断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

家計の金融資産は、何をファイナンスしているのか、というおはなし。

2015-08-29 11:15:48 | MMT & SFC
ツイッターの続きで、
しつこいようだが、
「家計の銀行預金で、国債をファイナンスする」
という日本語について。

この命題は、いろんな方向から
いろんな議論で、いくらでも突込みができる
ショーもない命題なのだが、
だが、こんなショーもない命題がなぜ
もっともらしく流通しているのかについて考えることには
意味がある、と思う。

「家計の銀行預金で、国債をファイナンスする」
という命題が、なぜナンセンスなのか、
またちょっと、違った面から考えてみよう。

前にも記した通り、「家計の銀行預金で
国債をファイナンスする」というのは
そもそも日本語として正確ではない。おそらく、
これを言った人々が意図しているのは
「家計は銀行に預金する際
現金を持ち込むが、銀行はこの現金で
国債を購入している」というところであろう。

ところで、この考え方に従うなら、
少なくとも銀行預貯金との関連で言えば
紙幣・鋳貨は家計の預金行動により
銀行に吸収されることになる。
家計は次から次へと現金を銀行に預けるが
この現金自体は、預金を取り崩すという行為以外の方法で
入手される必要性がある。
そうなると、いったい誰がどうやってこの紙幣・鋳貨を
家計に手渡すのか、ということが問題になる。

今回のブログで、この点について詳細に検討することは
できないが、少なくとも紙幣・鋳貨債務の発行者である日銀の
言い分によれば、家計が銀行預金を取り崩すということ以外に
現金を入手することは、ほとんど不可能である。
勿論、お店をやっているご家庭であれば、
お客さんから現金を受け取るだろう。
問題は、ではそのお客さんは、いったいどのようにして
そのお札を入手したのか、ということである。
また、世の中には、今でもまだ給料袋にはいった現金で
給料を受け取っている地域もあるに違いない。
だがこうしたことは、今や例外的になりつつある。
銀行や日銀が、小口現金として現金を使うことも、
(特に地方に行けば)ないわけではないと思うが、
これも金額的には、文字通り「小口」であろう。
一番大きいのは、多分だけれど、
震災やその他自然災害などで金融機関が被災し、
大量の紙幣やコインが流出する場合じゃないかな、なんて
思ったりもする。。
この場合には、それを拾った(?)人たちが
それをがめっちゃえば、まあ、現金収入(?)ということになり、
これを何食わぬ顔で銀行に持ち込んで預金すれば、
預金を通じて銀行が獲得する現金の純増要因になる。
同じことは銀行強盗にも言えるだろう。
いずれにせよ、こうした例外的或いはイレギュラーなケースを
除けば、現金を家計が預金取り崩し以外の方法で
入手するというのは、ごく少額に過ぎないことになる。

さて、現金の話はともかく、
今度は預金の増加について、検討してみよう。
家計の預金が国債をファイナンスできる(正確には
家計が銀行に持ち込んだ現金によって
銀行が国債を購入できる)として、
その預金というものは、どのようにして増加するのだろうか。

もしも預金の増加が現金の預け入れ以外の理由によるものが
大半だとしたら、途端に「預金者の預金によって
国債を購入している」という説は
成立しないことになってしまう。


家計に限らず、ある口座の預金が増加するのは
次の5つのケースである。

①預金者が現金を持ち込み
預入する。

②ほかの口座から資金移動が行われた結果
当該口座に振込まれる。

③銀行から融資を受けた結果、
その口座に振込まれる。

④銀行自身が従業員に対する給与の支払いや
仕入代金の支払いのため、
その口座に預金を振り込む。

⑤政府あるいは日銀が
公務員や従業員の給与を支払うか
仕入代金などを支払った結果、
その口座に預金が振り込まれる。

逆に、預金が減るのはどのようなケースかというと
①’預金者が現金の払戻しをする
②’預金者がほかの口座へ送金する
③’借入金が返済される際、預金口座から引き落とされる。
④’銀行により、金利や送金手数料その他が
引き落とされる
⑤’政府や日銀に対する支払いが行われるため、
預金口座から引き落とされる。

さて、ここで②と②’は、定義上同額である。
従って、マクロ経済的には、これは無視していいだろう。
問題は①の、預金者による現金の預け入れと
①’の預金者による預金の払戻しである。
国債ファイナンス論者、というより、教科書の信用創造プロセスを
信じている人たちは、暗黙の裡に①の方が①’より圧倒的に
多いと考えていることになる。果たしてそんなことがいえるのだろうか。

実際には、どの銀行も、日によって多く預け入れられるときもあれば
払戻しの方が多い日もある。通常、月末は払い戻しが
預入を上回る日が続き、それ以外の日はむしろ預け入れの方が多い。
ただし、連休直前直後などは、その限りではない。
ただ、いずれにせよ、少なくとも戦後の日本の現金流通残高のデータを
見る限り、紙幣の流通残高は時とともに増加している。
これには様々な理由があろう。物価上昇による手持現金・小口現金の増加や、
家計のへそくり、脱税のため資産を現金で保有するなどの現金需要が
増えていることなど。
いずれにせよ、経済成長とともに現金の流通残高も
増えている。つまり、少なくとも戦後の日本に関する限り

①<①’

払い戻される現金の方が、預け入れられる現金より
多かったわけである。従って、現金の存在は
預金に対しては減少圧力になる。所得の増加とともに
預金も増加することであろうが、しかしその一部は常に
増加する現金払い戻しによって相殺されているのである。
現金は、それが預金されることによって銀行にとっての
国債購入の原資になるどころか、むしろつねに流出し続けることで
預金残高を減らす方向へと圧力をかけているのである。

そうすると、もっと別の預金増加要因に
目を向ける必要があることになる。

②および②’については、先ほど述べたとおり無視するとして、
③および③’はどうであろうか。

預金が増えるのは
新規融資額の方が返済額より多い場合である。
長期的に言えば、借入金は常に返済されなければならない
(返済が可能である限り)ので、倒産やデフォルトのケースを除けば
常に等しい、という人がいるかもしれない。
しかしながら、ここでは有限時間の資本制経済の話を
しているわけではない。有限時間の資本制経済のもとでは、
均衡理論が想定するように、いずれ貸出額と返済額は
累計で等しくなることだろう。しかし、無限時間で言えば、
というのは、時間が未来永劫続くなどという意味ではなく、
未来方向に時間が開かれている、というか、
単に将来のある特定の時点で
融資残高をゼロにしなければならない、
という想定をとらなければ、
資本制経済が成長している限り、
短期的にはでっこみ引っ込みあっても、長期的には

新規融資>返済額

が維持されている、と想定した方がいいかもしれない。
しかしながら、ここでは、わざと、経済が長期停滞にあることを想定し、

新規融資=返済額

となっている、と仮定しよう。つまり均衡論の想定と
同じであるが、ただし、この想定をとるのは、
長期的に(有限時間の枠組みでは)融資額と返済額は
等しくなければならないから、などという超越的な理由ではなく、
単に、不況で企業が新規投資に二の足を踏んでいるが
さりとてどの会社も事業縮小に踏み切って
返済を行おうとしているわけでもない、という
そういう停滞した状況を想定しているからに過ぎない。
これが恐慌期となると
少なくとも短期的には

新規融資額<返済額

となり、融資残高および預金残高が
減少することも大いにあり得るだろう。
なお、長期的な停滞が継続し、
少なからぬ企業がデフォルトに陥るようなことがあれば
融資残高が減少しているにもかかわらず、
預金残高がそれほど減少しない、ということもあるだろう。
これはむしろ、③および③’というより、
④および④’で論じるべき項目である。

④の銀行の支出と④’の銀行の収入の関係であるが、
キャッシュフローの関係と損益とは必ずしも一致するわけでは
ないとはいえ、長期的(ある程度の期間にわたり
でっこみ引っ込みを均して考えれば、という意味であって、
「短期」では定数だったいくつかの変数を適当に変動値に置き換えるとか、
貨幣の中立を仮定するとか、利子率が自然利子率と一致するとか、
完全雇用が維持されているとか、何の根拠もない場当たり的な仮定をもって
長期と呼ぼうというわけではない)に言えば
銀行も営利企業として正の利潤を上げ続け、かつ
配当や法人税を支払った後にも、内部留保を残さなければならない。
その場合、キャッシュフローについても

銀行の収入>銀行の支出

となっていなければならない。これは
預金の減少要因である。逆に言えば
銀行の収入-支出要因で預金残高が長期的にも
増えるケースというのは、結局、銀行が
赤字を続け、場合によっては欠損企業(純資産が
マイナスではないが、内部留保がマイナスになり
資本金の一部を食い始める状況)となることが必要である。
こうしたことが生じうるのは、融資先のデフォルトなど、
預金設定により貸し出した資金が回収できなくなる場合である。

ただし、③と④の関係で言うなら、
多くの場合、融資先にデフォルトが相次いで
資金回収ができなくなるようなケースでは
やはり預金残高には減少圧力がかかるのであって
増加になりはしない。③-③’要因による
預金の減少の一部が④-④’要因により
緩和される、というのがせいぜいのところである。
ただし、なぜ銀行の新規融資が突然縮小するのか、といえば
バブルの崩壊などでデフォルトが相次ぐという予想が
成立するためであることが少なくない。
つまり、話はこうなる。デフォルトの大量発生が予想されるときには
銀行は貸出を縮小し、あるいは貸し剥がしにまで走り、
それにより預金残高がの伸びが突然止まる。
これが実際のデフォルトを発生させ、そして新規発行預金の
額を、場合によってはマイナスにまで引き下げる。
しかし、デフォルトそのものは、むしろ
預金の減少に歯止めをかける役割をする。
ただし、赤字となった銀行は、ますます融資を縮小し
ますます預金を縮小させるであろう。

最後に⑤-⑤’の関係であるが、
これについては、それほど語ることもない。
政府や日銀の支出によって、預金残高は増える。
その資金源が国債であろうと
徴税であろうと、関係ない。
他方で、非金融部門において、納税が行われたり
国債が購入された場合には、
それだけ銀行預金の残高は減少する。


さて、話をまとめてみよう。
少なくとも現金に関する限り、
その存在は、預金を増加させ、銀行による国債ファイナンスを
助けるどころか、むしろ預金を減少させる圧力の方が
大きい、と考えられた。将来のことは
わからないが、少なくとも現時点では
日本において「預金のために家計が持ち込んだ
現金によって、国債が購入されている」という話は
成り立つ余地がない。現金の存在は、
マクロ的には預金を減らすのである。
預金は、現金を預け入れるという以外の方法によって
増加しなければならない。

銀行融資残高が増えれば、預金残高も増え、
融資残高が減れば、預金も減る。
この20年間、日本では融資残高の伸びは
全体としては低調であった。
つまり、ここで生まれた預金が
賃金として支払われ、それが
家計の資産となり、国債のファイナンスに使われている、
と考えるのは、ちょっと無理がある。
なお、以前にも触れたことがあったけど、
銀行融資が行われるときには
融資残高の増加と同額の銀行の負債(預金)の増加が
生じる。つまり、この預金は
生まれながらにしてすでに預金者自身の融資を
ファイナンスしているのであって、
これが増加しようと減少しようと
国債のファイナンスに使われるなどということは
あり得ない。

銀行の活動もまた、マクロ的には預金の減少要因であって
増加要因ではない。まさかデフォルトにより
回収されなかった預金が、国債をファイナンスしている、
などと考える人はいないだろう。


となってくると、唯一
政府の赤字支出(ただし、ここで言っている赤字支出とは
非金融機関から集めた税金・国債代金入金・諸手数料等から
非金融部門への支出のことである。つまり、
銀行が国債を購入することで集められた政府の収入は
含まない。勿論、実際には国債は、まずは
プライマリーディーラーにより購入され、
家計や一般企業が直接購入することはできないため、
ここでの議論は現実とは一定のずれが生じる)による預金の増加だけが
銀行による国債購入を
ファイナンスできる原資ということになる。。。。。
と、いうのは、一見すると矛盾しているように見える。ここに
多くの人が混乱する原因がある。実際のところ、通念に従うなら
借入のための債券を発行してから、赤字支出は
可能になるものと思われる。だから、その赤字支出あるいは
国債をファイナンスしているのは誰の資金か、ということが
問題になる(ように思われている)のであるから。
この立場からするなら、政府の赤字支出を
ファイナンスするため、国債が発行されるのである。
そのファイナンスの原資は、政府の赤字支出によって
生出された預金なのである、というのは
明らかに一見して矛盾しているように見えるだろう。
ところが、政府の赤字、というよりは
銀行預金の性質を考えるなら、
これは全く不思議なことでも矛盾でもないことがわかる。

政府は民間銀行から1億円を借りる。
政府はその1億円を業者に支払う。
業者の預金口座には1億円が振り込まれる。
これが銀行の、国債購入の1億円の資金源となっている。
時間的タイミングを除けば――つまり、
政府が支出したお金のほうが、政府が国債発行により
調達したお金より先に存在している、という時間的
矛盾(に見えるもの)を除けば――、話はすっきりしている。
国債は、国債自身によって、
政府による支出によって生み出された金融資産によって
ファイナンスされているのである。この点は
企業の預金が、実際には自分自身の借り入れをファイナンスしているのと
同じである。あるいは個人のローンの借り入れによって
獲得された預金が、自分自身のローンをファイナンスしているのと
同じである。

ここに含まれている時間的矛盾のように見えるものが
実際には矛盾でも何でもないことについては
すでに繰り返し、中央銀行のオペレーションとして
説明しているとおりである。国債発行に先立ち
日銀はベースマネーを供給する。
そして、政府が支出した後で
増えたベースマネーを吸収する。
結果として、事後的には政府自身が支出した
資金により国債がファイナンスされていることになる。
時間的矛盾は、日銀のオペレーションによって
解決されている。なお、こうしたことは
政府と日銀にだけ許された特別な行為というわけではない。
民間の企業活動においても
「当座貸し越し」という形で、一時的に
貨幣量を増加させることで、資金繰りの時間的矛盾を
解消することは、普通に(とはいえ、金利が高いので
あまり多くはないが)行われている。

さて、これは、実務上は単純な会計的事実に過ぎないが、
経済的には、受け入れがたいと感じる人もいることであろう。
それはここで描かれた銀行融資の実務プロセスが、
「預金者から借り入れた資金を融資している」という
一般に、教科書によって「間接金融」と呼びならわされている
銀行の役割と、正反対だからである。「間接金融」論によるなら
銀行は、預金者から貨幣を預かる。そして預かった貨幣を
第三者に貸し付けることで、第三者の資金活動を助ける。
政府もまた、例外ではない。政府も貨幣を銀行を通じて
企業や家計から借り入れることで、資金活動を賄っているのだ、
というわけである。だからここでは、
単に政府の財政についてだけでなく、
そもそも銀行は本当に「間接金融」なるものを
行っているのかどうかが、批判的に検討されなければならない。


教科書的に言えば、「間接金融」と「直接金融」の違いは
資金余剰主体が直接、資金不足主体の発行した債券を
獲得するかどうかである。この区別に意味があるのは、
間接金融に際しては、資産変換が行われるからである。
資金余剰主体側は、低利であっても、安全な、短期の、
小口の資金提供をしたい。資金不足側は、多少金利が高くても、
リスクを引き受けてもらえる、長期の、大口の資金が必要だ。
銀行による間接金融は、こうした両者の間の
対立を解消するという重要な役割を担っていることになる――
もっとも、長期債の市場が整備されてしまえば、
この問題はずいぶん緩和されてしまい、あまり意味がないことに
なるが、今はその話はしない。

こうした考え方は
銀行は、預金として受け入れた現金を
資金不足主体に貸し出しする、という貨幣・銀行観が前提になっている。
この間接金融においては、銀行は
資金を預金者から受け入れ、それを貸し出す。信用創造機能とは
全く区別された異なった機能とみなされているのである。
さらに言えば、この議論の前提には
預金というのはそれ自体が決済手段になることがない、という意味で
固定的(非流動的)な資産であることが暗黙のうちに
前提されている。つまり、銀行の主要な機能の一つとされている
内国為替決済機能とは、これまた全く区別された別の機能として
説明されているのである。
実際には
資金余剰主体として現金を銀行に提供する経済主体も、
資金不足主体として銀行から借入れをする経済主体も、
どちらも等しく銀行の預金を獲得するのである。
預金という観点からすれば、
その相手勘定が現金であるか、資金不足主体自身の振出した
債務証書であるかは、大した問題ではない。当座預金、
普通預金、定期預金等々の区別はあるとしても、
反対勘定がなんであろうと等しく
現役の決済手段として利用可能である。
つまり、教科書において、銀行の主要な機能として説明されている
3つの機能、間接金融機能(資産変換機能)、信用創造機能、
決済機能は、実は融資という行為においては切り離すことのできない
一つの業務に、3つの側面から光を当てたものなのであって、
独立した3つの機能が相互に無関係に存在しているわけでは
ないのだ。ところが、
その点が誤解され、あたかも相互に関係のない3つの機能を果たしているように
説明され、理解されているため、
おかしな「家計の金融資産限界国債ファイナンス論」が産み落とされるのである。
問題は根深い。
以下では、この3つの機能を切り離して論じるのではなく、
一つの融資の中でまとめて説明することにしよう。
ただし、今回の説明で焦点を合わせるのは、
はあくまでも間接金融の機能であり、他の機能については
特に断ることなく自明の前提として話を進める。

ここまで論じてきたとおり、
銀行が教科書で書かれているような意味では
「間接金融」「資産変換」というような役割を担っていないことは
明らかであるが、しかし
「直接金融」「間接金融」の区別には
全く意味がないわけではないし、
確かに銀行が間接金融=資産変換機能を果たしている、
という側面はある。
資金余剰主体=債権者が、資金不足主体=債務者の発行した
債券を直接保有することを、直接金融といい、
債権者の保有する債権が、債務者の発行した債券ではなく、
第三者の債券である、との原点に立ち返れば、

ある企業(あるいは個人)が、仕入先に対して
自分自身の支払手形(あるいはCPでもなんでもいいが)によって
支払をするなら、これは債権者が直接債務者自身の債券を
保有する、という意味で直接金融である。
他方で、債務者が自らの負債を振り出すことで
当座の支払いをすることができず、
第三社から決済手段を借りてこなければならない場合には
直接金融と間接金融のケースに分かれる。

仮に当座の仕入代金をまかなうため手形を振り出しても
仕入先がそれを受け取らない場合、あるいは
給与支払や納税の場合、
支払う側は、なんとかして銀行の負債を手に入れなければならい。
これが社債やCPの発行により
公開市場で行われたとしよう。あるいは金融機関以外の
経済主体と相対取引で債券を提供するのでもよい。
いずれにせよ、こうして入手した銀行預金により
仕入れ業者に支払いをした場合、
当の企業に対する債権者は、債券の保有者である。
他方で、仕入れ業者は銀行に対する債権者ではあるが
納品先の企業とは、貸借関係はなくなる。
結果的に――事後的に――、この企業と
債券保有者の間には、直接金融の関係が成立している。

銀行預金を銀行から直接借り入れる場合は
これとは異なる。
企業は銀行に自らの債券を差し入れ、
そして銀行から預金を借り入れる。
そして、その預金を仕入先に譲渡する。
その結果、仕入先は銀行に対する債権者となっている。
そして銀行は債券を振り出した企業に対する
債権者となっている。ここでは、確かに間接金融が成立しているが、
これは、事前的な関係ではない。
事前の貯蓄(現金の預け入れ)は、必要とされていない。

こうなってくると、
通常の教科書では「間接金融」の役割の一つと考えられている
「資産変換機能」も
また意味が変わってくる。教科書に載っているような
預金者から短期・安全・低金利の資金を受け取って
資金需者が必要とする長期・リスクあり・高利回りの資金へ
変換している、などという意味はない。
これは事前的には、銀行の信用創造機能と
同じことになる。ただ事後的には、
預金者の預金が借入人の借入をファイナンスしているという
会計的定式が成立している、というだけの意味しかない。


政府に対する融資の場合も、似たようなものである。ただし問題は
政府に対しては、銀行は自ら負債を発行して貸し出しをするわけには
いかない、ということである。これは日本に限らず、
政府が中央銀行に政府預金口座を開設し、
支払いをその口座から民間銀行へ資金を振り替えることによって
実行しているすべての政府に共通である。
逆に言えば、政府が預金口座を開設している銀行が
決済のため、さらにほかの銀行あるいはその他の経済主体の振出す債券を
獲得しなければならないケース――ユーロのような――には当てはまらない。

さて、銀行が政府に融資を実行するには
日銀当座預金を手に入れる必要がある。日銀当座預金を手に入れるには
なるほど預金者から預金と引き換えに現金を集める、というのも
一つの重要な手法ではあるけれど、しかし、目先の
国債発行に対しては、それでは間に合わない。それよりは、
日銀から手に入れたほうがよっぽど手っ取り早い。
ここではとりあえず、新規国債発行額と同額の
国債が日銀に買い取られたとして
話を進めよう。そして、そうやって増やされた日銀当預が
国債発行を通じて、一端政府預金に振り替えられる。
結局のところ、銀行部門の保有国債残高に変化はなく、
これは日銀が国債を直接引き受けたのと同じ状態になっている。
この意味で、日銀の負債である日銀当預は
これが政府支出を通じて増加する場合には
政府自身の負債と実質的に同一視することができる。
そうすると、政府が民間部門に対して支払いをする場合、
何が行われているのか、というと
これは民間部門が銀行から借入れて銀行預金により
仕入代金を支払うのと、全く同じである。
政府は自分自身の負債である日銀当預を
民間銀行に差し入れる。そして民間銀行は
この借入証文を受け取る代わりに、
自らの負債を発行して、政府の支払いを代行するのである。
そしてこの時、日銀当預が過剰になれば
日銀は、これを金利付きの負債である国債と取り換えることで
吸収するだろう。銀行は過剰となった日銀当預を
保有し続けるよりは、金利付きの国債を購入するだろう。
国債の民間保有残高を決定しているのは、
実質的には日銀であって、政府ではない。

ここで政府と民間企業の違いを言えば、
民間企業は、時として銀行により
負債の受け入れを拒絶されることがあるのに対して、
政府は常に受け取られる、ということである。
なぜ必ず受け取られるといえるのか、というなら、
企業や個人と違って、政府は自分自身の負債を、将来、
より信用のある第三者の負債によって清算する必要がないからである。
政府は、法律によって、自ら、国民に負債を課すことができる。
そして、この負債を決済するためには、その負債を課された国民は
政府(日銀)の負債を手に入れ、それによって相殺するしかない。
この「政府自身の負債によってしか、相殺できない債務を
国民に課す力」によって、政府の負債は
自動的に債務ヒエラルキーの頂点の存在となる。それだけのことである。
それ以外は、ほかの債務と変わるところはない。
政府は、自らの債務によって銀行の預金を手に入れ
それで公務員の給与支払いや業者への支払いを
実行する。日銀当預を銀行に支払う代わりに
銀行に預金による支払い代行を依頼する。結局のところ
政府も銀行に債務を交換してもらっているのである。ほかの経済主体同様
政府の債務(日銀当預)によって銀行の債務をファイナンスしているのであるから、
政府の赤字によって政府の国債がファイナンスされるのは
民間の貸付の場合と同様、まったく当然である。政府が国債発行のため家計の預金を必要としない、
というのは、家計がローンを受けるのに預金を必要としない、
ローンによって預金が生まれる、
というのと同じことである。事前の資金、事前の間接金融――教科書的な――というのは
幻想である。

結局のところ、政府も民間も同じである。
民間が、自らの、あるいは第三者の負債を民間銀行に差し出すことで
民間銀行は預金を生み出し、それを貸し付けていた。
政府も同じく、民間銀行に自らの(あるいは日銀の)負債である
日銀当座預金を差し出すことで、民間の支払先へ
振込を依頼している。ただ民間と政府が違うのは
民間の負債は、ときには銀行により受け取りを拒絶される。
そして、実際にデフォルトリスクもある。
政府の負債とは、その点が違うだけである。
政府の国債も、銀行が保有しているのなら、銀行を通じて
預金者によってファイナンスされている、ということはできるが
しかしその預金自体は、
結局のところ、政府自身が銀行から借りれ、銀行が預金創造することによって
形成されたものである。逆ではない。
政府の国債発行残高が
家計の金融資産残高の影響を受けない、ということは
国債の性質よりは、銀行の融資活動というものの
性質によっているのである。


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