断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Mitchell-Innes "What is Money ?" のお話②

2015-04-19 22:41:16 | MMT & SFC
続き。
まとまった時間がなかなか取れないので、
小出しになっちゃうが、少しずつ進みます。。。。



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P17:1 西洋世界で知られている最も古い鋳貨は、古代ギリシアのもので、
小アジア湾岸沿いの定住地域から発掘された紀元前6~7世紀のものだ。
あるものは金、あるものは銀、他のものはブロンズから作られており、
中でも特に古いものは、琥珀金electrum として知られる合金でできている。
こうした鋳貨は大きさも重量も全く違っているため、
同じものを二つと見つけることはほとんどできず、価値を示す印もない。
現代の研究者たちの研究を参照することになるが、
バークレイ・ヘッド(Barclay Head、大英帝国博物館の古銭学者、1844-1914)、
ルノマン(Lenormand、フランスの考古学者、1837-83)、
バスケス・ケイポ(Vazquez Queipo、1804-1893)、バブロン(Babelon、1854-1924)
といった人々が、これらの鋳貨を分類して、
ギリシアの様々な都市国家における価値基準[本位]を発見しようと試みた。
しかし採用された方法はさまざまである。そこで記されている重量は、
数多くの鋳貨から分類系を作り出した、その中間値にすぎず、
その鋳貨の分類系も大体中間値に近いものを集めて作ったものである。
この分類系にうまくあてはまらない鋳貨も数多くあり、
他方で少額鋳貨と思われるものの重量が、
それらが属していると思われる分類系の中の少額単位にうまくあてはまらない。
合金の鋳貨については、我々の知る最も古いものであるが、
その構成は全く統一されていない。あるものは60%を超える金を含んでいるかと思うと、
同じところで製造されたことがわかっている別のものが銀を60%以上含んでいたり、
そしてこの両端の合間にあらゆる構成比の合金があり、
どう考えても一つの固定的内在価値が存在したとは思えない。
全研究者が一致しているのが、古代ギリシアのブロンズ鋳貨はトークン、
つまりその価値は重量に依存していなかった、という点である。

P17:2 はっきりわかっていることは、様々なギリシア都市国家において、
同一の貨幣単位、スターターやドラクマ等々が使われていたのだけれど、
こうした貨幣単位は、国によって大きく違っていたし、
その相対価値も一定ではなかった、ということである――現代風な言い方をすれば、
国ごとの為替レートは時に応じて変化する、ということだ。
実際、古代ギリシアにおいて、
金属本位[基準]理論が基礎となっていたことを示す歴史的証拠は何一つない。

P17:3 古代ローマの鋳貨には、ギリシアとは違って、
価値については明確な刻印があるが、ところがもっとも注目すべきは、
その重量が全く統一されていないことだ。
ローマで最も古い鋳貨はアスとその少額単位、その後の伝統ともなるのだが、
オンス(1アス=12オンス)である。そして1アスとは
もともとは1ポンド重量の銅のことである。しかし、ローマの1ポンド重量というのは、
約327.5グラムのことであり、ローマ鋳造史の高名な研究家モムゼンMommsenの指摘によるなら、
現存している鋳貨(相当大量にある)のどれ一つとして、
この重量に近いものがないばかりか、多量の鉛も混ぜられているのである。
もっとも重たいのは、同時に最も古いものでもあるのだが、
2/3ポンドほどの銅すらも含んでおらず、
少額貨幣の方は、さらに軽いアスをベースにしているのである。
紀元前3世紀という早い時期に、アスは4オンス足らずになってしまい、
BC2世紀には、、0.5オンスあるいはそれ以下の重さになってしまった。

P18:1 ここ数年の間、エーベルランHaeberlin 博士によって、
新しい理論が展開された。彼によるなら、
アスのもともとの重量はローマポンドに依存していたわけではなく、
彼が「オスカンOscan」ポンドと呼ぶもの、重量にして約273グラムだという。
彼はその理論を証明しようとして、様々な表示の鋳貨の中から重たいものを取り出して、
それらの平均を計算している。
中間値は確かに彼の想定した基準重量にほぼほぼ近いものとなったが、
しかし彼が平均値を導き出すために使った鋳貨をよく見てみよう。
1ポンドの重量があってしかるべきアスが、
実際には208グラムから312グラムまであり、
そしてこの両端の合間にあらゆる重量の鋳貨が存在している。
0.5アスは32グラムから62グラムまで。残りもそんな感じである。
ところがエーベルランの理論を受け入れ難くしているのは、
それだけではない。これはそもそも話があまりに荒唐無稽すぎ、
歴史的根拠も少なすぎるから信用できないのである。
平均値といっても、これほどばらつきに幅があっては説得力がない。
鋳貨というものは、同じ重量の地金の内在価値より高い名目価値で流通するものだし、
現にしているが、その内在価値より低い価値で流通することはあり得ない。
そんなことがあれば、後の歴史に豊富な例があるとおり、
即座に溶解され、地金として使われることであろう。
そして鋳貨重量のばらつきの幅がそこまで以上に広いとなると、
基準[本位]が決まっていることに何の意味があるのだろう。
1ヤードの目盛があるときには2フィート半、
あるときには3フィート半という具合にものさし職人の気まぐれで変えられてしまったら、
何の役に立つだろう。1パイントが、あるときには2/3パイントしかなく、
あるときには1パイント半あるとしたら、どうなるだろう。

P18:2 紙幅の都合でHaeberlin の才知に富んだ仮説を詳論することはできないが、
彼の説明では、アスにはかなりの貶造があった。
まずは1/2オスカン・ポンドへ、その後、時代とともに少しずつ。
わが歴史家は、双方ともboth our historians BC268ごろから銅貨は単なるトークンであったこと、
そして重い鋳貨も軽い鋳貨も、区別なく流通していた点では一致している。

P18:3 ここまでの所では、アスは、鋳貨がいかに変わろうと、
固定的な貨幣単位であり続けた。しかし、ここから話が複雑になる。
複数の「計算貨幣[貨幣単位]moneis of account」が導入され、
同時に使われたためである。セステリウスSesterice やヌムスNumus は銀貨であり、
価値としては、旧アス・アエリス・グラビスAs Aeris Gravis やリブラル・アス Libral As と等しく、
現にそう呼ばれることもあった。新しいアスの価値は、旧アスの2/5であり、
デナリウス Denarius は新アス10枚分、つまり4リブラル・アスと等価で、
セステリウス同様、銀貨であった。

P19:1 セステリウスの鋳造はすぐ取りやめられ、
もっと後の時代に断続的にブロンズや真鍮のトークン・コインとして再鋳造されるようになった。
しかし、公式の計算単位としては
3世紀のディオクレティアヌス皇帝Emperor Diocletian の時代まで継続し、
そして注目すべき事実として、何百年にもわたり、この計算単位は、
この鋳貨の浮き沈みの繰り返しにも関わることなく、変わらぬまま用いられ続けていたのである。

P19:2 これは一般論であり例外もあるが、銀のデナリウス鋳貨は、
ネロの時代に10%の卑金属が混入されるまで良質であり続けた。
ネロに続く皇帝の時代になると、卑金属の比率は引き上げられ続け、
最後には少量の銀を含んだ銅貨、
あるいは銅の核に薄い銀のプレートを2枚巻きつけただけのものとか、
あるいは他のの銅貨と同じ銅製で、ただ刻印だけで区別できるものになった。
ところがそれでも銀貨と呼ばれ続けたのである。

P19:3 デナリウス銀貨がその名目価値通りの内在価値を持っていたかどうかは、
今後の調査を待たねばならないが、しかしモムゼンンMommsen の調査では、
50年ほど後には鋳貨の法律上の価値は、
その実際の価値の1/3であり、金貨の場合は導入された当初からその内在価値をはるかに上回っていた。

P19:5 金貨は神聖ローマ帝国の時代までほとんど使われることは無く、
一般的に金属素材は常に良質ではあったものの、
平均重量は時代とともに減少してゆき、
そしてその重量のばらつきは、同じ時代のもの同士で比べても、
他の鋳貨同様、全くひどいものであった。例えばアウレリアヌスAurolian の時代には、
金貨の重量は、
下は3.5グラム、上は9グラム、ガリエヌスGallienus の時代には、
4/5グラムから約6+3/4グラムであり、その間には多数の重量の金貨があって、
どの金貨をとっても、その上下0.5グラム以内の範囲に別の金貨がある。

P19:6 ここに得られた証拠ほど強力なものは他にはほとんどあるまいが、
貨幣標準[本位・基準]とは、鋳貨の重量や鋳貨の素材とは全く別のあるなにものかなのである。
重量や素材は絶えず変動しているのに対し、貨幣単位は何世紀にもわたり同一だった。

P19:7 ローマ貨幣に関して記憶しておくべき重要なことを一つ上げると、
安物の素材で作られた鋳貨が、金や銀のある重量を表現していた、という点には
疑問の余地がないにもかかわらず、これらの鋳貨は、間違いなくトークンだったのである。
市民はこうしたトークン鋳貨と引き換えに金や銀を得る権利を持っていたわけではない。
これらはすべて等しく法化であり、この受け取りを拒否することは、法律違反であった。
そして数多くの歴史的痕跡に示されている通り、
政府は金の公定価格を固定しようと努力したが、
それにもかかわらず素材金を打歩(プレミアム)付きでしか入手できなかったのである。

P20:1 古代ゲール[フランス]地域やブリテン地域の鋳貨は、
型式の面でも素材構成の面でもかなり多様であり、
またギリシアやシシリー、スペインのものをモデルにしたものであったことから、
これらは外国人、とりわけユダヤ人により発行されたものと考えられているようだが、
中には国内の部族長により発行されたらしいものもある。
いずれにせよ、金属的な標準[本位]などというものはなかったし、
現代の蒐集家たちが分類するときには、金貨銀貨と区別してはいるのだが、
それは外国の鋳貨を真似たからそうなっているだけで、ほとんどの場合、
金貨銀貨とはいっても金銀の比率はほんのわずかにすぎない。
金、銀、鉛、錫、こうしたもののすべてが含まれているのである。
価値を表示する印はなく、
分類はすべてあて水量で行われているだけで、
これらがトークンであったことを疑う合理的な理由は何一つない。

P20:1 フランク王国の治世は300年間続いた(AD457-751)が、
その間、鋳貨の利用はさらに発展し、型式においても合金においても一層多様なものとなった。
貨幣単位はソルSol あるいはスーSou であり、
現在、一般的には、この時期の鋳貨はスーまたはその三分の一であるトリエンスTriens を
表すものと考えられている。ただし、
計算目的では1スーは12デナリDenarii であった。
金と銀の含有量の比率は、ほとんど純金のものからほとんど純銀のものまで
あらゆる範囲にわたっていると同時に、
銀貨の中には金メッキが施されていた形跡が残っているものもある。
これらは国王またはその官僚により、あるいは聖職機関により、
あるいは都市や城郭、駐留軍の官僚により、あるいは商人、銀行家、宝石商等々により
発行されていた。この時代を通じて、鋳貨は事実上、
いかなる形式の公的監督もなしに、完全に自由に発行されていたのである。
この時代全体を通じて、通貨について一つも法律はなかったのだが、
しかしその自由故にいかなる混乱が生じたという話も聞かない。


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