ワニなつノート

《援助の風景》(a‐01)



ホームN通信



熊谷さんの文章から私が受け取ったものを「自立の風景」として抜き出してみた。

熊谷さんは、『現在は東京大学先端科学技術センター准教授で、小児科医。脳性マヒのため車椅子生活。小中高と普通学級で統合教育を経験。大学在学中、地域での一人暮らしを経験。』
…と書かれている。


ここに書かれている「自立の風景」は、いわゆる「障害者の自立生活」ということになる。

私のいまの仕事である自立援助ホームの子は、いわゆる障害児ではない。

(最近は、養護施設やホームにも発達障害児が増えていると、障害アピールが多く聞こえる。でも、ずっと障害のある子と30年以上つきあっている私にはピンとこない。
特別支援教育の対象を増やしたあおりで、ちょっとでも「ヘン」と感じる子は、みんな発達障害とかアスぺとかADHDとか言ってるように感じることが多い。)


では、障害児者と、親や家庭のない子どもの自立とは同じだろうか。
違うとしたら、何が違うのだろう。

その辺から、ホームN通信を始めてみたい。


       ◇


《援助の風景》(a‐01)


① 自分に「何ができて、何ができないか」、そのことを知らない自分に気づくことから、自立生活は始まる。

自分が「できていない」中身を知ること。

それが自立の第一歩。


そうだとすれば、援助者の第一歩は、そのことの援助に他ならない。

子どもに、「何ができていて、何ができていないか」を、本人が自分で知ることを、援助すること。

どうやって?

聞くこと。一緒に生活することで。

・・ただし、子ども自身が、分かっていないこと、気づいていないことがいっぱいあるということ。だから、ただ「質問」して聞いても、答えは返ってこない。


「車イスの人はエレベーターがバリアフリーやけど、知的障害の私は何がバリアフリーなんや?」という言葉を思い出す。この回路が大切。



②「見通しの悪い」環境で暮らすことが、自立の「バリア」である。

「見通しのわるい環境」とは何か?

そのことが分かっていないと、「見通しの悪い環境」からどんな困難があるかも分からない。


熊谷さんにとっては、親がテキパキ何でもやってくれたこと、だった。

ホームにくる子たちは、表面上はその逆になる。

親が何もしてくれない、あるいはいない。
虐待の場合には、見通しはさらに悪くなる。


幼児のころから施設で育った子どもはどうだろう。

「見通しの悪い環境」とはどういうものか。

子どもの立場で考えてみる必要がある。


ちなみに、私が「見通しのわるい環境」という言葉で連想するのは、「特別支援教育」だ。


③「当事者のニーズ」に応えるためには、当事者が自分の「ニーズ」が、知っていなければならない。

つまり、子どもが「自分のニーズを知る」ためのニーズに応えなければならない。


それは、自分のできないことを、体験から知ること。

そして、その実現のための方法を聞けるだれかを探すこと。頼れる誰かを探すこと。

聞いていい、頼っていい、と思える人と出会うこと。


援助者として、何をすればいいのか、何をしてはいけないのか。
それが、この辺から見えてくる。



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