こだわりの溶ける時間2016 (a-2)
《子どものころの自閉症らしさと、大人のらしさ》
10年ほど前、「自閉症の絵本」をつくらせてもらった。
絵本の中のやっちゃんは、自閉症らしさをいくつかみせてくれた。
そのやっちゃんも、もう定時制高校を卒業する。
そして、同じように小学校入学のころ、ちゃんと自閉症らしくしていたY君が中3になり、「高校に行く」という。
(「おむすびころりん」のYくんです。。。)
ふと、子どものころ、自閉症らしかった子どもの顔と、いまの顏が浮かんだ。
そして、思った。
子どものころの自閉症らしさと、
彼らが大人になってからの自閉症らしさと、
私が感じるものが違う。
やっちゃんやこうちゃんたちが、大人になってからも、時折「ああそういえば、こういうところは自閉症らしいんだな」と、ふと「思い出す」ことがある。
つきあいが長くなって、その子が大人になると、そもそも「自閉症」という単語を忘れる。
あえて言葉にすれば「自閉症らしい部分」と、「本人らしいな」という感覚が、私の中ではごっちゃになっている。
何が?
何が変化しているんだろう?
日常の生活という、間の取り方? つまづき方?
あるいは、ズレとリズムの取り戻し方?
のようなもの。
あ、これって吃音の人の子ども時代と大人になってからの違いのようなものに似ているのかも、とふとおもう。
大人の吃音の人に、多くの人は気づかない。
吃音の人は、子どもの頃の辛い体験から、それと悟られないように、様々な工夫や苦労をして身につけた話し方があるのだが、そういう面だけではないものがあるのだと思う。
子どものころの、本来の特徴、らしさ、は、成長とともに、人々の生活のなかに溶けこんでいくものがあるんじゃないのか。
でも、それぞれに当事者の苦労はある。
その共通項は、対話が足りないことだ、
その「らしさ」は、対話から遠いと思わされて、大人になることが多いから。
(※ 吃音に関しては、うろ覚えの記憶で書いている部分があるので、間違いがあったら書き直します。)
私が、言葉にしてみたいのは、子どものころの「障害」のイメージと、大人になってからのイメージの違いについてです。
(つづく)
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