ワニなつノート

メモ




≪手をかすように知恵をかすこと Ⅳ≫のメモ

「手をかすように知恵をかすこと」を、
私は今まで、健常者が知的障害のある人に知恵をかすこと
・・・として考えてきた。
でも、本当に知恵をかしてもらうのは、
誰が誰になのかと思うようになった。
誰もが、人と人とのつながりの中で生きるために、
本当に必要な知恵を、人類はまだ持っていないのだから。



初めてその言葉を聞いたのは、もう20年近く前になる。
それを「2001」に書いたのが8年前。
その後、Ⅱ、Ⅲを書きながら、その言葉の意味を考えてきた。


そして、今年も一次試験で定員内不合格。
追加募集でも、定員内不合格。
しかも「定時制高校」で、「16人募集」のところ、受験者「1人」で、
「合格者なし」だ。

繰り返されるこの子どもへの虐待をなんとかしなければ。
公立の教育機関である学校が、県民に約束した定員。
その定員を、その学校の教員が、勝手に減らして、
自分たちの仕事を減らしていいのか。
なにより、15歳の子どもへの教師として、
大人としての責任を感じないのだろうか。

席が空いているのに、座らせない。
その席に座った子どもの教育の仕事をするはずの教師が、
子どもを空いている席に座らせない。
それは、「ネグレクト」そのものだ。
教育放棄だ。
子ども虐待だろう。
それは許される行為なのか。

それが許される場所で、子どもの教育がどうやってできるというのか。

その学校の教師が、「いじめは許されない」などと言っても、
その言葉には、なんの意味も重みもない。
一番のいじめを堂々と行っているのが、学校であり、教師なのだから。
そんな大人に、子どもを守る仕事、子どもを育てる仕事ができるもんか。

まして、人権や差別について語る資格も知恵も持たない教師に
教えられる生徒が不幸だ。
もともと、子どもが人権について学ぶのは、
教師からではないことの方が圧倒的に多いが…。

定員内不合格は、高校教師独特の勘違いから、生まれている。
小中の教師は、義務教育だから子どもを選べないが、
自分たちは、自分たちの教える価値のある生徒を
選ぶ権利があると思っているらしい。

この問題は、障害や点数、内申書を理由に、
志と希望を持ち、最後の望みにかけた15歳の子どもの心を
打ち砕くだけではない。

かれらは、子どもを不合格にすることで、
合格した生徒に対しては、
「自分のような大人になれ」というメッセージを送り、
その実現のための教育を行うだろう。

それは、差別する意識のない生徒に、
障害のある子どもを切り捨てる側の仲間にしながら、
差別を教えていることになる。

自分が「勉強して」いい評価をもらい、大学に行ったように、
生徒にも、自分と同じ価値を目指していくことを強要する。
「自分のような大人になれ」
自分はちゃんと勉強して大学にいき、自分の価値を高めてきた。

その自分の価値を認めて欲しいと、言っている。
自分の生き方を肯定して欲しいと、哀願している姿かもしれない。

自分ではまったく気づいていないのだろう。
15歳の子ども、いろんな立場、様々な境遇の子どもたちが、
この社会には存在するということ。
その子どもたちの人生を支える仕事で、
自分が生かされていることを知らないでいる。

そんなことを考えたこともなく、
自分が何をしているかに気づいていない。
「自分は知的教育を仕事にしている」と
自分に言い聞かせて、自分をごまかしている。

どんなにか子どもを苦しめているのかという認識の後に、
ようやく感情を伴う自責にたどりつくのだが、
その認識(知恵)が、そもそも育っていないのだ。
どこで、どんな教育を受けてきたのか。
大事なことを教えてくれる人が、
その人生に誰一人としていなかったのだ。

20数年から60年近く生きてきて、
彼らは人とどんな付き合いをしてきたのか。
今まで子どもたちに何を教えてきたのか。
テストの点数の取り方だけを毎年教えてきただけなのか。
彼らは、何をしてきたのだろう。
何を見てきたのだろう。

もし、そうした人たちが、感情の通った人間に変わるためには、
無感覚に行ってきた定員内不合格と、
その子どもたちのその後の人生を、
しなくてよかったはずの苦労を、たどる中で、感じ直すしかない。
そうして、無感情の教員になる前の、
子どもの時の心にもどっていくことが必要なのだけれど。

自分が行った行為で苦しめられた子どもたち。
その差別虐待によって、子どもたちが受けた傷を、
不利益を回復するために費やす時間と、エネルギーを思う。

そのことを生まれて一度も考えたこともなく、
その実情さえ知らない加害者が、傷つくことはない。
感じることもない。

そんな人は、自分自身の感情を生きる主体にもなれないんじゃないかと、
私は思う。
いつも社会や、何かの要請や常識に合わせ、
言いなりになって自分を適応させる生き方。

私はそんな生き方をしたくはない。
そして、子どもたちにも、そんな生き方をさせたくはない。

だから、声をあげ続ける。
落とされても、落とされても、理不尽な目に合わされても、
それにうなずかない子どもと親がここにいる限り、
私も一緒に声を上げ続ける。
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