日常

「無」から見ること

2009-06-14 12:27:53 | 考え
最近、「無」というものを考えている。
そして、ふとしたニュースを聞いた。


■盲目のピアニスト

第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで、盲目のピアニスト辻井さんが優勝された。
なんとなく暗いニュースが多い中で、僕らの時代を明るく照らしてくれる記事である。
ほんとうに、おめでとう!そしてありがとう!と声を大にして言いたい。

盲目の人だとか、優勝したとか、そんな知識を知る前に、テレビで流れているピアノの音をふと聞いた。
何故か作業を止めて聞き入った。
そして、何故か涙が出た。


ピアノを聞いて涙が出たのは、フジ子・ヘミングさんのピアノを30センチくらいの超近距離で聞かせてもらった時いたとき以来だと思う。
(当時、家庭教師先のお母さんが直接の知り合いで、そんな縁で特別に真近で聞く機会があったのです。)


なぜ泣けたのか、なぜ涙が出てきたのかを考えてみた。



それは、正反対の視点からこの世界を見ている人の、過去の哀しみのような音色が聞こえてきたからなのだとわかった。



■波動しての音

音は音波である。
ある振幅を持ち、空気の中をゆらぎながら波として自分に伝播してくる。
音はそんな波動である。


そんな音波が幾重にも重なり合いながら、無限に変化をしながら、自分の脳髄に響いてくる。
一生を生きている中で、きっと厳密な意味での同じ音は二度と聞かないんだと思う。
それくらい、波としての音は無限の変化をしていると思うし、ミクロレベルでの微細な知覚の揺れ幅があるのだと思う。



嬉しいとか哀しいとか楽しいとか切ないとか。
そんな感情は数値化できないし、いくら科学が発達しても説明できないと思う。
そんな科学で越えられない壁を、音楽はいとも容易く乗り越える。


科学が人間の感情や情緒などにおいて無力なのは、科学が方法論的な限界を持っているからだと思う。
その理由は科学が「有」からの発想・視点で積み上げられた世界だからである。


・・・・・・・・
話を元に戻す。

辻井さんは盲目の人である。視覚情報に頼らず生きている。

盲目という状態は、僕ら「有」の発想に満ち満ちた世界においては、「喪失」や「障害」の状態として教え込まれる。
盲目は、「視覚能力を喪失し、障害された」状態であると、世間は完全に思い込んでしまっている。

そんな世界で青春を生きざるを得なかった人。
その生きざまの根底に「哀しみ」があるから、「哀しみ」が根付いた音色になる。
それは、僕ら誰もが抱える、何らかの「哀しみ」を呼び覚ます。
呼応してくるのです。


ただ、彼の音色を聴きながら同時に思ったことがある。
それは、盲目を「有からの喪失・障害」として位置付けられてしまった世界から、彼はもう抜け出ていて、別の世界から音色を奏でているんだとも感じた。



それは、「無」からの視点を中心に据える世界である。
「有」からの視点と180度違う方向から、この世界を見ることである。



■「有」から

「無」からの発想をわかりやすく説明しよう。

「有」からの発想とは、真の実在や物事の根源のようなものを、「形あるもの」として捉える。
「無」からの発想とは、真の実在や物事の根源のようなものを、「形ないもの」として捉える。

視点が逆なので、世界も正反対に見える。



「有」からの発想は、遥か彼方のどこかに、理性で到達できない永遠不滅の真理の世界があるとされる。そこに真の実在があるものとして世界が作られる。
それは、西洋では神の概念へと形を変える。
神が全ての根源であり、森羅万象を作ったのだと。

そうなると、僕は尋ねたくなる。
「じゃあ、神を作った神の神がいるのではないか?更にその上の神の神の神がいるのではないか?更にその上が・・・・?」と。

だから、プラトンが言うような「善のイデア」は、最高のイデアであってそれ以上のものを想定することは禁じられる。
(*イデアとは最高度に抽象的な完全不滅のもので、感覚的事物はその影であるとする。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界とされている。)


神の概念もそうだろう。神の神を求めてはいけない。
宇宙を作ったのは神なのであって、その神の神とかは聞いてはならんことになっている。
だから、僕はそこで問いを諦める。



そんな「有」の世界においては、
「無」は「有」の否定として、そんな否定的なものとして捉えられる。

「無」を意味する「nothing」は、「no thing」であり、「somethingではないもの」であり、「not anything」として表現される。



■「無」から

「無」からの発想は、どうだろうか。

「有」からの発想と逆に、全てのものは形がなく、そこにこそ真の実在があると考える。

そんな形がない「無」から、形ある「有」が生み出され、そんな「無」こそが全ての根源であると考える。

「無」からの発想では、神の神の神の・・・・と、永遠に積み上げて、根源的な創造主を考える必要はない。

なぜなら、すべては「無」からできているのだから。



それは、空を見ていると、何もなかった「無」からいつのまにか「有」としての雲ができて、その「有る」雲も、いづれ形がなくなり「無」になる。
そんなことと同じである。



「有」からの発想のように、ある永遠不滅で自分が越えられない「神」のような概念を立て、その教義と僕らが契約するという発想ではなく、
「無」からの発想は、各々が自分の内面を深めていくことに近いのかもしれない。


誰もが、身の回りにある様々なものをきっかけに、自分を深めることができる。
それは自然全てにカミサマが宿るアニミズムの発想と近いかもしれない。
全てのものにカミサマを見出し、そこから自分を深める。

そして、自分を深めるか深めないかは完全に自分次第であって、さらに自分の周りを形づくる他者次第であって、全ては僕らに委ねられ、任されている。
罰もない。



「有」からの発想と、「無」からの発想では、そっくりそのまま世界が反転するのだと思う。



■そして現代

科学は、そして今の時代はどうであろうか。

今は、「有」からの発想で全てが捉えられていると感じる。
だから、盲目の人は「障害者」とカテゴライズされる。

そんな「障害者」が優勝したんだからすごいね。努力したんだね。
との文脈で語られてしまう。


ただ、僕ははっきり言って、逆なんだと思う。

「無」からの発想では、盲目の人がより根源の状態であると考える。
そこから、視覚能力という「有」が付くことがある。
しかし、その能力は実は一長一短でもある。


視覚能力は、「見えるものは見えるけど、見えないものを見えなく」する!




盲目の人は視覚情報に頼ることができないからこそ、誰かに頼って生きることを決断する。
そんな「絶対他力」の生き方は、自意識過剰には陥らない。
自分だけの努力で成功を掴んだなどとは思わない。
そんな自意識過剰の世界とは真逆から、この世界を見ている。



絶対他力の視点からは、他者との縁により絶対的な受け身の状態として自己が捉えられる。
他者との縁の運動の結果としての流動的な自己だから、自己なんて「無い」とアッサリ考えることができる。
自己に執着しない。


これは、以前自分が考えたことと同じだ。
「有限の自己を捨て、無限の他者へ。」(2009-04-20)



科学は、「客観的」な「自分の外」の世界に、世界の真実が「有る」と考えて「永遠の真理」を追究する。
近代的な社会は、そんな考えの延長で形作られた。


僕は、今正反対のことを考えている。
「客観的」・「主観的」や、「自分の外」・「自分の内」も、単なる便宜上の方便に過ぎない。
言葉で説明する時に認識しやすいように使う、一時的な方便に過ぎない。

「外」に「世界の真実が有る」のではなくて、
「無い」ものから全ての「有る」が生まれてくるように、
全ては「内も外も無い」「自分も他者も無い」、そんな「何も無い」場所から、一時的に「有る」ものとして、一時的に形を表すに過ぎない。



生と死の関係もそうかもしれない。
生が「有る」で、死が「無い」のアナロジーと考えると、腑に落ちることがある。
「生」からの視点、「有る」からの視点にとらわれすぎている。


自分自身が、かたち「無い」ものと納得できれば、自分はすべてを包み込むことができることに気づく。

例えると、風呂敷のように一定の形がないものは、丸でも四角でも三角でも円柱でも三角錐でも、何でも包める。
それぞれの対象に合わせて、風呂敷が一時的に形づくられるからだ。

それに対して、ある一定の規格化された形を持つ容器やバッグは、それに合わせたものしか入れることができない。
そうやって、自分に合わせて取捨選択をしてえり好みをせざるを得ないんだけど、それ自体に気づいてないことが多いんだと思うのです。




■視点が代わると世界が代わる(変わる)

盲目のピアニスト辻井さんが優勝したというニュースは、
<「障害者」(?)が、苦労して努力して、「健常者」(?)に打ち勝って栄冠を掴んだ。>
という、そんな陳腐なサクセスストーリーとして、表面的に月並みに報道されて、一過性に忘れられててしまうかもしれない。


ただ、僕はそこにはっきりと「未来」を見る。


「有る」からの発想ではなく、「無い」からの発想。
「自己」の根底に、「他者への愛」に基づく「絶対他力」な発想。
そんな「自己」と「他者」、「自己」と「世界」の関係性。


そんな「絶対他力」で自己を委ねる相手も、同じ視点から世界を見ている相手でないといけない。
そうしないと、大きな自意識過剰の人の中に、自己を無くして委ねることになるからだ。
そうなると、入れ子状に自意識過剰になってしまっているのである。

そこがカルト宗教の危険性だと思うし、そこに注意しないと容易に間違える。




今は、真逆のものが支配的な世界だから、彼らの音楽からは哀しみも聞こえてきてしまうのだろう。
この真逆の原理で動いている社会で、生きていくことや順応していくことは、物理的にかなりの困難を生じただろうと思える。

自分も、医療の分野で生老病死を扱う人間として、そんな現状を何度も見てきた。
そして、無力を感じ、途方に暮れた。


いじめられたり、不当に扱われたり、そんな目に見えない色んな過去の時間が、「哀しみ」としてピアノの音色から聞こえてきたんだと思う。

でも、それと同時に、そこを抜け出た人だからこそ出せる音が聞こえてきた。
そして、そこを抜けた先にこそ、僕らが作っていく明るい未来も見えた。


そんな哀しみが根底に流れていて、その上で未来につながるものを感じたから、何故か泣けてしまったんだと思うのです。


(この後、「鏡を通して世界と出会う。」(2009-06-15)という文章も第二部として書きましたので、併せてお読みください。)