ワニなつノート

「適格者主義」を超えて


「適格者主義」を超えて


私たちはなぜ、「高校希望者全員入学」を問題にするのか。

子どもの願いがあまりに当たり前の希望だと思うから。


「義務教育じゃないのだから、合格した子だけの教育でいい。不合格の子の教育を考える必要はない」という人もいる。

しかし、これは「定員内不合格」にされる子だけの問題ではない。

私たちがどのような社会を求めるのかが問われている。すべての子に、どのような教育を贈りたいかが問われている。



日本の小学校と中学校がインクルーシブ教育を行い、障害者差別のない共生社会を目指している。

そこで共に学び育った子どもたちが、共に生きる社会で生きていこうと思ってくれる。
だから「重度障害」のある子も「高校に行く」という。それこそが、インクルーシブ教育の成果である。


しかし義務教育を終えたとたん、一人の子どもを「定員内不合格」にする社会が現れる。
一浪してなお「定員内不合格」にされた時、伊織君は生まれて初めて、「どうして」という言葉を口にした。


私たちは、それにどう答えるか。


「重度知的障害者には、法律上、高校教育を提供できないが、受験の機会は提供しており、門前払いや切り捨てではない。」 

沖縄県教育委員会のその答えにどんな「知恵」があるのか、どんな「知性」があるというのか。



昭和38年の文部省通知【高等学校の入学者の選抜は、高等学校教育を受けるに足る資質と能力を判定して行なうものとする。心身に異常があり修学に堪えないと認められる者その他高等学校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当ではない】は、「障害者差別」そのものである。

その56年前の通知に従い、百人の「定員」が余っていても一人の子どもを切り捨てる社会を守るのか。

それとも「18歳までのすべての子どもへの教育の保障」という真の「子どもの権利」を実現させるのか。


ここでも私たちは、伊織君ひとりの問題でなく、「私たち一人ひとりがどのような社会に生きたいか」と問われている。



15歳まで一緒に育った仲間のうち、一人だけに教育を与えない。その先に、どんな豊かな社会ができるだろう。「重度障害」の教育は法律で提供できない、高校に行きたければ勝ち組になれ、「低学力」じゃだめだと競わせる社会が、健康な社会、豊かな社会と言えるだろうか。


見えなくても、聞こえなくても、歩けなくても、呼吸器を使っていても、知的障害があっても、子どものころから出会い、遊び、学び、育ちあう仲間でいられることを、子どもたちが教えてくれる。障害があることは、人として恥ずかしいことではない。「点数」をどれだけ取れたか。「知的障害」がないか。そうして一緒に学び育った仲間の中から1%を見捨てることを強いる適格者主義の入試制度こそ、最悪の教育制度なのだ。


本当は、50年前にも私たちは、15歳で学ぶ場を分けられる必要などなかったのだ。点数で、障害で、振り分けられてきた痛みは、「定員内不合格」にされた子どもだけのものではない。15歳まで一緒に育った仲間を切り捨てた場所で、自分だけが受けられる教育に痛みを感じる子もいる。


これまで「貧困」や「養護施設出身」「障害」「低学力」「定員内不合格」といわれ、無念の思いを抱いて生きてきた子どもたちの悲しみと痛みと無念さの上に成り立ってきた「適格者主義」を超えて、子どもへの信頼から始まる豊かな教育を目指したい。


だから私たちは、全国の定員内不合格をなくし高校希望者全員入学を望む。


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