Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

久々の長文。

2008-07-26 | ネタとしての生物学
以下は徹夜で書き散らした長文です。論文ってほどまとまってない感じの。
ここ数年頭に蓄積してたものが、ここ数日高校生物のおさらいやら倫理学やらに触発されてあふれちゃいました★
ここで書いておかないと十中八九霧散するので徹夜で打ち込み作業。
あくまで話のネタっていうか、創作の種っていうか……そういう類のものです。
文献漁ってまで裏をとってはないので、全部今まで自分が見聞きしてきたうろおぼえの情報を頼りに論を展開しております。
その辺についての追及はご勘弁ください。そして興味があるなら自分でどうぞお調べください。

そんな長長い前置きをおいて、開始です。






科学により定められる真理というものは、
『いつでも、誰にでも、必ず同じ結果を示す実験』を元に決められる。
単純な原理・法則に近いものなら、厳密にその条件を整えることができるが、
生物ほど複雑になってくるとそれはつまり、数多く存在する事例という母集団の中で、統計的に処理されて導き出されることになる。
突飛なデータは棄却され、数多くの近い値をとるデータが平均化されたもの、それが生物における真理となる。

これを前提にすれば、科学が我々個々人を救わないのは当然だ、と私は思う。
何故なら、私たち一人一人は、人間、ホモサピエンスというとても大きな母集団を誇る種の、たった1サンプルでしかないからだ。
人間という種の真理、を生物として求めたところでそれは、人間全体の平均でしかない。その平均はたしかに、ある意味正しく
私たちを反映するだろうが、決して「私」を表すわけではない。
それを基にする科学と科学技術が正確に「私」にそぐうはずもなく、ましてや、私を「死」から救うこともない。

何故なら、ヒトは死ぬ生き物で、生物学的に見てそれは何の特別もないことだからだ。
私の死が特別なのは、私とその周辺のわずか数十人程度に対してのみであり、それは全く生物学的統計に影響しない。
科学的に見て「私の死」が当然である以上、科学は私の死に対して……その「死」に対する恐怖に対してさしたる価値は持たないのだ。

同じように、私の個人的な出来事、感情に対して科学は何もしない。
それは、「私の個人的な何か」は科学の中では誤差の範囲の中に納まるちょっとしたブレでしかないからだ。
私たちの日常生活で起こることの大半は、多分に偶然やらランダムに起こる何かを含んでおり、
それらもまた、科学の視点では確率統計的に処理されてしまい、個別に計算して正確に次に起こることを予測するのは不可能に近い。
私が生きるうえで起こる日常生活での出来事も、それに誘発される感情も、個体差とかブレとか誤差とかの範疇に入る偶然として、
科学で扱われるようなものではない。
その意味で、科学はとても巨視的であり、それに対して私の日々はあまりにも微視的なのである。

ただ科学は、私たちにその巨視的な視点を与えてくれるという点において、私たちに救いの光をもたらすこともあるだろう。

要するに、「所詮我々もドーブツ」という事を私たち自身が自覚し、「ドーブツ」としての自分の体や心の働きを知る事は、
そのドーブツな衝動にただ闇雲に振り回されることに対する対抗策となりうるのだ。
その辺のところを履き違えて、精神と肉体を切り離し、人間と他の生物を切り離して考えようとすると、精神の中に存在する、
ドーブツとしての「構造上の」クセ(特性とも言う)に対処しようとすると、出口が見つからずに同じ場所をぐるぐる回ることになるのだ。

例えば、男女がどうにも平等にならないのはなぜか?
ヒトを生物種の一つ、もっと言えば社会生活を営む哺乳類として捉えれば単純明快なのだ。
それは、ヒトが胎生の生物種だからである。雌雄の体の構造上の話だ。
そこの話を抜きにして、考慮にも入れずに平等を考えても意味はないのである。
例えばもしも鳥類が進化し、知能を手に入れて社会を築いたならどうだろう。
彼らは卵生だ。
よって完全に平等に雌雄共同で子育てをする種が多くいる。
それらの種が社会を作り上げればきっと、彼らは完全な男女平等社会をつくるだろう。

そしてまた、このような視点は次のような想像も与える。
その、知性を持った鳥たちの見る世界は、きっと我々の見る世界とは全く異なるだろう。
何故なら、我々の中で発達している脳と、彼らの中で発達している脳は全く別の部位だからである。
我々のなかで最も発達している大脳の元は、前脳と呼ばれる部位で、主に嗅覚を処理する中枢であった。
何故我々の脳がその、嗅覚の脳から発達したのかといえば、それは簡単、我々は哺乳類だからである。
哺乳類は主に夜行性で、嗅覚をたよりに世界を認識する生物種から進化してきた。
現存する生物種においても、哺乳類のコミュニケーション手段は多く嗅覚を用いていることは、
少し他の哺乳類の行動を思い出してもらえば分かるはずだ。

一方で、鳥類たちの脳で発達しているのは視覚を処理する中脳である。
上空を飛行する彼らは視覚に頼り世界を認識している。
だとすれば、である。
彼らが知性を持つに伴い発達する脳の部位は十中八九中脳であるはずだ。
その、肥大した中脳が見る世界は、果たしてどのくらい、肥大した前脳である大脳新皮質が認識する世界と共通し、また相違するのだろうか。

しかしその想像は、「決して我々には出来ないもの」である。
何故なら、我々は前脳から発達した大脳新皮質以外のものをもてないからだ。
その外側にある認識――中脳から発達した巨大な脳の認識――に触れる事は不可能である。
ここに、一つ、科学の世界において語ることのできる「物事(世界)に対する認知・認識の限界」が存在する。

また、もう一つこのような具体例を出すとすれば、光と色の世界についても言える。
私たちの見る世界の原色は3つである。
普段触れる三原色といえば、減算混合の三原色CMY(シアン・マゼンダ・イエロー)……小学校では青・赤・黄の絵の具で習う、こちらだろう。
しかし、もう一つ加算混合の三原色RGB(レッド・グリーン・ブルー)があることは、
多分最近では結構一般的に認知され始めているのではないかと思う。
特にパソコン上で色を扱う人間ならばこちらの、RGBの方が馴染み深いはずだ。

減算混合の三原色CMYを全て等量混ぜると黒ができる。逆に、加算混合の三原色RGBを全て等量混ぜると白ができる。
しかし実は、この「白ができる」のは、人間の目に対してだけなのだ。
光の原色がなぜ三つで、二原色でも四原色でもないのかといえば、
それは単純に人間の目の網膜が、このRGBの三種類の光を受容する構造になっているからである。
赤、緑、青のそれぞれの光を受容する細胞が網膜上に散らばっており、
その三種類の細胞が受けた光刺激の量を情報として処理し、人間は色を判別している。
だから、三原色なのであり、太陽から降り注ぐ自然光はこの三色(の領域の波長)以外にも多くの色(の波長)を含んでいる。
しかし、人間が人間のために作った光における「白色光」には、この三つの光が組み合わされているだけの場合や、
他の光を含んでいない場合も存在する。
その代表例が、皆さんが今この文章を読むためににらめっこしているであろう液晶(あるいはブラウン管かもしれないが)ディスプレイである。
このディスプレイというものは基本的に、RGBの三色の極小のライトを発光させ、その強弱で色を表現している。
全ての色が最大に光っていれば白だし、全く光っていなければ黒なのだ。
しかし、である。
もしもこのディスプレイの目の前に座っているのが我々ではなく、網膜に四種類の光を受容する細胞を持った生物ならどうなるだろう。
多分、その生物にとってこのディスプレイが白く光る日はこないはずだ。

では果たしてそんな生物はいるのか。
居る。しかもそれは、あなたの今居る部屋に居るかもしれないのだ。
そのうちの一種類は、魚類である。
魚類は四種類の光を受容する細胞を持つ。よって、私たちには灰色にしか見えない、赤と緑の中間色、黄と紫の中間色、青と橙の中間色が
それぞれ別の、しかも彩度(鮮やかさ)の高い色として見えている。

これもまた、私たちには想像すら不可能な世界なのだ。

彼らが蛍光灯の下で、私たちのにらんでいるこのディスプレイを一緒に眺めているとしたら、彼らはもしかしたら、
「なんとまあ暗くてくぐもった、色あせた光の下でこいつらは生活するものだ」
と呆れているかもしれない。
そして私たちは、彼らの知る四原色による鮮やかな世界を見ることも、想像する事も不可能である。

こうして考えていくと、いかに私たちの「認識」が世界全体に対して一面的であるかが想像できるだろう。
そして、一面的な認識しか持ち得ない私たちが駆使する科学も、決して今の段階で完璧な認識の道具ではない。
……と、いうかどれだけ発展させても人間の脳味噌にドーブツとしての構造上の限界がある以上、
科学がどれだけ完璧になったところで私たちが完璧に物事(世界)を認識する日は来ないのではないか、と私などは考えるのだが。


と、ここまで前置きしておいて、突然オカルトな話に足を突っ込んでみる。
このオカルトの世界。
たとえば霊一つに限定したところで、見える人間と見えない人間が居る。
上の魚の話のように生物種によって見える見えないが決まっていれば話は単純なのだが、
この霊というやつは同じ人間の中で見える、見えないがあり、しかもその見える人間・見えない人間の法則性が科学で解明されていない。
ランダムに、誰かに見えて他の誰かには見えない、というのは科学の原則に反する。
よって、科学はこの霊などといったオカルト現象を「否定する」と表現される事があるが、それは正確ではないと私は思う。
正確には、「科学はこの現象の存在を証明できない」というだけで、否定する力はないと思うのだ。
また、より正確には「『今の科学』にはこの現象の存在の有無を証明する能力はない」であろう。
科学は万人に見えるものを「在る」という力を持つというだけで、
一部の人間にしか見えないものを「無い」という力は持っていない。

そして、霊はある人にとっては確実に存在するものであり、
他の超常現象と呼ばれるものや、現代科学とは全く別の理論体系を持つ技術も、一定の効果を上げている。
これらについて、「今の科学で」その仕組みを解き明かそうとする事も、存在の有無を断定しようとすることも無謀でばかげた事かもしれない。
それらはもしかしたら、今の科学が知る世界の体系とは全く別の原理に基づいて動いており、その理論の端すらも、いまの科学は捉えていないのかもしれないのだ。
今科学以外の理論で語られる世界・宇宙が科学が見てきた世界・宇宙と一つになる時、それがどんなものなのかは今の私に想像できるものではない。

しかし例えば、
ある気功師が気(念?)を送って離れた場所にいる誰かに何らかの作用をもたらすとする。
それは彼らの原理で言えば、気・念と呼ばれるモノを送っている、以外の何物でもないだろう。
それを科学の側面から見たときに、ナニであるのかが、今の私たちにとっての「本当は何なのか」と等しい。
そして、科学はそれを、「赤外線だ」と言ったとする。
確かに、気功師と対象者の間には、気功師から発せられる赤外線が観測されたのだろう。
だが、だからといって気=赤外線と言い切るのは早計だ。

なぜなら、科学の言った「赤外線」も、その「気」と呼ばれる何かの一部分を切り取っただけに過ぎない可能性は大いにあるからだ。
その気というやつは、ある装置によって赤外線という形で観測されうる部分を含む何か、であろう、と私は思うのだ。

そのように、今の科学では表面を撫でるだけ(あるいはかすりもしない)巨大な原理、理論のうねりがこの世界にあっても、
なんら不思議はないのではないか、そう思う。


そして、ここでぐるっと回って冒頭のネタに戻るのだが、
科学では掬い取れない、誤差や個体差として切り捨てられる部分、
科学的にはアトランダムで、起こりうる可能性の数分の一の確率で、全ての可能性が起こりうる……その中で「それが起きた」理由、
そういった部分の説明に、この科学の外側の理論が関わっていてもおかしくないかもしれない。
俗に言う、縁とか運命とか、そういった類のものだ。
科学的に見ればまったく偶然の積み重ねで、「まあ、一万回試行すれば一回くらいこういうことも起こるさ」としか言えない部分、
しかしその物事の運び具合は、タダの偶然で済ませられるようなものではない……そういう事は有史以来……
……むしろ生命誕生の辺りからゴマンとあってもおかしくない。
そして、その裏に科学の外側の理論(縁とか運命などと経験則から表現される何か)が在るのではないか、ということだ。

そこを知ろうとする事は、正しく神の世界に足を突っ込むことかもしれないが、
別に神様の本当の姿が「進化した科学」によって明らかにされても、それで全てを知り終えたと絶望する必要性はひとかけらもないだろう。
何故なら先にも述べたように、どこまで行っても人間は人間の大脳新皮質が作る認識の世界の外には出られず、
神というものが本当に宇宙のどこかに存在しているなら、その全てを正しく認識する事は人間には不可能だからである。
その神から与えられる「正義」やら「善」は、結局人間が解釈したものだし、
その神の姿も人間の認識の範囲内に映るある部分のみである。


とか何とか、ぐだぐだ語ってる間に最初に戻ってきたんだか、何なのか自分でも良く分からなくなってきましたが、
要するに科学なんてのは万能でもなんでもなくて、タダのちょっと便利な共通認識を得るための約束事で、
私たちの「知ってる」世界なんてものは、自分を中心にしてプラネタリウムのように籠の内面に映し出されたものでしかないんじゃないの? ということです。
ただこの科学をいじりたおすことで、私たちは籠の外にも世界が在ることを知り、より多くのものを籠の内面に映すための努力ができる。
そういうことじゃないかと。

え、それが結局何の役に立つのかって?
言ってるように私らの認識の範囲なんて恐ろしく狭くて一面的なものなのです。全てを分かることなど不可能。
なのに、「何の役に立つのか」が正確に理解できるわけはないのですよ。
「役に立つ事のみをするべき」
という考え方には、「私は全てを知っている」という傲慢が裏にあると私は思います。
もうちょっと謙虚になりましょうよ。
前にも書いた気がするけど、人間は科学により世界の広さと自分の認識の狭さを知って、
科学により謙虚さを知るべきだと思ってます。
なんだ、ドーブツなんじゃん、なんだ、ちょっとしか見えてないじゃん、と、別のあり方、別の世界の存在を知ることで、
視野を広げ、価値観を広げ、自分の小ささを知るべきだろうと。
それが科学の……っていうか生物学の意義とおもいます。はい。


で。
全く死からは救われてないって?
その辺は宗教にまかせるべきだと思ってます。
宗教は真理を求めるものでもなんでもなく、個々の「私」を救うための実践論であるべきじゃないかと。
たしかブッダもそう言っておられる。多分。今、救われることが大切なのですよ、真理よりもね。
真理を知らなくても、「信じる」事ができれば救われる。それが宗教ってものではないですか?
ただ「信じる」 それこそが宗教。とか……完全門外漢が語ってみる。
だって、どれだけ理屈をこねて真理を求めたって、完全な真理を手にする事は出来ないわけですよ。
そして真理がどうだという理屈は、苦しむ「私」の役にはあまり立たない。
毒矢の教え、ですね。
毒矢が体に刺さって苦しんでいる時に、その毒がナニで造られたどういう種類の毒で、誰が良く使う物か……なんてな情報は、
とりあえず今死に掛けてる人の役には立たんでしょ、それより毒抜きの方法論が、その人を救うには重要だろう……そういう内容だったとうろ覚え。
まあ、毒に対する解析はきっと、次の犠牲者を出さないためには役に立つんだろうけどね。
しかし「今、苦しんでいる私」は毒矢で「今、死にかけてる人」であって、それを救うのは毒抜きの方法論……すなわち宗教であり、信じることである。ってのは正しいと思います。
ちなみに理屈をこねてその辺のものを認識しようとするのを「分別知」っていって、よろしくないものなんですよ、仏教では。確か。
これもうろおぼえ。
面白いですよ、仏教。





はい、お疲れ様でした★
や~、ホントに全文読んだ人が居るかはしりませんがw
ちょっとでもアレだ。
普段住んでる世界の枠をはみ出して、混沌とした中に一緒にもぐっていただけたなら幸いです。
学問をする面白さってのは、こういう、別の地平線を見ることだと思うのですがどうでしょね。
詰め込むだけじゃつまらんですよ。
全てはネタです。想像力万歳。いつか小説にしてやるんだ、この世界観……。


知はより広い世界を見るための翼であり梯子である……んだと本気で思ってます。
知ってて知らないよりいい事ってのは、「ここより別が、今より他がある」って事が分かるっていうその一点に尽きるといいますか。
知ってりゃエライってもんでもないし、量ありゃ良いってもんでもないでしょう。
要は、「別を、他を想像する事で、今の状況をほんの少し客観視する」力が、その人の世界を広げていく。それが価値だろうと。

知った上で、広がった世界のなかで今を選ぶか、他を選ぶか、何を選ぶかは個人の自由。
知らなきゃ損、知ったからには得なけりゃ損、得たからには獲られりゃ損、という風に尖端的に……今風に「賢く」生きるのばかりが正しいわけでもあるまい、と思うわけですが。

と、この辺はまたいつか。
いい加減にしときましょう。

現在(いま)と未来(あす)

2005-12-28 | ネタとしての生物学
前回に引き続き、人間と環境、未来について。
ネタ生物としてはかなり真面目な方ですね。

「沈黙の春」のレイチェル・カーソン、「奪われし未来」のシーア・コルボーン、二人に焦点を当てた(主にカーソンに、でしたが)ビデオを見てきました。
その中で、繰り返されていた言葉。
それは「人間は、自然に謙虚にならなければいけない」「私たちは、未来に対して責任を持たなければいけない」というものです。
私はこういった考え方を、比較的早くから知り、共感し、自分の立場としてきました。

しかし、この間ふとしたきっかけで、「この考え方自体」がとても恵まれた、豊かな環境でのみ生まれうる言葉なのだ――と、唐突に気付きました。
苦労してきた世代の方々にとって、それは当然のことでしょう。
しかし、何不自由なく生まれ育って来た、同時に「環境問題」の顕在化と共に育ってきた私にとって、それは驚くべきことだったのです。
そのきっかけをご紹介します。
その日、私たちは食用ガエルを用いた実験をしていました。
解剖して心臓や坐骨神経を取り出す必要があったので、私の近くには腹を開かれ、血を流すカエルの入ったバット(四角い皿というか盆というか)がありました。
同じ実験台の向こうで、「痛っ!」と声が上がりました。
どうやら刺したらしく、指を押さえています。
先生が、「怪我をしたのか、早く洗いなさい!」と急いだように指示します。
「あ、ただシャーペンの芯で刺しただけなんで」とその子は言いますが、先生は「いいから早く!」となおも急かします。
私も、恐らくその子も、「タダのシャーペンの芯だし、変な薬品が付いたモンじゃないから大したことないや」と思っていました。しかし、その後の先生のぼやきに、私は目から鱗を落としたのです。
「全く、とりあえずこういう時には洗う! 知らないって言うのは幸せだよね~、ホントは顕微鏡で見れば、このカエルの血にはトリパノソーマ(寄生性の原生動物)がうようよしてるってのに……」
トリパノソーマは家畜や人間にも感染する寄生性の原生動物(ゾウリムシとか、アメーバとか、ミドリムシとか……というイメージ)で、感染するとある種のトリパノソーマでは「眠り病」を引き起こし、致死率も高い危険なものです。

完全に、「寄生虫」「病原体」に対して(特に寄生虫)平和ボケをしていた私にとって、これは衝撃的な事でした。食用ガエルといったら、実家の近くの川や池に、普通にいる生物ですから。
そしてこの話を聞いた時、普段料理をしながら思っていたことが思い出されました。普段、フライパンから飛んで逃げた具材を「勿体無い」と思い、洗ってもう一度フライパンに入れようとするとき、何を恐れますか?
何が怖くて、一度洗いますか?
私は「洗剤」でした。勿論、変なばい菌(寄生虫も含む)は熱処理で殺せる、ということもありますが、あまりに身近に「ばい菌」がなさ過ぎて、「そっちは少々平気だろ」と思っていた面があったのです。
そして、「洗剤」……ひいては科学化合物全般に対する怖れは、それよりも遥かに身近なものでした。今、1回口から入る量はごく微量でも、そのうち体の中に蓄積されていくんだよな……という恐怖感があったのです。

ここで、私は唐突に思い至りました。
「そうか、昔は……衛生状態が確保されていない状態では、『いつかそのうちの危険』になんて、考えが及ぶはずがないんだ。だって、今、この時不注意で何かに感染してしまえば、明日すらもないんだから」
何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。でも、それまでの自分に、そしてそれまで学んできた「環境問題」の中に、そういう前提……それを気にする事ができる『今』が、どれほど恵まれた状況か、という認識は抜け落ちていた気がするのです。
環境問題、といわれれば、取り扱われるのは人工物質のネガティブな側面ばかり。勿論それに焦点を当てているのだから当たり前です。でも、そればかり学んで、それが使われ始めた時代の背景を見過ごし、まるで化学物質は悪そのものであるように捉えるのは危険なのではないでしょうか。
自分たちが、どれだけその恩恵に預かっているかも――その恩恵が生活に深く浸透しすぎ、当たり前になりすぎて――無自覚なまま、ただ「エコロジーブーム」、「天然・有機ブーム」に身を任せるのは、あまりに滑稽で愚かしい事なのではないか。「未来の事を考える」「未来に責任を持つ」ということそのものが、どれだけ贅沢な事かも気付かぬまま、それが出来ることへの感謝もないまま、「当然の義務」として十字架のように背負うのは何か歪んでいないだろうか。そう考えたのです。
清潔な、細菌もほとんど居なさそうなピカピカの台所で、テレビ画面の向こうに望む鮮やかな緑を夢想して「自然が一番!」と言う。このことに違和感を覚えていたのもあります。
(実際昔に比べて、私たち自身から取れる細菌の量は減ってるみたいです。髪の毛をシャーレに置いて培養した所で、指紋を付けて培養した所で、コロニーなんかできやしない、と先生が嘆いておいででした。昔はもっと、生徒の体自体に細菌が一杯くっついていたのだそうです)

繰り返すように、今、警告を叫ぶ方々にとってこの前提は当然過ぎるものでしょう。だから、「当然でない事」として化学物質と環境問題を叫び、広げよう、伝えようとするのは当然です。しかし、若い世代の私たちは、その前提自体を自覚していない。そのことにまで気付いて、その前提から包括的に環境問題を広め、伝えようという事は少ないのではないでしょうか。

私たちにとって、「現在(いま)」は、あって当たり前のものなのです。

それが、人類の歴史においてどれだけ特殊な状態であるかの認識も、自覚もない。
この状態で、暗雲垂れ込める「未来(あす)」の十字架ばかりを背負ってみようとしたところで、上手く行くはずがない。歪んでしまう。そう私には思えます。
今回のビデオでインタビュアーをしていた年配の女性が、60年代に始めて「沈黙の春」の話を知った時、
「正直、それは野生動物のことであって、私たち日本人はすごくお腹が空いているんだから仕方がないじゃない……って思ったんです。お恥ずかしいことですけれど」
と言っておられました。
私は、それは当然だろう、と思います。そうで当たり前なのです。恥ずかしくも、何ともない。事実だと。その事実を認めずに進む環境対策など、成功するはずがないと。
私たちは多分、野生動物の為に環境を守っているんじゃありません。
何より自分自身の為に、環境を、明日を保護していかなければならないのです。
そうである以上、日本にとってはかつての、世界の多くの国々では今直面している、「現在(いま)を生き抜くこと」を無視するのは間違っていると思うのです。現在を生き抜くために、たとえ未来を犠牲にしてでも、否、未来のことなど考える余地などありはしない状況で、化学肥料を使い、農薬を散布する。その行為を、それをしなければならない現実を無視して進む自然保護なんて、所詮空調の効いた室内で繰り広げられる机上の空論なのではないでしょうか。言葉をきつくして言えば、そう思うのです。
そんな状態で、何が「自然に謙虚」なのでしょう。
自分が何の上に胡坐をかいているかも自覚しないままの「謙虚」ほど、虚しいものはないのではないでしょうか。

多くの、自然保護を唱える専門家、研究者たちは当然そのことを知っているでしょう。
年配の、大人の方々も。
しかし、問題は私。そして、失礼を覚悟で言い切れば「私たち」です。
学ぶ立場であり、知る立場であり、引き継ぐ立場である私たちに、果たして「環境問題」に取り組むだけの土壌……それを行う為の基礎となる認識が十分なのか。その事に対して、私は懐疑的です。
もしも読まれた貴方が、私と同じような罠に嵌まっていたのなら、そしてこの文章でそれに気付いていただけたのなら、それ以上はありません。

人間にとっての自然環境とは何か

2005-12-27 | ネタとしての生物学
 今現在地球にあり、人間を育んできた自然環境は、人間にとって失う事の出来ない大切な「生存の場」であると私は考える。よって、他の何の為でもなく、人間の未来の生存のために、人間は今の自然環境を守らなければならない。その「自然環境」とは、この地球上の全てであり、一見人間とは何の関わりもないような人里から遠くはなれた生態系も、人間には害を為す動植物もそれに含まれる。
 なぜなら、人間が暮らすうちで必要なものの多くは自然環境によって作られ、維持されているものであるからである。空気の成分も、水質も、土壌も、もっと直接的には魚や外の畑でとれる作物も、ある程度人間が手を加える部分はあれ、大体自然に頼っている。人間は外界と完全に――空気すらも――切り離された世界に生きているわけではない。そして、その外界を形作っているものは、現存する自然環境全てである。そうである以上、それらのどこかを破壊し、全体のバランスを崩すことはすなわち、人間の未来を破壊することである。
 まだ、この地球上の、全ての生物や生態系がどういった仕組みで、どう相互作用しているのか、何処を引っ張れば何が出て、何処を崩せばどう傾くかを人間は知らない。そうである以上、近視的な考え方で行動し、手の届く範囲だけで自分たちの都合が良いように自然環境をいじりまわせば、この自然環境という緻密な立体パズルが、全く形を変えてしまうことは必至だ。その形の変化はこれまでにも良くあったことかもしれないし、形が変化したらしたで、適応し、生き延びる生命はいるかもしれない。問題は、今の形が崩れてしまえば「人間は」生きていけないということである。
 しかし、人間は自然環境をいじりまわすことでここまでの繁栄を得た。今更いじりまわすことをやめてしまう事はできない。それをすれば、大半の人間は生きていけなくなるからだ。ならばせめて、いじった部分とそれによる影響を、予想できる範囲内に収めるよう努力すべきである。そして、崩す事があれば修復し、完全にとはいかないまでも変わらぬ形で後の世代に引き継いでいかなければならない。また、それをしながら自然環境という緻密な立体パズルの構造を理解していかなければならない。そうすることが、「安全に人間がいじれる範囲」を増やす、唯一の手段だからである。
 自然環境とは人間にとって、絶対に維持しなければならないものであり、同時にいじらずには生きてゆけないものでもあるのだ。今後は、その辺りのさじ加減、理性的な判断が巨大化した人間の脳に求められるものだと思う。――何より人間が生き残るために。



とか何とか、タイトルのお題のレポートに書き散らして提出してきました。
自分の考えなので、調べまわる必要はなかったのですが、書いていてどうも「こりゃレポっちゅーより、日記ネタの口調だわな……」と思いまして。
何かこう、やたら無駄に論説文風というか、偉げというか(笑)
レポート仕様にしては文章がはちゃけております。

昨日の講義~今日の講義で興味深かったキーワード。それは「共生」
普段授業でやる細胞内共生ではなく、多細胞生物個体相互の共利共生の方です。
東南アジアの熱帯雨林は、生物相互の共生の例が非常に多くあるんだそうです。たとえば、高さ70mにもなる大樹とキノコの共生関係とか、植物とカイガラムシ、アリの関係とか。
熱帯雨林は温帯(この辺とか)などと違って、氷河期にも氷漬けにならず、長い間ずーっと生物が途切れず暮らしてきた場所なのだそうです。その分、そこの生態系の歴史は他より年季が入っている。
加えて、氷河期には他の地域で(寒すぎて)暮らせなくなった生物が避難してきて、とても多くの種がギュウギュウといる状態になった。
その結果、他の地域より遥かに生態系が成熟している、と考えられるのだそうです。生物の歴史といったら競争原理ですが、もう熱帯雨林は既に、競争の時代を終えて、共生の時代に入っているとか。
激しい競争に次ぐ競争の結果、強いだけのものは生き残れず、他者と共生することを選んだものが生き残った。適者生存と言いますが、その生態系における「最適者」とは必ずしも「最強者」ではない、ということみたいです。
何かちょっと感動(笑)
なるほど~、行き着くところまで行き着いた感じかあ、と。
この「共生」という概念が、これから人間が地球環境で生き延びていく時のキーワードではなのか、というお話でした。
(授業で取り上げられたのは、故・井上民二教授のことを取り扱った「未来潮流」のビデオです)

ただ、その中でも言っておられたのが、
「共生」という言葉は最近良く耳にするが、この場合の生物同士の「共生」とは、決して普段使われるような甘っちょろいものではない、ということでした。
自分が生き残るための戦いの中、ぶつかり合いながらギリギリで見い出した妥協点のようなもので、「相手の為に、誰かの為に云々」とかいうものではない、と。
競争が行くところまで行き着いた結果ですから当然ですね。

とても興味深かったので、井上民二さんにも興味を持ちました。著作物を調べてみようかな。



ちなみに、種の寿命はその進化の度合いに大体反比例するらしいです。哺乳類は大体800万年くらいだそうです。人間の歴史はあと大体300万年くらいかな~、とか。
長くてそのくらい。それまでに地球生命全てと一蓮托生、無理心中してしまえば話は別ですが、それなりに種の寿命を全うするなりなんなり、人間という種の寿命のみが終わった時を空想してみました。
他の種は大体、まだ続くわけです。それから先もずっと。
その時、私たちが残した創作物や、過去への考察はどうなるんでしょうね?
人間が絶滅した時、次に地球を席巻する種が、人間から派生しているとは考えにくいらしいです。ドコで聞いたんだったか、(多分誰かの授業)もし次の世界に生き残る可能性があるとすれば、アマゾンの奥地に孤立して住む人々くらいらしい。
今までの進化を見ても、一旦大繁栄した種は大体他に取って代わられているし。

そしたら、次の種は、私たちがやった、「文化」「文明」を持つ、という流れを踏襲していくんでしょうか?
それとも、全然そんなのナシ? この文字も、あの絵も、全部自然の模様の一部になってしまうのでしょうか。
それとも、どこかにその知識の蓄積は残って、次の種の文明に影響を与え、次の種の更なる進化の土台(踏み台)となりえるのでしょうか。

その種と人間が系統的にかけ離れていたら、
彼らが知りたいのは人間の歴史じゃなくてその種の歴史だろうから、
「人間の進化史とかだけ、無駄に詳しいし! 役に立たない!」
とか思われたりして~などと妄想してみたり。

「文明を持つ」ということが、生物進化全体の本流の最先端なのか、ただの先細りの支流の一つに過ぎないのか、人間には分かりません。先になって、人類が別の種に取って代わられたあとでないと。
それどころか、脳がでっかくなることが進化の方向性なのかも私には良く分からない。体の仕組みがどんどん複雑になってきたのは、生物の進化の方向性として明確にある。だけど、「これからどう複雑になるのか」は、何もその生物が「意識を持つようになる」という方向だけではないだろうと思うので。
(いかん、頭が死んでる; 文章にならない;)
もしも「脳が大きくなって、生物一個体が意識と自我を持つ」ことが今後の進化の方向だったとして、その「脳」が今の私たちと同じである保障もない。
私らの脳は、大脳新皮質がでっかくなってるのが特徴です。
大脳とは、脳の中で一番前側(てっぺん側)の、元々は嗅覚を司っていた部分です。哺乳類の脳はこの、嗅覚の脳がよく発達してます。それに対して、鳥類は元々視覚の脳である、中脳のあたりもよく発達しています。
もし、鳥とか、脳の別の部分を良く使う動物から文明を持つ種が進化したとき、その種は私らと同じ思考回路を持ってるのでしょうか?
全然全く、根本的に違う思考なんて、所詮私たちは理解できませんが、多分、見る世界そのものが違うだろうと思います。今でもとても賢い鴉が進化したとして、いつか文明を持っても、それを私たちが理解できる保証もないわけです。

魚の目は、四原色で世界を見ているそうです。
世界の色彩が三原色から成り立つのは、単に人間の視細胞が三種類の色素しか持っていないからです。四種の色素を持っていれば、世界は四原色なわけ。
その世界では、高い彩度の紫色と黄色の中間色があるし、赤と緑の中間色もある。
私らにはこの二つは、どっちも濁った灰色にしかならないけど、四原色なら別の色。
私らの目で見てアースカラーに統一された、落ち着いた色彩の絵画も、魚の目で見れば悪趣味な極彩色かもしれない(笑)といったら言いすぎでしょうか。

ナニが言いたいかというと、
人間の見る世界は絶対のものではないし、私たちが何より価値を置くものも、種の世代交代が起きてしまえば何の価値も為さず、地層の奥に埋もれていくものの一つかもしれない、ということです。
自分たちが先細りの傍流なんじゃないか、私たちの見る世界とその真実は、私たちが消えた瞬間に消滅し、後に残るものでも、理解されるものでもないのではないか。
そんな考えは人間にとって、とてもとても耐え難いことのような気がします。

だから大抵、私たちが「未来」として想像するのは更に進化した人類か、さもなくば生命が何一つ存在しない不毛の大地なのかもしれない、とちらりと考えたのでした。
「私たちが最終段階」でないという事実は、(もしその事実があるとしたら)人間にはとてもではないが受け入れられるものではないから。
それが証明されるくらいならば、いっそのこと地球と心中してしまうかも(笑)
などとネタ的な事を考えたわけです。

自分たちが生き延びる為には、そりゃあ必死で環境維持に努めなければならないけど、その反面、もし自分たちが滅びても生命も地球も存続し、更なる進化をしていくなら、そんな未来ない方がマシだ。それくらいなら自分らと一緒に滅ぼしてやる、そうすれば自分たちが永久に、生命進化の最終段階であれる。
そんな事を考えてもおかしくない気がしてます。
心のどこかで、滅びを望んでいる部分がある……とまで言ったらネタ的すぎますけど(笑)
その心理は、とてもとても人間臭いものだと思うので。
だって、それはそのまま、人間一個人が死を怖れるのと同じ心理ではないでしょうか。
自分がいた証を残したい。自分がそこにいる価値が欲しい。誰も自分が居たことに、いなくなったことに気付いてくれないのなんて耐えがたい。
そんな感じで。

一個人ならば、周りに覚えていてくれる人々がいる。
一民族ならば、隣り合う民族や交流のあった人々の歴史に残る。
でも、人類全体の寿命が来てしまえば、もう他の誰一人として理解し、記憶し、その存在の証を認めてくれるものはいなくなる。
それは大いなる絶望かもしれません。
科学が示す、神様のいない世界の一番冷酷な面は、もしかしたらそこかもしれない。神様がいれば、神様はちゃんと、人間がいたことを覚えていてくれるからね。

なーんちゃって。
この、「自分の意識の存在の証を残したい!」という衝動は、「ミーム」からも考察できると思います。
このミームという概念も、とてもとても興味深いので、気になる方はチェックしてみましょう。私のお勧めは佐倉統さんの本です。同じミームでも、文系(教育系?)からのアプローチとなると、またちょっと違うので、個人的には理系なミームの本をお勧めします。ネタ的に。

ではでは、ながなが~く書いてしまいましたが、いつものよーに裏は特別とっていないので、その作業は各自でお願いします。鵜呑みにしないように。

私も、ただ1回どっかで小耳に挟んだ事をネタに妄想してるだけなんで。

ネタ的共生生物学。

2005-11-12 | ネタとしての生物学
お久しぶりな「ネタ生物」。今回も適当にかっ飛ばします。
詳しく、正確なところが知りたい方、他で出す予定がある方は恥をかかないために、自分でちゃんと調べましょう。

共生。特に細胞内共生を扱った授業を受けている。
細胞内共生といって、一番ポピュラーなのはミトコンドリアと葉緑体ですね。
パラサイト・イヴを思い出した方も多いかも。
ですが、これ以外にも実はたくさん、生物の細胞の中に別の生物が共生している事例はあるみたいです。

授業を受けている先生が研究しておられる、ミドリゾウリムシ。まんま緑のゾウリムシらしいですが、もともとゾウリムシは葉緑体なんて持ってないから、緑ではない。その体内にクロレラが住み着いて、緑になるらしいです。
最近のニュースでいえば、ハテナとかも似た感じで。
そのうち緑色のマウスとか作って、光合成動物にするのが先生の夢だとか、違うとか……。
この辺も十分面白いですが、聞いてて「ネタになりそ~」と思ったのを一つ。

ヒメゾウリムシというゾウリムシの仲間ですが、これにあるバクテリアが共生すると、そのヒメゾウリムシは「殺し屋」になるんだそうです。
つまり、食べ物や住処を奪い合うライバルである、自分の仲間を殺す能力を持つらしい。これを持たないヒメゾウリムシは、殺し屋ヒメゾウリムシにやられて絶滅。彼らだけが生き残る。
これ、人間に当てはめたらホラーとかなんないかな~、と。
ある人々だけが特殊な能力を持って、その人たちが普通の人々を殺していく……とか、結構ベタですけど。でもそこに「共生」を入れてバイオチックにしちゃうと、面白いかな、とか。
理由なく選ばれるとか、幽霊が取り付くとかじゃなくて、感染するのですよ。バクテリアが。
どうでしょう?

あと、今昆虫に蔓延している、「感染するとメスになる」バクテリアとか。
母子感染(正確には垂直感染)するので、それまでオスだった奴が感染するとメスになる~、とかじゃないんですが、遺伝子はオスなのに、体は完全にメスで、ちゃんと卵も産める個体ができるそうです。
しかも、その偽メスからバクテリアを除くと、オスに戻るという……。
なんとも不思議な、無脊椎動物の「性」
高等脊椎動物になると、性別なんて変わらない絶対なもののような感じですが、生物全般だと結構そうでもないみたい。
このことは、また別の機会に。
あ、ちなみにメス化バクテリアの名前はボルバキア(Wolbachia)です。節足動物に感染。ただいま蔓延中で、その世界では大事だとか。

まあ、共生自体が、創作意欲をそそられる分野ではあります。
生物の中に生物が入り込んで、一つの生物になってしまう。
共生した生物同士を引き離すと、宿主も中のバクテリアも、それだけで生きていく事はできないそうです。
共生を始める前には、ちゃんとひとりで生きてられたのに。
一旦共生すると、別々では生きていけなくなってしまう。いつも先生が、実に楽しそうにこのことを紹介してくださいます。実際、興味深い。
細胞外の共生なら、人間の腸にだって山ほど大腸菌が住んでますけどね。

しかし、今日の内容で、アメーバ(アメーバプロテウス)とバクテリア(Xバクテリア 名前がまだついてないらしい・笑)の共生の事例が出てきたのですが、
どうもバクテリアがアメーバと共生すると、そのアメーバは体内で毒素を作るようになるらしい。で、バクテリアが抜けると、アメーバはその毒素で死ぬ……っぽい話だったんだけど、それ、宿主にナニかメリットが……?
質問し忘れました。謎。
もしメリットなしなら、すんごい凶悪な乗っ取り作戦というか、なんというか。
来週解説があることを期待しております。

アルツハイマー。「ヒト」というプログラムの限界(β版)

2005-07-01 | ネタとしての生物学
今度はアルツハイマー。今日習ってきたばっかりのことです。
アルツハイマーと言えば、加齢によってどんどん脳細胞が萎縮していく、進行性の病気ですね。
脳細胞の萎縮によって、いろいろなことを忘れていく。自分が誰かすらも分からなくなる。そんなイメージでしょうか。
このアルツハイマー病は、一体ナニが引き起こしているのか。
要するに脳の神経細胞が壊れてしまうんですが、その原因は、細胞の内側や外側に絡まり、カタマリを作って細胞を締め上げるタンパク質の繊維なんです。

何でんなモンが出来るんだ。
誰しもそう考えます。
それが出来る原因を取り除けばいいじゃないか、と。だって脳細胞にわるさをして、脳を破壊してしまうタンパク質ですよ?
しかし、しかし。そうは問屋が卸さないんですね。
糸くずみたいにダマになってるそのカタマリをほぐしてみたら、なんとそれは、脳細胞の中でとても重要な役割を持っているタンパク質(あるいはその一部)じゃあありませんか。
元になったタンパク質の遺伝子を壊した日には、ボケるどころかそもそも生まれてこれません。

しかし……そんな大切なタンパク質が、一体何だってそんなところにダマになってるんだ?
そこで、ナニがそのタンパク質にちょっかいをだして、本来のお役目から離れさせ、悪の道に誘っているのかが調べられました。
大体タンパク質を変えてしまうのは酵素なんですが、この場合もやっぱり、酵素でした。内側にダマを作る酵素がひとつ、外側にダマをつくる酵素がひとつ。
(ダマになるタンパク質の種類も内側と外側で違います)
じゃあ、この酵素をやっつけてしまえば……!
……やっぱり、ボケる以前に生まれて来れませんでした。
こちらも脳の発達に関係して、とても重要な働きをしていたのです。

脳の形成や発達に重要な働きをしている酵素が、重要な働きをしているタンパク質に作用して、脳を壊してゆく。
お互いに、まともに働く時の相方は別にいて、そちらと一緒ならば何の問題もないのに。
偶然、何かの弾みでこのタンパク質と酵素が出会ってしまうと、一つ、脳細胞を壊す要素が出来上がる。
そうやって、何年も、何十年もかけてそれらは蓄積してゆき、脳細胞を壊し始めます。
このことに対する先生のコメントが印象的でした。

「これは言い方を変えれば、発生(一個の受精卵が分裂しながら成長していくこと)の最終段階なんですね。そもそもヒトは、こんなに長生きするようにできてないんです。だからプログラムが未完成なんです」

そう、私たちは、生物はこんなに長く生きるモノじゃなかった。
様々な環境要因で死んでゆき、生物としてのプログラム自体の矛盾が浮き彫りになるところまで生きることはなかったのです。
そう考えると、私たちヒトは一体何処に立っているのか。どこへ向かうのか。そんな不思議さまで感じてしまいます。
生命の何物も見たことのない、限界と言う名の地平線。
そこへ向かって歩く私たちは、これから一体何を目にするのでしょう。

幼生生殖。生物は何故生きるのか。(β版)

2005-07-01 | ネタとしての生物学
幼生生殖って、ご存知ですか?
昆虫ネタ続いて、苦手な方には申し訳ないんですが……(と言っても、連続投稿してるから、大抵の人はコッチ読むのが先か)

タマバエという、よく虫こぶを作る寄生性のハエが有名ですね。
エグイ話なので苦手な方ご注意~。

幼生生殖は「単為生殖」の一種として、よく生殖系の話で出てきます。
単為生殖というのは、一言で言ってしまえば母親だけで子供を生むことです。
で、ナニをするかと言いますと。

メスの幼虫がいます。そのお腹の中には、卵があります。
普通卵は成虫になってからでないと成熟しないし、成熟したところで、お相手を見つけなけりゃひとりでに分裂・成長を始めたりしません。
でも、幼生生殖をするタマバエの幼虫のなかでは、勝手に卵がどんどん成熟し、更には精子もなしに発生(卵が細胞分裂して成長を始めること)を開始してしまいます。
で、どうなるかというと。
どんどん発生が進んだ卵はとうとう幼虫の中で孵ってしまい、幼虫の中に幼虫が生まれます。7匹~多ければ30匹くらい。
そして中に生まれた幼虫は、外側の幼虫の体を食べて成長し、食い破って外界に出ます。
そしてその食い破って出てきた幼虫の中にも卵があって、それはどんどんひとりでに成熟・発生していって……。

という次第。

これを聞くと、大抵皆、「それ、何の為に生まれてきてるの?」と思うようです。私も思いました。
気色悪さを越えた「怖さ」があると思いませんか?
そんな彼らと、私たちは「生物」であるという一点において同じなのです。
私たち生物は、一体何のために生きているんだろう?

周りの野生動物たちを見れば答えは単純明快です。「子孫を残すため」と。
それだったら、幼生生殖でもなんら不都合はないわけですよ。無論タマバエもちゃんとオスがいて、全てが幼生生殖するんじゃなくて、ちゃんと成虫になって有性生殖……オスとメスで子供を作ったりもします。
なぜなら、単為生殖(幼生生殖は単為生殖の一種です)では、母親だけで子供を作ります。すると、出来てくる子供のバリエーションがどうしても限られてしまうんですね。
バリエーションが少ないと、大きな環境変動があったときに、生き残りが出る確率が低くなります。あらゆる環境の変動に対して僅かにでも生き残るために、有性生殖は重要なんです。

だけど寄生虫系の生物の中には、タマバエのように、それ以上に、とんでもない生活環(どう生まれ、どう育ち、どう子孫を残すか、という生物の一生のサイクルをこう呼びます)を持っているものも多い。
それだけ『寄生』というのは、ハイリスクな生き方ということかもしれません。
だって、寄生する宿主に会えなければ、生きていくことができないんですから。
寄生虫のうちで、同じく幼生生殖(混合生殖というらしい。幼生生殖と他とを混ぜこぜでやるみたい)をする(しかもこっちは二段構えの幼生生殖!)アロイオゲネシスという吸虫なぞはなかなか迫力があります。

こういうえげつない話も、小説のネタだと思ってみれば、妄想の種になったりしませんか?

イモムシから蝶へ。華麗なる変身(β版)

2005-07-01 | ネタとしての生物学
――あの醜いイモムシが、やがては華麗な蝶へと変わる……。
それは『変身』の象徴として人々の心に希望の光と神秘への憧れをあたえる……かもしれない。
全部が蝶になるんじゃなくて、中には蛾になるのもいますがね。

このような幼虫と成虫が似ても似つかぬ姿をしている昆虫たちを、完全変態昆虫と言います。
似ても似つかぬと言いましたが、実際問題彼らは蛹の中で「なんとな~く」な想像を軽く飛び越える、とんでもないことをやってます。

イモムシがその辺の葉っぱの上をのそのそ這っている。
ある日それが糸はって蛹になって、動かなくなる(動く奴もいるけどっ!)
しばらくしたらさなぎが割れて、胴体の大きさも、肢の長さも、目も翅も、ナニもかもが違うチョウチョが出てくる。
だけど普段、私たちはそれを、「そーゆーもんだ」と思って、蛹の中のことなんてさして気にしてもいないんじゃないでしょうか?
イモムシが蝶に「変わる」
この言葉をみなさんは、どんな風に受け取りますか?
「変身」っつったらやっぱり、「イモムシ」だったものが形を変えて、「蝶」になると思ってませんか?

実は違うんです。

遺伝子的には確かに、同じ一個の受精卵から分裂した、同じ個体なんですけど。
でも幼虫をやっていた細胞が分裂したり変化したりするんじゃないんです。
実は幼虫の中には、成虫(蝶)の素になる細胞が、既にワンセットそろって眠っているんです。
タイムカプセルみたいに「蝶」の体の素(原基と言います)は、幼虫の中に埋まってるんですね。幼虫が生まれた時から。
その原基は、その個体がイモムシの間は、ただ埋まってるだけです。全く働かないし、幼虫の細胞として活動したりしません。
そして、蛹になると……。
幼虫の細胞は全部溶けて消えます。
全部、なくなっちゃいます。
んで、代わりに原基が分裂を始めて、蝶の体を作るんですね。

つまり幼虫と成虫、イモムシと蝶は全く別の個体と言っても過言ではないのです。
ある程度、幼虫だった時の条件が成虫に響いたりもしますが、
基本的に一卵性の双子のように、遺伝子は全く同じものを持っているだけで、イモムシだった体が、蝶になるわけではないんです。
それというよりはむしろ、イモムシの中から蝶が出てくるんです。

……なんつう不可解な生き物だ。
(そう思ってもらえないなら、多分私の文章力不足です)
人間に例えるなら、
私が動かなくなってしばらくすると、私と同じ遺伝子を持った「別の」全く違う姿をした「誰か」が溶けた私のスープの中から出てくるんですよ。
その人の「種」はずっと私の中にあったんだけど、きっと私はそのことを知らないでしょうね。
一卵性の双子が別人のように、いや、姿形が全く違う分だけそれ以上に、
「私じゃない別人」が私の中から出てくるんです。私は、その誰かが相手を見つけて子孫を残すために、せっせと今を生きるわけですよ。

……え~、ほんのちょっとでも、「う~わ~(汗)」と思って、妄想を掻き立てられていただければ幸いです。
ではでは。

遺伝子って、何だ? ~DNAと遺伝子の関係、DNAはどう「設計図」なのか~

2005-04-29 | ネタとしての生物学
昨今よく聞く遺伝子。解析やら治療やら組換えやらと、現実世界での話も多いですが、それと同じくらい、いや、それ以上に物語の中に登場し、私たちの知的好奇心や恐いもの見たさを刺激し、物語に華を添えてまいりました。
 キメラやクローン、生物の設計図をいじくる神の領域に近い科学。
 それらを怖れながらも魅かれて止まないのが私たちです。少しSFに近いものを書きたいとき、ぜひとも仕入れておきたい知識ですね。
 「遺伝子」とはなんでしょう?
 そもそも、「遺伝子」という物質があるのか。
 DNAとはナニが違うのか。染色体とはナニが違うのか。はたまた塩基なんてのも聞きますね。これらの関係は何なんでしょう?
 その辺りをできるだけわかりやすく解説しようと思います。(噛み砕きまくってあるので、少しでも詳しい方には退屈かもしれません)
 最初はあまり、キメラとかクローンとかに直接関わる話はできません。ですが、これからそういった内容に触れるのに、どうしても必要な知識ですので少し我慢してください。
 「生命の設計図・DNA」という言葉だけ知っていて、具体的には一体、ナニがどうなっていて、目に見えないような小さくて細いものから、自分の体ができるんだ? とナゾに思ってらっしゃる方は気合を入れて読んでみて下さい。

 全ての生物は、細胞の塊です。私も、あなたも。
 そして、私たちの体の、ほとんどの細胞には「核」というものを持っています。(例外もありますけど)この核の中に納まっているのが「染色体」であり「DNA」であり「遺伝子」です。
 では、この三者の関係は一体何なのか。また、その役割は? 「生命の設計図」とか言われても、図面を引いた紙が入っているわけでなし、そもそも文字が書いてあるわけないし。
 まずは三者の関係から行きましょう。
 核の中には染色体というものが、人間の場合は46本納まっています。(本当は他にも色々入ってますが、メインは染色体です)そして、その染色体は、DNA(デオキシリボ核酸 Deoxyribo Nucleic Acid)という超絶長い分子と、その他タンパク質などでできています。
 DNAっていうのは、染色体を作っているメインの物質なのです。DNAっていう名前自体が、「塩化ナトリウム」とか「硫化水素」とかと同じ、「デオキシリボースという糖の一種(砂糖とかの糖とはちょっと形が違う。なめて甘いかは不明)が付いた核の中の酸」という意味の物質名なのですね。
 で。
 そのDNAの一部が「遺伝子」になっているのです。
 …………。分かりませんね。これじゃ。
 
 「遺伝子」というのは、「遺伝情報を運ぶ因子」という意味です。
 因子と言われてもピンとこないかと思います。私がピンと来ません。辞書で調べてみましょう。
    1.ある結果を生ずるもととなる諸要素の一。要因。
    2.[数]→因数に同じ。
                         広辞苑 第五版 より。
 この場合1.ですね。しかし……分かりにくいなあ。
 要するに「それを引き起こすナニか」ってことでしょう。今回ならば、「遺伝情報を伝えるナニか」といえますね。
 お父さんと私の、目の形がそっくり。お母さんと私の、声がそっくり。その「そっくり」な理由って、何か「お父さんの目の形」や「お母さんの喉の形」を決めている設計図があって、それと同じ図面が引かれた設計図を、私はお父さんとお母さんから受け継いでるからなのでしょう。
 その、「設計図」=「遺伝情報を伝える何か(遺伝子)」で、=DNAの一部なのです。
 なんとな~く、分かりますでしょうか。設計図といっても紙じゃないですからね。細胞の中に紙は入りませんから。じゃあ、紙の代わりにナニに書いてあるのか、といったらDNAに書いてある。そういうことです。
 ならば、何故「一部」なのかといえば、「遺伝情報を伝えていない部分」があるからです。この詳しい話はまた少し後に回します。

 その前に。
 DNAっていうのは、いわば超絶ほっそい糸です。文字なんて書けません。じゃあ、どうやって設計が書いてあるんでしょうか。
 それを知るにはまず、DNAがどんなものか知らなければいけませんね。
 先ほど、DNAは長ーい一本の分子だ、と言いました。けれどこの分子は、同じような小さな塊が、鎖のように何個も何個も繋がったものです。
 この小さな塊を「ヌクレオチド」と言います。ヌクレオチドは「リン酸」と「デオキシリボース(糖)」と「塩基」の三つがくっついたもので、ヌクレオチドが連なってDNAを作る時は、上のヌクレオチドの「デオキシリボース」に下のヌクレオチドの「リン酸」がくっついていく形でどんどん長い鎖になっていきます。
 さっきヌクレオチドは、三つがくっついたものだと言いました。
 たとえば、A-B-Cというつながりの塊があって、前の塊のBに次の塊のAをくっつける作業を繰り返したとします。どうなるかというと、A-B-A-B-A-B-……と連なりますね。Cはどこに行ったんでしょう?
 CはBからぶら下がったまま、ぴろぴろと鎖の横にはみ出しています。実はこのCにあたる部分、「塩基」が遺伝情報を伝えているんです。
 塩基にはDNAの場合、次の四つの種類があります。「A(アデニン)」「T(チミン)」「G(グアニン)」「C(シトシン)」です。この四種類が、例えばGGACTTCTTTTCといった風に並んでいるのです。そしてこのうち、AはTと、GはCとくっつきます。(鎖の縦方向、リン酸とデオキシリボースの結合ほど強いわけではありませんが)
 そして、一本のDNAのお向かいには、もう一本DNAがあって、このAとT、GとCの結合を利用して、はしごみたいな構造を作っています。これがかの有名な「二重らせん構造」ですね。
 さっき「AとT、GとCの結合を利用して」と言いました。
 と、いうことは。
 片方がGACTと並んでいたら、お向かいにある
 片方はCTGAと並んでなければいけません。実際にそうなっています。
 
 さてさて。DNAという鎖は二本で一つのはしごを作っていて、その足をかける横棒部分が「塩基」といって、四種類あると言いました。
 では本題。実は、遺伝情報というのは、この「四種類の塩基の並び方」で記録されているのです。
 たとえば目の形を表している部分が「TTAGGCATCCGG」の人と「CTAGGCATCCGG」の人では、目の形が少し違う。(実際にはこんなことはありえません。もっと長くて、複雑で、たくさんの遺伝子が目の形成に関わっています)最初一文字がTかCか。これが目のデザインが少し違うことを示しています。
 「何でだ~!?」となると思います。
 なんででしょう。
 これを理解するために、この設計図でつくられる「私たち」の建材の方を先にチェックしておきましょう。

 人間の体の七割は水である。
 よく聞く言葉ですね。でも水はただの水。私たちの形を作ることはできません。
 水の次に多いのがタンパク質です。
 タンパク質は、有名なコラーゲンを始めとした、体本体を支える「壁」など、正に建材として使われるものがあります。そして食べ物を消化する酵素など、体の中で働いて、体を維持する従業員として使われるものもあります。種類はそれはもう、目が回る位あります。
 このタンパク質の配分や働き方などが、その人の特徴となります。骨格とかね。……骨はカルシウムじゃないか! って? いえいえ、骨もタンパク質が含まれているんですよ。コラーゲンという繊維状のタンパク質に、カルシウムを含む無機化合物が沈着してできているんです。
 ともかく、人間の細胞一つ一つを接着し、細胞の巨大マンション(?)である体のメンテナンスやら、食糧配給やらを行って、ただの細胞の塊を「人間」にしているのはこのタンパク質です。(もちろん細胞の内側でもタンパク質は使われています)よって、このタンパク質の、どんな種類が、どこで、いつ、どれくらい作られるか、で私たちの遺伝的特徴は決まっていきます。(タンパク質以外の要因もありますが、とりあえず今回ははしょります)
 で、このタンパク質。気が遠くなるくらいの種類がありますが、実はたった二十種類のアミノ酸でできています。
 アミノ酸。……ダイエット? 最近注目を集めていますよね。
 先ほど、DNAはヌクレオチドが鎖状に繋がった長い長い分子だ、といいました。
 タンパク質は、アミノ酸が鎖状に繋がった、長い長い分子なのです。
 そして、アミノ酸の種類はたった二十種。たった二十種類でも、どれだけ、どんな順番でつなげるかで無限の種類のタンパク質が作れるというわけです。

 さあ、やっと戻ってまいりました。
 私たちの体の建材、タンパク質は、二十種類のアミノ酸を色々な順番で、色々な長さにつなげてできるものでした。
 だったらつまり、私たちの設計図には、「どのアミノ酸をどの順番で、どれくらいつなげるか」が書いてあれば良いわけです。そこで登場するのがさっきの四種類の塩基。
 塩基四種類じゃ、アミノ酸の二十種類には間に合いませんよね?
 だから、塩基三つで一つのアミノ酸を指定するんです。
 例えばTACはメチオニンというアミノ酸を。
 四種類を三つ並べる並べ方の種類は64パターン。アミノ酸は二十種類だからかなり余ってしまいますが、そこはそれ、同じメチオニンを指定する並びが複数個あるんです。二つ並べるんじゃ十六パターンでたりないですしね。
 このようにして、DNAのある部分には、例えば「目を作るのに必要なタンパク質」を構成するアミノ酸の並び方が、塩基によって表されているのです。これが、DNAが設計図である、ということの正体です。

 ここまで来て、やっと「遺伝子はDNAの一部」という話に戻ります。
 DNAのうち、「遺伝子」をやっているのは四種類の塩基の並び方でした。これが特定のタンパク質を構成するアミノ酸の順番を、三つ一組で表していたのです。ところがところが。一本のDNAの、端から端まで、全部がアミノ酸を指定している(コードしている、といいます)わけではありません。何もコードしていない、いつ、どれ位タンパク質を作るかを決める、現場監督としても働かない、まったく役に立たない塩基の並び(塩基配列といいます)があるのです。
 こんなもの、遺伝子じゃないですよね。設計図やってませんから。
 だから、「DNAの一部が遺伝子」なのです。DNAのなかで遺伝子をやっている部分はそんなに多くはありません。


 まとめ。
 DNAっていうのは染色体を構成している分子の一つで、このDNAという物質の塩基配列のうち、ごく一部がアミノ酸をコードして、遺伝子として働いている。
 この文章が理解できれば、あなたは遺伝子の正体を知っていることでしょう。