ワニなつノート

「私たちも陽のあたる社会で生きたい」


「私たちも陽のあたる社会で生きたい」



最近、「映画ノート」みたいになってるけど…。
今日も映画のワンシーンから。

      ◇

中学生の女の子が、図書館でハンセン病について調べている。
ある本の1ページが画面に映る。

【私たちも陽のあたる社会で生きたい】


その文字をたどった瞬間、わたしの頭は映画から離れて違う世界にいく。

「あの日、自分が感じたのは、これと同じ感じ…」

     ◇

普通学級から分けられそうになった8歳のあの日。
わたしの思いは、これだった。

子ども時代の一日の思いと、
八十年余り隔離された人の思いを、同じにはいえないけれど。

でも、分けられる恐怖に怯えた8歳の自分。
友だちや大好きな女の子に会えなくなる…。
父ちゃんや母ちゃんや妹と会えなくなる…。
大切なすべての「陽」がなくなると怯えた日々。

「わたしもみんなとおなじ、ひのあたるところにいたい」と
こころの底から願った。全身全霊で願った。

ひのあたるところ。
それは、友だちみんながくらしているところだった。

ひのあたるところ。
それは、親やきょうだいと暮らす家だった。

そして、わたしが就学相談会で出会ってきたのは、
「ひのあたるところ」から、分けられそうな子どもたちだった。

わたしが「ホーム」で出会うのは、
「ひのあたるところ」を失くした子どもたちだった。

子どもたちにとって、「陽のあたるところ」とはなにか…。

      ◇

「陽のあたる社会」はどんな社会か。
そう考えてもピンとこない。

じゃあ「社会にあたる陽」とはなにか?
それなら、わかる気がした。

それは「自分」だ、とおもった。
それは「ひと」だ、とおもった。
     ◇

「陽」は太陽であって、太陽ではない。
太陽の光は、隔離された施設の窓にも射しただろう。
ただ社会の陽は、そこに届かなかった。

では、社会の「陽」は何か

社会の陽は、ひと。
社会の陽は、にんげん。
ひとの陽と、にんげんの熱。
ひとのぬくもりと、にんげんのまなざし。
ひとの手と、にんげんのこころ。
ひとの声と、にんげんのことば。

社会の「陽」とは、わたしだ。
わたしが、陽であることで、陽のあたる社会を、わたし一人分照らすことができる。

わたしひとりぶんの陽を、だれかひとりのひとへ。
わたしひとりぶんのこえを、だれかひとりのこどもへ。


孤独に苦しんでいる子どもに出会うとき、
わたしは子どもの苦しみに出会うのではない。

誰に助けを求めていいのかを知らない子どもを見つけてあげたい、と願うとき、
わたしは子どもの苦しみを見つけたいのではない。
苦しみの中で、その子が見失ってあきらめているその子の希望をいっしょにみつけたいのだ。

わたしは、子どもが小さな手に握りしめている希望に出会いたい。
わたしは子どもの苦しみをみつけるのではなく、希望をみつけたい。

わたしが出会うのは、希望。
わたしは、子どもという希望に出会うのだ。

       ◇

そんなことを思ったのだけれど、これだと何の映画か分かんないよな。
小学校の授業なら、注意欠如多動性障害って言われるかな…。
あ、言われるかなじゃなくて、それだから普通学級は無理って言われたんだった(>_<)


映画で一番好きだったセリフ。

「…店長さんじゃないのよ。小豆に言ったの。」


映画のタイトルは『あん』でした。
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