ワニなつノート

この子がさびしくないように(その11)

この子がさびしくないように(その11)

《パール・バックよりも安積遊歩さんの本を》



安積遊歩さんの『いのちに贈る超自立論』の第1章に、
「障害をもって生まれてきた娘」への
「母親の思いが」書かれています。

20歳のときに読んだ『母よ嘆くなかれ』に、
どうしても飲み込めないものを感じながら、
「では、どう言えばいいのか」、
その言葉を私は持っていませんでした。

その後、たっくんのお母さんに出会って、
その後も多くのお母さんたちに出会って、
私はその本のことを忘れてきました。

知ちゃんのお母さん。淳くんのお母さん。
佳ちゃんのお母さん。ヒデのお母さん。
かいとくんのお母さん…。
私が出会ってきた親たちは、そうした古い時代の
子どもへの愛情の示し方、障害児の生きる場所の探し方ではない、
本来の自分の感じるままの気持ちを、
子どもと感じ合い、分かち合うことができる人たちでした。

パールバックの時代、
母親としてのパールバックが苦しんだことの中身は、
その「時代に制限」された苦しみ方でした。
母親の娘への思いさえも、時代に限定された形で、
「障害児の幸せ」に閉じ込められた形で
表現するしかなかったのだと、そう思うようになりました。


でも、いま一人一人のことを話しきれないので、
その代わりに安積さんの本を紹介します。

    □    □    □


四十歳で初めての子を産んだ。
宇宙(うみ)という名の女の子である。

…私の場合は、自分自身が障害をもつからだであったので、
心ひそかに、人類初の大チャレンジと思ったものだ。

私のからだの特徴はDNAに由来するもので、
うまくいけば、どんなカップルにも起こりうる。
私の両親にその特徴は現れなかったが、
私の娘には二分の一の確率で現れると聞いていた。

私が四十歳になるまで出番を待っていたこの子は、
障害をもつ女の子にちがいない、
と妊娠がわかった瞬間に確信した。

それまで、さまざまな障害をもつ人の運動や、
女性運動と関わってきて、
私は人間に対する、そしてなにより、
自分に対する信頼をとり戻してきていた。


1996年5月、私と同じからだの特徴をもつ女の子・
宇宙は、みんなに祝福されて誕生した。


       ◆

この本では便宜的に、私のからだの特徴を「骨形成不全症」と、
現在の医学用語で表現するが、かねてから私は
この名称がどうにも気に入らない。

これは健常者社会の医者がつくった用語であり、
「不全」とは「不完全」という意味だ。

生後40日にして私は、「骨形成不全症」と診断された。

人生の入り口ではやばやと、
「不全」というレッテルを貼られたわけだ。

その日以来、私という人間は、
「不完全な存在」「間違った存在」なのだという
ネガティブな認識が、自分自身にも親にも
根深くすり込まれてしまった。

それがどんなに私や親を生きにくくしたことか。


骨が「不全」だという認識から、
手術して完全な状態に正そうという発想が生まれる。
二本の足で歩くことが唯一の正しい姿、というわけだ。

しかし、「骨形成不全症」は大きな特徴として、
歩けば骨折のおそれがあるのだ。
だったら、歩かなければいい。

歩きさえしなければ、
骨折する危険はぐんと減るのだから。

「骨形成不全症の人は歩かなくていい」
という常識をつくりたいものだ。
そうすれば、車イスの開発も、もっともっと進むだろう。
空飛ぶ車イスだって夢じゃない。


13歳のときに医者に対して、
「私は西洋医学で治してもらうつもりはない」
と言明したときから、
私はずっと「治る」ということについて考えてきた。

そして、たどり着いた結論は、
私にとって「治す」とは、自分のからだといのちを
心地よく維持するための働きかけであって、
けっして、健常者のからだに近づくことが
「治る」ではない、ということだった。

         ◆


母は1928年、昭和3年生まれの昭和ひとケタ世代だ。

母の実家は、大きな寺の敷地内にあった。
戦時下の物資不足と、そのころのエコロジカルな
生活スタイルとがあいまって、生理用のナプキン代わりに、
ボロ布を何度も洗って使ったということだった。

封建的な家父長制度と大地主制度、
それに加えて戦争という異常事態に囲まれて、
人間的にどんなに温かい両親であっても、
母にとって生理はひとかけらも喜びではなかっただろう。
その母に私が初潮の報告をしても、
喜んでくれるわけもないことは、いまになればよくわかる。

         ◆

私が初めての生理を迎えたのは14歳のときだった。

…ところが、母がいとも淡々と脱脂綿を出してくれたので、
ひどく拍子抜けしたのを覚えている。
もうちょっとなにか言ってくれてもいいんじゃないか
という思いと、ひどいことを言われるくらいなら、
なにも言われなくてよかったという思いのあいだで揺れた。



障害をもつ娘の生理にひどいことばをぶつけてこないだけマシか、
と意識的に思ったわけではない。

しかし、施設のなかで、障害の重い人たちの
排泄の介助はとてもいやがられていたし、
生理はもっと否定されるのを見ていた。

また、それまで、母と生理のことを
楽しく話したことはいっさいなかった。
だから、とりあえず沈黙したのだ。

         ◆


私と同じからだの特徴をもつ娘の宇宙。

彼女には、
母と私の悲しみ・苦しみは手渡さない、
と決めていた。


『いのちに贈る超自立論』 安積遊歩 
太郎次郎エディタス 
2010年1月15日発行

     □    □    □


1892年にパールバックが生まれ、
1920年、パールバックの娘が生まれました。

1928年、安積さんのお母さんが生まれ、
1956年、安積遊歩さんが生まれ、
1996年に、安積宇宙さんが生まれました。

この100年の間に、確かに変わったものがあります。


それは、パールバックやその時代を
生きた親たちを責めるものではありません。

いま、私たちは、パールバックの時代の親たち、
そして子どもたちの追い込まれた「悲しみ」や
「苦しみ」「別れ」や「あきらめ」を
これから生まれてくる子どもたちに手渡さないと、
決意することだと思います。




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