日常

まどみちお「いわずにおれない」

2014-04-24 10:53:43 | 
詩人まどみちおさんの「いわずにおれない」を読みました。
まどさんのシンプルで素直なもの言いに、読んでいてこちらもまどさんモードに共鳴していくような感じでした。


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<内容紹介>
ぞうさんのおはなはなぜ長いの?
一世紀近くを生きてきた詩人から、こんこんと湧き出る詩。
そのほとんどは、ひらがなで書かれた短いものだが、驚くほどの生命力にあふれ、読む人の渇きを潤してくれる。詩人が語った"今のボク"を収録。
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まどみちおさんは童謡「ぞうさん」や「一年生になったら」の歌詞を書かれた詩人。
2014年2月に104歳でなくなれました。大往生。

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ぞうさん、ぞうさん

ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね 
そうよ
かあさんも ながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
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まどさんは詩人なので、言う事はシンプルです。
短い言葉で本質を表現します。

目次にも、すでにそういう感じが出ていますね。
目次を読むだけで思いが伝わってきます。


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目次
第一章
ぼくがボクでいられる喜び

第二章
一匹のアリ、一輪のタンポポにも個性がある

第三章
身近にある物たちも、いのちのお母さん

第四章
宇宙の永遠の中、みんな「今ここ」を生きている

第五章
言葉で遊ぶと心が自由になる

第六章
体って不思議。老いだって面白い

第七章
生かされていることに感謝
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詩は、日常言語とイメージ言語の橋渡しのような世界。
それは、最終的には俳句、短歌、・・・などと行き着くところは同じ。


「言葉」は歴史の中で手垢がついてしまっています。
何か理解したような錯覚に陥る欠点があります。


詩の世界は、「言葉」の手垢を払い落し、対象そのものが持つ本質を最小限に削り落としたコトバで表現する世界。

何かをデコレーションして外部に盛り付けていくのではなく、対象の内部にある本質へ向けて不要なお化粧を削り落としていく世界。それは、木の中に仏を見出す仏師の世界と似ています。



そんなまどみちおさんの詩の世界ができていくプロセスを追体験するような本でした。




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第一章
ぼくがボクでいられる喜び
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今はみんな、人マネごっこばっかりやっとる。
人と自分を比べては一喜一憂したりもする。
それは本当に滑稽で悲しい。そして何より、もったいないことだと思います。
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→人の評価ではなく、自分の評価が大事です。
他者の評価は2の次、3の次。振り回される必要はありません。
人の課題と自分の課題は別。
自分と一生付き合うのは、自分だけなのです。



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一生懸命になるっちゅうことは、自分が自分になること。
一生懸命になれば、一人ひとりの違いが際立つ。
いのちの個性が輝き始める。

すべての存在は、そこにあるだけで尊い。
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→一生懸命になるとエゴが抜けますね。時間や空間の感覚も抜けますね。タイムレスなドリームタイムに入る感じ。
そういう子供ような状態が尊い。
子どもが子どもの状態であるのは当たり前。大人が大人のまま子供の状態を保てるからこそ、すごいんです。




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『ぼくがここに』

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここにゐいるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも


その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として
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第二章
一匹のアリ、一輪のタンポポにも個性がある
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どんな生きものも、どの生きものらしく生きてるわけですが、
特にミミズっちゅうのは手も足もなんにもないだけに、ボディ全体であらゆることをやっとるように見える。
まるで体が、心そのものみたいに・・・
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→心と体は同じもの。そういうことを忘れがちですが、人類以外の生命体を見ることで鮮やかに思い出すことができますよね。



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そもそもアリや菜の花っちゅう名前自体、人間が勝手につけたものですよね。
われわれが社会生活をする上では名前がなくちゃ困るけど、名前で呼ぶことと、そのものの本質を感じることは別なんじゃないでしょうか。
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アリや菜の花と呼ばれているものの存在そのものを感じたいと思うなら、名前にとらわれないほうがいい。
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→名前や言葉が持つ偏見や呪縛力から自由になる方法が、詩の世界であり芸術の世界なのです。
言葉の呪縛から逃れるためには、やはりコトバの力を使わないといけない、ということは、面白いしパラドキシカルなことですね。



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ものの本質に迫り切れなのは、ひとつにはその存在を五感で受け止めようとしているこちらの状態が同じじゃないということ。
うれしいときとか悲しいときとか、いろんな気分のときがありますからね。
そして最大の理由は、どんな存在も限りなく不思議で複雑だから。
この世の中には不思議でないもの、複雑でないものなんてないんですよ。
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こちらも変化しているし、相手も変化している。そういう流動の相にゆらゆら揺れている。
海底に張り付いてゆらゆら揺れている祖先ヤツメウナギのように。




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『アリ』

アリは
あんまり 小さいので
からだは ないように見える


いのちだけが はだかで
きらきらと
はためいているように見える

ほんの そっとでも
さわったら
火花が とびちりそうに・・・
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第三章
身近にある物たちも、いのちのお母さん
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『かず』

かずは 一から はじまって
いくつまで つづくのだろう
たしかめたく なるのは
だれにも たしかめられないからだ

ぼくには かずが
じぶんで じぶんを
かぞえているように おもわれる
うちゅうが はじまった その日に
一から かぞえはじめて
いまでも ずうっと
まだ まだ これからだと おもって

だれも いない
なんにも ない
うちゅうの まん中に すわって

なんで そうせずにはいられないかを
ひとり かんがえつづけながら・・・
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今、わたしの目の前の空間には何もないように見えるけれど、光りもあれば空気もある。音もにおいも存在してるんですよね。

本当になんにもなかったとしても、存在しないものが存在しているとも考えられる。だから、なんにもないっちゅうことは、そこにはなんでもありうるっちゅうことなのかもしれません。
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→無にマイナス面を見て絶望するか、プラス面を見てその未知の可能性を夢想するか。




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『かいだん・Ⅰ』

この うつくしい いすに
いつも 空気が
こしかけて います
そして たのしそうに
算数を
かぞえて います
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第四章
宇宙の永遠の中、みんな「今ここ」を生きている
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にんげんが進化の過程で体験したさまざまなことをもとにして、今生きておる人間の感受性や美意識が組み立てられているんじゃなかろうか。
遥かな祖先が長い時間をかけて磨き、育てあげてくれたそのアンテナは、本当に素晴らしいものだと思います。
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→ながいながい、はてしないはてしない時の流れを、省略せずにまるごと同時に生きたいですよね。パラレルワールド。



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時間というのは、一瞬一瞬の蓄積によってありとあらゆる仕事をやってのけておるんです。
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→一瞬一瞬にすべてが含まれていると思いますね。本質的にタイムレスの世界の中に、物差しとしての時間を作り出した。



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『頭と足』

生きものが 立っているとき
その頭は きっと
宇宙のはてを ゆびさしています
なんおくまんの 生きものが
なんおくまんの 所に
立っていたと しても・・

針山に さされた
まち針たちの つまみのように
めいめいに はなればなれに
宇宙のはての ぼうぼうを・・・

けれども そのときにも
足だけは
みんな 地球の おなじ中心を
ゆびさしています
おかあさん・・
と 声かぎり よんで

まるで
とりかえしの つかない所へ
とんで行こうとする 頭を
ひきとめて もらいたいかのように
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『ふと』

ふと おわった

いっしんふらんに 注ぎつづけていた
ぼくの おしっこは

見つめていた ぼくの
「見つめていたこと」も また

そして 見つめながら 考えていた
「考えていたこと」も また

その「ふと」が なぜか
ふと めずらしい

はじめて 目にすることができた
時間の「まばたき」のようで
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第五章
言葉で遊ぶと心が自由になる
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面白がりたい、おかしがりたいという気持ちが人並み以上に強いんですよ。
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→既知のものを未知ととらえるか。
未知のものに恐れではなく好奇心を感じることができるか。





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第六章
体って不思議。老いだって面白い
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自分の記憶の中に何が残っているか、あとどれだけ思い出して書くことができるかっちゅうようなことにも興味があるんです。
マイナスと思われているいろいろなこと、年をとるとか、忘れるとか、飽きるとか、休むとか、あるいは一番大きなところでは死ぬっちゅうこととか、そういうのも本当はみんな必要なことなんだと思います。
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→社会がマイナスのレッテルを張っているものにこそ、宝がある。
なぜなら、その中にあるプラスの可能性を、僕らはまだ見いだせてないのだから。
それは同時に、プラスだけ見ているものには、それなりの注意が必要、ということでもあります。



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私たちが毎日、「今日の死」を見送っているというのも、発見のひとつです。
せっかくやってきた今日という日は、生まれたと思うとすぐ立ち去ってしまう。
そんな重大事が、なんでもない当たり前のことのように日々繰り返されておるんですね。
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→日々、たんたんと。しゅくしゅくと。


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『おならは えらい』

おならは えらい

でてきた とき
きちんと
あいさつ する

こんにちは でもあり
さようなら でもある
あいさつを・・

せかいじゅうの
どこの だれにでも
わかる ことばで・・

えらい
まったく えらい

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第七章
生かされていることに感謝
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抽象画が好きな理由
「ことばによって命名されたり、ねじまげられたり、端折られたり、曖昧にされたりする以前の世界が、そのまま純粋に視覚的な構築を得たものが抽象画であって、それは私には、この世で視覚が「名前」と「読み」と「意味」から自由になれる唯一の世界のように思える」
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→自分も抽象的な世界を描くことは多いし、好きです。
ミヒャエル・エンデのお父さんであるエドガー・エンデの描く絵画世界は、まさにそういう世界。エドガー・エンデは、言語世界のはるか深層の「ゲハイムニス(秘密・神秘・不可思議)」の領域を描き続けました。
「闇の考古学 画家エドガー・エンデを語る」(2012-11-21)




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わたしにとって日記は、詩の材料とか何かのためではなく、天に対して書いとるっちゅう感じがします。
天というのは、前にも言いましたように、宗教上の偉い人じゃなくて宇宙の意志みたいなもの。すべてお見通しの力に対して嘘は絶対につけないっちゅう気持ちがあるから、自分がしたどんないやらしいことも、みんな正直に書いとるんです。
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→天・地・人。
ひとは、天と地をつなぐ存在。そこでバランスを取り、その間をうまく調整する存在。
天に偏り過ぎな人は地に足をつけ、地に偏り過ぎな天を仰ぐ。
そうして日々バランスを取り続ける。



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『ことり』

そらの
しずく?

うたの
つぼみ?

目でなら
さわっても いい?
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『臨終』

神さま
私という耳かきに
海を
一どだけ掬わせてくださいまして
ありがとうございました

きれいでした
この一滴の
夕焼を
だいじにだいじに
お届けにまいります
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『なんでもない』

なんでもない ものごとを
なんでもなく かいてみたい
のに つい なんでもありそうに
かいてしまうのは
かく オレが
なんでもないとは かんけいない
なんにもない にんげんだからだ

ほら このみちばたで
ホコリのような シバのハナたちが
そよかぜの あかちゃんとあそんでいる

こんなに うれしそうに!
なんでもないからこそ
こんなに なんでも あるんだ

天のおしごとは
いつだって こんなあんばいなんだ
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『きょうも天気』

花をうえて
虫をとる

猫を飼って
魚をあたえる

Aのいのちを養い
Bのいのちを奪うのか

この老いぼれた
Cのいのちの慰みに

きのうも天気
きょうも天気
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まどさんの詩はすばらしい。
うつくしい。
あたたまる。
ふくらむ。

かいせつ不要。
問答ふよう。


おならでもおしっこでも、
自分のなかから
「バイバイ」と、

出ていくものも 
おもしろがって、

詩のリズムにのせて
宇宙へと
コトバを
はなつ。
ときはなつ

そんなまどさんの
生き
ざまに、

かんどう! (^^