と、言うものに違和感を持たれたことはないでしょうか?
私は昨日、よく行くディスカウントショップに入って、その中で売られている毛皮商品……此処では主にラビットファーの多さに驚きました。
昨冬あたりからリアルファーが流行なのは何となく分かっていましたが、まさかディスカウントストアで叩き売りとは。
しかも、売られている商品はよく見るような襟巻きなどばかりでなく……全面にウサギの毛皮(?毛だけを植毛してある感じ)を敷き詰めた、抱き枕までありました。
正直これは、ぞっとしましたよ。
一体、全国に何件ディスカウントストアがある?
別にディスカウントでなくてもいい。ちょっとしたスーパーの衣料品コーナーにリアルファーが安売りしてあるこの状況は、今までにない異常事態だと思うのは私だけでしょうか?
一体抱き枕一個に、どれ位の毛皮が必要? 襟巻き一つは?
問題は安売りされてることじゃなくて、ディスカウントの店頭に並んで「薄利多売」できるほど「大量生産」されてる、って事だと思うのですが。
正直その時は、「もしかしてウサギも、殺さずに毛皮が取れるんじゃ?」と思いました。
羊毛は毛を刈るだけで、その都度羊を殺したりしないですしね。羽毛も生きたままむしってる所をたまたま図書館の本(ロマ(=旧称ジプシー)の人々の生活を追った写真集)で見つけて驚きましたし。(羊毛みたいに毎年むしるみたい。上手い人がやると痛くないんだって)
まあ、羽毛のうちそうやってライブハンドピック(生きたまま手むしり)されたものは少なくて、最高級品らしいけど。
でも他の羽毛も、ほとんど食肉用に殺されるものの副産物みたいです。
だからちょっと夢見たわけですよ。
ウサギもバリカンで毛を刈られるのか? って。
でも違いました。彼らはどうも、まんま皮を剥がれている模様です。
しかも、場合によっては生きたまま、あるいは恐ろしく残酷な殺され方をして。
参考URL
http://homepage1.nifty.com/96iruka/hoka/animal_fur.htm
http://plaza.rakuten.co.jp/kirakirashiteru/12000
http://www.fur-free.com/
http://www.no-fur.org/
一部残酷な画像などがありますのでご注意くださいませ。
一番上のURLの所が、そういうグロいものは載せてないので、よろしければソチラから。
去年も毛皮についてはウダウダ言いましたがね。
でも異常だと思うんですよ。うん。
実験のためにマウスを、3日使って32匹殺してるような、ラットを二週間に一回8匹ずつ殺してるような奴が言うことでもないかと思うけど。
(以下、たこやきさんの「動物愛護」に対するウダウダ考察。)
『動物愛護』て、基本的に好きじゃなかったりします。
その理由は、上記サイト様でも触れられていますが、それを行う人々の行動が過激で、その論理が極端というイメージがあるからです。
嗜好品に近い(人間の生命維持に必須でない)化粧品の開発過程で、動物実験を行うのはけしからん、だから動物実験をされた化粧品は買わない・規制するべきだ。
と、言われても正直私は退きます。
自信満々に「この商品は動物実験を行っておりません」と表示されたものを己の肌にぬたくりたいとは正直思えない。
だって、生物系に身を置いてますとね、「細胞レベル」と「個体レベル」の間には広くて深い淵があることは嫌というほど分かります。
そら、培養細胞とゾウリムシで何とかなるなら、そうすれば良いですよ。
でも、細胞レベルの物質の動態と、それの個体への影響は必ずしも一致しません。一致してたら世の中こんなに、胡乱げな効くのか効かないのかよく分からん健康食品やサプリメントや、「食べるとガンにならない食品」の情報が蔓延したりしません。
細胞レベルで効果が確かめられても、個体レベルでは吸収されなかったり効果が見られなかったり、もしかしたら逆に働いたり……って可能性がゼロじゃないし、だからこその動物実験でしょうに、とか思うわけです。
化粧品を使う使わないは個人の判断で、化粧しなけりゃ死ぬってわけじゃないけどね、でも社会生活を送る上では必要な時もあり、それになにより、売る以上は商品の安全性の確保が最重要な義務じゃねーのかよ、とも思うわけです。
その感覚と、ファーの大量消費への恐怖が矛盾しない、と言い切る自信はないのですけどね。
実験動物についてはかなり割り切ってる部分もありますし。
前にも言った事ありますが、実験動物というのはそのためだけに、可能な限り個体差がでないように純血化、系統化された存在です。兄弟なぞクローンに等しいはず。
「そういう存在」に対して、いまさら愛護だ権利だと言って、科学の進展を邪魔するのはどうか、と思うのはまあ、私が科学分野に身を置く人間だからなのかもしれないですが、そう言ってる人たちも、「良い肉をより多く取る」ために系統化され、飼育された家畜の肉片を、その本体がどんなのかも知らずに買って、食べて、時に残飯にしてるわけです。
それで、そういうこと言うの、自己満足なのでは?
とも思ったりもします。
んじゃあ、マウス・ラットとラビットの間にどれだけの差があるんだ、と言われればホント、困惑するしかないのですが。
ラットくらいになると、「違い? 耳と尻尾の長さ?」と言いたくなるくらいデカイしねえ。小さければいいってもんじゃないけどさ。
なんだろう。
食用家畜は許される気になるのは、有史以来ずっと人間が行ってきた事だから?
実験動物が許される気になるのは、自分に身近で、人体への影響を見るのに不可欠と思うから?
じゃあ、ファッションのために殺されるウサギが許せない気分になるのは、ただその事に慣れてないからだけなんでしょうか?
どう足掻いても人間は、他の動物の命・存在を完璧に尊重することはできないと思います。それは別に、そのために絶望しなければならない類のことでもないと思う。
人間は人間最優先で当然と思う。だからこそ、「人殺しはしちゃいけない」わけで。他の動物を同レベルで扱う事はできないし、それっておかしいとも思います。
頭で考える部分じゃないでしょ、そこ、と。
他の動物の命が、人間が今の人間の生活を送る上で大量に必要な事は事実で、だけどその命を野生動物に求めたらそれこそ一瞬で地球は丸裸。だけど今の生活、今更全部捨てるわけには行かないでしょ。それも、他の生命のために。
環境破壊を懸念してエコに気を使うのだって、とどのつまりは「将来の人間のため」であって、決して「他の生命や地球のため」ではないですし。
(だから私は『地球に優しい』という言葉が嫌いなわけですが)
だったら「家畜」というものは必須で、家畜ってのは要するに「人間のために有る存在(モノ)」で、生命の尊厳からは一線を画すのかもしれない、とも思います。
だったら、その「家畜」がラットだろうがウサギだろうが牛だろうが、それを何のためにどうしようが、そんなん言っても仕方がない、とも言えるかもしれない。
ただ、「ファッションのため」と言う部分が例えようもなく哀しいと感じるのは否定できない部分なわけで。
たとえ相手が体長10cmに満たないアフリカツメガエルのオタマジャクシだろうと、実験で殺した時はその亡骸を「ご遺体」と呼んで、処分したラットやマウスには手を合わせて、食べる時にも「いただきます」と手を合わせる。そういう、ホントやったってどーしょーもないこと、動物からしてみりゃされようがされまいが関係ないこと、そういう事がでも、人間にとっては大切なんじゃないかと思います。
人間と言う存在にとって、ね。
他の存在にとって本当に「どう」かなんて、結局考えられない事だろうし。
犬猫ならカワイソーなのも、ミミズだったら踏んづけちゃうのも、ゴキブリには容赦がないのも、マウスまでなら実験してもいいやーって思えるのも、要するに人間にとって相手生物がどれだけ「感情移入できるか」の差なのだと思います。
相手にしてみればわかりますが、マウスと猫じゃそこにある「人間性」……っちゃ変だけど、人間臭さ、表情、意思の疎通具合が雲泥の差です。
マウス実験の帰りに猫に癒された人間が言うんだから、きっとそんなにウソじゃありません。
意思の疎通ができる相手……もっと言えば、「意志の存在を感じる相手」に人間はあまり残酷な事はできない。それってでも、人間の都合ですよね。
ただ、「酷い事するとそれを自分に置き換えちゃって、何か辛いから嫌」っちゅーだけの。
「他を思いやる気持ちなんて、結局は自分のためなんだから」なんて斜に構えた事言って得意になる気は全然ないのですが、別にその事が悪いとも虚しいとも思わないわけですが、そういうことだろう、と。
でも、そういう手を合わせて感謝する感覚をなくして、麻痺させて生きたくはない、と思うわけです。
それをやったら人間、ちょっとやばいんじゃないの、と。
そして私の中で、
「ファッションのために」「むごい方法で」「大量に」生き物を殺し、その毛皮を楽しむのは「やばいこと」として認識されるらしいです。
皆様はどうでしょう。
とりあえず、この件に関しては「げ、本毛皮ってちょっとヤダー」と思ってくれる人が一人でも多く増える事が重要かと存じますので、後半のたこやきのウダウダは忘れて下さっても全く支障はございません。
ただの、科学分野に在籍しつつ「物書き」をやっている人間の、それゆえの内部考察とネタ出しですので(^^;
物書き仲間の方ならば、小説のネタ、登場人物の思想のネタの一助としてくださる事があれば、書いた甲斐があったと幸せに思います。