ワニなつノート

『看取りケアの作法』という本 (その2)

『看取りケアの作法』という本 (その2)

(22ページ~)
《介護保険は当初、介護の社会化を目的とした。しかし、その内実は委託化である。そのことが家族や地域における老いの不在を作り出している。……老いて死ぬという当たり前の事実を家庭や地域で目の当たりにしないのだから、付き合い方も分からない》

          

(yo)
障害のある子どもが、どの町でも、どの地域でも、当たり前に家族と暮らし、生きているという当たり前の事実を、家庭や地域で目の当たりにしないのだから、付き合い方も分からない。



          
      
(23ページ~)
《…介護問題は社会問題であるにもかかわらず、個人の問題として決着されることになったのである。
さらに、介護予防という政策の問題がある。…老いを予防できないことは誰しも分かっている。老いて一人で生きていくことが困難なことも、分かっている。
たとえ身体機能が自立していても、老いた者は見守りや何らかの手助けを必要とするものだ。老いによって失った機能を他者に委ねることが人と人とのつながるきっかけであり、他者の見守りと手助けが地域ケアを創りだす。
が、私たちの社会はそういった方法で安心を得ることに関心がない。》

          

(yo)
…障害のある子どもが成長していくなかでバリアとなる問題は、社会問題であるにもかかわらず、個人の問題として扱われている。
しかも特別支援教育という政策の問題がある。
…障害をもって生まれくる子どもにとって、また生まれて後に障害をもった子どもにとって、治すことができない障害があることは誰しも分かっている。
障害があるために、一人で生きていくことが困難な子どもがいることも、分かっている。
たとえ身体機能が自立していても、子どもは見守りや何らかの手助けを必要とするものだ。
障害のためにできないことを他者に委ねることが、人と人とのつながるきっかけであり、他者の見守りと手助けが地域ケアを創りだす。
が、私たちの学校はそういった方法で安心を得ることに関心がなかった。


          

(23ページ~)
《……最後まで健康でいたい。息子や娘に迷惑をかけたくない。そういう人々のささやかな願いをうまく取り込み、病気の恐怖をあおることで予防へと駆り立てる政策は、健康産業と利害が一致する。それは、予防のために自分の時間とお金を健康産業に投資するといった自己完結的なライフスタイルをつくりだし、人々の孤立をさらに高めることにつながっている。
孤立は悪循環を生み、問題を深刻化させる。》
      
          

(yo)
《……少しでも子どもの成長する姿をみたい。先生や周りの子どもに迷惑をかけたくない。そういう親の素朴な願いをうまく取り込み、自尊感情が下がるとか、将来の就労への恐怖をあおることで「個人ができる」ための療育へと駆り立てる政策を、特別支援産業という。
それは、「個ができる」を増やすために、「個別」の時間を特別支援産業に投資するといった自己完結的なライフスタイルをつくりだし、子どもの孤立をさらに高めることにつながっている。
孤立は悪循環を生み、問題を深刻化させる。》



          ※


この間、hideの件で、事業所や行政と話す機会があります。Hideはもう大人なので、介助(ケア)について話をするとき、「老人介護」と比較しながら話すことが多くなっています。
でも、障害者虐待の問題も、老人介護の問題も、それぞれの一番の問題は、私たちの「子ども時代」にあるんじゃないかと思えて仕方ありません。

私たちがどんな子ども時代を過ごしてきたのか。
そこで、私たちは、障害者や、病気の人、介護の必要な老人が、どんな扱いを受けるかを、どんなふうに見て、理解して、大人になったのか。

障害もつ子どもの保育園や学校の問題は、そのまま、この社会の安心と不安の問題への対処の仕方につながっています。

コメント一覧

yo
no-miさん
コメントありがとうございます。

直球でコメントが来ると、ちゃんと返信しなきゃと思ってしまい、つい考えこんでしまいます。
でも、考え込んでもよくわからないんですよね~。

最近、hideのことがあり、ホームのことがあり、いままで「学校」を中心に考えてきたことを、ぜんぶつじつまを合わせて言葉にしたいと思っています。
でも、いつのことになるやら。

一つわかるのは、小学校の壁も高校の壁も、
自立生活や、虐待の壁も、
どれも、「同じ壁」だということです。

自分の中では、いつも「同じ」ことを言っているのに、どこに行っても、「通じない」感じがあります。

「通じない」のは、そこにある「壁」が同じだからか、私が「自分だけが正しい」と独りよがりでいるかの、どちらかなんだろうと思います。




no-mi
うまく言い表せませんが、教育はその時代の社会の在り方に密接に関係しているのだとふと気付きました。今更と思われるかもしれませんけど…。

今は資本主義の社会です。お金がなければ生きていけません。そして、お金を稼ぐことに合理的であることがいいことであり、常識であり、時に仕方のないこととしているように思います。そういう社会の意識のようなものがあります。介護の委託化も特別支援教育も、そんな発想からあるように思えます。

お金を稼げない人、つまり、介護の必要な方、障害者、病気の方などは、人並みに扱われないことが多々あると思います。経済力があるかないか、将来、持てそうか持てなさそうか、を無意識に人を見る基準にしているところがあります。
自分たちが生きていくために、頑張って働き、家族を養い、子どもを育てている、ただそれだけのことですが、それはいつしか知らず知らず、経済力の有無で人を差別する社会の細胞の一つになっているような気がします。

将来お金を稼げるように勉強する…とするなら、障害を持っている子は、普通の地域の学校や、普通学級にいない方が都合がいいし、特別支援教育で少しでもお金を稼げる能力を身につけるなら、それはいいことで、その子のためになる…、ということになってしまうのかな、と思います。大人の頭の中にはこういうことがあるのだと思います。なかなか「障害児が普通学級に入ることが当たり前」にならないのは、この社会の在り方という背景が大きいというのは否めないような気がします。
けれど、実際は勉強を頑張ったことが、必ずしも仕事ができることには繋がっていません。人との関わり方が分からないと、感覚がないと、働けないことが多いように思います。それに、合理的だからとやってきたことが、実は無駄を作っていたりもします。

はあ。なんだか、まとまりません。すみません。でも思い切って送ってしまいます。

追伸  それでも、身近にできることから一つずつやることが大切で必要なことですよね。思ったこと、感じたことが、少しでも行動に移せるようにやっていきたいと思います。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「トム・キッドウッド」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事