リハビリの夜(その10)
「世界に注ぐまなざしの共有」の反対は、
「教育的まなざし」でしょう。
相手と1対1で向き合い、
一方的に「教えよう」とする視線のこと。
だから、「世界に注ぐまなざしの共有」のためには、
お互いを見あうのではなく、
「隣に並んでみること」が大切なのでしょう。
満天の星や夕日をみるときに、
ただだまって隣に並んですわることで、
「一緒に同じものを見ている」ことを
「理解する」ことが、人にはできます。
「一緒に見ること」。
「隣にすわって、同じものを見ていることを、
《お互いを見ないで分かる》こと」は、
考えてみれば不思議なことです。
子どもが小さいころ、『お母さんといっしょ』などの番組を
見せている間に家事をすませてしまおうとよく思いました。
でも、子どもは、「いっしょに見よう」と誘います。
その番組を「見る」ことと、
「一緒に見ること」は、違うことなんですよね。
でも、「いっしょにみること」
「となりに並んでみること」の大切さを、
私たちはそれほどはっきりとは分かっていません。
前回の「世界に注ぐまなざしの共有」のあとに、
熊谷さんは《「健常者」と「私」、二つのまなざしが必要》
と書いています。
もちろん、そのためには『膨大な量の観察学習』が不可欠です。
そして、その『膨大な量の観察学習』が可能な場所は、
子どもにとって『幼稚園』「保育園」、
それと「普通学級」しかありません。
□ □ □
「健常者」と「私」、二つのまなざしが必要
私の身体は独力でできることが少ないため、
一人暮らしを始めた後も、介助者の身体を身体化することが
必要不可欠である。
これはある種の怯えを伴う事態である。
たとえば、初めて会う人に介助をお願いするとき、
相手が何を考えているかわからない状態のまま触られるのは、
とても怖いことだ。
相手が何を考え、次にどのようなタイミングで
どのような運動をするかについて、
ある程度こちらが予測できる状態でなければ、
身をあずけることは難しい。
自分では実行することのできない健常者の運動パターンを
想像的に取り込む作業というのは、
その他人がどのように感じ、
これからどのように動くかを予測するために必要とされる、
基本的な作業といえるだろう。
私は一人暮らしを通して、
さまざまな健常者の身体と交渉し、
借用する経験を重ねていった。
そしてリハビリのときにはわからなかったような
「健常者の動きのイメージ」や
「健常な身体にとっての世界の意味」を知ることになった。
車いすを押す介助者の荒い息づかいを背後に感じることで、
「なるほど、この坂道は健常者でもきついのか」とか、
そんなことを数多く学んでいったのである。
・・・
つまり、私のような少数派は、
多数派との協応構造を取り結ばなければ
生きていかれないために、
私オリジナルの運動規範のみならず、
多数派の規範をもキープし続けざるを得ないという、
いわば「規範の多重性」が、
生きていくために必要な条件になる。
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