ワニなつノート

「本来あるもの」の代わり(a 療育編)


《本来あるもの》


あるときふっと言葉が浮かんだ。
生まれくる赤ちゃんに、本来あるもの。
母親…。父親…。家族。安全な家。安心な食べ物。……
ひとりのこどもの人権にかかわるすべて。


就学相談会で、「療育のおかげ」で子どもが成長したという言葉をよく耳にします。
「療育のおかげでことばがでるようになった」
「療育のおかげで歩けるようになった」
「療育のおかげで……成長した」

そんなとき、いつも何か違和感がよぎります。
以前は、それが「専門性」への傾きが、養護学校につながることへの引っかかりとしてありました。

療育(治療教育)が子どもを成長させたのだと考えれば、学校にも「専門性」を求めることにつながります。
子どもにとっての「学校・生活」(子どもの生活)を考えるよりも、「学校・専門性」を求めることになるのでしょう。


でも、子どもの「成長」は、本当に「治療・教育」のおかげなのでしょうか。
たとえば3歳、4歳までことばをしゃべらなかった子どもが、5歳になってことばをしゃべりはじめるとき、それは「ことばの教室」の専門性のおかげなのでしょうか。

わたしは大学で「言語障害」について専攻しましたが、専門家が子どものことばを生み出すことができるという話を聞いたことがありません。

5歳の子どもの、5年の人生のなかで、「療育」の時間と、それも含めた「生活」の時間を考える時、子どもの成長は、子どもの生活のすべてから、子ども自身のちからが芽吹いたものとみる方が自然なことだと思うのです。

       ◇


子どもは時とともに成長します。
その時の流れの中で、子どもには、安心できるぬくもりと声と安全な食べ物を世話してくれる大人が必要です。
そして、その大人が安心して世話をすることができるような環境もまた、子どもにとって大切なことです。

そばにいてくれる大人(親)が孤立していて誰も頼れる相手がいなければ、子どもの生活の安全や安心もぬくもりも声かけも、すべてが不安定になります。

それは、障害や病気の子どもだけの問題ではありません。

でも、もし子どもに「障害」があることで、保育園がどこも子どもを預かってくれなかったら…、子どもの生活以前に、親が不安になり孤立することにつながります。

そのために、「療育施設がある」と思われているのかもしれません。
それは本当でしょうか?

もし、そうなら、療育によって救われるのはまず「親」ということになります。
または、そこで仕事をしている「専門家」が救われているのでしょう。

親が保育園などで子どもの受け入れを断られ、障害のある子の「子育て」について誰にも相談できず、孤立し不安な毎日を過ごしているとしたら、それは子どもにとってもいい環境とはいえません。

それに比べれば、療育という場で子どもが受け入れられ、相談できる相手や仲間に出会えることは、子どもの日常生活が安定することであり、日常世界が広がることでもあるのでしょう。

週に3~4日であれ通い続ける生活は、初めてこの世で暮らす子どもにとって「日常のかたち」のひとつであり、専門家との一対一の時間は、子どもにとって「日常生活」の一場面にすぎません。
そして、子どもはトータルな生活の半年、一年をかけて成長しているのです。

だから「ことば」や「あるく」が、専門家のおかげ、というのはお世辞でいうにはかまいませんが、本気で思っているとしたら子どもにも自分にも失礼な話だと思います。

同じような成長の瞬間は、ふつうの保育園や幼稚園の出会いと生活の中でも無数に起こっています。

障害があろうと、発達が遅れていようと、子どもは子ども自身がもっている命の力のもとで成長しているのであって、専門家とおつきあいしないと成長しないのではありません。

いまの療育の場、通園施設が行っている役割は、子どもよりも「子どもの親」が必要としているのだと感じます。
だれもが「子育て」に必要な遊び場や学び場、親子の居場所や相談相手、そういった「本来あるものの」代わりとしてあるのです。

では、「子どもの親」が本来必要とするものが、得られないのはなぜか。
子どもに障害があることで、引き受けようとしない「子どもの居場所」がありすぎるからです。

すべての保育園や幼稚園が、障害のある子をすべてあたりまえに受け入れる社会だったら、そこで障害のある子への必要な配慮が整えられていたら、あえて「療育の場と専門家」を必要する親子はほとんどいないでしょう。

「そんなたわごとを…」と言われるでしょうか。
でも、現実に東松山市では次のようなことが起こりました。

『 平成8年から、保育園に保育士を加配し障害児を受け入れてきたが、今では経管栄養や二分脊椎で導尿が必要など、医療的なケアが必要な子どもも保育園に看護師を配置して受け入れるまでになった。その結果として、障害児は保育園か幼稚園に通えるようになったため、市内の障害児通園施設は平成16年3月に閉園になった。』(東松山市長)


つまり、療育とは、「本来あるものの代わりの保障」といえます。
本来あるべき、子どもの生活の居場所、親が安心できる子育ての環境。
人や物を含めて、子どもの日常生活を豊かにすることで、子ども自らが成長する力を応援すること。それが子どもに関わる専門家の役割です。

お医者さんだって、自分の力で病気を治した、とは言わない。
本人の治る力、生きる力、それを手助けしているだけだという。
それなのに、子どものことばが「専門家」のおかげで生まれるなんてことがあるわけがないじゃないか。

なのに、子どもの成長を、専門家の仕事の成果みたいに思わせるなよな、と思います。

それは、子ども自身のちからだろ。
それは、何回も何十回も保育園を断られた親が、必死で療育に通い続けて、子どもの生活を豊かに育ててきた親のちからだろ。

そこを勘違いさせてしまうから、小学校も中学校も、子どもには「学校生活」よりも、「専門家の指導」が必要だと思わせてしまうのです。
親や子どもを「エンパワー」することの反対ばかりするから、親が専門家を信じていれば間違いないと思い込んでしまい、親の力、子どもの力を見過ごしてしまうのだと思います。
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