Mitchell-Innes の”What is Money ?” の粗訳に取り掛かる。
本論文は、L. Randall Wray and Stephanie Bell の
編集になるCredit and State Theory of Money に所収されている
論文。もともとは1913年に発表されたものだ。
ちなみに、このミッチェル-イネスMitchell-Innesという名前だが、
L. R. Wray & S. Kelton(当時はBell)の序文によると
本当はミッチェルとイネスの間にハイフンがあってそれで
繋がれて一つの名前らしいのだが、論文を発表するときには
ハイフンが取られていたので、それにならってInnes と
呼んでいるとのこと。
このMitchell-Innes については、前にもふれたことがあったが、
まあ、おいら流の表現を使えば
クナップKnapp、ケインズKeynes、ラーナーLernerに並ぶ
MMTの「四聖人」の一人にあたることになる。この4人が、
MMTの中核テーゼを作り出した先行者と位置付けられているわけで、
この中核的なテーゼの上に、ミンスキーMinskyやゴドリーGodley、
バジル・ムーアBasil Moor、オギュスト・グラジアニAugusto
Grazianiといった人々の
現代的な理論的分析やら方法論やらが乗っかって
こうしたものを共通の土台としたうえで、
さらに各国中央銀行の決済業務レポートやら実務者の報告、
さらにはアルゼンチンやらイラクやらにおける
Job Guarantee Programプロジェクトの成果などを踏まえて、
現在の議論が積みあがって出来上がったのが
現在のMMTということになるだろうかね。
ただし、Innes自身は経済学者というより法律実務家であり(金融の専門化
と紹介しているものもあるが)、実際、上記の論文が公表されたのも
経済誌ではなく法律誌である。そして
貨幣・金融についての論文は生涯に2本しか書いていないとのこと。
その2本の論文が、上記Credit and State Theory of Money に
所載されているわけだ。(さらにWray & Kelton の序文では
Innes の最晩年の犯罪の原因に関する論文と
彼の国家貨幣論とを結び付けて考えるという
テーマが、今後の研究課題として提示されている。その
紹介によると、Innesという人は、キャラクター的には典型的な、
まあ、ちょっと古臭い表現で言うところの
プチブル博愛主義的ヒューマニストだったようだが
(Wray & Keltonがそう書いていた訳じゃないのよ)、
それはともかく注目すべきは
徹底的な方法論的社会主義者であった点で、
犯罪というものの原因を個人のキャラクターから分析するのではなく
社会構造から生み出されるものと位置付けて分析しているらしい。)
で、その”What is Money ?” を実際読んでみると、
なるほど確かに主流派経済学批判としては
かなり鋭い論点をついており、やや古いところもないとは言わないものの
(なんせ、金本位制の時代に書かれたものだ、
ということは理解しておいてください)
現在でも立派に通用する議論である。なお、
Social Democracy for the 21st century: a Post Keynesian Perspective という
ブログによると、Innes自身は、その歴史的叙述については
ヘンリー・マクロードに大きく依存しているとのこと。
また、Innesの議論については、楊枝嗣朗先生がとある論文の中で
たびたび言及している。
訳出に際しては、
2か所ある引用部分(引用元が書かれていない)については、
かなり時代掛かった大仰な英文で、
真面目に訳してたら、えらく時間がかかりそうなので
大意で済ます。
Mitchell-Innes の原文自体は難しいものではないが、
100年前の英語だから、やっぱりちょっと読みにくい。
大学入試のお勉強にはいいかもしれない。(最近は
こういう文章は避けられる傾向にあるらしいが。)
各段落の冒頭に示されているページ数は
Credit and State Theories of Money
のページであって、論文が最初に掲載された雑誌のページではない。
おごった希望ということを承知で言うと、願わくば
この粗訳が、ぜひ網野善彦先生の流れを汲むような
日本史の研究家の人たちの目に留まらんことを。
網野先生が本論文を存命中に目にすることは
無かったに違いないが、国家と市場の関係とは
いかなるものなのか、大市と寺院や宗教施設が
どのような関係を持っていたのかなど、
後に日本史を舞台に網野先生によって
大きく広げられた構想が
すでにここに萌芽的な形で散見されるわけで、
だから、粗訳は粗訳だけれど、翻訳権などの権利の侵害に
当たらない範囲(どのぐらいならいいのか、よくわからないが)で、
やや丁寧めに訳したいと思う。
前にFullwilerをやった時と同じで、
今回も、あくまでも私的に研究をしたいと考えている人たちの
便宜のために、自分が学習のために粗訳したものを
公開する、というのがコンセプトである。商業利用については、
するなとは言わないが、あくまでも原著者や版権・著作権の
持ち主の方たちの権利を侵害しない範囲でお願いします。
++++++++++++++++++++++++++++
貨幣とは何か What is money ? A. Mitchell Innes
P14:1 現代経済学の基礎となっている基本的理論は以下の通り。
P14:2 いわく、原始状態において、人間は物々交換で生きていたし、
今も[未開社会では]そうである。
P14:3 いわく、生活が複雑になるにつれ、
物々交換は商品交換方法として十分なものではなくなってしまい、
住民の共通意思[合意]により、ある特定の商品が一般的受領性を有するものと定められ、
そしてそれ故、全員が自分の生産物や労働をその商品との交換に差し出すようになり、
そして同時にその商品を交換に差し出すことで、
自分の必要とするものを何でも得られるようになったのである。
P14:4 いわく、この商品は「交換媒体として、価値のはかり」になった。
P14:5 いわく、販売とは、この「貨幣」と呼ばれることになった
交換媒体商品との交換のことである。
P14:6 いわく、数多くの商品が時と場所に応じて、
この交換媒体の役割を担ってきた――家畜、鉄、塩、貝殻、干し鱈、タバコ、砂糖、針、等々。
P14:7 いわく、徐々に金、銀、銅といった金属、より特定して言うなら最初の二つが、
その内在的品質によってほかのいかなる商品よりこの目的にふさわしいと見做されるようになり、
そしてこの二つの金属が住民の共通意思によって、唯一の交換媒体となった。
P14:8 いわく、一定重量で一定品質のこれらの金属のうち、一つが価値の基準[本位]となり、
そしてこの重量と品質を保証することが、刻印入りの金属正貨を発行する政府の責任となり、
これを偽造する行為は重罪として罰せられるようになった。
P14:9 いわく、帝王、国王、女王、その側近、こうした人たちは中世には互いに競い合うようにして、
鋳貨の品質を悪化させて国民を欺いた。
自分自身の生産物と引き換えに一定重量の金銀を入手したと思い込んでいた国民たちは、
実際にはそれより少ししか得ておらず、そしてこうした状況の深刻な悪影響により貨幣が減価し、
結果的に鋳貨の劣悪化あるいは重量の低下が生じ、それに従い物価が上昇したのである。
P15:1 いわく、金属利用を減らし、金属の絶えざる輸出を食い止めるため、
「信用Credit」と呼ばれる機構が、近代に入ってから成長し、そのおかげで
いちいち取引の度に一定重量の金属を手渡ししなくても済むようになり、
後でしかじかの重量の金属を手渡ししますよ、という約束状が与えられれば、
環境がいいときには金属それ自体と同じ価値があるものとなった。
P15:2 経済学者たちの間でこの理論があまりにも普遍的に信じられているため、
これは今やほとんど証明不要の公理とまで考えられるようになったが、
それが依存しているほんのわずかの歴史的証拠以外、経済活動には証拠として注目すべきものは何もなく、
そしてそのわずかな証拠の価値に対する批判的検討も存在しないというありさまだ。
P15:3 おおざっぱな話、こうした学説を唱える人は、
A.スミスのいくつかの言葉に依存していることが多いのだが、そのスミスも、
ホメロスやアリストテレス、および未開地の旅行者の書いたいくつかの節を根拠にしているのだ。
しかし、商業史や古銭学といった領域での現代の研究、とりわけ近年におけるバビロニアでの発見によって、
A.スミスには利用不可能だった大量の証拠を検討することができるようになり、
その結果、こうした理論には何も強固な根拠がない、
と実証面からは、そう言うべき証拠がそろった――実際、その理論は誤っている。
P15:4 まず最初に、A.スミスの誤謬を取り上げたい。
現代において貨幣として使われているもの二つの例として、広く引用されているものである。
すなわち、スコットランドの村落の釘と、ニューファンドランド島の干し鱈の例である。
これらの過ちについては、
すでに、一つは1805年という古い時代にプレイフェアーPlayfair版の『国富論』が出た時に指摘されており、
もう一つについては『通貨と銀行業務Essay on Currency and Banking』
(トーマス・スミスThomas Smith、1832、Philadelphia)で、指摘されている。
ところが奇妙なことに、両者による明白に正しい説明があるにもかかわらず、
A.スミスの誤謬がいまだに不朽の名声を保っているのである。
P15:5 スコットランドの村落については、仲介人が釘職人に材料と食糧を渡し、
そして釘ができたら、釘職人の債務と相殺する形で買い取っていたのである。
P15:6 ニューファンドランド島の漁民たちも、しばしば港や銀行に出かけており、
貨幣を利用することも、我々と同じぐらい、よく知っていたが、ただ金属貨幣は使わなかった。
というのは、単にその必要がなかったからにすぎない。ニューファンドランド島の初期の漁業産業では、
ヨーロッパ人の定住者がいなかった。漁民たちは漁期だけその島に集まり、
漁民以外には干し鱈を買付ける商人がいるばかりであった。
そして商人たちが干し鱈と交換に日常品を売ったのである。
漁民は自分の獲物を商人に、ポンド・シリング・ペンスといった市場価格で売り、
商人の帳面に買掛金が記録される。そして日常品の購入代金は、この買掛金よって支払われていたのである。
商人の買掛残高は、イギリスやフランスの為替手形で支払われていた。
ほんの少し考えれば、日用品が貨幣として使われるはずがない。というのは、仮定により、
交換媒体になるものは、地域社会の全成員に等しく受け入れられるものでなければならない。
とすると、漁民は、日用品を鱈で購入するのはいいとして、商人も漁民から鱈を買うとき、
鱈で支払うのであろうか。明らかにばかげている。
P16:2 この二つの例において、A.スミスは自分では実物貨幣を発見したと信じているが、
実際に彼が発見したものとは――信用credit であった。
P16:2 同じことだが、植民地の法律では、穀物やたばこ等々が売掛金・未収金や未収税金の決済のため、受領されるが、
こうした商品が商品経済的意味で交換媒体となり、
その他の全製品の価値がそれによって測定されたことなどありはしない。
製品はすべて市場貨幣価格で取引されていた。さらに筆者の知る限り、
広く受け取られる商品が言葉通りの意味で一般的交換媒体になったというよくある想定を根拠づけるものは全くない。
こうした法律は、単に債務者を債務から解放しなくてはならない事情がある際に、
他によりまともなやり方がなかったため、そのようなやり方がとられたに過ぎない。
しかしこうしたことがたびたびあったなどと考えられるのは、
都市部からはるかに離れて簡単な連絡手段がない地域に限られるであろう。
P14:3 この主題についてこうした誤謬が発生した理由は、
貨幣の利用には必ずしも金属通貨という物質的存在を必要としないし、
それどころか金属的価値基準すら必要ではない、ということを理解することが難しいためである。
我々は決められた重量の金である1ドルあるいは1ソブリン[ポンド金貨]に
貨幣の1ドルあるいは1ポンドが対応するシステムに慣れきってしまい、
かんたんには決まった重量の1ソブリン金貨のない1ポンド、1ドル金貨銀貨のない1ドルが存在しうることを
信じられないのである。しかし歴史全体を見渡してみると、
通常「計算貨幣[貨幣単位money of account ]」といわれているもの、
つまり商業的な貨幣尺度と対応する金属的価値基準[本位]が存在していたことを示す証拠がないばかりか、
鋳貨の価値あるいは金属重量に依存した貨幣単位が存在しなかったことを示す大量の証拠があるのである。
ごく近年になるまで貨幣単位といずれかの金属の間に固定的関係は存在しなかった。
金属の価値基準[本位]のようなものは事実上存在しなかったのである。
この1本の論文の中で、この命題の根拠となっている大量の証拠を示すというのは不可能である。
できることは、筆者の数年にわたる研究から得られた結論の要約を示すことでしかない。
このテーマをさらに突き詰めたいと望む読者によって、さらに詳細な研究が行われることが、筆者の願いである。
[いつになるかわからないけれど、次回かその次かそのさらに次ぐらいに続く。。。]
本論文は、L. Randall Wray and Stephanie Bell の
編集になるCredit and State Theory of Money に所収されている
論文。もともとは1913年に発表されたものだ。
ちなみに、このミッチェル-イネスMitchell-Innesという名前だが、
L. R. Wray & S. Kelton(当時はBell)の序文によると
本当はミッチェルとイネスの間にハイフンがあってそれで
繋がれて一つの名前らしいのだが、論文を発表するときには
ハイフンが取られていたので、それにならってInnes と
呼んでいるとのこと。
このMitchell-Innes については、前にもふれたことがあったが、
まあ、おいら流の表現を使えば
クナップKnapp、ケインズKeynes、ラーナーLernerに並ぶ
MMTの「四聖人」の一人にあたることになる。この4人が、
MMTの中核テーゼを作り出した先行者と位置付けられているわけで、
この中核的なテーゼの上に、ミンスキーMinskyやゴドリーGodley、
バジル・ムーアBasil Moor、オギュスト・グラジアニAugusto
Grazianiといった人々の
現代的な理論的分析やら方法論やらが乗っかって
こうしたものを共通の土台としたうえで、
さらに各国中央銀行の決済業務レポートやら実務者の報告、
さらにはアルゼンチンやらイラクやらにおける
Job Guarantee Programプロジェクトの成果などを踏まえて、
現在の議論が積みあがって出来上がったのが
現在のMMTということになるだろうかね。
ただし、Innes自身は経済学者というより法律実務家であり(金融の専門化
と紹介しているものもあるが)、実際、上記の論文が公表されたのも
経済誌ではなく法律誌である。そして
貨幣・金融についての論文は生涯に2本しか書いていないとのこと。
その2本の論文が、上記Credit and State Theory of Money に
所載されているわけだ。(さらにWray & Kelton の序文では
Innes の最晩年の犯罪の原因に関する論文と
彼の国家貨幣論とを結び付けて考えるという
テーマが、今後の研究課題として提示されている。その
紹介によると、Innesという人は、キャラクター的には典型的な、
まあ、ちょっと古臭い表現で言うところの
プチブル博愛主義的ヒューマニストだったようだが
(Wray & Keltonがそう書いていた訳じゃないのよ)、
それはともかく注目すべきは
徹底的な方法論的社会主義者であった点で、
犯罪というものの原因を個人のキャラクターから分析するのではなく
社会構造から生み出されるものと位置付けて分析しているらしい。)
で、その”What is Money ?” を実際読んでみると、
なるほど確かに主流派経済学批判としては
かなり鋭い論点をついており、やや古いところもないとは言わないものの
(なんせ、金本位制の時代に書かれたものだ、
ということは理解しておいてください)
現在でも立派に通用する議論である。なお、
Social Democracy for the 21st century: a Post Keynesian Perspective という
ブログによると、Innes自身は、その歴史的叙述については
ヘンリー・マクロードに大きく依存しているとのこと。
また、Innesの議論については、楊枝嗣朗先生がとある論文の中で
たびたび言及している。
訳出に際しては、
2か所ある引用部分(引用元が書かれていない)については、
かなり時代掛かった大仰な英文で、
真面目に訳してたら、えらく時間がかかりそうなので
大意で済ます。
Mitchell-Innes の原文自体は難しいものではないが、
100年前の英語だから、やっぱりちょっと読みにくい。
大学入試のお勉強にはいいかもしれない。(最近は
こういう文章は避けられる傾向にあるらしいが。)
各段落の冒頭に示されているページ数は
Credit and State Theories of Money
のページであって、論文が最初に掲載された雑誌のページではない。
おごった希望ということを承知で言うと、願わくば
この粗訳が、ぜひ網野善彦先生の流れを汲むような
日本史の研究家の人たちの目に留まらんことを。
網野先生が本論文を存命中に目にすることは
無かったに違いないが、国家と市場の関係とは
いかなるものなのか、大市と寺院や宗教施設が
どのような関係を持っていたのかなど、
後に日本史を舞台に網野先生によって
大きく広げられた構想が
すでにここに萌芽的な形で散見されるわけで、
だから、粗訳は粗訳だけれど、翻訳権などの権利の侵害に
当たらない範囲(どのぐらいならいいのか、よくわからないが)で、
やや丁寧めに訳したいと思う。
前にFullwilerをやった時と同じで、
今回も、あくまでも私的に研究をしたいと考えている人たちの
便宜のために、自分が学習のために粗訳したものを
公開する、というのがコンセプトである。商業利用については、
するなとは言わないが、あくまでも原著者や版権・著作権の
持ち主の方たちの権利を侵害しない範囲でお願いします。
++++++++++++++++++++++++++++
貨幣とは何か What is money ? A. Mitchell Innes
P14:1 現代経済学の基礎となっている基本的理論は以下の通り。
P14:2 いわく、原始状態において、人間は物々交換で生きていたし、
今も[未開社会では]そうである。
P14:3 いわく、生活が複雑になるにつれ、
物々交換は商品交換方法として十分なものではなくなってしまい、
住民の共通意思[合意]により、ある特定の商品が一般的受領性を有するものと定められ、
そしてそれ故、全員が自分の生産物や労働をその商品との交換に差し出すようになり、
そして同時にその商品を交換に差し出すことで、
自分の必要とするものを何でも得られるようになったのである。
P14:4 いわく、この商品は「交換媒体として、価値のはかり」になった。
P14:5 いわく、販売とは、この「貨幣」と呼ばれることになった
交換媒体商品との交換のことである。
P14:6 いわく、数多くの商品が時と場所に応じて、
この交換媒体の役割を担ってきた――家畜、鉄、塩、貝殻、干し鱈、タバコ、砂糖、針、等々。
P14:7 いわく、徐々に金、銀、銅といった金属、より特定して言うなら最初の二つが、
その内在的品質によってほかのいかなる商品よりこの目的にふさわしいと見做されるようになり、
そしてこの二つの金属が住民の共通意思によって、唯一の交換媒体となった。
P14:8 いわく、一定重量で一定品質のこれらの金属のうち、一つが価値の基準[本位]となり、
そしてこの重量と品質を保証することが、刻印入りの金属正貨を発行する政府の責任となり、
これを偽造する行為は重罪として罰せられるようになった。
P14:9 いわく、帝王、国王、女王、その側近、こうした人たちは中世には互いに競い合うようにして、
鋳貨の品質を悪化させて国民を欺いた。
自分自身の生産物と引き換えに一定重量の金銀を入手したと思い込んでいた国民たちは、
実際にはそれより少ししか得ておらず、そしてこうした状況の深刻な悪影響により貨幣が減価し、
結果的に鋳貨の劣悪化あるいは重量の低下が生じ、それに従い物価が上昇したのである。
P15:1 いわく、金属利用を減らし、金属の絶えざる輸出を食い止めるため、
「信用Credit」と呼ばれる機構が、近代に入ってから成長し、そのおかげで
いちいち取引の度に一定重量の金属を手渡ししなくても済むようになり、
後でしかじかの重量の金属を手渡ししますよ、という約束状が与えられれば、
環境がいいときには金属それ自体と同じ価値があるものとなった。
P15:2 経済学者たちの間でこの理論があまりにも普遍的に信じられているため、
これは今やほとんど証明不要の公理とまで考えられるようになったが、
それが依存しているほんのわずかの歴史的証拠以外、経済活動には証拠として注目すべきものは何もなく、
そしてそのわずかな証拠の価値に対する批判的検討も存在しないというありさまだ。
P15:3 おおざっぱな話、こうした学説を唱える人は、
A.スミスのいくつかの言葉に依存していることが多いのだが、そのスミスも、
ホメロスやアリストテレス、および未開地の旅行者の書いたいくつかの節を根拠にしているのだ。
しかし、商業史や古銭学といった領域での現代の研究、とりわけ近年におけるバビロニアでの発見によって、
A.スミスには利用不可能だった大量の証拠を検討することができるようになり、
その結果、こうした理論には何も強固な根拠がない、
と実証面からは、そう言うべき証拠がそろった――実際、その理論は誤っている。
P15:4 まず最初に、A.スミスの誤謬を取り上げたい。
現代において貨幣として使われているもの二つの例として、広く引用されているものである。
すなわち、スコットランドの村落の釘と、ニューファンドランド島の干し鱈の例である。
これらの過ちについては、
すでに、一つは1805年という古い時代にプレイフェアーPlayfair版の『国富論』が出た時に指摘されており、
もう一つについては『通貨と銀行業務Essay on Currency and Banking』
(トーマス・スミスThomas Smith、1832、Philadelphia)で、指摘されている。
ところが奇妙なことに、両者による明白に正しい説明があるにもかかわらず、
A.スミスの誤謬がいまだに不朽の名声を保っているのである。
P15:5 スコットランドの村落については、仲介人が釘職人に材料と食糧を渡し、
そして釘ができたら、釘職人の債務と相殺する形で買い取っていたのである。
P15:6 ニューファンドランド島の漁民たちも、しばしば港や銀行に出かけており、
貨幣を利用することも、我々と同じぐらい、よく知っていたが、ただ金属貨幣は使わなかった。
というのは、単にその必要がなかったからにすぎない。ニューファンドランド島の初期の漁業産業では、
ヨーロッパ人の定住者がいなかった。漁民たちは漁期だけその島に集まり、
漁民以外には干し鱈を買付ける商人がいるばかりであった。
そして商人たちが干し鱈と交換に日常品を売ったのである。
漁民は自分の獲物を商人に、ポンド・シリング・ペンスといった市場価格で売り、
商人の帳面に買掛金が記録される。そして日常品の購入代金は、この買掛金よって支払われていたのである。
商人の買掛残高は、イギリスやフランスの為替手形で支払われていた。
ほんの少し考えれば、日用品が貨幣として使われるはずがない。というのは、仮定により、
交換媒体になるものは、地域社会の全成員に等しく受け入れられるものでなければならない。
とすると、漁民は、日用品を鱈で購入するのはいいとして、商人も漁民から鱈を買うとき、
鱈で支払うのであろうか。明らかにばかげている。
P16:2 この二つの例において、A.スミスは自分では実物貨幣を発見したと信じているが、
実際に彼が発見したものとは――信用credit であった。
P16:2 同じことだが、植民地の法律では、穀物やたばこ等々が売掛金・未収金や未収税金の決済のため、受領されるが、
こうした商品が商品経済的意味で交換媒体となり、
その他の全製品の価値がそれによって測定されたことなどありはしない。
製品はすべて市場貨幣価格で取引されていた。さらに筆者の知る限り、
広く受け取られる商品が言葉通りの意味で一般的交換媒体になったというよくある想定を根拠づけるものは全くない。
こうした法律は、単に債務者を債務から解放しなくてはならない事情がある際に、
他によりまともなやり方がなかったため、そのようなやり方がとられたに過ぎない。
しかしこうしたことがたびたびあったなどと考えられるのは、
都市部からはるかに離れて簡単な連絡手段がない地域に限られるであろう。
P14:3 この主題についてこうした誤謬が発生した理由は、
貨幣の利用には必ずしも金属通貨という物質的存在を必要としないし、
それどころか金属的価値基準すら必要ではない、ということを理解することが難しいためである。
我々は決められた重量の金である1ドルあるいは1ソブリン[ポンド金貨]に
貨幣の1ドルあるいは1ポンドが対応するシステムに慣れきってしまい、
かんたんには決まった重量の1ソブリン金貨のない1ポンド、1ドル金貨銀貨のない1ドルが存在しうることを
信じられないのである。しかし歴史全体を見渡してみると、
通常「計算貨幣[貨幣単位money of account ]」といわれているもの、
つまり商業的な貨幣尺度と対応する金属的価値基準[本位]が存在していたことを示す証拠がないばかりか、
鋳貨の価値あるいは金属重量に依存した貨幣単位が存在しなかったことを示す大量の証拠があるのである。
ごく近年になるまで貨幣単位といずれかの金属の間に固定的関係は存在しなかった。
金属の価値基準[本位]のようなものは事実上存在しなかったのである。
この1本の論文の中で、この命題の根拠となっている大量の証拠を示すというのは不可能である。
できることは、筆者の数年にわたる研究から得られた結論の要約を示すことでしかない。
このテーマをさらに突き詰めたいと望む読者によって、さらに詳細な研究が行われることが、筆者の願いである。
[いつになるかわからないけれど、次回かその次かそのさらに次ぐらいに続く。。。]
いろいろあるのですけれど、
マーティンに関しては
あまり高く買っていません。
そのうちこのブログか
アマゾンの書評欄にでも
書こうと思いますけれど。
マーティンは
そもそもなぜ21世紀の貨幣論(この
タイトルも、ちょっとよくない)を
書こうと思ったかというと、
GoodhartやIngham、
そしてInnesと読み進めていった
結果、構想された、みたいな
話が書いてあったので
かなり期待していたのですが。。。