(または、「自分を恥ずかしいと感じている子ども」の研究)
「障害のある自分を恥ずかしいと思わないでほしい。」
「障害があるから、嫌われても仕方ないなんて
あきらめないでほしい。」
親が心からそう願うとき、
子どもにしてあげられることは、どんなことだろう。
□ □ □
答えは、分かっています。
子どもに、
「障害のあることを恥ずかしいと思わないでほしい」
と願うなら、
親が「障害のあること」を恥ずかしいと思わないこと。
子どもに、
「障害があるから、嫌われても仕方ないなんて
あきらめないでほしい」と願うなら、
親が「あきらめない」こと。
「子どものため」という話にされるから、
「教育」や「発達」に足元をすくわれる。
親が、「障害」を「恥ずかしい」と思わないとは、
どういうことか。
それを、「子どもに伝える」ということは、どういうことか。
「障害」があることで、
親が「遠慮しないこと」「あきらめない」ことは、
どういうことか。
親を教師に置き換えても同じ。
自分のクラスの子どもが、
「自分は勉強ができない恥ずかしい人間だ」と思っていたら、
「そんなことはない」と、伝えられる「教師」であるのかどうか。
「障害があるから嫌われても仕方ない」という子がいたら、
「そんなことはない」と伝えられる「教師」であるか。
「子どものため」ではない。
親自身、自分が、本当に
そのことを心から思っているのかどうか。
教師自身、自分が、本当に
そのことを心から思っているのかどうか。
私は、子どものころからずっと、
「できないこと」は恥ずかしいことだと思ってきました。
「できない子」「嫌がられる子」は、その子の問題なんだから、
「嫌われても仕方ない」のだと思いながら、
大人になりました。
福祉とか、教育とかを進路に選んだのは、
その「できなくて恥ずかしい人」、
「できなくて嫌われる人」がかわいそうだから、
何かして「あげよう」と思ったのだと思います。
自分は、8歳の時に、
「恥ずかしい人」「嫌われる人」になりかけたけど、
なんとか高校卒業までこぎつけた。
これからは、その向こう側の人に、
何かしてあげる側の人になることで、
自分は「向こう側の人間とは違う」人間に
なろうとしたのかもしれません。
どっちにしろ、私の人生は、
その一本の「境界線」の意味を知るために
あったような気がします。
でも、私が人生をかけたその「境界線」が、
「ない」人に出会い、
私は救われたのだったと思います。
それがたっくんのお母さんでした。
その後に出会う、たくさんのお母さんたちでした。
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