ワニなつノート

「介助」者から「対話」者へ(その4)


「介助」者から「対話」者へ(その4)


《対話使い》



「ことば使い」は、覚えた言葉を使って、話そうとする。
「手話使い」は、覚えた言葉=手話を使って話そうとする。
「まなざし使い」は、覚えたまなざしを使って話そうとする。
「笑顔使い」に「表情使い」、「涙使い」や「逃げ足使い」もいる。

子どもの対話には、いろんな使い手がいる。

共通しているのは、対話に主人はいないということ。
対話で片方だけが主人公になることはない。

一人が一方的に話していたら、それは対話とよばない。

相手が聞こえないとか、言葉を話さない、こととは別のこと。
子どものあいだにだけ、習得できる「対話使い」の技がある、らしい。
「誰でも対話」という、対話使いの奥義がある、らしい。


私は、言葉と文字と、少しの笑顔使いの技しか覚えなかった。
「誰でも対話」という、「対話使い」の技を習得できなかった。
なぜなら、フルインクルの子ども時代を体験しなかったから。

「誰でも対話」という技は、そのとき、そこにいた子どもたちの「あいだ」で習得できるもの、らしい。

だから、私には子どもたちが、本当の魔法使いのようにみえる。

私には使えない「対話ことば」を使い、豊かに感情を分かち合い、重ね合うことができる。

なんて素敵な魔法なんだろうとおもう。

誰かと闘う魔法じゃない。
誰かとつながる魔法を対話という。

まなざしやことばや笑顔やあらゆる感情の流れを、
重ね合うことでつながる「あいだの魔法」。



   yellow19   yellow7   yellow1


《こだわりは「あいだ」に溶ける》


この子に障害があって、あの子に障害がない、ということは、
《あいだ》にとっては何の意味もない。

「あいだ」にとって、片方の子に障害があることは、
なんの障害にもならない。

二人の間に対話があるか、ないか。それだけ。

「コミュニケーションできない」のは、「障害のせい」と言われるけれど、本当は違う。

それは言葉のない子と対話ができなかった昔の人の作り話だから。
その昔話を、私たちは「強力な固定観念」として受け継いできただけ。

だって、対話に主人はいない。
あいだに、主人はいない。

「コミュニケーションできない」のを、相手のせいにするのは、
自分が一方的に対話の主人だと思っている人だけ。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「普通学級の介助の専門性」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事