ワニなつノート

リハビリの夜(その8)

リハビリの夜(その8)


熊谷さんは、「一人暮らし」を始めたことで、
トイレとつながり、シャワールームとつながり、
ベッドとつながり、玄関とつながっていきました。

そのためには、
「一度、これまでの形をほどく必要がある」と言います。

「一人暮らし」で「自分」と出会い、
「自分の意識が届かない場所で、
半ば自動的にトイレとのチューニングを始める」
と書いています。

そして、この《チューニング》という体験は、
…「教師なし学習」だといいます。

この言葉を読みながら、私の中では、
自動的にこうちゃんややっちゃんの
《チューニング》の様子が浮かびます。

以前、やっちゃんの「こだわり」について書いたときに、
私が気付いたのは「こだわり」には、
「こだわりの溶ける時間」「こだわりの溶ける関係」
「こだわりの溶ける場所」がある、ということでした。

それが、6歳7歳、という「子ども」で、
自閉症という障害があれば、
「定型発達」の子ども専用に作られた学校の仕組みに
慣れるには、時間がかかるに決まっています。

それを、学校の先生は、「問題行動」と評価するけれど、
私たちは「その子のせいいっぱいの適応行動」
だと言ってきました。

熊谷さんの言葉は、脳性麻痺の身体の「チューニング」
のことを語っているのですが、
私には、自閉とよばれる子どもたちの、
「チューニング」=「教師なし学習」に聞こえるのです。


その後に続く文章を紹介します。

見出しが《内部モデルはあとからやってくる》です。
これも、ワニなつカルタにある
「理解はあとからついてくる」と同じだと感じます。


     □     □     □


《内部モデルはあとからやってくる》

リハビリでは、トレーナーがあらかじめ
「これが正しい動き」という正解のイメージを設定していた。

そしてその「正しい運動イメージ」を
内部モデルに取り込むことが要求された。

このような「まなざし/まなざされる関係」における運動学習は、
予測的な内部モデルをつくり、
それにしたがって体を動かすことを練習する
「教師あり学習」の系列に属するといえるだろう。

そこでは、モノや人とつながるのは、
健常な動きを実行できるようになった「後」であるとされる。

つまり、「内部モデルの習得→つながり」の順番だ。


そして一人暮らしを始めたときの私は、
「教師あり学習」の成果である健常者向け内部モデルに
ぼんやりと貯蔵された「健常者がトイレに行く」ときの
運動イメージを、手本として思い出しながら動きはじめた。

しかしその遂行がうまくできず、
身体内協応構造と内部モデルが
敗北の官能を伴いながら自壊した。


手本を失い、正解の動きというものが
もはや見当たらない状態となった一人暮らしの中で、
便意を解消したいという思いに突き動かされて
無秩序に動く私は、
環境との「ほどきつつ拾い合う関係」に身をゆだねながら、
そこにあるモノとの交渉によって
オリジナルの動きと内部モデルを立ち上げていった。

これはそのつど動きを創発させる
「教師なし学習」の系列に属する。

「教師なし学習」の結果立ち上げられた運動のイメージは、
新たに内部モデルとして登録され、
動きは徐々に熟練していく。


つまり、リハビリとは逆で、
「つながり→内部モデルの習得」の順番になっている。


           ◆


多数派の人間(健常者)の動きについて考えるときならば、
モノでなく人との交渉の中で
徐々に規範的な動きを学習していくプロセスを
中心にみていけばよい。

なぜなら、モノというのは
すでに多数派の動きに合うように
形や機能を仕立て上げられたものとして、
人々の意識の中で前提とされているので、
人との関係において規範的な動きを習得しさせすれば
自ずとモノを使いこなせるようになっているからである。


つまり多数派においては、
モノとの関係の取り結び問題は、
人との関係の取り結び問題に還元されるというわけだ。

しかし、規範的動きを習得できない私にとって、
そのような前提は成り立たない。

もう一度トイレなどのモノそのものと対峙し、
相互交渉によって一から私自身の動きを
立ち上げる必要に迫られるのである。



『リハビリの夜』(160~163)
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