エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

大往生

2008-02-01 | ちょっと考えた事
親戚のじいさんが亡くなりました。
その関係でちょっと色々とあって忙しかったんだけど、享年94歳ということで、大往生でした。
まさに「天寿を全うした」という事だと思う。

人が亡くなって、「喜ばしい」だとか「嬉しい」等というのは確かに不謹慎で、「人の死」と接する時の態度ではないと思うし、人としてどうだろうと思う。
だけど今回のように、寿命を全うして亡くなったような場合は「お悔やみ申し上げます」とか「ご無念の事と心中お察しします」・・と言うともまた違うような気がする。

「死」というものは、大体にしてマイナスのイメージで取られがちである。
まあ、その大体の場合は間違っちゃいなくて、確かに「死」はマイナスの感情である場合がほとんどであるのは事実だと思う。
何故「死」がマイナスなのか。何故痛ましいのか。それは多くの場合、本人の意に反して強制的に「生」を終了させられてしまうからだと思う。
悪意のある他人に殺されるといった「殺人」による「死」は最もたるものであると思うし、事故にしろ、病気にしても、「まだ生きられるのに、ここで終えなければならないのが無念でしょうがない」といった事だと思う。

ただ、これが寿命で逝った場合はどうだろう?
元々人の生は有限であって、誰しも必ずいつかは死ぬし、これは最初から定められている、どうしようもない事実であり運命。
途中の不慮のハプニングで終了する人生と違って、寿命で終える人生というのは、いわば「人生を最後までやりおおせた」と言うことであって、「死」は「死」でも、迎えるべくして迎えた「死」というか・・・

だから、今回無くなった親戚のじいさん。
確かに「亡くなった」という事実は重くて、厳粛に受け止めねばならない事ではるけど、今回の場合は「悔しい」とか「悲しい」というよりも「天寿を全うして逝けた。大往生だ」という意味で、その人をむしろ「祝ってやるべき」というか、亡くなったからといって、ただただ悲しんでばかりいるのは逆にそのじいさんに失礼にあたるような気がして。

焼香をあげ、手を合わせ一例したとき
「今までお疲れ様でした。最後まで人生を全うできたことは幸せな事だったと思います。どうか安らかに」
との気持ちを向けました。
旅立つ友を涙ではなく笑顔で送る心境というか・・それに近い感覚です。

冒頭で述べたように、人の死に対して「喜ばしい」等という言葉を使うと、「死者に対して喜ばしいとは何事だ!」となるかも知れないけど、今回のように、天寿を全うして逝くべくして逝った故人。自分の人生を最後まで全うした故人は、人間ならばいずれ必ず迎えなければならない「死」を、もっとも幸せな形で迎えることが出来たという意味で「喜ばしい事」だったのではないかとも思います。

最後まで人生を生ききる。
俺の目標でもあります。

・・・故人への哀悼の意とともに。