の債権に対する支払いのために自分自身の通貨を受け取る。支払いをすることで保有者は刑期やらその他法的問題を回避することができる。

つまり、貨幣性商品の償還とは常に交換[兌換]によるというわけではない。貨幣性商品の市場価値、 つまり正味現在価値とは、額面価値である

過去には償還条項を書き忘れたあるいは取り除いた政府もあった。

 

紙幣は内在価値を持たない。つまり、ただの代理物なのである。それ故、発行されるときには、将来のいつの時点で回収されるか、払戻しされることを示す償還条項が必要である。不幸なことに、多くの政府が、紙幣を発行しながら、償還条項を意図的に書き忘れ、あるいはわざと回収しないで済む状況をつくり出し回収を実行しないで済ませてきた。そして紙幣は、流通から引き上げられる可能性がないまま国民の手に残された。(Smith 1832, 49)

 

おそらく、いかなる政府貨幣もその全額が償還される期待――時として全く現実から隔たっていたとしても――がなかったら発行されることがなかった。[…]それにもかかわらず、償還されることのない政府貨幣の発行、あるいは公的にも暗黙の裡にも放棄された政府貨幣による支払いの例は、数えられないほど多い。(Langworthy Taylor 1913, 309)

 

この場合、貨幣性商品の市場価値は実際にはゼロである。というのはその満期は無限であり、したがってその その市場価値

P = C/i

クーポンは支払われないのだから、P = 0。しかしこれは今日は当てはまらない。なぜなら貨幣性商品は今日では保有者の要求で安定した額面価値通りに償還されるからである。

 

こうしたことはあまりよく理解されているようには思われない。たとえば最近では、アデア・ターナーがこう書いている(彼一人どころではないが)

 

マネタリー・ベースは民間部門にとっては資産であるが、政府にとっては純粋に名目的負債である(つまり正味現在価値はゼロ)。なぜならこれは償還されることなく、そして金利も支払われないからである。(Turner 2015)

 

これは償還されないということと不換ということを混同している。マネタリー・ベースは償還可能である。この観点には他にも問題がある。

 

  • バランス・シートは相互に関連していることを思い出してほしい。一方のバランス・シートで金融負債の価値がゼロになるなら、他のバランス・シートで金融資産がゼロにならなければならない。ターナーの議論は会計的に誤っている。
  • なぜ民間部門は価値がゼロの何かを保有しようとするのだろう。貨幣性商品を受け取ることから利益は何も得られない。租税を政府貨幣商品で支払うことも出来ないのだから、[※これを集めたからといって]投獄を避けることもできない。
  • 負債の価値がゼロとなると銀行、企業、家計のバランス・シートは資産(および純資産)の大きな損失を計上しなければならない。貨幣残高の名目価値は 皆無ということになる! 

 

Q5. 貨幣の論理は循環論法か?

否。貨幣性商品がだれにでも受け取られるという事実は、最終的には 発行者が必ず回収するという確信に依存しているのであって、他の誰かが受け取ってくれるだろうという確信ではない。

 

Q6. 貨幣性商品の発行者は安定した購買力を約束しているのか?

否。もしそんなことがあったら、この世に金融というものが登場して以来、貨幣性商品の発行者は絶えず約定を不履行し続けていることだろう。 第二次世界大戦以後は以前ほどひどくはなくなったが、発行者に安定した購買力を提供することなどできない。もし発行者が安定した購買力を保証するという約定を貨幣性商品に組み込んだら、そんな約定は守れっこないわけだから、その時点でその発行主体の信用力はゼロになり、当然貨幣性商品に対する需要もゼロになる。

安定した購買力は貨幣性商品発行者の約定ではない。大部分の保有者にとっては貨幣性商品の購買力が短期的に相対的に安定してさえいれば十分である。もし購買力を中期的・長期的に保持する何かが欲しいというのであれば、他の資産に乗り換えるべきである。

 

Q7. 貨幣性商品は本来的に金融的な性格を持つことになるのか?

然り。思い出してほしい。「貨幣は自然と木に成るわけではない」。貨幣性商品が商品commodityから出来上がることがある一方で、そうした商品commodityは貨幣の性質については何も教えてはくれない。ある金硬貨が貨幣性商品であるとしたら、それは金でできているからではなく、その金融的性格の故である。金は硬貨に組み込まれた担保である。同じように、住宅はモーゲージ債ではなく、モーゲージ債の担保である。住宅がどのように建設されるかをいくら学んでも、モーゲージ債の仕組みについて学ぶことは何もない。

 

『原資貨幣』についてはそれが貨幣性商品に該当するかどうかの判定をするためにはもっと十分な研究が必要だろう。単に財・サービスと交換され人手に渡るかどうかを確認するだけ、花嫁の持参品として支払われるかどうかをチェックするだけ、などなど、は、研究者自身が現物支払と貨幣支払の間に区別をつけることができなければ、「貨幣的moneyness」かどうか判定するための手段としては不十分である。先に見たとおり、小安貝はモルディヴでは貨幣性商品ではなかった。アフリカではそうであったが、はっきりしたことを言うためには詳細な分析が必要である。

 

Q7. クレジットカードは貨幣性商品か?ピザのクーポン券は? 疑似銀行券・硬貨は? ビット・コインはどうか?

 

すべて否である。

 

クレジット・カードは金融商品ではない――満期もなければ(クレジット・カードの発行者自身はクレジット・カードで支払いを受けるわけではない)、計算単位とも関係ない(クレジット・カードが計算単位になるわけではない)。クレジット・カードの貸越枠も金融商品ではない。貸越枠が示しているのは、信販会社のバランス・シート上に記載される、信販会社が顧客に対して融資(信販会社のBS上、「クレジット・カード債権」と呼ばれる)を約束した金額の上限枠である。

 

家計#1が銀行Aのクレジット・カードを欲しいと考えている場合、#1は必要書類を記入してAに提出、Aは#1の信用力をチェックする。Aが承認すると#1はAから1000ドルの与信枠を受けることになる。これはどのようにバランス・シートに記載されるだろうか。どこにも記載されない。これは簿外処理項目である。クレジット・カードの与信枠とはただ、Aは1000ドルを上限として#1の約定書を、カード利用の度に#1の信用力を審査することなしに引き受けますよ、と言っているだけなのである。 ブログの第10回でクレジット・ラインが利用される場合には何が起こるかを示した。Aの資産が#1によってクレジット・カード利用額分だけ増加する。そして#1の負債が同額増加する。

ピザのクーポン券の場合はどうか?これは一覧払である(いつでもピザ店に行って注文できる)。これは兌換券である。しかし金融商品とは言えない。というのは貨幣性支払いは関係なく、ただの物的支払だからである。もしクーポンがいつでもピザ店に対して負っている負債の決済に使うことができるというのであれば、そして、もしピザ店が自分の負債を、クーポン券単位でいくらに相当するのかを表示しているのであれば、それは貨幣性商品ということになるだろう。

 

図3はうちの子が自分の貨幣登録機で作ったおもちゃの紙幣である。この紙幣が貨幣性商品になるためには、これを作った会社が下記のことを行う必要がある。

 

  1. デザインを変更する:このままでは、いくら雑とはいっても連邦準備券のデザインに似すぎている。とくに「アメリカ合衆国」の文言は削除しないといけない。政府が発行しているわけではないのだから。
  2. この紙幣での支払いを受け取る約束をする:保有者bearersはこの紙幣で、その会社から商品を購入でき、その会社に対する債務を弁済できなければならない。

最後に、ビット・コインには発行者もいなければ償還されることもない。最初の問題のせいでビット・コインは貨幣性商品にならないだろうし、二つ目の問題のせいで 貨幣性商品としては無価値になる。ビット・コインは商品commodity/実物資産であり、金融資産ではない。

 

Figure 3. Pretend-play monetary instruments

Q8. 過去の貨幣制システムには何か誤りがあったのか?

 

貨幣性商品の特徴を備えているものはいつでも額面通りに諸集団の間で流通するはずである。しかし、実際に額面で流通しているものが貨幣性商品というわけではない。額面通りに流通するというのは、それが金融商品であり、かつ金融インフラストラクチャーが適切に管理されていることでその金融商品の諸特徴が市場価値に表現されることができるようになったことの結果であるに過ぎない。こうした貨幣システムが十分に機能するようになるのはようやく近年になってからのことだ。今でも 問題がないわけではないが、おおざっぱに言って決済は確実にスムーズにできるし、信頼できる交換媒体として使用もできる。これら両要素は現代経済の繁栄促進に幾分なりとも貢献している。

粗末な生産技術、未熟さ、政治的不安定性、不正行為、かなり未発達な銀行システムなど関連する様々な理由で、しかるべき性格をもった貨幣システム、貨幣インフラストラクチャーが確立するまでにはかなり長い期間が必要である。以下に、確立までの間におこる誤謬をいくつか挙げた。

 

  • 額面価値が刻印されていない:中世では、しばしば王様の一声で硬貨の額面価値が上がったり下がったりした(法令で変えられた)。
    • 何が問題か? 額面がいくらか誰にもわからなかったことである。「コインの[額面]価格を変更するため強制的な法令が数多く発布されたため、数多くの発行者によって発行された様々なコインの[額面]価値は専門家にしかわからない、ということになった。そのためコインは特に投機性の高い商品になった。」(Innes 1913, 386).[※[]内は著者による挿入]

 

  • 自由硬貨発行[※coinage は通常は「鋳造」と訳されているが、地中海・ヨーロッパの硬貨は鋳造ではなく鍛造であった。他方、東アジア・東南アジアではほぼすべて鋳造である。鋳造と鍛造とでは出来上がった硬貨の重量のばらつきに大きな差があり、鋳造で硬貨の重量をそろえるのは近代に入るまで至難の業であったとのこと。日本の古銭学者や貨幣学者によって指摘されていることだが経済学者にはあまり知られていない模様(MMTerにもあまり知られていない?)。これは貨幣制度を考える上で重要な論点になるように思われるので、めんどくさいが著者の意思とは無関係にあえて訳し分ける。]:金(きん)を持っている人ならだれでも造幣局に行ってインゴットにスタンプを押してもらえば硬貨になった。(政府はインゴットの一部を得た。これがシニョリッジと言われるものである)。
  • 償還条項がない。この貨幣性商品は発行者に戻る方法がない。
    • 何が問題か? 担保も還流もなければ、市場価値はゼロになってしまう。
  • 償還条項はあるのだが、実際には保有者が発行者に支払いをする義務があるわけではないので還流する手立てがない場合(例えば 第17回でやる予定だが、植民地紙幣時代の合衆国では、通常考えられているようには租税は納付されていなかった)。または、コンヴァンシオンの形成履行が困難な状況(山猫銀行時代の状況)。
    • 何が問題か? 満期はもはや約定通りには履行されなくなる。満期という割引要因は本来約定の文言によって決まるはずだが、この場合は保有者の期待で決まることになる。結局この割引要因は、保有者の発行者に対する信頼を通じて市場価値評価に影響を与える。市場価値は不安定になり、発行者に対する保有者の確信に応じて変化する。
  • 実物貨幣:発行時点で額面価額(FV)が含有金の市場価額と等しい場合。(額面Pgというのは、1オンス当たりの金価格 PG のとき G オンスの金が含まれているコインということである。)
    • 何が問題か。∆Pg > 0 の場合、 PgG > FV であれば、コインは流通から消えてしまう。(インゴットに溶解されるか商品として輸出されてしまう。)
  • 適切な銀行間決済システムの欠如:この場合、銀行間の債務の清算・決済が難しくなってしまう。そうすると決済手続きの遅延に始まり、ある銀行の貨幣性資産が他の銀行の貨幣性資産に対して割引価格で取引されることによって生じる購買力の損失、さらには決済を完了させることができないことから債権者が受け取ることができるはずのものを受け取ることができなくなり次には自分自身が負債を償還することができなくなるために生じる金融危機の爆発に至るまで、ありとあらゆる問題が発生することになる。
    • 何が問題か? 国王は贋金づくりを合法化したのである。金を持っている人ならだれでも国王の債務つまり国王の負債を発行できることになる。現在の合衆国で言えば、アメリカ合衆国製版印刷局が、誰でも同局の指定する紙を持ってきたらそれに連邦準備券を印刷してやるようなものである。

 

Q9. 法律的な法貨tenderによって貨幣性商品は定義されているのか? 固定価格についてはどうか?

法貨法では、裁判所における和解に際しては、債権者は何が法貨として定義されていようと、それによる支払いを受け取らなければならないこととしている。それを受け取らないのなら、債務者が支払いを怠っているといって訴えることはできない。これは日々の取引において法貨の受け取りを拒絶できないことを意味しているわけではない。現在の合衆国の法貨は連邦準備券であるが、現金を領収しない商店や政府オフィスはいくらでもある。

 

法貨は必ずしも貨幣性商品ではない。過去においては商品commoditiesが法貨法の下で法貨に含まれていた。その場合、債権者は現物による支払いの受領を強いられていたのである。第17回では 合衆国における煙草の葉っぱのケースを紹介するが、貨幣性商品の不足のためそのようなことが起こったのである。

価格を固定されたものがあるとしてもそれが必ずしも貨幣性商品というわけではない。ただある経済組織(たとえば国家など)によって管理された商品であるに過ぎないかもしれない。

 

Q10. 貨幣性商品を決めるのは国民なのか? ある貨幣が貨幣でなくなるとき、誰がそれを決めるのか?

何が貨幣性商品で何がそうでないのかについての国民の意見は関係ないし、国民が何かを信頼しているからと言ってその何かが貨幣性商品になることなどあり得ない。アナロジーを言うと、靴で釘を打つことはできるが、だからと言って靴がハンマーになるわけではない。みんなが靴をハンマーだと思ったところで靴がハンマーになるわけではない。みんな思込みが激しく靴をハンマーだと念じることで靴はハンマーになるのだと信じているとしても、靴をハンマーとして使っていたのでは作業中に不具合が多発し生産性は著しく悪化するだろう。靴は釘を打つようには作られていないからだ。同じことで金塊、タバコの葉、塩の塊、などなどを貨幣性商品だと誰もが信じたいと思っていても、決済システムは滑らかに機能せず、経済活動は混乱するであろう。

 

Q2でも説明したが、貨幣性商品の中には今ではコレクション・アイティムとしてしか使われていないものもある。人によっては貨幣性商品をただの装飾品やその他経済外目的で使うこともあるかもしれない。このように利用されているからといって、貨幣性商品が非貨幣化されるわけではない。非貨幣化が生じるのは、その貨幣性商品の発行者が約定を停止することを決める場合だけである。

 

Q11. 貨幣性商品は誰にでも創れるのか?

然り。既存の貨幣性商品の 偽物を創ってはいけないが、誰にでも創れる。運が良ければ、受取ってもらえる

 

今日はここまで。次回はこのシリーズの最後、貨幣の歴史だ。

 

[Revised 8/6/2016]

 



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