ワニなつノート

過去のブログから


《採血だけでダウン症診断、年内に指針…日産婦》
(2012年11月14日 読売新聞)

 妊婦の採血だけで胎児にダウン症など染色体の異常があるかどうか高い精度でわかる新型出生前診断について、日本産科婦人科学会(日産婦)は13日、東京都内で公開シンポジウムを開き、約280人が参加した。

 産科医や小児科医、遺伝診療に関わる看護師やカウンセラーのほか、ダウン症の当事者団体らが登壇し、導入にあたっての問題点などを議論した。日産婦はシンポでの意見を踏まえ、12月中に、検査前後の遺伝カウンセリング体制など実施に向けた指針を策定する。(後略)



         ◆


最近の「出生前診断」の記事を目にして、いろいろ思うことはあるのですがまとまりません。
代わりに、頭に浮かぶ過去のブログを何本かを、ここに置いておきます。
自分自身のために。何度でも。


         ◇

《とっておき(^。^)yo○ (その2)》

1983年。 朝日新聞の記事。
私が22歳のとき(o|o)

     □     □     □

 《開かれた笑み》

水頭症のその子は、一生何の反応も見せないだろう、とみられていた。
小児科学の専門家である東大医学部助手の石川憲彦さんが、主治医であった。
彼の医師としての解釈が揺らぎ、カルテを書く椅子からころげ落ちそうになったのは、その子が2歳3カ月の時である。

生まれる前から、何らかの障害をかかえることが、確実視された。母(38)はたび重なる流産に加え、死産二回。
やっと生まれた長女も、水頭症のため1歳1カ月で死んでいる。

その後の検査で両親に染色体異常が見つかった。専門医は妊娠を思いとどまるよう求めたが、母は、だれでもどんな子でもいい、もう一度自らの胸に赤ちゃんを抱きしめたい、と願った。
難産を覚悟して、車で4時間もかかる東大病院での出産を決意した。

やがて出産へ。
案の定、出産前のレントゲン撮影では、胎児の脳は異常に大きく映っていて、死んだ長女と同様の水頭症である可能性が高い、と判定された。その写真を見たベッドの母は、不安顔の産婦人科医にしばらくして「あら、この子、羊水の中でVサインしてるわ」と無邪気に叫んだ。

長男は羊水検査直後、正常出産より50日早く、仮死状態で生まれた。
頭には、水がたまり始めていた。その水を取り除いたとしても、命を永らえさせることしかできなかった。
手術を渋る医師たちを両親の熱意が動かした。小児科医、脳外科でスタッフが組まれ、生存のためのあらゆる努力がなされた。

生後まもなくから彼を診てきた石川さんに母は、しばしば便りを寄せている。
いつも「前のおねえちゃんは1歳とちょっとで死にましたが、この子はもう1歳半になり、笑うようにもなりました。いま、子を持つ幸せをかみしめています」といった内容であった。

両親の底抜けの明るさは、むしろ石川さんの心を暗くした。笑い、と映っているのは専門家から見ると、明らかにけいれんである。両親が「外に出ると鳥や雲を追って喜ぶんです」ととらえたのは、実は水頭症特有の眼振であった。目が一点を見つめられないので、自然にぐるぐる動くのである。

リハビリの常識に反することも平気でした。マヒによるそっくり返りは直さなければならない、とされる。
長男のその動作を両親は「伸びをするようになった」ととらえた。
それを奨励し、喜ぶ両親に向かい「マヒが原因」とは宣告できなかった。

2歳3カ月となったその時、診察を終えた石川さんは、「さあ、帰ろうね」と母に抱き上げられた彼をなにげなくふり返った。はっとした。
彼のにこっとした顔は、とてもひきつったようには見えない。
思わずかけより、「もう一度やってみて」。
母がのぞき込むと、彼はまたにこっとした。
断じてけいれんではない、確かな笑いだった。

夫婦にとって、彼はまるで「いのちの川に浮かんで、流れてやってきた」宝物のようであった。反応がないとみられた彼の中で、なにが「私」を切り開いていったのか。

石川さんはいう。「親の愛情とか思い込み、なによりもあるのものを丸ごと受け入れていくことによって生まれた人と人との関係だ、としか思われません」

遠く北の空に筑波山が黒い雲のように浮かんで見えるほかは、際限なく平野が四方に広がっていた。
小さな店を経営する一家を訪ねた。車いすに乗った彼に母が「石川先生のお友達よ」と紹介すると、白い歯を出して笑った。
現在6歳になる。
父はたたき上げの職人だ。母は笑顔のやさしい人である。その夫婦と話していて、石川さんの言葉を思い出した。

「最近、彼は発音もできるし、言葉も分かるようになった。
もし、彼が医師やリハビリ専門家の手にゆだねられていたら、無反応が続いていただろう。
医学や治療というものはまだまだ分からないことが多すぎるのです。
それどころか、治療というものは部分だけをみて、そこを強調して全体を切り捨ててきたのではなかったか。
一家の人たちと付き合うほどに、人間のおおらかさに勇気づけられてしまうんです。
もう、私は彼ら一家に一生頭が上がんないんだなあ」

彼を切り開くのに、友達と近くの幼稚園に通ったのも大きかった。
今年(昭和58年)は地域の小学校に通うため、渋る町教育委員会と交渉中だ。

口数の少ない父(43)は、穏やかな表情を崩さずぼそっという。
「障害があったって人間なんだよなあ。
どうして人が物みたいに扱われる世の中になっちまったんだろう」

にぎやかな6人家族だった。
祖母がかいがいしく台所でたち働き、新しく家族に加わった兄姉が廊下をかけ抜けた。
父母が離散したある家庭から引き取った子どもたちである。
さわがしさがいつの間にかやみ、木枯らしがかたかたとガラスを鳴らす。
隣りの部屋をのぞくと、姉と彼のかわいらしい二つの顔が一つのふとんに並んでいた。
よく見ると、姉の手は弟の髪の毛にやわらかく当てられていた。


     □     □     □

「このお母さんに会いたいなー」と思いました。
「このお医者さんに会ってみたいなー」と思いました。
いま、計算すると、ちょうど大学を卒業した年です。
でもなー、東大の医学部なんて縁もゆかりもないし、だいたい自分のような頭の悪い田舎者は、
近寄ってもいけない場所のように感じていたっけ(・。・;
そのころ、幼児教室で出会ったのが知ちゃんでした。
知ちゃんの主治医が石川先生だと知るのは、ここから2年後の未来のことになります。
たっくんの家に行き、たっくんと一緒にプールに遊びに行けるなどとは夢にも思わなかったころの、新聞記事の切り抜きです。


             


「向かう」を育てる(その3)

《人は「向かい合うもの」に応じて、「自分」を意識する仕方が変わる》

障害のある子どもが、「向かい合うもの」に応じて、意識する「自分」とはどういうものか?
障害のある子どもが、「向かい合うもの」に応じて、意識する「障害」とは何か?
いくつか思い出す場面があります。


【 『私たちのトビアス』という子どものための本がある。
障害児を理解するためにスゥエーデンでつくられた本である。
ダウン症のトビアスの兄と姉が書き、母親がまとめたものである。…

私も必要な本だとは思ったが、障害児が理解される側に立たされることに若干の抵抗を覚えた。
特に、自分がかかわっている子どもたちの一人ひとりを考えると、ダウン症についてはこう説明できても、そうはできないハンディをもつ子もいる。
そのことが人権にかかわるような気もした。

しかし、多くの人がこの本でダウン症を理解しているとき、当のダウン症の子どもたちに見せないことがうしろめたく思われた。

ある日、思い切って三人のダウン症の子を含めて八人の生徒とこの本を読んだ。
ところが読み終わるや、ダウン症のH君が「トビアスどこ? トビアスどこ?」と言う。
他の子も一緒になって「トビアスどこ?」と言う。
そんなかわいそうな子がいるならいたわってやらなければなるまいが、いったいどこにいるだろうというのである。

私はそのかわいそうなトビアスがH君たちと同じだと、ついに言えなかった。

私が応じないので自分たちで結論を出した。
この学校、この学級にはトビアスはいない。
しかし、あの学校(Y養護学校)にはたくさんいると。  】  


『一緒がいいならなぜ分けた』 北村小夜 現代書館

             ◇

「ダウン症」という名称が、ダウン症の人の「自分」を決めるのではありません。
その人を取り巻き、「向かい合う」人たちの関わり方こそが、その子の「自分という意識」を左右するのです。

H君がいたのは特殊学級であり、その時代を考えれば、H君のまわりに多くの差別があふれていたでしょう。それでも、H君自身は、自分を「一方的に理解されるだけの、かわいそうなダウン症の子」とは意識していないのです。
「そのかわいそうなトビアスがH君たちと同じ」でないのは確かです。


           ★


《人は「向かい合うもの」に応じて、「自分」を意識する仕方が変わる》


親も「向かい合うもの」に応じて、「自分」を意識する仕方が変わります。
「子どもの障害」を受けとめる意識が変わります。
子どもの命を受けとめる意識さえ、「向かい合うもの」に応じて、変わるのです。

「個人」の能力によって、「向かい合うべき世界」に出会わせないようにするのは、やはりおかしな話だと思います。


【インフォームドコンセントの時代ですけれど、脳死・臓器移植を受けるときのインフォームドコンセントというのはどうなっているのかという問題があります。

誰がそこにかかわるかによって随分違うだろうと思います。

ダウン症の場合ですけれども、遺伝カウンセラーがダウン症の子どもの親である遺伝カウンセラーと、それからそうでない遺伝カウンセラーがカウンセリングした場合で、出生率に大きな差があります。
(遺伝カウンセラー自身が)ダウン症の子どもの親の場合には、ダウン症児を受胎した場合に5割以上が生みます。
通常の遺伝カウンセラーの場合は、9割までが堕胎するという結果があります。
この差が命の問題を考える場合に私には凄く大事なことではないかと思います。】


『心の病はこうしてつくられる』石川憲彦 批評社 2006年  


          ◇


「向かう」を育てる(その4)

《相手を助けられないという無力感や、けれども彼らが生きていく上での悲しみから守らなければならないという思いは、特に子どもに障害がある場合には、問題の間違った面に焦点を当てたり表面的に収めることにつながることもあるだろう。

このことは、自閉症の人は自分の能力について「現実的な視点」をもつべきだ、というような周囲の言い方にも表れる。

一例を挙げると、軽度の知的障害がある自閉症の男性に関わったある職員の場合がある。
ある自閉症の男性が度々ガールフレンドがほしいと口にしていたが、それは不可能であると判断したその職員は、将来その希望が叶うと思わせるのはかえってよくないと考えた。

それで、職員たち全員に働きかけ、一致して男性にそう言うことにしたのである。

自分と自分の能力に関して《現実的視点》をもつようにと、自閉症のため彼には将来に渡ってガールフレンドはできないであろうと、告げたのだった。
彼に自信と好もしいメッセージも渡したいと考えた職員たちは、「魚釣りやボウリングをするのはどう? 君はそれらが好きだろう?」とも付け加えた。

よかれと思ってしたことだろうが、いったいどういう権利があって、周囲の人々は一人の人間の夢を取り上げることができるのだろうか。

人には多くの夢があり、その中には実現できずに終わる夢もあるだろう。

そういう夢をもつこと、その実現に努力すること、それ自体が大事なのではないだろうか。

それに加えて、その人の夢が実現するか否かを他人は知ることはできない。

本書でも紹介したとおり、パートナーのいる自閉症や知的障害の人たちの例はあるのである。

だからといって周囲の人々がその人にやがてその夢は実現するであろうと確信させる必要があると言っているのではない。

確実にそうなるかどうかは、もちろん誰にもわからないのである。

大事なことは、むしろ、事実に基づいた具体的で支援的な対応なのである。》


『自閉症者が語る人間関係と性』グニラ・ガーランド 東京書籍


     ◇     ◇     ◇     ◇


《「どうしてもQに何かを教えようとして下さるのなら、一つだけお願いがあります。
義務教育の期間中に、どうやったら刑務所や施設から脱走できるか、その方法をQに教えてやって下さい」。

重度の「障害」児といわれるQ君のお母さんが、担任に、Q君に何を教えてよいのかと相談された時に答えたことばです。

「先生がQに何かを教えたいと思われる気持ちはよくわかります。
そして、教えようとあせればあせるほど、何も覚えてくれないQに自分よりもっといい教育ができる人や場所があるのではないか、と迷われる気持ちもわかります。
親もしばしば同じ思いにかられます。

でも、Qを普通学級より手厚く指導してくれるからといって、養護学校へやってみようとは思わないのです。

学校が終わった時、親が死んだ時、Qは自分で生きていかねばなりません。
しかし、街を歩いてみたいなと一人で外出しても、すぐに保護されるでしょう。
いかに善意の保護であっても、彼の『ただ外をぶらついてみたかっただけだ』という思いを、しゃべれない彼の口から理解してくれるでしょうか。

保護は、収容に変わります。

しかし、どんなに至れりつくせりの収容施設であっても、収容は『一人で気ままに青空の下を歩いてみたい』という、一人の人間のごく当然の気持ちを抑えます。
何度収容されても、何度でも脱走し、自分は一人で青空の下を歩きたいという思いを示せる人間であってほしいのです」


『子育ての社会学』石川憲彦 朝日新聞社
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