《公にする力》
船後議員らの要望書を読んだ人からメールが届いた。
『《裁量権の逸脱》についての判例があったなんて知りませんでした。「意思疎通のできない障害者は生きている価値がない」というやまゆり園被告の主張を報道で耳にするたび、高校をあっけなく落とされる仲間の事実がオーバーラップしてしまいます。以前佐藤さんがどこかで「公にする力」って表現してたのが、すとんと腹の奥におさまりました。』
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「意思疎通のできない障害者は生きている価値がない」という言葉に、「賛成」という人はいないのに。
「意思疎通のできない15歳は席が余っていても高校で学ぶ価値がない」には、「公平・公正」と堂々と主張する。
校長も教員も教育委員会も、「自分が何を言っているのか」に気づいていない。
「面接試験で、コミュニケーション能力がないと言われ、席が余っていても学ぶ資格がないというのは、あの犯人と同じ考え、同じ発想、同じ判断基準じゃないですか」
そう言うと、真面目な顔で「それは言い過ぎでしょう」と、いつも同じ反応が返ってくる。
2月19日、さきちゃんが定員内不合格にされた日の千葉県教育委員会でも、1月30日、沖縄県教育委員会と12時間の話し合いの時にも。
「殺した行為が同じだと言っているんじゃないんです。《意思疎通・コミュニケーション能力を、判断の基準にすること、相手の表現を分からない自分を疑うことなく、一方的に相手を排除する考え方》が「同じ」だと言っているんです。違いますか???」
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障害児が「定員内不合格」にされるたび、あの犯人は「やっぱり自分は正しい。こんなに自分を応援してくれる味方がいる」とうなずいているだろう。「特に高校の校長や教師たちは、自分の一番の理解者だ」と。
そして、悔しいことに、それを「公にする力」が、私には圧倒的に足りない。
でも、「公にする力」という言葉を覚えていてもらって、改めて気づく。
「公にする力」を持っているのは、私ではなく、純くんや天哉さんたちなんですよね。
彼らからの贈り物。
「公にする力」
「自分をあきらめない力」
「自分に夢見る力」
「自分を信じる力」
「人間を信じる力」
今の学校が、子どもを分ける教育が、子どもたちに教えることのできない力。
純くん、ありがとう。