ワニなつノート

定員内不合格という人権侵害



手をかりるように 知恵をかりること 2018


目の見えない子は、問題用紙の文字が読めない。
「視覚障害」があるから。

合理的配慮がないと、目の見えない子は、問題用紙を前にただ途方に暮れるしかない。見えないことで、何を試されているのか分からないから。

それでも、高校で学ぶ「能力・適性」がないとは言われない。
なぜか? 配慮すれば、「点数」がとれるから。

見えなくてもOK。漢字が読めなくてもOK。
点字が使えればOK。言葉が話せればOK。
問題を読むために、人の目と口と知恵をかりてもOK。

「障害のためにできないことは、人の手や目や知恵や技をかりながら、あなた自身が生きるための知恵とスキルをみがき学んでほしい」
私たちは、そういって子どもを励まし応援する。
「どんな障害があっても、あなたらしく生きられるように。あなたのやり方で学べるように」

          ◇

耳の聞こえない子は、音声による質問が聞こえない。
「聴覚障害」があるから。

合理的配慮がないと、耳の聞こえない子は、解答用紙を前にただ途方に暮れるしかない。
聞こえないことで、何を試されているのか分からないから。

それでも、高校で学ぶ「能力・適性」がないとは言われない。
なぜか? 配慮すれば、「点数」がとれる」から。

聞こえなくてもOK。話せなくてもOK。
手話を使えればOK。読み書きができればOK。
質問を聞くために、人の耳と手と知恵をかりてもOK。

「障害のためにできないことは、人の手や耳や知恵や技をかりながら、あなた自身が生きるための知恵とスキルをみがき学んでほしい」
そういって子どもの学びを励まし応援する。
「どんな障害があっても、あなたらしく生きられるように。あなたのやり方で学べるように」

          ◇

身体を動かせない子は、問題用紙を開くことができない。
「身体障害」があるから。

合理的配慮がないと、動けない子は、問題用紙を前にただ途方に暮れるしかない。
問題を開けないことで、何を試されているのか分からないから。

それでも、高校で学ぶ「能力・適性」がないとは言われない。
なぜか? 配慮すれば、「点数」がとれるから。


動けなくてもOK。呼吸ができなくてもOK。
まばたきの会話でOK。指先でパソコンが使えればOK。
試験に取り組むのに、人の手と知恵と医療的ケアをかりてもOK。

「障害のためにできないことは、人の手や目や知恵や技をかりながら、あなたが生きるための知恵とスキルをみがき学んでほしい」
そういって子どもの学びを励まし応援する。
「どんな障害があっても、あなたらしく生きられるように。あなたのやり方で学べるように」

          ◇

この子は、問題が読めない。
「知的障害」があるから。

合理的配慮がないと、この子は問題用紙を前に途方に暮れるしかない。
読めないことで、何を試されているのか分からないから。

目の見えない子と同じように音読という配慮はある。
けれどこの子は、高校で学ぶ「能力・適性」がないと言われる。

なぜか? 配慮しても「点数」がとれないから。
なぜか? 知的・障害があるから。

私たちの社会は、十五歳の知的障害の子どもを、どんなふうに扱ってきたか。

「高校無償化? それは入った子だけ。高校は義務教育ではありません。」
「定員は空いているけれど、あなたの座る席はありません。」

「みんな? いいえ、ただの99%。」
「アパルトヘイト? あなたは南アの黒人じゃないでしょ。」

「差別ではありません。ただの定員内不合格です。」
「合理的配慮はちゃんとしたでしょう。音読も代筆もカード選択も。だから障害による不利益は一つもありません。」

そして北海道でも、山形でも、千葉でも、愛知でも、兵庫でも、香川でも、山口でも、沖縄でも、障害のある子が入学拒否される社会。これが私たちの社会の「学び」の姿だ。

でも本当は、高校無償化のとき「中学を卒業したすべての若者に学習機会を保障する」と子どもたちに約束したのではなかったか。

高校の定員とは、「教育を受ける子どもの数」を表すものではなかったか。

人の手をかりてもいいけれど、知恵をかりてはいけない。
人の目をかりてもいいけれど、知恵をかりてはいけない。
人の耳をかりてもいいけれど、知恵をかりてはいけない。
医療やAIで人の力はかりてもいいけれど、知恵をかりてはいけない。

そして、この子は「学ぶ資格もない」と扱われる。
でも本当は、障害の特性上、獲得が困難なものを評価し、子どもの学びを制限する入試制度そのものが不合理なのだ。


          ◇

この子は問題文が読めない。
知的障害があるから。

合理的配慮がないと、この子は、問題用紙を前にただ途方に暮れるしかない。
読めない問題によって、何を試されているのか分からないから。

だから、音読という配慮をかりることで、真剣に入試に取り組む。
だけど、どう答えていいのか分からない。
問題に取り組む配慮があっても、「点数」はとれない。

この子は「文字」や「音声言語」を使っての学びやコミュニケーションよりも、人とのつながりの中でこの子独自のコミュニケーションで学びながら、世界を理解し生きてきた。

そして、大人になってからもこのやり方で仲間とつながりながら、この社会で生きようとしている。
だから高校で学ぶときも、人の手と知恵をかりて歩んでいけばいい。

「障害のためにできないことは、人の手や目や知恵や技をかりながら、あなたが生きるための知恵とスキルをみがき学んでほしい」
そういってこの子の学びを励まし応援する。
「どんな障害があっても、あなたらしく生きられるように。あなたのやり方で学べるように」

誰もが、誰かの手をかり、目を、耳を、知恵を、技術をかりて生きている。
だから、あなたが人の手をかりることや知恵をかりることは恥ずかしいことでもなんでもない。
あなたは、あなたの生き方で堂々と生きていってほしい。

私たちは、あなたの「共に生きる知恵」をかりて、本当の「共に生きる社会」に出会えるだろう。




 
手をかすように知恵をかすこと



そこに目の見えない人がいたら
その人が必要とするときには 私が手を差し出したり 肩をかしてあげたり
見ることが必要なときには 私の目をかしてあげようと思う

でも私が目をかしてあげることより
学校に点字の教科書があればすむこともある

たとえばメガネをかければすむ程度の視力が低い人はたくさんいる。


そこに耳の聞こえない人がいたら
その人が必要とするときには私が筆談をしたり 手話を覚えたり
聞くことが必要なときには 私の耳をかしてあげようと思う

でも私が耳をかしてあげるより
テレビで手話通訳や文字放送が当たり前になればすむこともたくさんある

たとえば私が外国映画を見るときに
戸田奈津子さんの字幕にどれほど助けられたかを思ってみる

数々の映画の思い出は、字幕の助けなしにはありえなかった
ロッキーもスターウォーズもETも・・・
ということは幾度かのデートも成り立たなかったかもしれない・・


そこに車椅子を利用している人がいたら
その人が必要とするときには私が手や肩をかしたり 階段を上がるのを手伝ったり
歩くことが必要なときには 私の足をかしてあげようと思う

でも私が車椅子を持ち上げるより 
エレベーターやリフトがあればそれですむことの方が圧倒的に多い

たとえば、エレベーターがなければ
都庁や県庁やデパートなどはほとんど利用不可能じゃないかと思う
高層ビルで働く職員は、エレベーターなしでは今のようには働けないだろう


そこに「知的障害」があると言われる人がいたら
その人が必要とするときには 私が文字を読んであげたり お金の計算をしてあげたり
難しい問題を考える必要があるときには 私も一緒に考えていこうと思う。

漢字が読めなければひらがなに直したり 文を読んであげることもできる

旅行に行きたいと頼まれたら 切符の買い方やホテルの予約の仕方 観光する場所や手順をいくつか考えてあげようと思う

そうして、できないことを代わりに手伝ってあげて その人がこの社会でのあたりまえ生活を送ることを手助けしたいと思う


必要なのは 漢字を読めるようになることより そこに書いてある情報を手に入れて利用できることだったりする

必要なのは お金の計算ができるようになることより 欲しいものや必要なものを売っている店を知り その品物を手に入れることだったりする

必要なのは ホテルや飛行機の予約をパソコンで扱えることができるようになることより
ただ旅行にいけることだったりする

高校や大学を出て難しい漢字を読めたり計算のできる人でも 海外旅行はほとんどの人が旅行会社の人に頼むし ツアーガイドを必要とする場合だってある


だから高校に入るのに「筆記試験」を受けなければいけないのなら
問題を読むこと 問題を解くこと 答えを記入することに
私の目を 私の口を 私の頭を そして私の手をかしてあげようと思う

その子が必要としているのは 英語の点数が取れることや数学の二次関数の問題が解るようになることでなく、「高校生」になって 15・16・17・18歳の同世代の仲間と学校生活を楽しみ、過ごし、そして、みんなが生活する社会へ 仲間と一緒に社会に出ていくことだったりするから

生きていくのに大切なもの その社会の97%の人間がごくあたりまえのこととして保証されている権利を 同じように保証されること

そのための援助の手段が「知恵遅れ」の子どもに「知恵」をかすことであっても、それが「不公平」「不平等」であるはずがない



ある定時制高校の入試の受験のとき、自分の名前しか書けない生徒が、名前だけを書いた

生徒を点数では切らない高校だから、そのままでも合格できるはずだったが
試験監督の先生が励ますつもりで「しっかりがんばりなさい」と言った

すると彼は、がんばって、がんばって、がんばって、でも何を書いていいかわからず途方に暮れて、隣の人の答案をのぞきこんだ

合否判定会議で、そのことが問題になった

点数が取れないこと、0点であることは問題ではないが、「カンニング」「不正行為」をしたからには不合格ではないか、と


彼は合格して高校生になれた
4年間の高校生活を、高校の授業、高校の給食、高校の部活、高校の文化祭、高校の体育祭、毎冬のスキー教室、高校の修学旅行を楽しんで、高校を卒業した


その学校の先生たちは、彼の「カンニング」を「不正行為」ではなく、「試験をがんばりなさい」という言葉に応えた彼の「高校に入りたいという意欲」であると考えた

まったくその通りだ
他に考えようはない


目の見えない人に「点字」を使わせずに入学試験をして
その人を不合格にしたら それは「公平」だろうか?


耳の聞こえない人に「英語のヒアリング」や「音楽を聞いて曲名を答える」試験をして
その人を不合格にしたら それは「公平」だろうか?


歩けない人に100メートルを走らせて タイムが遅いからと
その人を不合格にしたら それは「公平」だろうか?


「知恵遅れ」の人に入学試験を受けさせて 点数が低いからと
その人を不合格にしたら それは「公平」だろうか?


目の見えない人は文字が見えない でも点字は読める
目の見える人は文字が読める でも点字は読めない
違いはあるけど同じ社会でいっしょに暮らしている

耳の聞こえない人は、話す声は聞こえない 手話や筆談で会話する
違いはあるけど同じ社会でいっしょに暮らしている

車椅子を利用している人は、自分の足では歩けない
違いはあるけど同じ社会でいっしょに暮らしている

「知恵遅れ」と呼ばれる人は文字が読めなかったり 計算ができなかったりする
違いはあるけど同じ社会でいっしょに暮らしている

目が見えなくても
耳が聞こえなくても
車椅子を使用していても
高校生になれないハンディにはならない

どうして「知恵遅れ」の人のできないこと、苦手なこと、そのハンディだけが、高校生にさせない「理由」になるのだろう?


その「理由」だけが、なぜ、これほど多くの人に受け入れられているのだろう?

「高校は義務教育じゃないから‥。みんなじゃない、ただの97%‥」

「点数が足りない」

それだけで、どうしてこれほど、嫌がられ、嫌われ、無視され、排除され、差別され、何の価値もない人間のように扱われるのだろう?

「点数が足りない」

それだけが、どうして「正当」「公平」「公正」「平等」な理由として、子どもたちを分けるために受け入れられるのだろう?

私はうなずかない

高校が義務教育じゃなかろうと 高校以外の道もあると言われようと
なんと言われようと私はうなずかない

毎年、毎年、受検しては落とされる子どもたちの姿を見ながら
これは「いかさま」か「差別」のどちらかだという確信がある

だから私はうなずかない

絶対にうなずかない



         ◇



「手をかすように知恵をかすこと」にコメントがありました。

今年の受験では、会から10人の子どもが受験し、前期・後期・二次・追加募集の4回の受験を経て、9人が合格しました。
とうとう会の子どもたちの合格が100人を超えました。

それでも、一人だけ「定員内」で「不合格」にされる現実があります。

そんな時期に、「手をかすように知恵をかすこと」へのコメントなので、つい返事が長くなりました(o|o)

     ◇      ◇      ◇

【ブログ拝見しました。知的障碍のある方の高校入学について、「点数が足りない」から試験に落とされるのは「公平」ではないとお考えのようですね。

それでは、身体や知的に何の問題もないごく普通の学生が自分の学力では到底入学できそうにないレベルの高い高校や大学に入学しようとして入学試験を受けても「点数が足りない」との理由で落とされるという場合とどのように違うかが私にはわかりません。

もし何らかの違いがあると思われるならばご説明していただけないでしょうか。
あるいは、試験や競争そのものを全て否定されるものとお考えですか。

ただ、私も障碍のある方とそうでない方が共存できる社会にしていくことは理想的だと考えます。
長文失礼しました。】


     ◇      ◇      ◇


「試験」を、何のために行うのか、という考え方の違いなのかなかと思います。

「試験」は絶対的なものではなく、次の記事のように、「合格率を高めるため」に、「試験時間を延長したり、問題文すべての漢字にふりがなを付けたり」することができるのです。
その「制度」を作る側の考え一つで、結果は変わります。

     ◇      ◇      ◇


【ふりがな、時間延長…外国人の看護師試験改善策】
(2012年3月23日 読売新聞)

 小宮山厚生労働相は23日午前の閣議後記者会見で、外国人看護師の国家試験合格率を高めるため、2012年度に実施する次回試験から、試験時間を延長したり、問題文すべての漢字にふりがなを付けたりするなどの改善策を導入する考えを明らかにした。

 介護福祉士の試験についても今後同様の対応を検討する。

 経済連携協定(EPA)に基づき、インドネシアとフィリピンから来日した看護師候補者は、2008年以降572人いるが、昨年までの合格者は19人にとどまっていた。

 政府部内では、英語や母国語での試験を併用することも議論となったが、厚労省の有識者検討会は今月とりまとめた報告書で、医療安全の観点から「日本語による国家試験が必須であるとの意見が多く示された」と明記。

このため、「日本語が障害になっての帰国にならないよう」 (小宮山厚労相)特例を実施することにした。


     ◇      ◇      ◇

また、試験そのものが、「やむをえない害悪」(文部省)という場合もあります。

昭和24年に「文部省」はこう言っています。

「入学者の選抜を望ましいものであるという考えをいつまでももっていてはならない。」

「選抜はやむをえない害悪であって、経済が復興して高等学校で学びたいものに適当な施設を用意することができるようになれば、直ちになくすべきもの」

「高等学校はその収容力の最大限度まで、国家の全青年に奉仕すべきものである。」


     ◇      ◇      ◇

前置きが長くなりました。

まず質問を分けます。
私は、大学の受験については触れていません。
私が差別的な制度だと思うのは、「高校受験」です。

高校の受験と、大学の受験は、まったく違います。
高校の進学率は限りなく100%に近い数字です。
中学生の人生、実生活の中で、「中卒」という現実に出会うことは極めて稀です。
それに対して、短大は6%、大学も50%前後です。
それは「自分で選んでいい」というのが、誰の目にもあきらかな数字です。

私は、大学にも、知的障害のある人が学んでいたり働いている方が、豊かな研究ができると信じていますが、それはまた別の話。

高校で教育の仕事をしているにも関わらず、「高校受験」と「大学受験」の違いが、まったく分かっていない先生が大勢います。
「試験の点数」を取れなければ、不合格は当然、という「常識」を身につけすぎたことで、「差別」に鈍感になる人たちがいます。
試験の意味も、選抜の意味も、考えることができないのでしょう。


高校受験と大学受験の違いのいくつか。
高校は、後期中等教育といって、中等教育にあたります。
世界の子どもの人権の一つに、教育を受ける権利があります。
子どもには、誰でも、教育を受ける権利があります。

その教育とは、初等教育、中等教育です。
そして、これらの教育は、「無償」で受けられることが望ましいと世界中で考えられています。

ようやく日本でも、去年から高校の授業料が無償化されました。

また日本は学校を建てられない貧しい国とは違いますし、子どもの数が減り続けていますから、高校の数が足りないことはありません。

建物はある。先生もいる。授業料は無償。
日本に生まれた子どもは、小学校、中学校、高校で、教育を受ける権利が保障される準備ができています。
実際、養護学校高等部では、希望するすべての生徒が、高校生になれます。
100%です。
大学生のあなたが生まれるずっと前から、養護学校に通う障害児は100%高校進学が保障されてきたのです。
いわゆる「希望者全入」です。

しかも、高校生活を保障するために「就学奨励費」も支給されます。
就学奨励費の中身は以下のようなものです。
「手厚い」教育というのは、こうした面では本当です。

①教科書購入費、②学校給食費、③通学費、④帰省費、⑤職場実習費、⑥交流学習費、⑦寝具購入費、⑧日用品等購入費、⑨食費、⑩修学旅行費、⑪校外活動費、⑫宿泊学習費、⑬学用品購入費、⑭新入学用品費、⑮通学用品購入費

そう、学力テストの「点数が取れない」障害があっても、初等、中等教育は保障されるのが当たり前だから、この国では、普通学校よりお金のかかる養護学校を建設し維持しています。

私が不公平だと思うのは、養護学校ではなく、ただ兄弟や地域の友達と一緒に学びたいと、普通学級で教育を受けて、義務教育を終えた子どもたちだけが、高校への道を断たれ、切り捨てられていることです。

「障害」があるから不合格は、差別です。
では、障害のために「できない」ことを、理由にして不合格にするのは、なぜ「公平」と言えるのでしょうか。

     ◇      ◇      ◇

今年の話です。

Y君は前期入試で、地域の全日制高校を受験しました。
2倍近い倍率で、不合格でした。

残念ですが、それはそれでありだと私は思います。
私は、障害児だから第一希望がかなうのが当然だと思っているわけではありません。
幸い、前期試験では、クラスの仲間の半分が不合格になります。志望校に落ちて、悔しい思いをすること、悲しい思いをすることもありだと私は思います。

後期入試でも、Y君は同じ全日制高校に挑戦しましたが、不合格でした。

この時点で、進路の決まっていない子は、ほとんどいません。
そして、この数日後が中学の卒業式。
卒業式の日に、進路が決まっていない生徒は、ほとんどいません。
「卒業おめでとう」という言葉が行き交うその日、行き場のない子どもの不安はどれほどのものでしょう。

卒業式の後、二次募集があります。
Y君は、定時制高校を受験しました。
受験者は定員以下でした。
しかし、Y君は不合格でした。

3月末、Y君は、最後のチャンスである「追加募集」の受験に挑戦しました。
20人募集の定時制高校で、受験者は2名でした。
これでようやく高校生になれると、私たちは願いました。

結果は不合格でした。

合格は一人。

定員はまだ19人空いています。
1クラスのまだ半分は空席です。

不合格の理由は、点数が取れない、からです。
それは、障害がある、から、ということに他なりません。

香川のらびさんは、8年間、定員内不合格という差別を受け続けています。
今年も高校生にはなれませんでした。

席が空いているバスや、レストランで、肌の色が違うからと、座ることを許されなかった社会と、これは何が違いますか?

肌の色という理由は差別で、試験で点数が取れないのは、「正当」だと、高校の校長が自信をもっているこの社会は、アパルトヘイトと同じです。

子どもの教育の仕事をしている人が、子どもの成長に関わることを生業としている人が、定員があいているのに、席があいているのに、つきあいたくない、座らせたくないからと、追い出す理由が、「点数」であり、学力である、ということ。
そして、その相手は、その「点数」をとることに「障害」がある子どもなのです。

これを不公平というのだと、私は思います。

Y君や、障害のある子どもたちが、「かわいそう」なのではありません。

私は、こんな「いかさま」で、ごく一部の子どもたちを、だましている社会に暮らしている自分が、悔しいのです。


「高校入試は公平だよ」
「受験する機会は、誰にも平等だよ」

「養護学校高等部なら、誰でも入れるよ。希望者全員、高校生になれるよ。高校生になりたいなら、養護学校に行きなさい」

その仕組みの中で、どれだけの親子が、「養護学校」を「選ばされている」ことか。
子どもに「教育」を受けさせてあげるために、親があきらめなければいけないものが、「地域」であり、「地域の友だち」、「兄妹とは別の小学校」です。

高校入試の話は、単に、「試験」の話ではありません。


「にんげんにとって
ほんとうのまずしさは、
しゃかいにみすてられ、
じぶんはだれからも
ひつようとされないとかんじることです」
(川口武久)


「障害」のある子どもが、小学校の6年間を同級生たちと一緒にどのように生きてきたか。
中学の3年間を仲間のなかでどのように生きてきたのか。
そうした暮らしの一秒さえ理解できず、「定員」が空いている教室の椅子を平気で片づける校長という人間が、「にんげんとして、ほんとうにまずしいにんげん」だということは確かなことだと、わたしは思います。
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