今日は医学部の大学院の試験だった。
一夜漬けしようとしていたけど、疲れてすぐに寝てしまったので、
試験当日の朝に一朝漬けしようかと思ったけれど、朝のテレビでミシェラン京都版のをやっていたので、結局そちらを優先してしまった。
そんな感じで試験を受けてきた。とにかく疲れた。
明日は面接試験である。担当教授に言いたいことを言って帰ってくる予定。
大学受験時代の10年以上前の記憶がフラッシュバックのように蘇る。
すごく懐かしい。あの時代の記憶は何だのだろうというくらい、鮮烈な記憶として蘇る。
あの頃は、「学ぶ」世界にとりつかれた数年だった。
医者として臨床の最前線で馬車馬のように働きまくり、その果てにあるちょっとしたプラトー状態に達したおかげで(→階段の踊り場のような場所)、かくいう最近は医学の世界から少し離れた「学ぶ」世界にとりつかれている。
今度、竹内整一先生と「かなしみ」をテーマに3時間話しつくす予定なので、色々考えている。
「かなしみ」の近くには鋭いトゲがあって、考え始めるとすごく痛くなる。
でも、考えて考えていると、紙ヤスリで研いだようにトゲが丸みを帯びてくる。
「かなしみ」もザラザラした感触くらいに変質してくる。
そうなると、少し扱いやすくなる。
本居宣長の「もののあはれ」を考えている。
「あはれ」とは、「ああ」「はれ」という感嘆詞である。
「あはれ」とは声にならない感嘆のメロディーである。
それは感情の根っこ、深い深いところにある。暗くてよく見えない。
深い深い感情のところに潜って考えてみる。
その辺りは、ことばの根源にも近くなってくる。
いろんな根っこに近づく。
・・・・・・・・・・・
「もりかわ食堂」という食堂がある。
東大の本郷にあるので、自分が学生時代から通いつづけている。
看板に「東大生とともに明治から」という糸井さんばりのキャッチコピーが書かれている。
足かけ8年くらいになるが、あまりにウマすぎて、食堂の究極形だと自分は思っている。
ミシェランを「美味しい」世界だとすると、もりかわ食堂は「うまい」世界である。
どっちがいいとかではない。
同じ世界へ非日常から突っ込むか、日常から突っ込むかの違いである。
根っこは同じなのである。
もりかわ食堂で日替わり定食を食べると、感嘆の声が出る。
これは、「もののあはれ」に近いような気がしてくる。
そんな風に、ことばとか感情の根源を探りながら日々生活している。
もりかわ食堂を出るときに、かけられる言葉で好きな言葉がある。
それは、「毎度ありがとうございます」である。
「毎度」とは、今回もありがとう、前回もありがとう、前々回もありがとう、また来るときもありがとう。という言葉である。
毎度、ありがとう。
これは、とてもいい言葉だ。
言葉には魂がある。昔の人はコトダマ(言霊)と呼んだ。
言霊があるからなのか、「ありがとう」と言葉にしていると、本当に「ありがたい」状態へと自分が変質していく。
口から「ありがとう」と出て、次に耳から「ありがとう」と入る。そして脳を通過する。また口から・・・・ぐるぐるとループする。
脳は可塑性があって柔軟性があるから、「ありがとう」という「ことば」が日常的に通過していると、そういう状態へと脳が変質していく。
なんとなく科学的で分かりにくいから、「言霊」と言っちゃえば分かりやすい。だから、「言霊」と呼んでみた。
・・・・・
「かなしみ」を入り口に、やまとことばや、感情の奥深く光が当たらないところを覗いていると、日常にありふれた言葉に言霊があふれていることに気づく。つまり、言葉が生きているような気がしてくる。
言葉の生命のようなものに触れる瞬間、言葉の存在に気づくことでもある。
それは存在の神秘。
ハイデガーは人間とか自分の存在の神秘を追い求めたかもしれないけど、存在を人間界に限定しなくても、この世に存在する全てのものが存在していること自体、既に神秘である。
人間なんて、後から出てきた新参者である。
人間も含め、この世のあらゆるものが、確かにこの世に存在しているのは、本当に不思議で神秘的である。
それは、ことばも、感情も、もりかわ食堂も、ミシェランで選ばれた名店も同様である。
・・・・
特にオチはありません。モヤモヤと考え中です。
いつもこのダラダラした、とりたてて結論のないブログを読んでくださって、毎度ありがとうございます。
一夜漬けしようとしていたけど、疲れてすぐに寝てしまったので、
試験当日の朝に一朝漬けしようかと思ったけれど、朝のテレビでミシェラン京都版のをやっていたので、結局そちらを優先してしまった。
そんな感じで試験を受けてきた。とにかく疲れた。
明日は面接試験である。担当教授に言いたいことを言って帰ってくる予定。
大学受験時代の10年以上前の記憶がフラッシュバックのように蘇る。
すごく懐かしい。あの時代の記憶は何だのだろうというくらい、鮮烈な記憶として蘇る。
あの頃は、「学ぶ」世界にとりつかれた数年だった。
医者として臨床の最前線で馬車馬のように働きまくり、その果てにあるちょっとしたプラトー状態に達したおかげで(→階段の踊り場のような場所)、かくいう最近は医学の世界から少し離れた「学ぶ」世界にとりつかれている。
今度、竹内整一先生と「かなしみ」をテーマに3時間話しつくす予定なので、色々考えている。
「かなしみ」の近くには鋭いトゲがあって、考え始めるとすごく痛くなる。
でも、考えて考えていると、紙ヤスリで研いだようにトゲが丸みを帯びてくる。
「かなしみ」もザラザラした感触くらいに変質してくる。
そうなると、少し扱いやすくなる。
本居宣長の「もののあはれ」を考えている。
「あはれ」とは、「ああ」「はれ」という感嘆詞である。
「あはれ」とは声にならない感嘆のメロディーである。
それは感情の根っこ、深い深いところにある。暗くてよく見えない。
深い深い感情のところに潜って考えてみる。
その辺りは、ことばの根源にも近くなってくる。
いろんな根っこに近づく。
・・・・・・・・・・・
「もりかわ食堂」という食堂がある。
東大の本郷にあるので、自分が学生時代から通いつづけている。
看板に「東大生とともに明治から」という糸井さんばりのキャッチコピーが書かれている。
足かけ8年くらいになるが、あまりにウマすぎて、食堂の究極形だと自分は思っている。
ミシェランを「美味しい」世界だとすると、もりかわ食堂は「うまい」世界である。
どっちがいいとかではない。
同じ世界へ非日常から突っ込むか、日常から突っ込むかの違いである。
根っこは同じなのである。
もりかわ食堂で日替わり定食を食べると、感嘆の声が出る。
これは、「もののあはれ」に近いような気がしてくる。
そんな風に、ことばとか感情の根源を探りながら日々生活している。
もりかわ食堂を出るときに、かけられる言葉で好きな言葉がある。
それは、「毎度ありがとうございます」である。
「毎度」とは、今回もありがとう、前回もありがとう、前々回もありがとう、また来るときもありがとう。という言葉である。
毎度、ありがとう。
これは、とてもいい言葉だ。
言葉には魂がある。昔の人はコトダマ(言霊)と呼んだ。
言霊があるからなのか、「ありがとう」と言葉にしていると、本当に「ありがたい」状態へと自分が変質していく。
口から「ありがとう」と出て、次に耳から「ありがとう」と入る。そして脳を通過する。また口から・・・・ぐるぐるとループする。
脳は可塑性があって柔軟性があるから、「ありがとう」という「ことば」が日常的に通過していると、そういう状態へと脳が変質していく。
なんとなく科学的で分かりにくいから、「言霊」と言っちゃえば分かりやすい。だから、「言霊」と呼んでみた。
・・・・・
「かなしみ」を入り口に、やまとことばや、感情の奥深く光が当たらないところを覗いていると、日常にありふれた言葉に言霊があふれていることに気づく。つまり、言葉が生きているような気がしてくる。
言葉の生命のようなものに触れる瞬間、言葉の存在に気づくことでもある。
それは存在の神秘。
ハイデガーは人間とか自分の存在の神秘を追い求めたかもしれないけど、存在を人間界に限定しなくても、この世に存在する全てのものが存在していること自体、既に神秘である。
人間なんて、後から出てきた新参者である。
人間も含め、この世のあらゆるものが、確かにこの世に存在しているのは、本当に不思議で神秘的である。
それは、ことばも、感情も、もりかわ食堂も、ミシェランで選ばれた名店も同様である。
・・・・
特にオチはありません。モヤモヤと考え中です。
いつもこのダラダラした、とりたてて結論のないブログを読んでくださって、毎度ありがとうございます。
実は私も将棋が好きなので、今日は竜王戦を見て名勝負を堪能しました。将棋のプレーヤーが発する言葉は「お願いします」と「負けました」だけですね。しかし指し手で深く深く語り合っているのだろうなあ、と感嘆しました。
もちろん、言葉は実際に伝えなければ意味がありません。買い物をするとどの店でも「ありがとうございました」と言いますが、きっとそのもりかわ食堂の人は、心から言っているのでしょうね。
>竹内整一先生と「かなしみ」をテーマに3時間話しつくす予定
これも気になりました。何かのイベントなのでしょうか?
大学院進学後は、学生と医者の二足のわらじになりますね。完全に学生ではなくて、基本的に東大病院で患者さんを見ながら診療しているので、悪く言えばどっちつかず、良く言えばあわいの領域なのです。
ああ、僕も高校時代将棋部でした。もう全然やりませんけど、ふとNHKで将棋やってて、将棋盤に駒が置いてあるのを見ると、無意識で見てしまいます。はまったときやりすぎたせいで、もう完全に意識の世界ではなくて無意識の層にまで浸食しています。
確かに、「お願いします」と「負けました」だけですね。
将棋始める前は、「王手!」とか言うのかと思ってましたけど(笑)、実際の将棋は静寂そのものですよね。駒を盤に打つ音がピシャピシャ聞こえるだけです。
言葉には限界があることを理解しているうえで言葉で言うことと、最初から言葉で表現することを放棄することは全然違いますよね。
表現者が『言葉では表現できない』ということがありますが、もちろんよく分かるのですが、それを言い訳のように、スケープゴートのように使うときがあって、そのときは、この言葉は嫌いです。「良さが分からないのはアナタの感性のせいでしょ。言葉では説明できないものを説明できるのが分からないの?」みたいな見下した態度を感じる芸術やアートと称するものには、嫌悪感を感じちゃいますね。
それは、医療問題でのヒューマニズムが、悪用されるときと同じような嫌悪感です。
竹内整一先生と話すのは、僕がクローズドの会を設定して話す予定なのです。一般的なシンポジウムではなくて、集中的に深く掘り下げて周りのみんなと共に話し込む予定です。興味ない人を無理に誘っても意味がないので、竹内先生にほんとに興味ある影響うけた人同士で。ご興味あれば右のメッセージのところから連絡先いただければ、御連絡しますのでおっしゃってください。