ワニなつノート

『ぼくは物覚えが悪い』 感想文(1)




私は毎日どうやってわたしでいるのだろう。

昨日のわたしと、今日のわたしは、
どうやって、どんなふうに、つながっているのだろう。

わたしは、わたしが、たしかにつながっていると、
どうやって確かめているのだろう。

学校のテストは、答えだけでなく、
「途中」が記述されていないと減点される。
答えが正しくても、過程を説明できないと、できたことにならない、
と教えられる。

そのせいか日常生活でも、言葉で説明できないと、
わかっちゃいない、ように扱われる。

だから、障害のある子たちや言葉を使わない子は、
なんにもわかっちゃいとみなされる。

言葉がないと、何もないとまちがわれる。
言葉でなぜを説明できないと、なにもわかってない、
すべてを当てずっぽうに生きてるようにまちがわれる。

学校では、言葉がないと、
こころがないように扱うくせがつく。
油断すると、言葉を話さない人は感情もないと、
みなす作法が身につきやすい。

相手の感じ方や思考方法がわからないのは、自分の方なのに、
「相手がわかってない」と、すり替える作法がうまくなる。

その一方でアインシュタインやホーキング博士の言葉が、
全く理解できないとしても、彼らが天才だということは疑わない。
自閉症の人が何十年先のカレンダーの曜日を言い当てるとき、
その途中経過がまったくわからなくても、
「他の自閉症とは違う」と、分かったふりもできる。



クリスティーンさんは、思い出せないことが増える自分、
新しいことを覚えていられなくなる自分、
できていたことができなくなる自分が、
自分ではない誰かになっていくことを、恐れた。

怖れ。わからない何かへの態度。
教育という作法はそういうものだったから。

でも、生きていく現実は違った。

クリスティーンさんは、わたしはわたしになっていく、と言い換えた。
わたしはわたし、
あなたの顔を忘れても、今日話したことを覚えていなくても、
明日も、わたしはわたしだと教えてくれる。

私たちは、何かがわかるとかわからないとか、
できるできない、ということについて、
「私自身」の仕組みについて何もわかっていなくても、
「こいつは分かっていない」とみなす態度を身につけている。

         ◇


人への作法。

自分への作法。

ヘンリーが教えてくれること。
てつろうが教えてくれること。
あさこやリサややっちゃんが教えてくれること。

人は感情の流れを生きている。
生きてきた時間と出会いのなかで、
ことばにできない記憶や体験や感情が、
たったいまを生きるわたしを、支えている。

自分とは違う人生、
人とのつながりをいきてきた人にであうとき、
わたしの感情の流れと、その人の感情の流れを、
向き合う作法をしりたい。
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