Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

面白いもの、色々。

2005-10-07 | リンク集?
言い換え語等一覧(五十音順)
外来語の日本語化。今こんな感じだそうです。
……結構一般化したのもあるかな? あ、『オーガナイザー』って、『誘導体』じゃないのね。そりゃ発生生物の用語か。
結構元から使われてた物もある気がするけど、既にその時にはこの計画が効いてたのかな?

Saki's Homepage
~自己啓発を暴露しちゃるっ!

自己啓発セミナーの実態。
来たことがあるよ~、ウチの玄関にも。
サークルのアンケートとか偽ってさ。二度も長々と立ち話をさせられたぜ。
追い返してからムカムカと腹が立ってきたさ。
……こんな内容だったんだ~……。
三つ子の魂百までを素で行ってると断言できる奴なので、
本当の自分探しなんて一生する機会はないだろうけど、怖いなあ。

蟲師
アニメ化。片山さんおめでとう(笑)ウチんとこ映るかな~?
……六巻読みたい。

ユマニテより、「今月の一冊
ドーキンスの「利己的な遺伝子」を中心に、面白そうな本が一杯。
……本、読まなきゃなあ。


そうそう。
どっかの宗教団体のチラシが、ウチの実家に突っ込んであった。
霊波だか何だかを当てると、不治の病やら癌やらが治る、とかいうのの一派。
そのチラシに、「遺伝子組み換え食品」について書いてあり、その内容は否定的なものだった。
「遺伝子組み換え」「クローン」
これらにあなたは、一体何を想像されるだろうか?
「ネタ生物」なんてお題のコンテンツ持ってて言うのも何だが、SFに出てくる「禁断の技術」としてのイメージは少なからずあるんじゃないだろうか。
最近実感するのは、世間一般にとって「科学」とは、「ワケの分からないもの」である、ということだ。
クローンはともかく、「遺伝子組み換え」は宗教の分野かねえ?
教義にもよるかもしれないが、「遺伝子組み換え食品などの危ないもの」として、「世間の悪」的に捉えられ、それに対する救いが宗教で示されるのは、何か間違っている気がする。

「何か怖い、気味悪い」
「そのうち大変なことが起こりそう」

これは言ってしまえば、「呪い」やら「祟り」やらと同じ感覚なんじゃないだろうか。
「何か良く分かんないんだけど、色々複雑で自分に分かりっこなくて怖いから嫌」
そんな感じな気がします。

本当は「科学」というものは、こういう感情と対極の位置にあるべきものなんじゃないでしょうか。
科学は魔術や呪術じゃない。
「誰が、いつ見ても、再現しても、同じ結果が出る」
それが科学の価値でしょう。
絶対に特定の誰かにしか見えず、出来ず、理解も認識も出来ないもの、それが魔術や呪術、「そうでない」ことが科学の価値。
の、はずなのに(だと私は思うんだが)、その科学の結果が世間一般の「理解・認識」からかけ離れ、かけ離れたがゆえにその功罪(と、想像されるもの)が肥大し、一人歩きしてる部分がないですか?
「AがBによってCになる。よってAをCにするにはBしなければならない」
そういう、「明確な理論」こそが「科学」なんだろうになあ。
知れば、分かれば「正体」があるものを、無闇に怖がってる部分があるんじゃないか、その「無闇」な部分が世の中を動かして、無駄やら弊害やら増やしてるんじゃないか。
クローズアップ現代の、韓国のヒトクローンの回を見ながらそう思いました。

万能と、「神のウンタラ」とか「夢のウンタラ」とかと思い込むのも間違い。
そこに「理論」が存在する以上、その技術や物質には限界や欠点は必ず存在する。
逆に、無闇に恐れるのも間違いだろう。
「ナニが出来るのか」を知ることもなしに怖れないで欲しい。それが「出来る」のは事実なのだから。
選択は、
その長所と欠点、理論と特徴を知った上でして欲しいなあ。
そう思う。

しかし、何かにつけて複雑すぎる世の中、最前線の科学の理解を万人に求めるのは厳しいと思う。っていうか、私物理は分かりません。コンピューターも。
「わかりやすく」って、ぶっちゃけ過ぎると乱暴になって誤解を生むしねえ。
難しい。
その上、日本は国民性が国民性だから、いかにも欧米的な発想の「科学」というものに「世間」がついていくのは得意じゃないのかもしれないな、とも思います。

「理論」なんて知る機会もない時代には、
「とりあえず怖れておく」ことは実に有効な手段だっただろう。分かんないモノには慎重になるのは当然である。
日頃ニュース眺めてて思うけど、日本ほど天災が派手だと特にね。
人生の中で、たったの一度も「天災」の恐怖を体験したことのない人なんて、そうはいないだろう。
地震、火山、台風、洪水、土砂災害に豪雪、昔なら旱。
五十年も生きればどれかには当たる。
当然、自然を恐れるし、「自分の意思でコントロールする」という発想はあまり起きないはずだ。
しかもこういう天災は、襲ってきたら最後、悠長に自分で判断などしている場合ではないと思う。群れを作る小魚じゃないが、集団からはぐれれば「死」が待っている、というシチュエーションが多かっただろう。
「みんなと一緒に」「自分でコントロールすると言う発想を持たず」「とりあえず恐れる」のは、生き残り手段だったんじゃないか、そういう考えを持ちやすい遺伝子が生き残ってきたんじゃないか、
まあ、何の裏づけも理論もないけど、そんな事を思ってみたり。
(データは知りません! 仮説です。真実と思わないように!)

同様の理由で、
「古いものにこだわらない」「伝統を大切にしない」のも、
立派な日本の国民性だとか考えていたり。
やれ、パリやウィーンの町並みは景観が保存されていて云々というけれど、
やれ、昔は着物で十二単で、和風で風流で云々というけれど、
ぶっちゃけ、
それって自然環境の寄与する所が大きいと思う。
天災がそういう「伝統」を重んじる地域に、頻発するとは思えない。ヨーロッパって、偏西風吹いてて年間の寒暖差ってあまりないし、地殻も割りと安定してるとこが多いし、(あってアルプス‐ヒマラヤ造山帯かな。中央アジアから南ヨーロッパ……地中海にかけてはけっこうありそうか。うーん、イタリアの人って伝統的な景観大切にする? するかも;)
……。
えーと、ナニが言いたいかと言うと。
日本って、大概天災で何でもぶっ壊れるし、古いものの良さより、新しいものの高性能を求めるのも、景観云々より安全性を求めるのも、
立地条件的に当たり前なんじゃないかなあ? ということ。
どんなに綺麗にしといたって、台風来て崖が崩れて死人が出たら、誰だって許さないだろう。そう思うんだけど。
「日本人はこういう所がイカン!」と嘆くのは勝手だが、それにも何らかの理由があるし、だからこその「日本人」だし、それは「この場所で」私たちが生きてきた証であって、嫌悪すべきものでも、卑下するべきものでもないと私は考えます。
いいじゃん、そういう「日本人らしさ」もあって。
ソレを「嘆く」のも、「らしさ」っちゃあ「らしさ」な気がするけど。

たしか高校の頃の国語の論文(授業か模試か……)で読んだことがある内容が、非常に印象的だった。
そのあと、NHKの歴史番組でも共通する内容をやっていたかな。
「日本人は古代より、古いものに固執せず、何でも新しいものを取り入れ、『便利なように』改造した」
「日本人は古代、中国という『先進国』に認めてもらうため、『それまでの日本』を捨て去った」
というようなものだった気がする。(曖昧)
要するに、伝統文化にこだわらないのも、実用一辺倒でその他諸々の文化的価値にこだわらないのも、今に始まったこっちゃない、というお話である。
それどころか、
「これぞ日本人」であるとするなら、私たちはナニを気にしなくても、日本人として日本人の伝統を守り続けていることになる。
文明開化も全く同じ事やったし、全てのものはシンプルな「軽薄短小」にするのが日本流。使い勝手とコンパクトさ至上主義(笑)
大昔の中国風がそのうち和風に化けちゃったんなら、今の欧米風だってそのうち「和風」になってしまうだろう。
そういう、こだわらないしたたかさって素敵だと思います。
だって無敵じゃないですか。
「日本人」が存在する限り、どんな文化に優位に立たれて、その文化が日本を席巻しようと、絶対に「和風」は消えないんだから。

さてまあ、お付き合いいただきありがとうございました。
空き放題を、何の裏づけもなく書いておりますので、アヤシイ点も数限りなくあるとは思いますが、その辺はご容赦を。
同様の理由で、「納得したから」と言って「信じ」ないでくださいね。
繰り返しますが、証拠はないんです。
ネット上の日記を読むのには常識でしょうけど、とりあえず自分の気持ちの為に念押し。

最後に。
上の辺でちょろっと触れてる内容と通じますが、
『正しい日本語』にこだわるのも「日本人らしさ」な気がしますねえ、私には。
だって、日本人が喋る言語以外のナニが日本語だって言うんですか。
その辺の居直りが効かないのも、日本人らしいなあ、なんて思います。
言語が日本人に合わせるべきであって、日本人が言語に合わせる必要性なんてあるの? と。
ま、自分の脳内辞書が旧式の定義で書かれてる項目は、中々書き換えられないし、
昔正しかったことが否定されていくのは納得いかないのは、当然の感情かとは思いますが……。