ワニなつノート

テーマⅡのメモ(その11)


《強力な固定観念の溶ける時間(3)》

《「ありふれた」ことと「奇跡」のようなことの間》



二つのブログからのイメージ。つづき。


見えているのは、子ども同士のありふれた関係。
同じクラスの子どもたちの、当たり前のワンシーン。

それが「ありふれた」「当たり前」のことであると、頭では分かっている。
だけど、ありふれたことが、ただうれしい。
当たり前の関係が、ただうれしい。
子どもがただ当たり前にそこに友だちといるのが、うれしい。

心のどこかで一度はあきらめた景色かもしれないと思う。
そんなことはもう望んではいけないこと。
そんなことは起こるはずのないこと。

どんなに願っても、障害がなくなることはなく、
だから、それはあきらめなければいけない光景だと、
迫る常識と情報だけがあふれていた。

療育センターの医師もSTもOTも幼稚園の先生も、
教育研究所の相談員も……、
誰もが「ふつう学級じゃこの子がかわいそう」といった。

いじめられたらどうするんですか。
自己肯定感が育ちませんよ。
ふつうの子どもたちと一緒なんて、かわいそうでしょ。
一人だけでできなくて、自信をなくすだけです……。


ぜんぶ、嘘だった。


あの人たちは、この子たちに出会ったことがないのだ。
この光景を、見たことも聞いたことも、
なにより、自分で体験したことがないのだ。

障害があるとかないとか、
そんなの関係ない世界も子どもたちの世界にはあることを、
信じることができないのだ。

きっと、ずいぶん勉強をがんばったのだろう。
かわいそうに。

       ◇

《強力な固定観念の溶ける時間》



それが、ありふれた場面だと知っている。
なのに、奇跡の場面のように感じる自分がいる。

「当たり前」と「奇跡」の間にあるもの。

当たり前が、なぜ奇跡のようにみえるとき、
「強力な固定観念」は溶けていく。
不安が、ありふれた大丈夫に変わるとき、
「こだわり」は溶けていく。


「障害」があるから無理。
「障害」があったら、一緒は無理。
「障害」があるから、対等な関係は無理。
それは、古い文化の、「強力な固定観念」でしかない。
わが子に出会う前、ずっとそのなかで生きてきたから抜け出すのに、時間がかかった。

だから、目の前のありふれた光景が宝物にみえる。

それは、ふつう学級でなければ不可能だったと、
「当たり前」が「奇跡」である体験をした人は知っている。

最強の「固定観念」は、「ふつう学級はむり」ということだったから。

私たちは、分けられて育ったから、それを信じてしまった。

だから、もう、子どもを分けてはいけない。
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