日常

Jill Bolte Taylor「奇跡の脳」

2012-04-11 00:01:26 | 
Jill Bolte Taylor「奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき」新潮文庫(2012/3/28) を読みました。とても衝撃を受け、感動しました。
最近文庫化されたのです。だから読みました。


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<内容説明>
脳科学者である「わたし」の脳が壊れてしまった――。
ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた彼女は37歳のある日、脳卒中に襲われる。
幸い一命は取りとめたが脳の機能は著しく損傷、言語中枢や運動感覚にも大きな影響が……。
以後8年に及ぶリハビリを経て復活を遂げた彼女は科学者として脳に何を発見し、どんな新たな気づきに到ったのか。
驚異と感動のメモワール。
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最近いろいろ考えていたことと奇妙にリンクしていた。刺激をうけまくった。


原題は「My Stroke of Insight」になっている。

「stroke」は医学用語の脳卒中(cerebral accident)と言う事を意味しながら、一撃、発作、ひらめき、天啓・・という言葉がかかっている。

脳科学者が左脳出血(AVM=anteriovenous malformationという脳動静脈の奇形が原因。30-40代の脳出血はこれが原因のことが多い)となり、重大な脳の後遺症を経験しながら、科学者としての魂でそれを冷静に観察したドキュメントルポのような本。

ポイントとは「左」の脳内出血というところ。
左側は広範囲に障害されていたけれど、「右」脳がその現象を冷静に観察していたというところ。

人間は、右脳だけになるとどういう風に世界が見えるか、というものを描いている。




一般的に、左脳は言語や論理を司るといわれている。自我(エゴ, ego)が生まれるのもここ。
人に勝とうと思ったり、けなしたり、批判したり、支配したり・・そういうのは主に左脳の機能。
それに対して、右脳はイメージ体験とか音楽とか、芸術的な感性を持つ。基本的には争いや対立を好まない。


結論を言うと、期せずして右脳だけが機能するときになったとき、作者は神秘体験としか言えない状態になる。それはある種の悟りであり、神がかりのような体験。

「わたし」は、個体ではなく流れゆく液状の流体のような感覚となる。
すべてはひとつ。すべてはつながりあっていて、境界線はない。それは極上で至福に満ちた体験。時間も流れない。そこには争いも葛藤もない。
「わたし」と「わたし以外」を作りだした境界線は左脳が作りだした働きであり、右脳から世界を見ると全てに境界線はなくひとつである。すべては相互作用しながらつながりあっている。・・・と、感じる。
その体験を、仏教用語の『ニルヴァーナ(涅槃)』と称している。


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P37
わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。
高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。
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P37-38
この時点で、わたしは自分を囲んでいる3次元の現実感覚を失っていました。
からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分がはじまって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。なんとも奇妙な感覚。
からだが個体ではなく流体であるかのような感じ。
まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他の物の区別がつかない。
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P53
出血中の血液が左脳の正常な機能を妨げたので、知覚は分類されず、細かいことにこだわることもなくなりました。
左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。
知覚は自由になり、意識は右脳の静けさを表現できるように変わって行きました。
解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。
仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。
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涅槃(nirvana)は「さとり」〔証、悟、覚〕という意味。
ニルヴァーナの意味は「吹き消すこと」「吹き消した状態」で、煩悩の火を吹き消した状態のこと。

ただ、涅槃は単に煩悩の火が吹き消えたという消極的な世界ではなくて、煩悩が転化され慈悲となって働く積極的な世界でもある。
仏教では、その煩悩が転化される根本を、智慧の完成と言う。



仏教の教えを特徴づける三つの考えを「三法印」と言います。

・諸行無常(すべては、かわる。かわらないものは、ない。)
・諸法無我(「わたし」なんてものは、ない)
・涅槃寂静(「ぼんのう」がなくなると、しずかなやすらぎと、なる)

これに
・一切皆苦(すべては、くるしいものだ)
を加えて、四法印とすることもある。

それくらい、涅槃(nirvana)という境地は、仏の教えでは大切にされている概念です。




Jill Bolte Taylorが体験した右脳だけの世界。
そのすごい世界を客観的に描写する力にとても感動を覚えた。

僕らも、左脳の論理や言語ばかりを働かせるのではなく、右脳のイメージや平穏も同じくらい働かせて、左脳と右脳が互いを互いで高め合うようないい関係を作らないといけないんだろう。
左脳が右脳を支配するのではなく、逆に右脳が左脳を支配するのではなく。
共に同じ道を歩む同士として、自分の中で和する。

この本で語られるように、右脳だけの世界は『神が宿る右脳の安らかな幸福感へと向かってしまうのです。』という感覚を得る。



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P80
意識はもう分析に優れた左脳の選別機能を失っていました。
抑制する思考がないので、わたしは自分がひとつの独立した人間であるという感覚を超えたところへ歩み始めているのです。
自分を、互いに助けあう多くの器官からつくられたひとつの複雑な有機体であると、つまり、断片的な機能をまとまった集まりとして定義する左脳がなければ、意識は制限されることなく、神が宿る右脳の、安らかな幸福感へと向かってしまうのです。
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右脳がよりよく働けば、「さとり」になり「神がかり」になり「神秘体験」になる。
ただ、きっとそのバランスは極限的に危ういバランスを保っている。
少しでもバランスを崩すと「狂気」の世界へと転落してしまうのかもしれない。

こどものころは右脳が優位で、おとになると左脳を成長させる。その司令塔してのエゴego(自我)を持つ。
ただ、そのエゴが過剰に働くと、エゴイズムと言われる状況になる。ただ、その状況は自分自身で気付くのは難しい。なぜなら、自我自体が催眠術のように左脳の自我に幻想を見せ続けているから。
その幻想は、すべての世界から関係を切り離し、自分の左脳だけの独立した王国を作り上げる。
自我はその状態を保つために、また巧妙に夢を見せ続ける。そして、その人の左脳の自我だけが、このすべての世界から孤立した存在となる。

ただ、その夢から自分で覚めるのは難しい。(ブッダは、目覚めた人、という意味。)
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ボルヘス「七つの夜」 『仏教』より
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『2500年前にシッダルタもしきはゴータマという名のネパール王子がいて、ついにブッダすなわち「目覚めた人」「覚醒した人」になった。-それにひきかえ私たちの方は眠りつづけている、あるいは人生と言うあの長い夢を見続けているのですが-
・・・・ジョイスのこんな言葉を想い出します。「歴史とは私がそれから覚めたいと願っている悪夢だ。」』
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ボルヘス「七つの夜」(2011-12-27)





だから、悪い夢から覚めるには、病気とか親しい人の死とか別れとか・・・、強烈な一撃(stroke)が必要になる。

そんな強烈な一撃(stroke)を、不幸(unhappiness)と見るか、目覚め(awakening)と見るかは、きっと静かで平和的な右脳の働きにかかっている。

右脳が持つ、自と他を分けずに融和的に包み込む世界。
そんなものを、左脳中心で生きているひとは、もう一度獲得しなおさないといけなんだと思う。
そして、自分の中の左脳(論理や言語や社会性)と右脳(夢、イメージ、神、崇高なもの)とが和する時はじめて、その人は調和がとれて、ほんとうの世界とほんとうのわたしが向き合い始めるんだと思う。
そこがまた、その人の人生の始まりなんだろう。そこに年齢や経歴はなにも関係がない。その人だけの問題だ。

『子供の時の記憶や心を忘れないようにしよう』という自分の中での教訓は、きっとそういう働きをしていたのだろうと、改めて気付いた。


・・・・

脳の障害を来たした場合にどのように世界が見えるのか、周りにいる人はそういう人に対してどのように力になれるのか・・・・、いろんなことを学ぶことができる本です。とてもいい本です。

この世の神秘。そして真実。
いろんなものを垣間見せてくれました。
生きていること。単に存在していること。単にあること(not "doing" but "being"!!)。
それだけで相当にすごいことです。



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P31
わたしは正常な認知機能から奇妙に切り離されるのを感じました。
それはあたかも、心と体のしっかりとした結びつきが、どんどん脆くなっていくような感じだったのです。
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P33
脳とからだの50兆個の細胞が完全に協調し、肉体的な携帯の柔軟さと全体のまとまりを維持すべく、どんなに力を尽くしているかを一瞬にして悟ったのです。
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P38
外の世界との折り合いをつけてくれていた、脳の中の小さなささやきも聞こえません。
脳のおしゃべりの声がないまま、過去の記憶と未来の夢は雲散していきました。
ひとりぼっちです。
その瞬間は、リズムを刻む心臓の鼓動を除いて何もない、孤独な状態でした。
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P46
このからだは、わたしという名のエネルギーが3次元の外部の空間にひろがってゆく扉なのです。
このからだの細胞群が、素敵な仮の宿を与えてくれていたのです。
この驚くべき脳は、まさに数十億、数兆個のデータの断片をいかなる瞬間にもまとめ上げ、わたしのために、この環境の3次元の知覚を作り出していたのです。
それは継ぎ目のない現実であるだけではなく、安心できるもの。
この幻想の中で、生物学的な細胞組織が効率よく、わたしという形を作り出していました。
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P55
わたしは、はっきりと考えられる瞬間(それを「明晰な波」と名付けました)と全く考える能力のない瞬間のあいだを、ゆらゆらと漂っていました。
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P55
これまでの人生通りに歩むことができなくなり、認知力がシステムごと崩れていく様を目撃したわたしは、困惑すると同時に心を奪われました。
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P60
外部の世界を知るための知覚は、左右の大脳半球の絶え間ない情報交換によってみごとに安定していました。
皮質の左右差によって、脳のそれぞれ半分は少しずつ違う機能に特化し、左右が一緒になったときに、脳は外部の世界の現実的な知覚を精密につくることができるのです。
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P84
わたしの分子群の活力は低下していきました。
そしてエネルギーが底をついたと感じたときに、意識は身体機能との結びつきも指令を出すことも放棄したのでした。
静かな心と平穏な気持ちで、聖なる繭の内部に深く囚われて、切り離されてゆくエネルギーの大きさを実感しました。
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P91
まるで、自分が電気人間のようです。器官の塊のまわりでくすぶっている、エネルギーの亡霊。
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P92
脳卒中の最初の日を、ほろ苦さと共に覚えています。
左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。
魔法の壺から解放されたアラビアの精霊になったような感じ。
大きな鯨が静かな幸福感でいっぱいの海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。
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P96
もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。
もちろん、わたしは流れている!
わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間の中で振動する原子と分子からできているわけですから。
言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己(self)を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。
つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。
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