断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

L. Randall Wray の続き(というより、やり直し)

2012-09-29 10:07:38 | MMT & SFC
Wrayの話。仕切り直し。

主流派経済学(に限らず、一般的通念)では
貨幣とは、まずは物々交換の手間(欲望の二重一致)を
省くために発明され、ついで、信用制度が
発達した、とされる。金匠が手形を発行し
それが金の現物代理として流通し始めたことが
紙幣制度の発端で、しかも、手持ちの金量を上回る
手形を発行するようになったことが、
近代銀行ビジネスの原型になった、というわけだ。

そして、一般均衡理論の中では
この貨幣は、本来需要される財・サービスを入手するまでの
一時的な代替物とされ、経済分析においては
(短期的攪乱項としての役割はあるものの)
長期的には無視して差し支えない、ということになる。

短期的には、、
金に代表される外部貨幣(ベースマネー・ハイパワードマネー・
マネタリーベース)の供給量が決まれば、
金融機関の営利活動の結果、
そのベースマネーに一定の信用乗数を乗じた値の
内部貨幣の供給量が決まる。貨幣の供給量は全体としては、
外部貨幣(ただし、金融機関が保有する分は除く)と
内部貨幣の合計額となる。
したがって、信用乗数が安定的であれば
(そして、安定的であると想定されている)、
体系内部の貨幣供給量は、外部貨幣の供給量によって
一意的に決まる。現代信用貨幣制度の下では
中央銀行がベースマネーの供給量を決定することで
国内のマネーストックが決定されることになる。
そして、このマネーストックが決まると、
貨幣市場を均衡させるように
短期金利が決まり、それによって、民間企業の
実物投資のための資金調達コストがきまり、
そこから、(短期的には)国内総生産が決まる。

したがって短期利子率は、一般均衡で実現されるべき
長期利子率(ヴィクセルの自然利子率)から乖離しうる。
しかし、長期的には予想は現実と一致し、貨幣利子率は
自然利子率に一致する。失業率は自然失業率に一致する。
GDPは、「自然GDP」(???)に、一致する。貨幣は
舞台から退く。

Wrayは、こうした貨幣観について、
理論的には重大な誤謬を含んでいるし、歴史認識としても
事実にそぐわない、という。
貨幣は、発生当初から信用貨幣であり、
それが、金やその他貴金属で表現されていることには
本質的な意味はない、という。この辺は、
まあ、ケインズの影響を受けた非主流派の人たちには
共通のことで、特別目新しくもないかもしれないが
(とうか、その昔、ケインズにしろ
フィッシャーにしろ、貨幣の定義は「それを譲渡することによって、
ものを購入できるか、自分自身の負債を
償還できるもの」というものであって
「第三者の債務証書」というのは、その中核的存在だったわけだが)、
そこから、クナップの貨幣国定学説へ、と飛ぶところが
変わっている。ケインズ自身もクナップに対する言及があるが、
個人的な印象としては、他の人たちからはあまり重視されていない
ような気がする。日本では、戦前か戦争中に
ゴットルあたりと並んで、評価されていたんじゃないか、
という気もするが。。。
(高田馬場あたりの古本屋で、まとまっているのを
見かけたような気がする。。。。あいまいな話で、
何の根拠にもなってないな。。。)
いずれにせよ、貨幣をIOU、第三者の債務証書、
といいながら、同時に貨幣国定説に寄り添おうとするスタンスが
非常に物珍しい。

貨幣の期限をIOUに求める、というすのは、
次のようなことである。
人間社会では、貨幣に先行して
今日の言葉でいう
掛け売り、掛け買いが、通常に存在していた――
「掛け売り」「掛け買い」という言葉にこだわれば、
難しくなってしまうが、要するに、
物的交換を行うに際して、
受け取るものを受け取るときと、提供するものを提供するときの間に
時間的差異がある、ということだ――
この、売掛、買掛を表現する数字が
貨幣の原初的形態ということになる。
この辺はGrazianiなどと同じである。
まあ、考えてみれば当たり前の話で、
何を価値の基準にするにせよ、
交換当事者が、同時に満足するまで交換が行われることがない、
となったら、商品交換など発展するはずがないだろう。
「今日のところは、貸しにしておいてください」というのがなければ、
現代においても過去においても、交換など発達するはずがない。
我々の観念の中には、昔の人間は野蛮で、
お互いを信用することはなかった、
というような観念があるのかもしれないが、
近年の古代史の研究などでも、
人間に対するこうした見方は、
かなりの修正を余儀なくされているようだ。

Wrayの場合、重要なのは、
生産によって貨幣が発行されるのであり、
貨幣が生産から独立して存在しているわけではないことだ。
――という言い方は、誤解を招くかもしれない。
しばしばいわれる通り、Pケインジアンの特徴は
貨幣の「ストック」としての性格を重視することにあるのであり、
「生産によって貨幣が生み出される」というのは、
どちらかというとサーキットセオリーの枠組みだ。
しかし、Wrayは、ミンスキー同様、貨幣を
私的債務証書IOU(I owe you)として認識している。
ミンスキー同様、「誰でも貨幣を発行できる。
ただ問題は、受け入れてくれる人がいるかどうかだ。」
サーキットセオリーでは、最初から制度的与件として
金融部門、企業部門(生産部門)、家計部門(消費部門)を
並立させ、その上で、企業が生産活動を行うに先行して
資源を調達するため、金融部門から、金融部門の私的債務証書としての
貨幣を調達する、ということになっている。
ミンスキー = Wray の場合には、
企業は、生産に先行して資源を調達するため、
自ら手形を発行することになるわけだが、
ところが、これが誰にでも受け取ってもらえるとは限らない。
だからより流動性の高い民間金融機関の負債である
預金と交換されなければならない。その必要がなければ、
つまり、企業の発行する手形が手形のまま裏書譲渡され続ければ
そして、それが、最終的に製品の販売代金の回収時期まで
割り引かれることなく持ち越されれば
それは実際には貨幣としての機能を果たし続けていることになる――
ただそれでも、最終的には、銀行信用による清算を必要とされていることには
変わりない。
つまり、貨幣とは、まあ、いわゆるM1、M2、M3 のことではなくて、
IOUのことだが、
このIOUというのは一種のヒエラルキー構造を持っている。
個人や民間企業のふり出す手形は、より上位のIOUによって、
典型的には銀行信用によって、その流動性を担保されなくてはならない。
そして、こうしたヒエラルキー構造の頂点にあるのが
中央銀行の発行するIOUで、
金融機関の流動性は、すべてこの中央銀行のIOUによって保障されなければならない。
要するに、信用貨幣制度というのは、このIOUのヒエラルキー構造そのもののことで、
いくらコインや札束をひっくり返してみても、何もわからない、
というわけだ。
最終的になぜ、中央銀行が発行するIOUが、ヒエラルキーの頂点として、
国内における最終的な決済手段として用いられるのか、、、、、
の、説明があったかどうだったか、覚えていないのだが、
結局は、後で説明する
国家貨幣と同じ理屈と考えていいと思う。

さて、貨幣を、こうしたIOUのヒエラルキー構造として認識すると、
何がどういうことになるのか。

まず簡単に言えることは、貨幣は中立でもなければ
中央銀行によって外生的にコントロールできるものでもなくなる。
いわゆる「内生的貨幣供給論」だ。

IOUが、より広く受け入れられるためには、
より信用の少ない企業の発行したIOUも、裏書譲渡あるいは
割引されなければならない。当然、IOUの量が増えれば
金利は高くなるだろう。新規発行されるIOU(限界的なIOU)を
引き受ける対価は、IOUが増えるとともに上昇する。
つまり、貨幣(IOU) の供給量は利子の増加関数になる。
つまり、貨幣供給関数は右上がりになる。
主流派ともホリゼンタリストとも異なる、つまり、アメリカの
Pケインジアンに典型的な
ストリャクチャリズムである。

国内の取引の数が増え、貨幣の量が不足し始めると、
各経済主体の発行するIOUが、通常より流動性を持ち始める。
各経済主体のリスクに対する感覚が麻痺し始め(財務ユーフォリア)、
金融はポンツイ化し始める。ミンスキーテーゼ、
いわゆる「金融不安定性仮説」である。

さてさて、
貨幣のヒエラルキー構造というのは、厄介だ。
当然のことながら、このヒエラルキー構造は
物的生産関係あるいは経済的再生産の関係をコントロールする
重要なかなめである。ところが、
このコントロールする手段であるはずのヒエラルキー構造自体は
金融政策当事者によっては、ちっともコントロールできないのである。
次から次へと新しい金融商品が開発され
このヒエラルキーは常に攪乱される。景気が過熱し、
財務ユーフォリアが昂進すれば、ますます
リスクの大きなIOUが決済手段として流通し、
それがさらに景気を過熱させる。
リスクの大きな証券は、それが事故なく流通している、
という事実によって、リスクが低評価され、
高い格付け評価を受ける。
(なんか、だんだんWrayを離れて、自分の言いたいことを
書き始めてしまっているわたくし。。。。)
そして、いざ、バブルがはじけ、これらIOUのリスクが顕在化すると、
これらの資産価値は急激に減価し、
各経済主体のポジションを毀損する。
こうなると、新しいIOUを発行することは極めて難しくなり、
貨幣残高( M1、M2、M3 のことではなく、決済手段として
用いられるIOUの総量)は急減する。
この場合、レンダーオブラストリゾート政策で
金融機関や、場合によってはそれ以外の経済主体を
保護することは可能であるが、
それは、せいぜい過去に発行されたIOUの価値を
維持することができるだけで、
それによりIOUの残高は増えるわけではなく、
経済活動を活発化させ、雇用を増やすことはできない。

こうした状況は、貨幣のヒエラルキー構造をそのままにしていたのでは
解消することは難しい。
だから、貨幣のヒエラルキー構造をひっくり返すことが必要になる。

貨幣のヒエラルキー構造をひっくり返すといっても、
結局、貨幣を発行するのは、政府か中央銀行でしかない。
今日では、中央銀行が構造の頂点にあるIOUとして
ベースマネーを発行しているわけだが、
Wrayによれば、結局、これを国家のIOUに切り替える必要性がある。
国家の予算に従い、国家がIOUとして、貨幣を発行する。
ただし、国家の予算とは何か、が、問題になる。
通常の、要するに、税収および国債による調達額を
予算とする考え方は、矛盾している、というのがWrayの主張である。
というのは、
国家というものを狭く政府部門に限定するのではなく、
近代的な統治機構そのものとして理解した場合、
それぞれの瞬間において、その国内で遊休している資源(過剰生産力)が
国家によって利用可能な経済的資源の上限とみなされるべきであって、
狭い意味での政府の予算を、企業や民間経済主体のように
一定期間内の貨幣所得(および、外部からの借入)とすることには、
意味がない、というわけだ。

国内に遊休資源がある場合、つまり、失業者がいる場合、
国家(その代表者としての政府)は、IOUを発行し、
それを対価として、失業者を直接雇用する。
そして、この、政府の発行するIOUが、ベースマネーとなる。
中央銀行はIOUを、発行しない。
ただし、失業者を雇用する場合の賃率は、民間企業の雇用する水準の
最低限と定める。
というのは、こうすることにより、
景気が良くなれば、自動的に失業者が減少し、
ベースマネーの供給量が減少し、
結果として、景気が過熱して財務ユーフォリアが発生することを
抑制する機能を持つことになるわけだ。
それにもかかわらず、恐慌が発生した場合でも
労務者には、最低限の生活保障が与えられる。
また、世の中の景気がいくら良くなっても、
成功せぬ芸術家や、ある種の発達障害を持つがゆえに
まともな雇用を得られぬ人々がいる限り、
(さらには、実際の生活保護や様々な所得補償も
政府のIOUによって支払われる限り)、
最低限の貨幣供給は保証される。

他方で、国税は、一層重要な意味を持つことになる。
国税は、政府部門の収入のために必要とされるのではなく、
政府の発行したIOUを回収するために必要とされることになる。
法人税は(現在でも、まともに機能していればいえることだが)
ビルトインスタビライザーとして機能する。

そもそも、中央銀行のIOUがなぜ通貨として社会全体を包摂する形で
流通し始めることができたのか――ひとたび流通し始めれば、
それが安定的に機能している限り、「貨幣がなぜ流通するのか。
他の人も、皆、明日もその貨幣が流通し続けると信じているからだ」という
わけのわからないテキストにも意味があるが――、といえば、
特に日本人なら誰でも学習したことがあるだろうが、
結局は、年貢の物納を貨幣による税金に切り替えることによって、
しかもそれを実行するため、全面的な武力弾圧を行うことによって、
である。貨幣はそれ以前から存在しているが
カール・ポランニーが言うような、
「社会を包摂する」ようになるまでには、
結局暴力的プロセスを必要としていたのである。

今日、中央銀行のIOUを政府貨幣に切り替えるに際しては
そのような暴力的プロセスは必要ないだろう。
しかしながら、これは、貨幣のヒエラルキー構造を
ひっくり返すという、やはり大きな利害関係の対立を生じさせる
仕事になる。

というわけで、

ちょっと、今日はここまで。

気が向いたら、
続く。


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