日常

小林秀雄「人生について」

2011-12-11 10:04:49 | 
小林秀雄さんの「人生について」中公文庫(1978)という本を何度も読んでいる。

小林秀雄の文章は、水平方向に日本語の文字を並べただけではなく、その奥の方への意味を感じさせるのに十分な立体感がある。
文字に凝縮したものは必ずしも2次元で平面的なものではなくて。
紙にインクを垂らしたものではなく、印刷機を通過した紙の束なりでもない。
人体が心臓や脳髄や肝臓・・・の部品だけからなるわけではないのと同じことだ。

遠くから2次元の紐のように見えるものも、近くで見ると紐はこより状により合わさって複雑な3次元の模様を描いているようなものだ。

『私の人生観』というエッセイと、『信ずることと知ること』というエッセイがため息出るほど素晴らしい。
今回は『私の人生観』についてを。



■『私の人生観』

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「人間の深い認識では、考えることと見ることが同じにならねばならぬ、そういう心身相応した認識に達するためには、また心身相応した工夫を要する。」
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「縁起の法は、因果の理法と呼ぶより、無我の法と言うべきものであって、凡そ真理というものは「我」を立てるところに現れる、人間的条件に順じて、様々な真理があるにすぎない、と釈迦は考えた。
もっとも人間臭くない因果律という真理も、悟性という人間的条件に固執するからあるのである。 
因果律は真理であろう、しかし真如ではない、truthであろうが、realityではない。 
大切なことは、真理に頼って現実を限定することではない、在るがままの現実体験の純化である。
見るところを、考えることによって抽象化するのではない、見ることが考えることと同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。」
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「果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮することが、cultivateである。自然を材料とする個性を無視した加工はtechniqueであって、cultureではない。」
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「Realismは現実のobservationというものを根本にしているが、observationには適当な訳語がない。観察と訳していますが、仏典では観察という言葉は観法とか観行とかいう言葉と同じ意味でつかわれていたようです。私たちには、観察という言葉は見抜くという伝統的な語感を持っている。」
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ほんとうに物事の本質を見るということ。
語幹として「観る」ということ、「見抜く」ということ。貫通。
見ることが考えることと同じになるまで、視力を純化すること。


そのためには自分のEgo(我)を一度捨てる。
Ego(我)は思考の自動作用やねつ造作用でできているから、それを見抜いて一度中止させる。
見ている自分を、空を飛ぶトンビが「観る」ような視点で「観る」。
思考をろ過させて見るのではなく、風景や自然を自分として、全体的存在として観る。観察する。

そのとき、自分の偏見(経験と言えば聞こえはいいが、基本的には偏見だろう)はなくなる。
Ego(我)は偏見やねつ造作用でできあがる仕組みになっているから、そのEgoを捨てると見ることが考えることになるまで、視力は純化するんだと思う。





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「宮本武蔵の「我事に於いて後悔せず」。
菊池寛さんは「我れ事」と呼んでいたが、「我が事」ではないか。
後悔などというおめでたい手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。
それは、今日まで自分が生きてきたことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、ということになるでしょう。
そこに行為の極意がある。そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるうようなものだ、とこの達人は言うのであります。」
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「武蔵は見ることについて、観見二つの見様があると言っている。
・・・・
見の目とは、常の目、普通の目の働き方である。
分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。
「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近付くとも、いか程も遠く見る目」だというのです。
「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。
言わば心眼です。見ようとする意が目をくもらせる。だから、見の目を弱く、観の目を強くせよと言う。」
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剣豪といわれる宮本武蔵にとって、見ることはそのまま考えることだっただろう。

たとえの言葉として「真剣勝負」と簡単に口にしてしまうけれど、ほんとうに「真剣」で向き合うことがない僕らには、その極限に研ぎ澄まされた一瞬という時間の持続性を感じることは少ない。
でも、きっと武蔵はそのことを言っている。

「後悔しない」ということは、瞬間瞬間で自分に言い訳をしないということ。自分に嘘をつかないということ。ごまかさないということ。正直に素直で生きる行為を持続させていくこと。そう容易いことではない。一瞬後には死んでいるかもしれない人間だから言えた言葉。


見た瞬間に斬られるような「真剣」勝負の中では、見ることは考えることになる必要がある。
そこで、思考と思考の間は死を意味する。そこにスペースはいらない。
その思考のスペースにこそ、自分自身の脳が真剣で真っ二つに引き裂かれているかもしれない。それが真剣勝負のRealityだろう。


思考作用が立ち上がる前に、逃げるか斬るか、考えないといけない。思考作用より前に生きるか死ぬかの分岐点がある。

そこでは自分の思考作用が持つ偏見やねつ造も死につながる。
自分のおごりとか傲慢とか高慢。相手へのみくびりや油断は、自分と相手との力量の差を見誤り、死につながる。
後悔しないという純化させた行為を持続させることが、「我が事に於いて後悔せず」へとつながる。極めて厳しい言葉だ。




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「文化の生産とは、自然と精神との立ち会いである。」
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「現実畏敬の念がない人には、決して現実は与えられない。」
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「科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と検証との間を非常な忍耐力を持って往ったり来たりするする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的なものの見方とか考え方とかいうものとは関係がないということです。そんなものは単なる言葉にすぎません。」
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「批判力とは判断力である、判断力とは未知の事物の衝撃による精神の弾性ではないか。」
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「人々の心は、自然の美しさから自然の正確さへ、自然との共感から自然の理解へとあわただしく走った。」
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科学は堕落した。
知らないことに謙虚になることを忘れ、自分が何者でもないことを忘れ、自然を「観る」ことを忘れた。
そして、自然を汚し、生活を損ない、人を不安に陥れ、不信感を膨らませ、溝をつくった。そこに距離ができて、相互不信が生まれた。


Egoが肥大すると、その肥大したEgoは「自然という概念」より大きく膨らんで行くから、Egoが「自然という概念」を包む込んだと錯覚し、誤解し、自然を支配し管理しようとする。でも、膨らんだEgoは、どうせあっけなく破裂する。


思考がねつ造した自然を見るのではなく、自然をほんとうに観る。観察する。
自分の偏見に満ちたEgoを捨てて、冷静に自然を観察する。

風、光、温度、音、水、花、木、虫、鳥、夜、・・・・・
花鳥風月。


科学は自然を観察し謙虚になるべきだ。
自然の美しさを観て、自然へ共感する科学へと。
そういうふうに自然を「観る」必要がある。





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「絵は、そういう糸口を通じて、諸君に、諸君は未だいっぺんも海や薔薇をほんとうに見たこともないのだ、と断言しているはずであります。
私は美学という一種の夢を言っているのではない。諸君の目の前にある絵は実際には、諸君の知覚の根本的革命を迫っているのであります。」
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「べルクソンは、拡大された知覚は、知覚と呼ぶよりむしろVisionと呼ぶべきものだというのです。
見るものと見られるものとの対立を突破して、かような対立を生む源に推参しようとする能力である。
・・・これを日本語にすれば、心眼とか観という言葉が、まずそれに近いと思います。」
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「自分自身と和することの出来ぬ心が、どうして他人と和する事ができようか。」
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「画は見る人の前に現存していれば足りるのだ。美は人を沈黙させます。」
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「芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だ、というパラドックスを体得した最大の詩人である。」
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「詩人は専門語など勝手に発明しやしない。日常の言語を使う。
永続する事を願う詩という「物」を作り上げるためには、こちらの考え一つではどうにもならぬ様な手ごたえある材料を欲するからです。
そこに文体の問題が否応なく現れる。文体を欠いた思想家は、思想という「物」に決して至る事はできませぬ。」
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ベルクソンが言う『見るものと見られるものとの対立を突破して、対立を生む源に推参しようとする』ことは、
自分の偏見と妄想に満ちたEgoを捨てて、自分が胎児や赤ん坊だったときに時間を逆行させて万物を観ること、に似ている。


そうすれば、自分自身と和することができる。
Egoは自己と他者を分離させようとするし、<自分が正しい>(=<自分以外は正しくない>)という強烈な偏見をエネルギーにして生きる存在だから(それはごくたまには必要だが、多くは不必要な状態だ。)、そのEgoの動きを冷静に「観察」して、観る。
そのとき、Egoにはきっと感情が付着している。
自分と感情とを同一視しようとする抗いがたい流れがあるけれど、その感情は自分ではない。自分の中に含まれるものだ。同じではない。
その感情の動きを冷静に「観察」して、観る。それはEgoの動きを観ることにつながる。


そうすれば、自分自身と和することができる。自分自身と和するから、他者と和することができる。

Egoは消える。
そうすれば、観ることは考えること。考えることは観ること。
観ることと考えることは和することができる。



そういう風に、小林秀雄の声が聞こえてくる。かみしめながら、読む。
読むことは考えること。考えることは読むこと。
書くことは考えること。考えることは書くこと。