エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

空気を読むためには

2008-01-28 | ちょっと考えた事

旬な話題は旬なうちに。
別に小栗旬と掛けたつもりではないのだが、「KY」なんてまさに今が旬な話題ですからね。

こんな記事

小栗旬「オレは許せない」「KY」現象に批判噴出

ん~。個人的には分かるなあ、この感覚。
正直なところ、テレビってあまり見ない俺にとっては、「小栗旬=イケメンの俳優」位の認識しか無かったんだけど、「へえ~、良い事言うじゃん」と感じました。

さて、この「KY」。
俺は流行語大賞のカラミで、確かネットでニュース記事読んでる時に初めて知ったんだけど、正直なところ、出所は分からない。
「KY」なんて言葉の使い方からして「女子高生が作って広めたのかな?」という感じではいたけど、誰か芸能人が使い出して広めたのかもしれない・・・まあ、でも別に誰が作って広めたにしても、その事自体はたいした問題でも無いので苦労してまで調べようとは思ってないけど。

KY=空気読めない(若しくは「空気読め」の場合もあり?)
この「空気を読む」という言葉自体は、結構以前から良く耳にする言葉ではありましたね。
「空気を読む」・・・「空気読め」って感じで、よく使われていて、要するに「言わなくても分かるだろ?察しろよ」という事。
「言わなくても分かるだろ?」ってのも結構横暴な感じで、「言わなきゃわかんねーよ」って場合もあるだろうけど、要するに、例えば10人居たとしたら7~8人位は「こうしよう」と思うだろうという事。そう言う場合に、その時の雰囲気、みんなの意向を察しろよって事だと思う。俺はそう理解している。
Aという人間が、個人的な勝手な自分の価値観で「俺はこうしたいんだよ、空気読めよ」なんて言っても、その場合は「んなこと分かるか~」って事になると思う。
要するに、大多数の意向が同じ方向に動く場合に、言われなくてもそれを察しろという事。
でも、最近は身勝手な奴も増えてきてて、とにかく自分の意にそぐわないと、なんでもかんでもKY呼ばわりする奴もいるけど、そういう人間こそ、場の空気壊し。KYな人間なんじゃないかな?とも思う。

空気読めって言われてもなあ

じゃあこの「空気を読む」ってのはどうやったら身に付くのだろうか?
常識とか、相手の立場で考えろとか、そういう事になりそうだけど、だとしても空気読めない人ってのは読めないだろうし、そういうのに自信が無い人にとっては、あまりに抽象的すぎてどうすればいいのか結局分からない。ということになるんだとも思う。

でも、なにか方法はあるんじゃないか?空気読める方法

俺なりに考えてみた
結局は「経験」と「知識」だと思う。
要するに色んなコミュニケーションの場面で「こういうときはこうするべきだ」「こんな時はこうかえす」という様々なシチュエーションを経験しているかどうか。

別に「空気を読む読まない」と言うことに限らず、人間生まれた時点では頭の中は全くの真っ白であり0であって、そこから様々な経験をして知識を得て、その上で自我を形成して、自分なりの意識を形作っていくもの。
「空気を読む」に通ずる「こういうときはこうすべきだろ?」とか「俺はこうされると嬉しい」「こうしたい」という感覚も、元を辿れば「そうあるべきだ」という何かしらの経験なり知識が元になっているのだと思う。

だから、沢山の人と接する経験を積むことがまずは大事だと思う。
別に見ず知らずの人と接点を無理して増やす必要はなく、いつも一緒に遊ぶ友達とでもいい、そういう人と接する機会を増やすことが大事だと思う。
こういう時どうするだろう、相手はどう思うだろう。
ケンカしたらしたでそれはそれで経験になると思う。
「空気を読む」ってのは結局「相手の気持ちを分かってあげる」という事の一部分なのではないだろうか?

直接の経験でなくても、例えば本を読むなどにしても、堅苦しい学術書などよりも人間関係、コミュニケーションの表現の多彩な小説等がいいと思うし、そういう意味では、小説でも例えば、芥川賞受賞作よりも直木賞受賞作かな?とか思ったりもする。
ドラマやアニメなんかも、そういう意味では下手な純文学作品なんかよりもよっぽと役に立つかもしれない。人間相互のコミュニケーションを疑似体験するという意味では。
ここら辺は学校では教えてくれない知識だし、「よく学びよく遊べ」とはよく言ったものだ。

でも、元々こういうコミュニケーションに係わる経験や知識って、日常生活を普通に営んでいく上で普通に身に付く物だと思うし、人と話すたびにいちいちそんなことを堅苦しく考える必要もないと思うし、いちいちそんな事考えていたら疲れてしまう。
本来、普通に身に付くものであるからこそ、今まではたいして「空気を読む、読まない」なんて問題にもならなかったんだろうけど、実際にこういう問題が出てくる背景には、人とのコミュニケーションが苦手になっている人が増えている。と言うことの一種の現れでもあるんだろうか?
引きこもりまでいかなくても「外でみんなで遊ぶよりも、家で一人でゲームしてる方が楽しい」なんて幼少期を過ごす子供や、「遊ぶよりも塾」なんて子供が増えてるって話も聞いたりするけど・・・そういう影響もあるってことか?

「俺って空気読めないなあ」って感じる人は、そして「出来れば読めるようになりたい」って思う人は、どんどん人との接点を増やすようにすればいいと思う。
失敗しても「ああ、こういう時こうすればスムーズに流れるなあ。こういう事すれば迷惑だな」ってのにちょっと注意を向けて、それを感じていけば良いんじゃないかと。

ただ、途中に一回言った事だけど、最近の「KY」は「読めない側」ばかりの問題ではなくて、自分の勝手な願望を一方的に押しつけて、そぐわないと「KY]発言するという、その言葉を使う側の濫用的な側面もあるんじゃないかなあとも思う部分はある。


2 コメント

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Unknown (タピアン)
2008-02-03 08:44:20
こんにちは。遅れコメントですみません。
私、この言葉の意味最近知りました。でも普通に使いたいとは思わない言葉だなと…。「空気読めない」って言葉自体が傲慢な言葉のような気がして。
卯月さんのおっしゃるとおりコミュニケーション能力って確かに人との接点を作っていろいろ交流してみることでだいぶ変わるとは思いますね。本来は年配の人から子供まで話す機会があるとおもしろいです。なかなか機会がない部分はありますが。

最近少し気になるのは会話ができない人が増えてるってことです。私の職場にもいますが、自分の話が正しいと思っていて全て自分の基準でものを言い、人の話をよく聞こうとしないので話のキャッチボールが成立しない、さらにその事に本人が全く気がついていない…。相手を思いやるという気持ちがあまりないのでいっしょに仕事しているメンバーは「…。」と思っています。ところがこういう人が結構「KY」という言葉を平気で使ってるんですよ…。
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コメントありがとうございます (卯月 蒼)
2008-02-05 16:13:03
>タピアン
俺も好きじゃないですこの言葉。
基本的に俺も、相手のことを思うというか、こうされると嫌だろうとか、こういう場面ではこういうことを望んでるだろうとか、別に高度に難しいことを考える必要は無くて、ごくごく普通に考えれば分かるような事を当たり前に考えて行動すれば良いのだと思うんですけれどね。

でも、そういうところが分からない人ほど確かに「KY」なんて言葉を使ったりして、でもそう言う人ほどその人自身が実はKYだったりして・・・KYと言うよりも、ただの我が儘のような気もしますけどね。
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