ワニなつノート

増補改訂版 (その2)

【い】 
《いい所など、どこにもない 今いるここを、いいところに》


「あそこはいい学校ですよ」と評判の学校や教室も、先生は数年で替わります。障害のある誰かにとって「いい所」だったとしても、この子にとっていいかどうかは分かりません。

この子が生まれ育った地域の学校を、誰にとってもいいところであるために、いまいる学校を変えていきましょう。


【ふ】 
《「ふつう」は無理と思う子に 出会ったことがない》


今までに、いろんな場所で子どもとつきあってきました。小学校、中学校、高校、定時制高校、ことばの教室、小学校情緒障害児学級、中学校情緒障害児学級、適応指導教室、スイミングスクール、幼児教室、進学塾、児童相談所、児童自立支援ホーム等で仕事をしてきました。
いろんな「会」にも参加してきました。足立教育と福祉を考える会、江戸川・教育を考える会、東大医療と教育を考える会、共に育つ教育を考える千葉県連絡会、生活と教育を考える会…。その他いろいろ。

だけど、「この子は、普通学級では無理だな」と思う子に、まだ一度も出会ったことがありません。気管切開している子も、呼吸器をつけている子も、看護師が配置されるようになりました。普通学級が無理な子どもはひとりもいません。
(千葉県で、看護師が配置されている所、また配置される予定のところは、柏市、我孫子市、流山市、船橋市、成田市、千葉市、松戸市などです。なお、流山市では学童保育所にも看護師が配置されています。)


【そ】
《「相談することはありません」》


子どもに障害があると、教育委員会の就学相談を受けなければと思っている人がいます。でも、相談は「悩み」がある人がするものです。
だから、普通学級に決めている人は、こう言っていいのです。
「相談することはありません!」

スロープが必要?
担任が心配? 
それは、就学相談ではなくて、「入学後の相談」だから、「入学通知」が届いてからにしましょ。


【れ】   
《0点でも送れるゆたかな学校生活》


「分からない授業はかわいそう」という言い方があります。教育委員会や学校の先生が、親にふつう学級をあきらめさせるために使う時もあれば、親自身も、本当にそうだと迷うこともあります。
そのとき何がかわいそうなのでしょう? 分からないことが? 
でも、「知的障害」というのは、「分からないことが多くある」ということです。だから、「分からない」のがかわいそうといえば、「知的障害」がかわいそう、になります。そしてそれは、本人には、変えることができません。

「障害」があることは、かわいそうでも恥ずかしいことでもありません。そのことを伝えるために必要なことは、障害のある姿で、みんなと一緒に堂々といられる居場所を用意することです。

「分からない」ことがかわいそうなら、「分かる」ようになることしか救いがありません。でも、障害のために「分からない」ことは、特別支援学校に行っても同じです。たとえば、「見えないことがかわいそう」と言うなら、「見える」ようになるしか、救いはありません。でも、特別支援学校に行っても、「見える」ようになるわけではありません。

 実際に、普通学級に通う障害児たちは、「授業」が分からないことがかわいそうだったことなどありません。「授業」が分からないから不登校になった、という話も聞きません。たしかに、似たような状況はあります。それは、授業が分からないことそのものより、「この子には、どうせ分からないだろう」と先生から相手にされないこと。そんな先生が担任だと、周りの子どもたちも、相手にしてくれなくなること。そうして、教室の中に、その子の居場所がなくなっていくのです。
そういうときに、子どもが「勉強ができない自分が悪い」と間違っていう言葉が、「勉強が分からないから、学校に行きたくない」というのです。
「分からない授業」がかわいそうなのではなく、障害があると「参加もさせてもらえない」「居場所もなくされる」、そんな授業の在り方によって、「かわいそう」な子にされてしまうのです。

 実際に、私が出会ってきた子どもたちは、テストが0点でも楽しく豊かな学校生活を送ってきました。そして、学校の成績がオール1でも、先生の評価は「授業の中身が分かっていなくてかわいそう」であっても、中3になった子どもたちはみんな「こうこういく」と言います。私がこの25年間に出会ってきた子どもたちは、みんな「高校に行きたい」と言いました。言葉でも、態度でも。そして、1浪しても、2浪しても、3浪しても、高校生になりたい子どもがこの国のあちこちにいるのです。

「分からない授業はかわいそう」が本当なら、「0点でも高校へ」行きたいと言う子は、一人もいないはずです。まして、高校に入っても、「かわいそう」なだけで、みんなやめていくでしょう。でも、ほとんどの子どもたちが、高校を休まず、遅刻もせずに通い切ります。そして、多くの子どもたちが、「高校が一番楽しかった」と振り返ります。「高校の授業」がいちばん難しくて、「かわいそう」なはずなのに、そうではありません。「高校が一番楽しかった」という子どもたちの、高校生姿をみてきた私たちには、「0点でも送れる豊かな学校生活」はとても確かなものとして感じられます。

0点と言うのは、たかが学校のテストの点数でしかありません。テストの点がどうであっても、みんなと一緒に小学生すること、中学生すること、高校生すること、その子ども時代を生きる中身は100点満点の豊かな体験ができるのです。


※【反対語】→【わ】
《「分からない授業はかわいそう」》


こっちが真実だったら、「0点でも高校へ」行きたいなどと言う子は、一人もいないでしょう。高校に入っても、みんなやめていくでしょう。千葉では「0点でも高校へ」と挑戦してきた子どもたちが、今までに93人高校生になっています。来年には100人突破の予定です! 
そして、ほとんどの子どもたちが、ちゃんと単位をとって卒業しています。「高校が一番楽しかった」という子が多い理由の一つは、確かにテストが「0点」ではない、ということがあるかもしれません。なぜなら、評価が全部0点では、単位が取れないからです。だから、高校の先生は、授業やテストや補習やレポートや評価を「工夫」しなければなりません。でも、その結果の「点数」は、子どものがんばり以上に、先生のがんばりと言えます。小学校はすべて0点で、中学校はすべて0点の子どもが、高校では赤点にならない30点を取らなければいけないのですから。
そのとき、子どもがうれしいのは、「0点」でないこと以上に、先生が自分の存在を受けとめてくれた実感だと、私は思います。


【つ】  
《通知表 ついているのは先生の点》


普通学級の「障害児」の通知表は、だいたいオール1か、オール△か、とにかくビリの評価がつきます。さんすうも、おんがくも、たいいくも、障害のない子たちと比べたら、やっぱりそうなのかもしれません。でも、時々、音楽の選科の先生が2をつけてくれたりします。体育の先生が2をつけてくれたりします。それから、先生が変わると、評価も変わったりします。
 
たとえば字を書かない子、しゃべらない子なら、その子の「学力」は測りようがなく、変わりようもないのに、通知表の数字は変わったりします。そのとき、「変わる」ものは何でしょう。
 
いつの頃からか、それは子どもの側からみた「先生の点」じゃないかと思うようになりました。

たとえば、最低評価の1や△をつけることもしない先生がいます。そういう先生は、誰に教えられた訳でもないのに、同じように「斜線」や「白紙」ですませます。悪気もなく、そういう扱いがふつうだと思っている先生もたくさんいます。それは親も同じです。授業についていけないんだから白紙でも仕方ないと。でも、そうした小さなところから、「違い」は「作られ」ます。マラソンで言えば、どんなに距離を離されても、ビリはビリです。100人なら100位、ちゃんとビリとして認められます。「斜線」や「白紙」というのは、参加しなかったということです。または途中で棄権した場合です。

子どもが毎日学校に通い、授業を受け、みんなと一緒に学校生活を送ったのなら、棄権ではありません。白紙という、「いないこと」にされてはたまりません。1という評価がうれしいわけじゃないけれど、みんなに数字をつけるなら、それが「先生の仕事」なら、ちゃんと1をつけてもらった方がいいのです。
 
そうして初めて、私たちは、通知表をもらって帰ってきた子に、「よくがんばったねー」と言えるのです。「1ばかりだった? そんなの気にしなくていいの。子どもを数字で評価するなんて、先生がセンスなさすぎなのよ」
 
なかには、「1もつけられない」と言う先生もいます。「1をつけたら、他の1の子がかわいそう」と。私は、そんな悲しいことを考える人がかわいそうだと思います。「他の子と同じ通知表を下さい」、というと、「そんなに言うなら、1をつけますが、普通の1じゃなくて、ずっと低い1ですからね」と、訳の分からないことをいう人もいます。その人は、そんな悲しい理屈こそが「自分の評価」だと知っておいた方がいいと思います。

           ◇

「うちの子、全部1だけど、社会だけ2だったの」という話を聞いて、私たちは言います。
「そうか、社会の先生だけは、ちょっとましなんだね」
「え、そうなの? うちの子が社会の勉強をがんばったんじゃないの?」
「そんなわけないじゃん、しゃべらないし、字も書かないし、テストが0点なのも変わらないんだから」
「そうね~」
「子どもが変わったわけじゃないんだから、通知表の評価は、先生の評価なんだよ。この子はもともとがんばっているんだから、社会の先生にだけ、やっとこの子のがんばってる姿が見えるようになったんだよね」

障害のある子どもたちの、小学校から高校までの通知表の中身を毎年見ていると、分かるこ
とがあります。それは、言葉のない子や、字を書かない子でも、高校の通知表が人生でいちばん良いのです。次が小学校で、一番悪い成績が中学校です。誰か、このテーマで論文でも書いて発表したら面白いと思うんだけどなー。

コメント一覧

kaeru
0点でも送れるゆたかな学校生活。

今 うちの子がぶつかっている壁の一つがこのことのようだとも わかってきました。
 壁は他にもあるようですが(ホント、yoさんは子どもの気持ちをわかってくれていますよね。)、yoさんのカルタを読み返してみたくなって、これだ・と思いました。

子どもをこんな気持ちにさせる 今の大人や学校って何だろう。

何としても 子どもの居場所をまもってやらねばと思ってます。(鼻息が荒くなりすぎないように 気をつけつつ、 子どもの様子を見守りたいと思います。)
yoさん、いつもパワーをありがとうございます。
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