ワニなつノート

「医療モデル」と「社会モデル」(その1)

「医療モデル」と「社会モデル」(その1)


障がい者制度改革推進会議では、
障害の定義が、「医療モデル」から「社会モデル」に
変更されるようです。

定義とか難しいことは、わたしにはよく分からないのですが、
まったく知らない訳にもいかないので、
私が「理解」している説明を紹介します。

一つは、『障害児と共に学ぶ』(アリソン・ヴァートハイマー)
に書かれているものです。


原著の発行が1997年です。
文中に、
「障害者は今、「障害」の再定義に挑んでいるが、
障害者が自己表現のための仕組みを作り初めて
まだ10年か15年しか経っていない。」
とあります。

だから、今は、
「まだ20年か25年しかたっていない」、
ということになります。

そして、この25年というのは、
世界が統合教育の方向、日本では0点でも高校へ道を、
とてもゆっくりとだけれど、歩んできた年月でした。

 □    □    □


《「普通」という抑圧》

障害を持った子どもや大人に対する
差別や分離がなくならない主な原因は、
障害というものの定義の仕方にある。

障害を持たない人は自らを
「普通である」と規定することで、
障害があるということは「普通ではない」
ということをほのめかしている。

実際、障害を持っているということは、
「普通ではない」ばかりでなく、
違っているし、対等ではないし、
価値の低い存在であるということになっている。


「身体や精神が普通であるという考え方を、
私たち自身の内部で疑い、
その抑圧を乗り越えるようにしなければならない」

しかし、これは簡単なことではない。

「平等や価値という観念を現実的に検討するためには、
私たち自らの考え方を根本的に転換しなければならない」

サラマンカ宣言の行動の枠組みは、
「人間に違いがあることこそ普通である」と指摘し、
しかも普通教育システムは、この考え方を、
個々の子どものニーズに応えたり、
インクルーシヴ教育の実践を行うことによってこそ
認識しなければならないと提起している。


障害者は今、「障害」の再定義に挑んでいるが、
障害者が自己表現のための仕組みを作り初めて
まだ10年か15年しか経っていない。

ミシュリン・メイスンはこのような言葉を残している。

「損傷はやっかいなことであり、
それは治療される必要があるとの信念に基づいて、
私たちは「欠陥があり治療される必要がある(医療モデル)」
と見なされてきたのです。

残念ながらそれを是正する方法を
つい最近まで私たちは見いだせなかったのです。

しかもそのやっかいな障害が治癒されなかったり、
直されない場合には、やがてそれは
【管理される】べきものとなるのです」


(医学モデル定義の問題性)
「障害を、医学的・個人的な問題と見なし、
社会適応のために変化しなければならないのは
当人であるとすること。
変化の責任は社会そのものではなく、
医学などの他の専門領域にある、とすること。


社会モデルは、障害者を、
貧困、交通不便、差別的な雇用、偏見、
そして五体満足ではない人たちを
ひとくくりに評価することといった障壁に挑み、
平等のために積極的に闘う人間である
と理解するものである。

社会モデルは、
障害や学習困難を「持っていること」は、
個人にかかわるものではなく、
全体として学校コミュニティや社会にかかわるもの
であることを明らかにするものである。


「障害児と共に学ぶ」アリソン・ヴァートハイマー
明石書店 ¥700


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「特別支援教育からの転校・転籍」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事