断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

風邪ひいた

2015-01-08 15:07:47 | 思うこと
新年早々、風邪をひいてしまって
家で寝ている。寝ていても、暇なので
こんなものをつらつら、書いては寝、書いては
寝ちゃあしているので、一向に
症状が改善しない模様。

そんなわけで、日ごろ思っていることを
つらつらと、思いつくまま。。。。(いつもそうだが。)

さて、本ブログでは最初っから、ばかばかしいと決めつけて
全く論じたことのない、入門マクロ経済学教科書流の貨幣供給曲線について
改めて、書いておこう。なお、入門マクロ経済学教科書流と書いてあるが、
実は、上級の教科書になればこれと異なる説明がされている、というわけでは
必ずしもない。と、いうか、アドバンスドの教科書になると
マクロ経済学では貨幣供給の理論的説明は全く行われていないんじゃないか、
そんな気がする。そんなに主流派経済学の教科書に目を通しているわけじゃ
無いので、あんまり知ったかぶりするのもよくないんだが、
どうも、そういう印象を受ける。マクロ経済学も上級になると
今度はほとんど動学的な話になるのが昨今の流行らしいが
実際、成長理論や長期モデルでは、貨幣は「中立」とされており、
金融的制約は存在せずに資源制約だけで議論が展開されているような。。。
これはまあ、リアルビジネスサイクルモデルやなんかの流れを汲んだ結果というような
話なのかもしれないが、
しかしこれって、これだけ世間を騒がせている金融ビジネスの革新が
実際のマクロ経済の動向に影響をしなかった、と考えるのと
おんなじようなことになるんじゃないか、という気がする。もちろん
主流派経済学者に言わせれば、金融というのは
お金の背後に流れている所得(経済的資源)の
融通を問題にしているのであって、貨幣の問題ではない、ということになるのかもしれないが。
いずれにせよ、個人的には
上級マクロ経済学の教科書では貨幣供給のきちんとした説明ということで
印象に残っているものがないし、入門の教科書ではでたらめしか書かれていない、
というのが、率直な気持ちである。ところがこのでたらめが、
近年では高校の教科書や、いろいろなネットなどにも載っており、
こうした理論が前提となって金融政策についての議論がなされているような気がする。
こうなってくると、一度、まとめて批判点のようなことを
書いておくほうがいいような気もする。。。と、言ったって
あんまり多くの人に目に留まるわけでもないだろうけど。。。

さて、教科書に載っている一番簡単な「信用乗数のプロセス」なるモデルの概要は、
大体、以下の通りだ。

まず、何か、どこからやってきたのかわからないが
お金を銀行が持っている。本源的預金などといわれているが
どうも、預金(銀行の負債)ではなくて、銀行が現金を持っていることを指して、
こう呼んでいるみたいな気がする。あるいは、どこかの誰かが
最初にこれを預金した、という話なのだろうか。
でもねえ、それだと、銀行というのは常に預金を受け入れているわけで、
そのうちどれが本源的預金で、どれが派生的預金なんだか、わからなくないかい?
まあ、いいや。個別の預金について、こっちが本源的でこっちが
派生的、なんてことを言ってもしょうがない。
まあ、ガーレイ=ショウみたいに、外部貨幣と内部貨幣を分ける、
という手もあるけれど、いずれにせよ、
話の出発点として、銀行は一定の現金を手許に持っていることになっている。
例えば、これを100としよう。

ここで「預金準備」というものが登場する。
銀行は、手許にある100の預金を全額、貸し出しできるわけではなく、
そのうち、例えば、10%(5%でも1%でもいいけれど)を「準備」として
手許においておかなければならない、という決まりなんだそうである。

さて、銀行は、したがって10の現金を手許に残し、90の現金を
貸出することになる。

この貸し出した現金は、一通り民間非金融部門の中を駆け巡った後、
銀行に預金されることになる。なお、普通の教科書では、ここでも
現金のうちの一定の割合が、民間非金融部門の手許に残されることとされており、
全額預金されるわけではないが、それはまあ、どうでもいい話なので
全額、戻ってくることとしておこう。さて、そうすると、
先に貸し出しした90の現金は、全額銀行に戻ってくることになる。

銀行は、今度は、この90の現金から9を手許に残し、
残り81を再び貸し出しに回すこととなる。

これがまた同じプロセスを経て銀行に預金として戻ってくる。
次には銀行は、8の現金を手許に残し、73の現金を貸出しに回すことになる。

こうしたプロセスが繰り返される。

さて、ここで多くの教科書では、ご丁寧に
銀行部門の残高の変化を元帳形式で掲示してくれる。
ちょっと元帳形式で、というのはこのブログではできないので、
(きっとできるんだろうけど、やり方がわからないので)
仕訳で書くと、


現金 100 (本源的)預金 100
貸出 90 現金 90
準備 10 現金 10
現金 90 預金 90
貸出 81 現金 81
準備  9 現金  9 
現金 81 預金 81
貸出 73 現金 73
準備  8 現金  8
現金 73 預金 73

これが、延々と続く、
と、いうわけだ。なお、ここでは
現金と準備を別勘定にしている。
これは、教科書によっては現金のまま保有していると想定されているみたいだし
別の教科書では、日銀当預に預ける、というような書き方にもなっているみたいだ。
ここでは、話を単純化するため、銀行は準備を現金のまま保有する、
そして、銀行の手許現金はそのままでも準備に組み込まれるものとする、
ただし、勘定科目上は現金と準備に区別する、と
そういう具合に考えるのが、一番手っ取り早いかな、ということで。。。

さて、銀行の手持ち現金は、
準備勘定に振り替えられてしまう、と仮定したわけだから、
このプロセスが続いてゆく結果、
銀行の現金勘定残高は、最終的にはゼロになるはずである。
準備のほうは
10 + 9 + 8 + 7 + .....
と続いてゆき、最終的には合計で100になる。
これが何を意味しているのか、といえば、
(民間非金融部門保有分がない、と仮定する限り)
銀行は、本源的預金としてもともと保有していた100の現金のすべてが
準備になるところまで、貸し出しを増やし続ける、ということだ。

他方で、派生的預金のほうは、というと、
90 + 81 + 73 + 64 + ....
と、続いてゆき、合計が900になる。

この辺で、経済学部を選好してみたものの、「文系」ということで
数学をさぼっていた学生さんたちの劣等感が、否応なく刺激されることになる。いったい
「極限」など学習して何の意味があるのだろうか、さんざん数学をバカにしていたのだが、
実は、これが役に立つ、ということをここで否応なく知らされることになる。
その一方で、
実は、もっと重要な、学問的基礎の欠如は隠蔽される――これは、
経済学というたこつぼの中でみられる独特の組織的隠ぺいであるのだが、
つまり、経済活動にとって最も密接な近隣諸学の一つである簿記・会計学について、
全く基礎的な知識さえないまま
話が進められているのである。が、これはまた後の話題としよう。

さて、こうして現代の貨幣・信用システムの下では
最初に生み出された貨幣の、信用乗数倍(上の例では、
預金準備率の逆数と等しくなってしまうが)の預金が
合計で(つまり、最初の本源的預金の額も含めて)生み出される、
ということが示された。と、同時に、
預金準備率(および、民間部門の現金預金比率――これは
長期的に安定的とされる)とベースマネーさえ
決まれば、貨幣の残高も決まる、つまり、
それらの変数を決定することができる中央銀行によって
流通貨幣残高は決定される、ということが結論付けられることとなる。
そしてこれに続いて、こうして決定された貨幣供給量が
貨幣需要曲線と交差する点で、金利が決定されることなる――あくまでも
民間経済主体は、他の市場でと同じく、
貨幣という、広い意味での経済的資源をめぐって、価格(金利)競争をして
合理的・効率的に資源配分が決定される、ということが、続いて示されるであろう。
貨幣供給量の水準自体は、中央銀行が恣意的に決定するが、
こうして定められた貨幣供給量の下で
経済主体は、公平な競争市場で効率的・合理的にその利用を決定できるわけだ。
さて、さらにこの議論は別の効果も学生に対して与える。
この説明によって、学生は、数学的記述が経済学にとって必要不可欠であること、
数学的議論によって、経済学は効果的に、スマートに説明できるものなのだ、
ということが示される。
先にも述べたとおり、
このような初歩の数学もよく学習していない学生に対して
数学の重要性を教えるほか、
簿記会計に関しては、誰にでもできる、ただ、貨幣(現金)の動きを示すだけの
形式的なもの、という印象を刷りこむことになる。現実のプロセスよりも
数学的な説明の流暢さのほうが大事なのだ、という学問的態度が
こうして機会あるごとに、少しずつ、学生に刷り込まれてゆく。
学生は、こうしてある種の学問的態度を、調教されてゆく。

さて、この説明のどこが問題か、一つ一つ挙げていこう。
詳細に入る前に、目録的に挙げておくと、

①概念がおかしい。
②論理的に、おかしい。
③日常体験に照らし合わせ、あまりにも不合理。
④使われている近隣諸学、すなわち簿記会計の、最も基本的な理論すら、無視している。
⑤実際に公表されている日銀や連銀のマニュアルと全く整合していない。

①概念がおかしい。
多くの高校生が思う疑問であろうが、
いったい、この計算に何の意味があるのだろう。
なるほど、確かに預金は増えている。しかし、
現金の額は、全然変わっていない。それどころか、
すべての現金は、準備預金として銀行に溜め込まれてしまうのである――まあ、
それは、非金融部門の現金預金比率をゼロにしたからであって、
これを正の値にすれば、すべてが準備に吸収される、ということはないが、
それにしたって、実際に使える現金は、預金されるたびに
減って行ってしまうのである。いったいこれはどうしたことだろう。
銀行制度によって、お金が増える、という話だったのに、
増えているのは預金であって、お金じゃないじゃないか、と
いうわけだ。

さて、高校生がそう思うのは無理もない話だし、
多くの大学生も、そうなのではないか、と思う。
これに回答するとすれば、要するに、いや、預金も
お金なのですよ、それどころか、現実の経済活動で
決済のために使われている貨幣は、預金のほうが圧倒的で
現金が使われる、というのはあまり多くないのですよ、
と、いうことになる。

ところが、この回答は、それはそれでまた、疑問が生じる。
だったら、なんでわざわざ、銀行は現金を貸し出す必要があるのだ?
話の発端は、非金融部門が、決済に必要な資金を銀行から
借り入れる、という話だった。銀行は、それに応じる形で
現金を貸しだしたはずだ。そして非金融部門は
使わない不要となった資金(現金)を銀行に預け、預金とする。
そうすると、銀行は、その、不要となった現金から
一部を準備として取り除いて、残りを、資金を必要な人に
貸し出す、、、という話だった。。。。。
じゃあ、やっぱり預金は、不要なお金を銀行に預けている、ということだよね。。。
いったい、どっちなの?預金というのは、
実際に経済活動に使われているお金なの?それとも
不要なお金を銀行を通じて他の人に課しているときの、
その貸出額を示しているだけで、実際には使えないものなの?
マネーが増える、といっても、実際は、ただ
使えない預金が増えただけなの?だったら、何のために、
こんなややこやしいことを学習せにゃならんの?ってか、何の意味がある??

最初っから、この話って、おかしかったんじゃないの。。。
もしも、お金=現金であるなら、
この信用創造のプロセスによって、まあ、統計的な定義はともかく、
実際にお金として使える金額は、増えるどころか減少している。
もしも、預金がお金として使える、ということであれば、
この話は、最初っから成り立たないはずだ。。。。

これは、多くの高校生が感じる疑問であろう。
こうした、多くの向学心ある若い学生たちの疑問に、
いったい偉大な大学教授の皆様方は、どのような回答を準備しているのだろうか。
いったい、お金とはなんなのか。預金は
お金なのかお金じゃないのか。

要するに、この理論を受け入れるためには、
話の最初と最後で概念が全然違っても気にならない、
という性格が必要なのである。


②理論的におかしい。
さて、上記の説明が、実際その通りに行われているとしよう。
その場合、いったい預金の払戻はいかにして可能になるのだろうか。
預金の払い戻しが行われる場合には、上記の説明と全く逆のことが
考えられなければならない。つまり、銀行は、手持ちの準備預金から
一部が払い戻された場合、その9倍の預金を減らさなければならないのである。
上記の説明では、非金融部門の現金預金比率はゼロとされ、
非金融部門は常時現金を持たないこと、とされた。
現金預金比率をゼロより大きな値に取ることで、この矛盾は解消されるだろうか。
それは無理だ。なぜなら、このモデルでは
銀行の貸出は直接現金で行われているからである。たとえ非金融部門の
現金預金比率がどのような値をとろうと、
実際には銀行に預金として戻ってくる現金のことしか念頭にない。預金が
銀行から払い戻されることなど、想定していないのである。
短期的に現金預金比率が
急激に上昇するケースがあるが、こうしたときに備えて
銀行は常に、実際に払戻しされる金額に相当する超過準備を保有している、とでも想定しない限り、
現金預金比率を大きくとることには意味がない。それは当然、
払戻しされる預金額の準備率の逆数倍である。それほどの超過準備を常時銀行が保有しているなど、
本気で考えているのだろうか。
それどころか、日銀が、本源的預金をほんのわずかでも減らそうものなら、
その何倍もの信用収縮を「即座に」実現しなければ、
民間銀行としては預金準備率を満たすことはできない。
この理論では、民間銀行は、
ベースマネーが増えた時、所定の預金準備率を守りながら貨幣を増やすことはできるが
ベースマネーが減った時には、瞬間的にその何倍もの預金を減らさなければならないことになる。
理論的に言って、明らかにおかしいだろう。
(と、いうか、もしかしたら、いかにバカげていようと本気でそう考えているからこそ、すべての恐慌の原因を
中央銀行に帰すことができるのかもしれないが。)

要するに、信用乗数プロセスモデルを信じ込める人というのは
教科書に載っていることだけを丸暗記し、例えばその逆が起こったら
どうなるか、というような、ほんのわずかな、ごくごく簡単な応用(あるいは批判)さえ
することができない人たちなのである。


③日常経験に照らし合わせて、あまりにも不合理。
我々は、子供のころから、お金とはお札や鋳貨のことだと思って育ってきた。
特に子供にとっては、お金と預金は全く別のものである。
お小遣いやお年玉としてもらうお金というのは、要するに1000円札や500円玉であり、
買い物をするときにはこれを支払い、お釣りを、やはりお札や鋳貨で
受け取る。こうした意識が、子供のころからずっと染みついている。
預金というのは、一度してしまうと、お母さんなりお父さんなりにお願いしなければ
もう使うことができない悪魔の貯金箱であり、すなわち、お金と預金は
全く別物である。大体、お年玉をもらうたびに
「貯金しておいてあげるからね」とか言って取り上げやがって、
ホントは、よそんちの子供のお年玉にまわしちゃってんじゃないの?。。。いや、
話がずれた。
こういう意識は、子供のころからずっと染みついている。子供にとって
預金は断じてお金ではない。そして人間というのは
程度の差こそあれ誰でもそうだが、過去の経験という牢獄の住民である。こうして育ってしまった我々は
大人になり、いざ、お小遣いの何倍もの給料を「お金」ならざる「預金」で受け取るようになっても、
なかなか、「預金=お金」と意識を切り替えることができない。
我々は代金を支払ったり受け取ったりするときは、現金をやり取りするものであり、
預金とは、こうして受け取った現金を預金することで増えるものなのだ、というわけである。
「信用創造プロセス」のモデルとは、
こうした美しい子供時代の思い出が、そのまま反映されているのである。
だが、冷静になって、普段われわれがいったいどのような経済生活を送っているのか
考えてみよう。給料は、ほとんどの人が、銀行振り込みであろう。
確かに、日常生活での支出のためには、そこからいくばくかの払戻しを受ける。
そしてそれを商店やレストランで昼食のため、支払っている。
しかし、今日では、クレジットカードの決済も多いし、
公共料金や家賃などは、口座引き落としのご家庭も多いことだろう。

また、ちょっと考えれば、企業など仕入代金や給料の支払いなど、
一度に数百万、数千万、数億という金額になることは
誰でも知っていることであろう。こうした資金のやり取りを
本当にお札でできるものだろうか。我々の受け取る給料は銀行振り込みだが、
業者への支払いは、相変わらず1万円札を積み上げてやっているのだろうか。
(それにしちゃあ、会社でそんなシーンを見かけたことないな。。)
同じことは、銀行からの借り入れについてもいえる
企業が銀行から借入れをするとき、数億円になることも珍しくないだろう。
こうした貸し出しのため、本当に銀行は、1万円札を数万枚も用意しているのだろうか。
あまりにも、非現実的過ぎやしないだろうか。。。。

こうした理論を信じることができるためには
自分自身の日常生活を公平に見ることができてはいけない。
おそらくは、子供のころに植え込まれた思い込み、
お金とはお札や鋳貨のことであり、預金はお金ではない、
という思い込みを、給料を口座振り込みで受け取るようになってもまだ
信じ続けることができるようでないといけない。(しかしなぜか
マネーストック統計には含まれている。)
もしも、冷静な目で自分自身の生活を見ることができてしまうと
このような理論は、たちまち胡散臭い与太話に姿を変えてしまう。
これも一種のパラダイム・チェンジか。

④理論内で使われている近隣諸科学、つまり簿記会計の
基本理論さえ、無視している。

さて、信用乗数のプロセスを学習するとき、
上記の通り、高校時代、数学をさぼっていたことを反省させられる学生は
多そうである。まあ、同じことが繰り返され一定の値に収束する、
というのは、すでに所得乗数のところでも学習済みだから
それほどインパクトはないかもしれないけれど、
「またか」という気分にさせられた学生も、少なくないことだろう。
しかし、残念なことに(と、言っていいと思うが)、簿記会計学については、
そのような印象を持つ学生さんはあまりいないようである。
簿記を学習するうえで、最も基本的なものが
簿記の基本等式といわれるものだが、これは例えば、
例えば、今、債務の一定額の増加があった場合には、
反対勘定として、必ずそれと同額の
資産の増加
負債の減少
純資産の減少
収入の消去
費用の発生
か、またはそれらの組み合わせが
起こっていなければならない。
つまり

⊿負債項目=⊿資産項目-⊿(別の)負債項目-⊿純資産項目-⊿収入項目+⊿費用項目

と、なっていなければならない。(例えば「負債項目」とあるのは
特定の負債勘定に変化があった場合、という意味である。
⊿負債項目=-⊿(別の)負債項目
というのは、例えば、買掛金100の減少と支払手形100の増加が
同時に生じる、という意味である。)
つまり、負債の反対勘定が現金である必然性はないのである。
すなわち、
わざわざ

貸付金 90 現金 90
現金 90 預金 90

などというプロセスを踏まずとも

貸付金 90 預金 90

というプロセスがあれば、それで充分である。
これであれば、直接現金を渡す手間も省けることであろう。
預金も現金同様の貨幣として使えるのであれば、
これで十分なはずである。
それどころではない。
もしも結果として、あらかじめ一定の本源的預金(というかベースマネー資産)の
増加があった時、その信用状数倍まで預金残高を増やせる、ということが
あらかじめわかっているのであれば、
銀行は初めから預金創造で対応するであろう。

準備預金 100 現金 100
貸付金 900 預金 900

これで、いったい何の問題があるのだろう。
信用乗数のプロセスということで
数学的にエレガントな話をするのは大変結構なのだが、
簿記会計の側から見ると、何ともどんくさい、無様かつ無駄な議論としか
言いようがない。もちろん、信用乗数を計算するためには、
ちゃんと数学も使いますよ、ご心配なく。数学の有用性を否定しているんじゃないです。
そうじゃなくて、簿記のあまりの非現実性・非効率性・不合理性の話です。
数学さえ出来れば、あとはどうでもいいのでしょうか。
(そんなことだから、「経済学は落ちこぼれの数学者がやるもの」なんてこと
言いかたする人がでてくるんだよな」)

実際、信用創造プロセスに登場する経済主体とは
不合理・非効率を絵にかいたような存在である。
このような行為が効率的であるように思えるのは
およそ経済学者だけであろう。
どんな社長だって、
「1億円貸してくれ」と銀行に駆け込んだとき
「わかりました、じゃ、
まず、1千万円お貸ししますから、それをそのまま、預金してください。
そしたら、また900万円お貸ししますから
そしたらまたそれを全額預金してください。
次には810万円お貸ししますから、、、」なんて銀行員が出てきたら
「お前バカか!」と怒鳴りつけることだろう。
ただし、その社長が経済学者なら、
「なんて効率的な銀行だ!」と、感心するかもしれないが。
[※念のために書いておくと、
まさかいないとは思うけれど、
中には「いや、信用創造のプロセスとは
マクロ的なプロセスのことであって、
そんな個別的な貸出しの際にそんなことを言うわけないだろ」と
疑問を持つ人もいるかもしれません。
ここで言っているのは、個別かマクロか、ってな話ではなくて、
一度に預金で貸し出しをしても、
お札での貸し出しとそれを預金にすることを繰り返しても
結果としては同じことだ、ということが
簿記の基礎を学習していればわかることだけれど、
いや、簿記なんか勉強していなくたって、誰にでもわかることだけれど、
経済学者さんには、わかってないみたいだよ、
もしかして、これを効率的、と取るんじゃないの?という皮肉です。
解説しなきゃ、皮肉にならないようなものは
皮肉とは言わんよ、という人もいるかもしれないけれど、
でも本当に、そのぐらい説明しないと、経済学をやってる人には
ちょっとマジでわからないかもしれない。。。。]


要するに、信用創造プロセスの理論を信用できる人というのは
一方で、数学的にはそれなりに整合的な議論があれば
それで満足できる一方で、
より直接的な近隣諸科学の視点からは
どれほど非効率的で不合理であっても
それを効率的・合理的と信じ込めるだけの、
一種の宗教的(悪い意味でですよ)思い込みがある人でなければならない。
数学的に、きれいになってさえいれば、
他の学問からどれほどばかばかしく見えても
一切、関しない、という独特の神経構造が必要である。

おそらくだけど、これは
「数学」という外観が「科学」的である(物理学でよく用いられる)一方、
「簿記会計」が実務的であることから、
「実務」とは「科学」とは別の話なのであり、
他方で、数学は、それだけで「科学」みたいな印象があることに
惑わされている、という人も、中に入るかもしれない。
だが、会計はともかく、簿記というのは、それ自体としては論理一貫性を維持するための、
ただの形式的記述の方法にすぎない。
その点では数学と同じである。数学的形式では一貫しているように見えても
簿記的形式に移し替えた時、とんでもなく無様であるとしたら、
その理論には、何か欠点があるかもしれない、と想像する程度の
「科学的」知見(「科学」的、ではない)は、欲しいものだ。

なお、簿記会計が理解できていない、という点に関して言うと
そもそもこの信用創造プロセスの議論は、
確かカルドアだったと思ったけれど、誰かが
批判している通りで、
フローとストックの区別がついていないんだよね。でもまあ、その話は
今日はやめといて。


⑤理論と、実際の日銀や連銀のマニュアルとが
全く整合していない。

これは、本ブログでさんざん過去に論じてきたことなので
今更、繰り返しても面白い話になるわけではないが、

教科書の「信用創造プロセス」では
銀行は、常に、物理的に貨幣を準備と貸し出しとに
分割している。ところが実際のマニュアルでは、
日銀に関して言えば
毎月1日から月末までの毎日の預金の平均残高を計算し、
ついで、
その月の16日から翌月の15日の間の
毎日の日銀当座預金の平均残高を計算し、
それらの比率が預金準備率に合えばよい、とされている。
つまり、銀行は、先に預金設定によって貸し出せるだけ貸し出しをし、
後から準備を積めば、それで十分なのである。

これは逆に言えば、いくら日銀が量的緩和をしようと
その時には、すでに銀行側では預金残高、すなわち所要準備額は決まってしまっているのである。
後になって、いくら「量的緩和」をしようと、
試合が終わってからホームランを打つような効果しか得られない。
と、いうと、それだけ準備に余裕があれば、次月以降の貸し出しが
しやすくなるのではないか、という人もいるかもしれないが、
銀行としては、
準備不足に陥りそうなときには、ゼロ近傍金利の下では、いくらでも
日銀から資金を調達できる。何も、先に超過準備を
抱えている必要などありはしない。超過準備に
金利が付くのであれば、抱えていることを嫌がりはしないが、
さもなければ、とてもではないが、保有するのは御免であろう。

少し話が先走ってしまったが、
いずれにせよ、信用創造プロセスを信じている人、というのは
教科書に書かれていることをうのみにしたままで、
では実際に、日銀なり連銀なりがどのようなオペレーションを行っているのだろう、
ということを考えもしないような人たちである。
もちろん、学生のうちはやむを得ないし、ましてや
高校生がそんなこと思いもつかなくたって仕方がない
(まさか、教科書にまったくのでたらめが書かれているとは
思いもしないだろうから)が、
しかし、大学の教授とか、
あるいはテレビあたりで、えらそうにコメンテーターだなんだといっている人たちが
そういうことでいいんでしょうか???



と、いうわけで、
この「信用創造プロセス」を平気で入門マクロ経済学の教科書に
書いているような人たちには、5つの人格的特徴がある。繰り返すと

①概念が混乱しており、話の最初と最後で概念が全然違っても気にならない、
という性格

②教科書に載っていることだけを丸暗記し、例えばその逆が起こったら
どうなるか、というような、ほんのわずかな、ごくごく簡単な応用(あるいは批判)さえ
することができない

③子供のころに植え込まれた思い込みを、大人になっても
捨てきれず、自分自身の生活と理論の間に、明白な違いがあっても
子供のころの印象と理論の間に整合性があれば、
それを正しいと思い込むことができる

④数学的にはそれなりに整合的な議論があれば
それで満足できる一方で、
より直接的な近隣諸科学の視点からは
どれほど非効率的で不合理であっても
それを効率的・合理的と信じ込めるだけの、
一種の宗教的思い込みがある

⑤教科書に書かれていれば、事実を確認することもなく
真実だ、と信頼し、それをベースに
今後の金融政策を議論することができる精神構造


個人的には、こうした態度は、
学問的研究にはもっとも不向きであるように思えるのだけれど、
しかし、上級マクロ経済学に行くと
もっとひどい人格的特徴が判明する。すなわち


⑥入門の教科書に書かれていることと
データの間に全く整合性がない場合、
入門教科書の理論を書き換えることはせず、
また、上級教科書で、理論を訂正することはせず、
ただ、入門で得られた結論(すなわち、
中央銀行はマネーストックを決定できる、金利は
マネーストックと貨幣需要曲線によって決まる)だけを保持したまま、
ただルールだけを置き換えるだけで
平然としていられる精神構造


言っちゃ悪いが、
現在の金融政策をリードしている議論は
こうした人格的特徴を共有している人たちによって、
こうした精神構造によって、支えられているのだ、
と、いう点は、銘記しておくほうがいいかもしれない。


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