以下は徹夜で書き散らした長文です。論文ってほどまとまってない感じの。
ここ数年頭に蓄積してたものが、ここ数日高校生物のおさらいやら倫理学やらに触発されてあふれちゃいました★
ここで書いておかないと十中八九霧散するので徹夜で打ち込み作業。
あくまで話のネタっていうか、創作の種っていうか……そういう類のものです。
文献漁ってまで裏をとってはないので、全部今まで自分が見聞きしてきたうろおぼえの情報を頼りに論を展開しております。
その辺についての追及はご勘弁ください。そして興味があるなら自分でどうぞお調べください。
そんな長長い前置きをおいて、開始です。
科学により定められる真理というものは、
『いつでも、誰にでも、必ず同じ結果を示す実験』を元に決められる。
単純な原理・法則に近いものなら、厳密にその条件を整えることができるが、
生物ほど複雑になってくるとそれはつまり、数多く存在する事例という母集団の中で、統計的に処理されて導き出されることになる。
突飛なデータは棄却され、数多くの近い値をとるデータが平均化されたもの、それが生物における真理となる。
これを前提にすれば、科学が我々個々人を救わないのは当然だ、と私は思う。
何故なら、私たち一人一人は、人間、ホモサピエンスというとても大きな母集団を誇る種の、たった1サンプルでしかないからだ。
人間という種の真理、を生物として求めたところでそれは、人間全体の平均でしかない。その平均はたしかに、ある意味正しく
私たちを反映するだろうが、決して「私」を表すわけではない。
それを基にする科学と科学技術が正確に「私」にそぐうはずもなく、ましてや、私を「死」から救うこともない。
何故なら、ヒトは死ぬ生き物で、生物学的に見てそれは何の特別もないことだからだ。
私の死が特別なのは、私とその周辺のわずか数十人程度に対してのみであり、それは全く生物学的統計に影響しない。
科学的に見て「私の死」が当然である以上、科学は私の死に対して……その「死」に対する恐怖に対してさしたる価値は持たないのだ。
同じように、私の個人的な出来事、感情に対して科学は何もしない。
それは、「私の個人的な何か」は科学の中では誤差の範囲の中に納まるちょっとしたブレでしかないからだ。
私たちの日常生活で起こることの大半は、多分に偶然やらランダムに起こる何かを含んでおり、
それらもまた、科学の視点では確率統計的に処理されてしまい、個別に計算して正確に次に起こることを予測するのは不可能に近い。
私が生きるうえで起こる日常生活での出来事も、それに誘発される感情も、個体差とかブレとか誤差とかの範疇に入る偶然として、
科学で扱われるようなものではない。
その意味で、科学はとても巨視的であり、それに対して私の日々はあまりにも微視的なのである。
ただ科学は、私たちにその巨視的な視点を与えてくれるという点において、私たちに救いの光をもたらすこともあるだろう。
要するに、「所詮我々もドーブツ」という事を私たち自身が自覚し、「ドーブツ」としての自分の体や心の働きを知る事は、
そのドーブツな衝動にただ闇雲に振り回されることに対する対抗策となりうるのだ。
その辺のところを履き違えて、精神と肉体を切り離し、人間と他の生物を切り離して考えようとすると、精神の中に存在する、
ドーブツとしての「構造上の」クセ(特性とも言う)に対処しようとすると、出口が見つからずに同じ場所をぐるぐる回ることになるのだ。
例えば、男女がどうにも平等にならないのはなぜか?
ヒトを生物種の一つ、もっと言えば社会生活を営む哺乳類として捉えれば単純明快なのだ。
それは、ヒトが胎生の生物種だからである。雌雄の体の構造上の話だ。
そこの話を抜きにして、考慮にも入れずに平等を考えても意味はないのである。
例えばもしも鳥類が進化し、知能を手に入れて社会を築いたならどうだろう。
彼らは卵生だ。
よって完全に平等に雌雄共同で子育てをする種が多くいる。
それらの種が社会を作り上げればきっと、彼らは完全な男女平等社会をつくるだろう。
そしてまた、このような視点は次のような想像も与える。
その、知性を持った鳥たちの見る世界は、きっと我々の見る世界とは全く異なるだろう。
何故なら、我々の中で発達している脳と、彼らの中で発達している脳は全く別の部位だからである。
我々のなかで最も発達している大脳の元は、前脳と呼ばれる部位で、主に嗅覚を処理する中枢であった。
何故我々の脳がその、嗅覚の脳から発達したのかといえば、それは簡単、我々は哺乳類だからである。
哺乳類は主に夜行性で、嗅覚をたよりに世界を認識する生物種から進化してきた。
現存する生物種においても、哺乳類のコミュニケーション手段は多く嗅覚を用いていることは、
少し他の哺乳類の行動を思い出してもらえば分かるはずだ。
一方で、鳥類たちの脳で発達しているのは視覚を処理する中脳である。
上空を飛行する彼らは視覚に頼り世界を認識している。
だとすれば、である。
彼らが知性を持つに伴い発達する脳の部位は十中八九中脳であるはずだ。
その、肥大した中脳が見る世界は、果たしてどのくらい、肥大した前脳である大脳新皮質が認識する世界と共通し、また相違するのだろうか。
しかしその想像は、「決して我々には出来ないもの」である。
何故なら、我々は前脳から発達した大脳新皮質以外のものをもてないからだ。
その外側にある認識――中脳から発達した巨大な脳の認識――に触れる事は不可能である。
ここに、一つ、科学の世界において語ることのできる「物事(世界)に対する認知・認識の限界」が存在する。
また、もう一つこのような具体例を出すとすれば、光と色の世界についても言える。
私たちの見る世界の原色は3つである。
普段触れる三原色といえば、減算混合の三原色CMY(シアン・マゼンダ・イエロー)……小学校では青・赤・黄の絵の具で習う、こちらだろう。
しかし、もう一つ加算混合の三原色RGB(レッド・グリーン・ブルー)があることは、
多分最近では結構一般的に認知され始めているのではないかと思う。
特にパソコン上で色を扱う人間ならばこちらの、RGBの方が馴染み深いはずだ。
減算混合の三原色CMYを全て等量混ぜると黒ができる。逆に、加算混合の三原色RGBを全て等量混ぜると白ができる。
しかし実は、この「白ができる」のは、人間の目に対してだけなのだ。
光の原色がなぜ三つで、二原色でも四原色でもないのかといえば、
それは単純に人間の目の網膜が、このRGBの三種類の光を受容する構造になっているからである。
赤、緑、青のそれぞれの光を受容する細胞が網膜上に散らばっており、
その三種類の細胞が受けた光刺激の量を情報として処理し、人間は色を判別している。
だから、三原色なのであり、太陽から降り注ぐ自然光はこの三色(の領域の波長)以外にも多くの色(の波長)を含んでいる。
しかし、人間が人間のために作った光における「白色光」には、この三つの光が組み合わされているだけの場合や、
他の光を含んでいない場合も存在する。
その代表例が、皆さんが今この文章を読むためににらめっこしているであろう液晶(あるいはブラウン管かもしれないが)ディスプレイである。
このディスプレイというものは基本的に、RGBの三色の極小のライトを発光させ、その強弱で色を表現している。
全ての色が最大に光っていれば白だし、全く光っていなければ黒なのだ。
しかし、である。
もしもこのディスプレイの目の前に座っているのが我々ではなく、網膜に四種類の光を受容する細胞を持った生物ならどうなるだろう。
多分、その生物にとってこのディスプレイが白く光る日はこないはずだ。
では果たしてそんな生物はいるのか。
居る。しかもそれは、あなたの今居る部屋に居るかもしれないのだ。
そのうちの一種類は、魚類である。
魚類は四種類の光を受容する細胞を持つ。よって、私たちには灰色にしか見えない、赤と緑の中間色、黄と紫の中間色、青と橙の中間色が
それぞれ別の、しかも彩度(鮮やかさ)の高い色として見えている。
これもまた、私たちには想像すら不可能な世界なのだ。
彼らが蛍光灯の下で、私たちのにらんでいるこのディスプレイを一緒に眺めているとしたら、彼らはもしかしたら、
「なんとまあ暗くてくぐもった、色あせた光の下でこいつらは生活するものだ」
と呆れているかもしれない。
そして私たちは、彼らの知る四原色による鮮やかな世界を見ることも、想像する事も不可能である。
こうして考えていくと、いかに私たちの「認識」が世界全体に対して一面的であるかが想像できるだろう。
そして、一面的な認識しか持ち得ない私たちが駆使する科学も、決して今の段階で完璧な認識の道具ではない。
……と、いうかどれだけ発展させても人間の脳味噌にドーブツとしての構造上の限界がある以上、
科学がどれだけ完璧になったところで私たちが完璧に物事(世界)を認識する日は来ないのではないか、と私などは考えるのだが。
と、ここまで前置きしておいて、突然オカルトな話に足を突っ込んでみる。
このオカルトの世界。
たとえば霊一つに限定したところで、見える人間と見えない人間が居る。
上の魚の話のように生物種によって見える見えないが決まっていれば話は単純なのだが、
この霊というやつは同じ人間の中で見える、見えないがあり、しかもその見える人間・見えない人間の法則性が科学で解明されていない。
ランダムに、誰かに見えて他の誰かには見えない、というのは科学の原則に反する。
よって、科学はこの霊などといったオカルト現象を「否定する」と表現される事があるが、それは正確ではないと私は思う。
正確には、「科学はこの現象の存在を証明できない」というだけで、否定する力はないと思うのだ。
また、より正確には「『今の科学』にはこの現象の存在の有無を証明する能力はない」であろう。
科学は万人に見えるものを「在る」という力を持つというだけで、
一部の人間にしか見えないものを「無い」という力は持っていない。
そして、霊はある人にとっては確実に存在するものであり、
他の超常現象と呼ばれるものや、現代科学とは全く別の理論体系を持つ技術も、一定の効果を上げている。
これらについて、「今の科学で」その仕組みを解き明かそうとする事も、存在の有無を断定しようとすることも無謀でばかげた事かもしれない。
それらはもしかしたら、今の科学が知る世界の体系とは全く別の原理に基づいて動いており、その理論の端すらも、いまの科学は捉えていないのかもしれないのだ。
今科学以外の理論で語られる世界・宇宙が科学が見てきた世界・宇宙と一つになる時、それがどんなものなのかは今の私に想像できるものではない。
しかし例えば、
ある気功師が気(念?)を送って離れた場所にいる誰かに何らかの作用をもたらすとする。
それは彼らの原理で言えば、気・念と呼ばれるモノを送っている、以外の何物でもないだろう。
それを科学の側面から見たときに、ナニであるのかが、今の私たちにとっての「本当は何なのか」と等しい。
そして、科学はそれを、「赤外線だ」と言ったとする。
確かに、気功師と対象者の間には、気功師から発せられる赤外線が観測されたのだろう。
だが、だからといって気=赤外線と言い切るのは早計だ。
なぜなら、科学の言った「赤外線」も、その「気」と呼ばれる何かの一部分を切り取っただけに過ぎない可能性は大いにあるからだ。
その気というやつは、ある装置によって赤外線という形で観測されうる部分を含む何か、であろう、と私は思うのだ。
そのように、今の科学では表面を撫でるだけ(あるいはかすりもしない)巨大な原理、理論のうねりがこの世界にあっても、
なんら不思議はないのではないか、そう思う。
そして、ここでぐるっと回って冒頭のネタに戻るのだが、
科学では掬い取れない、誤差や個体差として切り捨てられる部分、
科学的にはアトランダムで、起こりうる可能性の数分の一の確率で、全ての可能性が起こりうる……その中で「それが起きた」理由、
そういった部分の説明に、この科学の外側の理論が関わっていてもおかしくないかもしれない。
俗に言う、縁とか運命とか、そういった類のものだ。
科学的に見ればまったく偶然の積み重ねで、「まあ、一万回試行すれば一回くらいこういうことも起こるさ」としか言えない部分、
しかしその物事の運び具合は、タダの偶然で済ませられるようなものではない……そういう事は有史以来……
……むしろ生命誕生の辺りからゴマンとあってもおかしくない。
そして、その裏に科学の外側の理論(縁とか運命などと経験則から表現される何か)が在るのではないか、ということだ。
そこを知ろうとする事は、正しく神の世界に足を突っ込むことかもしれないが、
別に神様の本当の姿が「進化した科学」によって明らかにされても、それで全てを知り終えたと絶望する必要性はひとかけらもないだろう。
何故なら先にも述べたように、どこまで行っても人間は人間の大脳新皮質が作る認識の世界の外には出られず、
神というものが本当に宇宙のどこかに存在しているなら、その全てを正しく認識する事は人間には不可能だからである。
その神から与えられる「正義」やら「善」は、結局人間が解釈したものだし、
その神の姿も人間の認識の範囲内に映るある部分のみである。
とか何とか、ぐだぐだ語ってる間に最初に戻ってきたんだか、何なのか自分でも良く分からなくなってきましたが、
要するに科学なんてのは万能でもなんでもなくて、タダのちょっと便利な共通認識を得るための約束事で、
私たちの「知ってる」世界なんてものは、自分を中心にしてプラネタリウムのように籠の内面に映し出されたものでしかないんじゃないの? ということです。
ただこの科学をいじりたおすことで、私たちは籠の外にも世界が在ることを知り、より多くのものを籠の内面に映すための努力ができる。
そういうことじゃないかと。
え、それが結局何の役に立つのかって?
言ってるように私らの認識の範囲なんて恐ろしく狭くて一面的なものなのです。全てを分かることなど不可能。
なのに、「何の役に立つのか」が正確に理解できるわけはないのですよ。
「役に立つ事のみをするべき」
という考え方には、「私は全てを知っている」という傲慢が裏にあると私は思います。
もうちょっと謙虚になりましょうよ。
前にも書いた気がするけど、人間は科学により世界の広さと自分の認識の狭さを知って、
科学により謙虚さを知るべきだと思ってます。
なんだ、ドーブツなんじゃん、なんだ、ちょっとしか見えてないじゃん、と、別のあり方、別の世界の存在を知ることで、
視野を広げ、価値観を広げ、自分の小ささを知るべきだろうと。
それが科学の……っていうか生物学の意義とおもいます。はい。
で。
全く死からは救われてないって?
その辺は宗教にまかせるべきだと思ってます。
宗教は真理を求めるものでもなんでもなく、個々の「私」を救うための実践論であるべきじゃないかと。
たしかブッダもそう言っておられる。多分。今、救われることが大切なのですよ、真理よりもね。
真理を知らなくても、「信じる」事ができれば救われる。それが宗教ってものではないですか?
ただ「信じる」 それこそが宗教。とか……完全門外漢が語ってみる。
だって、どれだけ理屈をこねて真理を求めたって、完全な真理を手にする事は出来ないわけですよ。
そして真理がどうだという理屈は、苦しむ「私」の役にはあまり立たない。
毒矢の教え、ですね。
毒矢が体に刺さって苦しんでいる時に、その毒がナニで造られたどういう種類の毒で、誰が良く使う物か……なんてな情報は、
とりあえず今死に掛けてる人の役には立たんでしょ、それより毒抜きの方法論が、その人を救うには重要だろう……そういう内容だったとうろ覚え。
まあ、毒に対する解析はきっと、次の犠牲者を出さないためには役に立つんだろうけどね。
しかし「今、苦しんでいる私」は毒矢で「今、死にかけてる人」であって、それを救うのは毒抜きの方法論……すなわち宗教であり、信じることである。ってのは正しいと思います。
ちなみに理屈をこねてその辺のものを認識しようとするのを「分別知」っていって、よろしくないものなんですよ、仏教では。確か。
これもうろおぼえ。
面白いですよ、仏教。
はい、お疲れ様でした★
や~、ホントに全文読んだ人が居るかはしりませんがw
ちょっとでもアレだ。
普段住んでる世界の枠をはみ出して、混沌とした中に一緒にもぐっていただけたなら幸いです。
学問をする面白さってのは、こういう、別の地平線を見ることだと思うのですがどうでしょね。
詰め込むだけじゃつまらんですよ。
全てはネタです。想像力万歳。いつか小説にしてやるんだ、この世界観……。
知はより広い世界を見るための翼であり梯子である……んだと本気で思ってます。
知ってて知らないよりいい事ってのは、「ここより別が、今より他がある」って事が分かるっていうその一点に尽きるといいますか。
知ってりゃエライってもんでもないし、量ありゃ良いってもんでもないでしょう。
要は、「別を、他を想像する事で、今の状況をほんの少し客観視する」力が、その人の世界を広げていく。それが価値だろうと。
知った上で、広がった世界のなかで今を選ぶか、他を選ぶか、何を選ぶかは個人の自由。
知らなきゃ損、知ったからには得なけりゃ損、得たからには獲られりゃ損、という風に尖端的に……今風に「賢く」生きるのばかりが正しいわけでもあるまい、と思うわけですが。
と、この辺はまたいつか。
いい加減にしときましょう。
ここ数年頭に蓄積してたものが、ここ数日高校生物のおさらいやら倫理学やらに触発されてあふれちゃいました★
ここで書いておかないと十中八九霧散するので徹夜で打ち込み作業。
あくまで話のネタっていうか、創作の種っていうか……そういう類のものです。
文献漁ってまで裏をとってはないので、全部今まで自分が見聞きしてきたうろおぼえの情報を頼りに論を展開しております。
その辺についての追及はご勘弁ください。そして興味があるなら自分でどうぞお調べください。
そんな長長い前置きをおいて、開始です。
科学により定められる真理というものは、
『いつでも、誰にでも、必ず同じ結果を示す実験』を元に決められる。
単純な原理・法則に近いものなら、厳密にその条件を整えることができるが、
生物ほど複雑になってくるとそれはつまり、数多く存在する事例という母集団の中で、統計的に処理されて導き出されることになる。
突飛なデータは棄却され、数多くの近い値をとるデータが平均化されたもの、それが生物における真理となる。
これを前提にすれば、科学が我々個々人を救わないのは当然だ、と私は思う。
何故なら、私たち一人一人は、人間、ホモサピエンスというとても大きな母集団を誇る種の、たった1サンプルでしかないからだ。
人間という種の真理、を生物として求めたところでそれは、人間全体の平均でしかない。その平均はたしかに、ある意味正しく
私たちを反映するだろうが、決して「私」を表すわけではない。
それを基にする科学と科学技術が正確に「私」にそぐうはずもなく、ましてや、私を「死」から救うこともない。
何故なら、ヒトは死ぬ生き物で、生物学的に見てそれは何の特別もないことだからだ。
私の死が特別なのは、私とその周辺のわずか数十人程度に対してのみであり、それは全く生物学的統計に影響しない。
科学的に見て「私の死」が当然である以上、科学は私の死に対して……その「死」に対する恐怖に対してさしたる価値は持たないのだ。
同じように、私の個人的な出来事、感情に対して科学は何もしない。
それは、「私の個人的な何か」は科学の中では誤差の範囲の中に納まるちょっとしたブレでしかないからだ。
私たちの日常生活で起こることの大半は、多分に偶然やらランダムに起こる何かを含んでおり、
それらもまた、科学の視点では確率統計的に処理されてしまい、個別に計算して正確に次に起こることを予測するのは不可能に近い。
私が生きるうえで起こる日常生活での出来事も、それに誘発される感情も、個体差とかブレとか誤差とかの範疇に入る偶然として、
科学で扱われるようなものではない。
その意味で、科学はとても巨視的であり、それに対して私の日々はあまりにも微視的なのである。
ただ科学は、私たちにその巨視的な視点を与えてくれるという点において、私たちに救いの光をもたらすこともあるだろう。
要するに、「所詮我々もドーブツ」という事を私たち自身が自覚し、「ドーブツ」としての自分の体や心の働きを知る事は、
そのドーブツな衝動にただ闇雲に振り回されることに対する対抗策となりうるのだ。
その辺のところを履き違えて、精神と肉体を切り離し、人間と他の生物を切り離して考えようとすると、精神の中に存在する、
ドーブツとしての「構造上の」クセ(特性とも言う)に対処しようとすると、出口が見つからずに同じ場所をぐるぐる回ることになるのだ。
例えば、男女がどうにも平等にならないのはなぜか?
ヒトを生物種の一つ、もっと言えば社会生活を営む哺乳類として捉えれば単純明快なのだ。
それは、ヒトが胎生の生物種だからである。雌雄の体の構造上の話だ。
そこの話を抜きにして、考慮にも入れずに平等を考えても意味はないのである。
例えばもしも鳥類が進化し、知能を手に入れて社会を築いたならどうだろう。
彼らは卵生だ。
よって完全に平等に雌雄共同で子育てをする種が多くいる。
それらの種が社会を作り上げればきっと、彼らは完全な男女平等社会をつくるだろう。
そしてまた、このような視点は次のような想像も与える。
その、知性を持った鳥たちの見る世界は、きっと我々の見る世界とは全く異なるだろう。
何故なら、我々の中で発達している脳と、彼らの中で発達している脳は全く別の部位だからである。
我々のなかで最も発達している大脳の元は、前脳と呼ばれる部位で、主に嗅覚を処理する中枢であった。
何故我々の脳がその、嗅覚の脳から発達したのかといえば、それは簡単、我々は哺乳類だからである。
哺乳類は主に夜行性で、嗅覚をたよりに世界を認識する生物種から進化してきた。
現存する生物種においても、哺乳類のコミュニケーション手段は多く嗅覚を用いていることは、
少し他の哺乳類の行動を思い出してもらえば分かるはずだ。
一方で、鳥類たちの脳で発達しているのは視覚を処理する中脳である。
上空を飛行する彼らは視覚に頼り世界を認識している。
だとすれば、である。
彼らが知性を持つに伴い発達する脳の部位は十中八九中脳であるはずだ。
その、肥大した中脳が見る世界は、果たしてどのくらい、肥大した前脳である大脳新皮質が認識する世界と共通し、また相違するのだろうか。
しかしその想像は、「決して我々には出来ないもの」である。
何故なら、我々は前脳から発達した大脳新皮質以外のものをもてないからだ。
その外側にある認識――中脳から発達した巨大な脳の認識――に触れる事は不可能である。
ここに、一つ、科学の世界において語ることのできる「物事(世界)に対する認知・認識の限界」が存在する。
また、もう一つこのような具体例を出すとすれば、光と色の世界についても言える。
私たちの見る世界の原色は3つである。
普段触れる三原色といえば、減算混合の三原色CMY(シアン・マゼンダ・イエロー)……小学校では青・赤・黄の絵の具で習う、こちらだろう。
しかし、もう一つ加算混合の三原色RGB(レッド・グリーン・ブルー)があることは、
多分最近では結構一般的に認知され始めているのではないかと思う。
特にパソコン上で色を扱う人間ならばこちらの、RGBの方が馴染み深いはずだ。
減算混合の三原色CMYを全て等量混ぜると黒ができる。逆に、加算混合の三原色RGBを全て等量混ぜると白ができる。
しかし実は、この「白ができる」のは、人間の目に対してだけなのだ。
光の原色がなぜ三つで、二原色でも四原色でもないのかといえば、
それは単純に人間の目の網膜が、このRGBの三種類の光を受容する構造になっているからである。
赤、緑、青のそれぞれの光を受容する細胞が網膜上に散らばっており、
その三種類の細胞が受けた光刺激の量を情報として処理し、人間は色を判別している。
だから、三原色なのであり、太陽から降り注ぐ自然光はこの三色(の領域の波長)以外にも多くの色(の波長)を含んでいる。
しかし、人間が人間のために作った光における「白色光」には、この三つの光が組み合わされているだけの場合や、
他の光を含んでいない場合も存在する。
その代表例が、皆さんが今この文章を読むためににらめっこしているであろう液晶(あるいはブラウン管かもしれないが)ディスプレイである。
このディスプレイというものは基本的に、RGBの三色の極小のライトを発光させ、その強弱で色を表現している。
全ての色が最大に光っていれば白だし、全く光っていなければ黒なのだ。
しかし、である。
もしもこのディスプレイの目の前に座っているのが我々ではなく、網膜に四種類の光を受容する細胞を持った生物ならどうなるだろう。
多分、その生物にとってこのディスプレイが白く光る日はこないはずだ。
では果たしてそんな生物はいるのか。
居る。しかもそれは、あなたの今居る部屋に居るかもしれないのだ。
そのうちの一種類は、魚類である。
魚類は四種類の光を受容する細胞を持つ。よって、私たちには灰色にしか見えない、赤と緑の中間色、黄と紫の中間色、青と橙の中間色が
それぞれ別の、しかも彩度(鮮やかさ)の高い色として見えている。
これもまた、私たちには想像すら不可能な世界なのだ。
彼らが蛍光灯の下で、私たちのにらんでいるこのディスプレイを一緒に眺めているとしたら、彼らはもしかしたら、
「なんとまあ暗くてくぐもった、色あせた光の下でこいつらは生活するものだ」
と呆れているかもしれない。
そして私たちは、彼らの知る四原色による鮮やかな世界を見ることも、想像する事も不可能である。
こうして考えていくと、いかに私たちの「認識」が世界全体に対して一面的であるかが想像できるだろう。
そして、一面的な認識しか持ち得ない私たちが駆使する科学も、決して今の段階で完璧な認識の道具ではない。
……と、いうかどれだけ発展させても人間の脳味噌にドーブツとしての構造上の限界がある以上、
科学がどれだけ完璧になったところで私たちが完璧に物事(世界)を認識する日は来ないのではないか、と私などは考えるのだが。
と、ここまで前置きしておいて、突然オカルトな話に足を突っ込んでみる。
このオカルトの世界。
たとえば霊一つに限定したところで、見える人間と見えない人間が居る。
上の魚の話のように生物種によって見える見えないが決まっていれば話は単純なのだが、
この霊というやつは同じ人間の中で見える、見えないがあり、しかもその見える人間・見えない人間の法則性が科学で解明されていない。
ランダムに、誰かに見えて他の誰かには見えない、というのは科学の原則に反する。
よって、科学はこの霊などといったオカルト現象を「否定する」と表現される事があるが、それは正確ではないと私は思う。
正確には、「科学はこの現象の存在を証明できない」というだけで、否定する力はないと思うのだ。
また、より正確には「『今の科学』にはこの現象の存在の有無を証明する能力はない」であろう。
科学は万人に見えるものを「在る」という力を持つというだけで、
一部の人間にしか見えないものを「無い」という力は持っていない。
そして、霊はある人にとっては確実に存在するものであり、
他の超常現象と呼ばれるものや、現代科学とは全く別の理論体系を持つ技術も、一定の効果を上げている。
これらについて、「今の科学で」その仕組みを解き明かそうとする事も、存在の有無を断定しようとすることも無謀でばかげた事かもしれない。
それらはもしかしたら、今の科学が知る世界の体系とは全く別の原理に基づいて動いており、その理論の端すらも、いまの科学は捉えていないのかもしれないのだ。
今科学以外の理論で語られる世界・宇宙が科学が見てきた世界・宇宙と一つになる時、それがどんなものなのかは今の私に想像できるものではない。
しかし例えば、
ある気功師が気(念?)を送って離れた場所にいる誰かに何らかの作用をもたらすとする。
それは彼らの原理で言えば、気・念と呼ばれるモノを送っている、以外の何物でもないだろう。
それを科学の側面から見たときに、ナニであるのかが、今の私たちにとっての「本当は何なのか」と等しい。
そして、科学はそれを、「赤外線だ」と言ったとする。
確かに、気功師と対象者の間には、気功師から発せられる赤外線が観測されたのだろう。
だが、だからといって気=赤外線と言い切るのは早計だ。
なぜなら、科学の言った「赤外線」も、その「気」と呼ばれる何かの一部分を切り取っただけに過ぎない可能性は大いにあるからだ。
その気というやつは、ある装置によって赤外線という形で観測されうる部分を含む何か、であろう、と私は思うのだ。
そのように、今の科学では表面を撫でるだけ(あるいはかすりもしない)巨大な原理、理論のうねりがこの世界にあっても、
なんら不思議はないのではないか、そう思う。
そして、ここでぐるっと回って冒頭のネタに戻るのだが、
科学では掬い取れない、誤差や個体差として切り捨てられる部分、
科学的にはアトランダムで、起こりうる可能性の数分の一の確率で、全ての可能性が起こりうる……その中で「それが起きた」理由、
そういった部分の説明に、この科学の外側の理論が関わっていてもおかしくないかもしれない。
俗に言う、縁とか運命とか、そういった類のものだ。
科学的に見ればまったく偶然の積み重ねで、「まあ、一万回試行すれば一回くらいこういうことも起こるさ」としか言えない部分、
しかしその物事の運び具合は、タダの偶然で済ませられるようなものではない……そういう事は有史以来……
……むしろ生命誕生の辺りからゴマンとあってもおかしくない。
そして、その裏に科学の外側の理論(縁とか運命などと経験則から表現される何か)が在るのではないか、ということだ。
そこを知ろうとする事は、正しく神の世界に足を突っ込むことかもしれないが、
別に神様の本当の姿が「進化した科学」によって明らかにされても、それで全てを知り終えたと絶望する必要性はひとかけらもないだろう。
何故なら先にも述べたように、どこまで行っても人間は人間の大脳新皮質が作る認識の世界の外には出られず、
神というものが本当に宇宙のどこかに存在しているなら、その全てを正しく認識する事は人間には不可能だからである。
その神から与えられる「正義」やら「善」は、結局人間が解釈したものだし、
その神の姿も人間の認識の範囲内に映るある部分のみである。
とか何とか、ぐだぐだ語ってる間に最初に戻ってきたんだか、何なのか自分でも良く分からなくなってきましたが、
要するに科学なんてのは万能でもなんでもなくて、タダのちょっと便利な共通認識を得るための約束事で、
私たちの「知ってる」世界なんてものは、自分を中心にしてプラネタリウムのように籠の内面に映し出されたものでしかないんじゃないの? ということです。
ただこの科学をいじりたおすことで、私たちは籠の外にも世界が在ることを知り、より多くのものを籠の内面に映すための努力ができる。
そういうことじゃないかと。
え、それが結局何の役に立つのかって?
言ってるように私らの認識の範囲なんて恐ろしく狭くて一面的なものなのです。全てを分かることなど不可能。
なのに、「何の役に立つのか」が正確に理解できるわけはないのですよ。
「役に立つ事のみをするべき」
という考え方には、「私は全てを知っている」という傲慢が裏にあると私は思います。
もうちょっと謙虚になりましょうよ。
前にも書いた気がするけど、人間は科学により世界の広さと自分の認識の狭さを知って、
科学により謙虚さを知るべきだと思ってます。
なんだ、ドーブツなんじゃん、なんだ、ちょっとしか見えてないじゃん、と、別のあり方、別の世界の存在を知ることで、
視野を広げ、価値観を広げ、自分の小ささを知るべきだろうと。
それが科学の……っていうか生物学の意義とおもいます。はい。
で。
全く死からは救われてないって?
その辺は宗教にまかせるべきだと思ってます。
宗教は真理を求めるものでもなんでもなく、個々の「私」を救うための実践論であるべきじゃないかと。
たしかブッダもそう言っておられる。多分。今、救われることが大切なのですよ、真理よりもね。
真理を知らなくても、「信じる」事ができれば救われる。それが宗教ってものではないですか?
ただ「信じる」 それこそが宗教。とか……完全門外漢が語ってみる。
だって、どれだけ理屈をこねて真理を求めたって、完全な真理を手にする事は出来ないわけですよ。
そして真理がどうだという理屈は、苦しむ「私」の役にはあまり立たない。
毒矢の教え、ですね。
毒矢が体に刺さって苦しんでいる時に、その毒がナニで造られたどういう種類の毒で、誰が良く使う物か……なんてな情報は、
とりあえず今死に掛けてる人の役には立たんでしょ、それより毒抜きの方法論が、その人を救うには重要だろう……そういう内容だったとうろ覚え。
まあ、毒に対する解析はきっと、次の犠牲者を出さないためには役に立つんだろうけどね。
しかし「今、苦しんでいる私」は毒矢で「今、死にかけてる人」であって、それを救うのは毒抜きの方法論……すなわち宗教であり、信じることである。ってのは正しいと思います。
ちなみに理屈をこねてその辺のものを認識しようとするのを「分別知」っていって、よろしくないものなんですよ、仏教では。確か。
これもうろおぼえ。
面白いですよ、仏教。
はい、お疲れ様でした★
や~、ホントに全文読んだ人が居るかはしりませんがw
ちょっとでもアレだ。
普段住んでる世界の枠をはみ出して、混沌とした中に一緒にもぐっていただけたなら幸いです。
学問をする面白さってのは、こういう、別の地平線を見ることだと思うのですがどうでしょね。
詰め込むだけじゃつまらんですよ。
全てはネタです。想像力万歳。いつか小説にしてやるんだ、この世界観……。
知はより広い世界を見るための翼であり梯子である……んだと本気で思ってます。
知ってて知らないよりいい事ってのは、「ここより別が、今より他がある」って事が分かるっていうその一点に尽きるといいますか。
知ってりゃエライってもんでもないし、量ありゃ良いってもんでもないでしょう。
要は、「別を、他を想像する事で、今の状況をほんの少し客観視する」力が、その人の世界を広げていく。それが価値だろうと。
知った上で、広がった世界のなかで今を選ぶか、他を選ぶか、何を選ぶかは個人の自由。
知らなきゃ損、知ったからには得なけりゃ損、得たからには獲られりゃ損、という風に尖端的に……今風に「賢く」生きるのばかりが正しいわけでもあるまい、と思うわけですが。
と、この辺はまたいつか。
いい加減にしときましょう。