ワニなつノート

子どもを分けてはいけない  2016



子どもを分けてはいけない  2016




子どもを分けてはいけない
分けるとは、つながりを断つことだから

つながり
親子のつながり
きょうだいのつながり
おさななじみのつながり
地域で暮らす人々とのつながり
そうした人と人とのつながりの糸を
むかし断たれた子どもたちがいた

いまも、いる


分けられるのはどんなときか

しょうがいじとよばれるとき
ぎゃくたいされた子とよばれるとき
そのとき、つながりの糸がみえなくなる

分けられた子は、親子のつながりさえ、断たれてきた
きょうだいのつながりを断たれ
おさななじみのつながりを断たれ
地域の子どもとのつながりを断たれてきた


子どもを分けるとき
子どもが「子どもである」ことから、断たれることもある

その子は、自分がただの子どもであることからも分けられて
つながりの糸がどこにもみえなくて
自分が子どもなかまの一人であったことを忘れる

つながりの糸がどこにもみえなくなって
途方にくれる子どもを指して
やはり何もわかっちゃいないと大人はおもう

子どもを分けることで大人は
子どもを「子どもでないもの」と見なすことに慣れる


分けて分けられて
あまりにゆがめられた出会いが身体になじみ
心もそのようにできあがってしまい
分けるこころをぬぐうことが自らの手では難しくなる
子どもも大人も



むかし、子どもが消えた時代
座敷牢に分け、精神病院に分け、施設に分けた
子どもは学校に行くものと国をあげてにぎわった時代
障害の子どもは、子どもであることを「猶予」され「免除」された

「子ども」ではないものと扱われ
「分けて」も平気でいられる大人がふえる
「子ども」ではないものを、子ども扱いしないのは当たり前のこと
「子ども」でありたいなら、「子ども」らしく
子どもはしゃべるもの
子どもはあるくもの
子どもは大人のことばにしたがうもの
子どもは学校に通うもの

子どもは差別され、操作され、従順であるべきものとされ
そのなかでも、分けられた子どもたち

しょうがいがあると分かるとき
産みますかときく
生かしますかときく
分けますかときく
つながりをどれだけ断ちますか


ぎゃくたいする大人は子どもとつながる糸がみえない
ここに「いる」というつながりがみえない

泣くな、しゃべるな、甘えるな
こぼすな、もらすな、さからうな
子どもであるな
つながりを断つぞ
そして、殴る、蹴る、無視する

つながりを断つ、ことを虐待という


「しょうがい」の故に親から捨てられ
きょうだいから分けられ、つながりを断たれる子ども
子どもであることを許されず
子ども仲間から分けられ、つながりを断たれる子ども

「ぎゃくたい」の故に親から捨てられ
きょうだいから分けられ、つながりを断たれる子ども
子どもであることを許されず
子ども仲間から分けられ、つながりを断たれる子ども


わたしが子どもにであうとき
わたしがわたしに心から頼むこと
「恥ずべし、痛むべし」
そこからようやく聞こえてくるこえがある
子ども自身のオーダーを感じることができるようになる
「おれもいいひとになれるかな」

自分のオーダーの守りに迷いこんだときには
「恥ずべし、痛むべし」と自分の痛みを思い起こす

子どもたちが教えてくれたつなぐ糸を、ひとことであらわせば
「いいひとになれるかな、まだまにあうかな」というこえがきこえる


だから、子どもを分けてはいけない。
子どもの命がもとめるつながりを断ってはいけない
歩けなくても、しゃべれなくても、ひとりで呼吸ができなくても
つながりたい願いのない子どもはいないから
しゃべれなくても、歩けなくても、たとえ呼吸ができなくても
「いる」ことで、つながることができるから

子どもを分けてはいけない
分けるとは、つながりを断つことだから

子どもを分けてはいけない
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