プロジェクト大山の踊りを見てきた。
(→神楽坂にある「セッションハウス」にて)
相変わらず素晴らしかった!
プロジェクト大山の踊りからは、常に「何らかの未来性」を感じる。
「何らかの未来性」というのは、数十年後か数百年後かの未来の時代に、きっと大切にされるであろう概念に対しての、何か前兆のようなもの。
現段階では、まだ万人に分かるように顕在化していないので、前兆や予感としてモヤモヤとしか感じることができないけど、きっと何かあるような予感だけは感じれる。
自分が、「スゴイ!イイ!」と思っているのは間違いないけど、何故自分がそう思うかが、なかなか言語化できないでいるから、そう思ってしまう。
まだ自分の感覚がそこに追い付いていなくて、まだ自分の言語世界の範疇に入ってきてないだけなんだと思う。
言語の前に、まだ感覚としてだけ感じれる状態。
自分の言語感覚を磨く必要がありそうだと、改めて思う。
どういう印象だったかは、以前ここ(→『よい踊りを見た。そして、感じ、思ったこと。』(2008-11-24))やココ(→『横浜ダンスコレクション』(2009-02-06))に書いているので省略。
自分の中でのKeyWordは、
# 部分と全体の調和、そして時に不調和
# 彼方に連れて行ってくれる感じ
# ユーモア
# 日常の動作と踊り
こんな感じかなぁ。
海とか雲とかを見るときのような、どこにも視点を集中させずにボーッと全体を見るような雰囲気で、僕はプロジェクト大山のダンスを見たし、そういう感じだと思う。
一緒に見に行ったマキさんやレイコさんとかと踊り鑑賞後に話したりもして、そこからさらに『踊りの原点』について個人的に勝手に考えてみた。
■祭祀と踊り
人は何故踊るようになったのか。
古代では、「祭祀」が踊りのメイン舞台であったと思う。
そして、「祭祀」とは、基本的には目に見えない精霊のようなものとの対話を意味していたんだと思う。
何かを食べることで、日々自分が生き続けることができる。
当たり前に日々生きていること自体に、感謝の意味を込めて踊っていたのではなかろうか。
祭祀のとき、夜通しで集団で踊ることで、時間を超え、自意識を超えたような境地に入っていたんだと思う。
そこで、自意識が肉体を超えたような気がしたんだと思う。
それは生や死の瞬間のような、不可思議な意識混濁状態のようなもの。
そんな状態で、大自然に生きている目に見えない精霊たちと対話した。
そんな儀式が踊りの起源だったんじゃないかと類推する。
■意味の世界で縛られること
僕らの肉体の動きは、何かの目的のために動く。
そんな合目的な動きで満ち満ちている。
物をとる、ドアを開ける、パソコンを打つ・・・・
そんな風に、何かの目的のために肉体を動かす日常でガンジガラメに縛られている。ただ、それ自体を意識することがない。
踊ることの本質は、そんな目的から解き放たれ、無目的に肉体を動かすことで、精神の自由を獲得しようとしているのではないかと、ふと思う。
日々、僕らは何かの目的に合わせて生活しているし、その目的に合わせて肉体を動かす。
そういう風に、何らかの意味がないと肉体を動かさなくなる。
そして、日々の日常が『意味』という言葉で満たされ、その呪縛に捉われる。
■意味の世界へ、一陣の風が吹く
踊りは、そんな『意味』で満たされた不自由な世界から自分を解放する安全弁のような働きがあるのかもしれない。
そうだとすれば、『踊り』自体は特別なダンサーで閉じられた高尚な世界ではなくて、目的もない意味不明な肉体の動きの連なりが、既に『踊り』の原点だと考えてもいいのではなかろうか。
そういう風に『踊り』は日常に開かれているものではなかろうか。
部分、部分では意味のない肉体の動きでも、何かしらの一本の糸で全体を貫き、部分から全体性を織り成していけば、いわゆる「芸術」のような洗練されたものへ昇華できるのかもしれない。
そして、その全体性を織り成す一本の糸は、振り付け家の人間性そのものであったり、踊り手で作られる「場」そのものであるのかもしれない。
僕らは意味の世界に縛られている。
常に意味があることをしないといけないような思いに捉われているし、
何かの目的に沿った仕事や行動を取るように習慣づけられる。
そして、それを24時間、365日、絶え間なく続けないといけない気がしてくる。
この世は、果たしてそんなに意味があるものばかりで成立しているのだろうか。
森羅万象の意味を、僕らが全て説明できるだろうか。
「意味の王国」で自分が閉じられると窒息しそうになるから、「意味を必要としない王国」との窓を定期的に開けて換気しないといけないのだろう。
そんな風に、僕らが知らぬ間に住んでいる「意味で縛られた世界」へ、一陣の風として吹いてくるのが、プロジェクト大山の踊りだと思った。
踊りの原点は、そんな風に意味を超えた世界から吹いてくる、気持ちいい一陣の風のようなもかもしれない。
意味に縛られず生きること、目的に縛られず生きること。
なんか聞いたことある。
そう、これは「徒然草」(卜部兼良=吉田兼好)の世界観と同じ!
プロジェクト大山は、現代の徒然草(踊り版)と言ったとこかもしれない。
(徒然草に関しては、『『徒然草』(卜部兼好)を複数で輪読して』(2009-05-25)で書いてたりします。)
・・・・・・
僕らは、目に見える世界に引きずられる。
視覚情報に多大な影響を受ける。
世界を歪曲して自分に都合よく作りかえることがある。
そして、錯覚するし、錯覚していることさえ気づかないことがある。
古代の原始的な世界で生きていた人は、イマ、ココに生きている不思議さや、自分の実存への不思議さ、自分が存在し続けていることの不思議さ、そんな意味を超えた不思議な世界自体に畏敬と感謝の念を持っていて、単に思うだけではなく、踊りという行為で他者と呼応しあいながら世界に表現してきたのかもしれない。
プロジェクト大山の踊りもそうだけれど、自分の心をわし掴みにする「芸術」は、自分が当たり前だと思って疑いすらしない、自分で作った意味の世界の楼閣を強く揺さぶる。
暗くなっていた自分の足元に光を当てて、改めて見つめさせてくれる。
そして、自分で深く深く考えることに気づかせてくれる。
そんな風に、自分の中に一陣の風が吹いてきて、すごく心地よい何かを実感したんです。
プロジェクト大山の踊りを通して、そんなことをふと感じました。
(→神楽坂にある「セッションハウス」にて)
相変わらず素晴らしかった!
プロジェクト大山の踊りからは、常に「何らかの未来性」を感じる。
「何らかの未来性」というのは、数十年後か数百年後かの未来の時代に、きっと大切にされるであろう概念に対しての、何か前兆のようなもの。
現段階では、まだ万人に分かるように顕在化していないので、前兆や予感としてモヤモヤとしか感じることができないけど、きっと何かあるような予感だけは感じれる。
自分が、「スゴイ!イイ!」と思っているのは間違いないけど、何故自分がそう思うかが、なかなか言語化できないでいるから、そう思ってしまう。
まだ自分の感覚がそこに追い付いていなくて、まだ自分の言語世界の範疇に入ってきてないだけなんだと思う。
言語の前に、まだ感覚としてだけ感じれる状態。
自分の言語感覚を磨く必要がありそうだと、改めて思う。
どういう印象だったかは、以前ここ(→『よい踊りを見た。そして、感じ、思ったこと。』(2008-11-24))やココ(→『横浜ダンスコレクション』(2009-02-06))に書いているので省略。
自分の中でのKeyWordは、
# 部分と全体の調和、そして時に不調和
# 彼方に連れて行ってくれる感じ
# ユーモア
# 日常の動作と踊り
こんな感じかなぁ。
海とか雲とかを見るときのような、どこにも視点を集中させずにボーッと全体を見るような雰囲気で、僕はプロジェクト大山のダンスを見たし、そういう感じだと思う。
一緒に見に行ったマキさんやレイコさんとかと踊り鑑賞後に話したりもして、そこからさらに『踊りの原点』について個人的に勝手に考えてみた。
■祭祀と踊り
人は何故踊るようになったのか。
古代では、「祭祀」が踊りのメイン舞台であったと思う。
そして、「祭祀」とは、基本的には目に見えない精霊のようなものとの対話を意味していたんだと思う。
何かを食べることで、日々自分が生き続けることができる。
当たり前に日々生きていること自体に、感謝の意味を込めて踊っていたのではなかろうか。
祭祀のとき、夜通しで集団で踊ることで、時間を超え、自意識を超えたような境地に入っていたんだと思う。
そこで、自意識が肉体を超えたような気がしたんだと思う。
それは生や死の瞬間のような、不可思議な意識混濁状態のようなもの。
そんな状態で、大自然に生きている目に見えない精霊たちと対話した。
そんな儀式が踊りの起源だったんじゃないかと類推する。
■意味の世界で縛られること
僕らの肉体の動きは、何かの目的のために動く。
そんな合目的な動きで満ち満ちている。
物をとる、ドアを開ける、パソコンを打つ・・・・
そんな風に、何かの目的のために肉体を動かす日常でガンジガラメに縛られている。ただ、それ自体を意識することがない。
踊ることの本質は、そんな目的から解き放たれ、無目的に肉体を動かすことで、精神の自由を獲得しようとしているのではないかと、ふと思う。
日々、僕らは何かの目的に合わせて生活しているし、その目的に合わせて肉体を動かす。
そういう風に、何らかの意味がないと肉体を動かさなくなる。
そして、日々の日常が『意味』という言葉で満たされ、その呪縛に捉われる。
■意味の世界へ、一陣の風が吹く
踊りは、そんな『意味』で満たされた不自由な世界から自分を解放する安全弁のような働きがあるのかもしれない。
そうだとすれば、『踊り』自体は特別なダンサーで閉じられた高尚な世界ではなくて、目的もない意味不明な肉体の動きの連なりが、既に『踊り』の原点だと考えてもいいのではなかろうか。
そういう風に『踊り』は日常に開かれているものではなかろうか。
部分、部分では意味のない肉体の動きでも、何かしらの一本の糸で全体を貫き、部分から全体性を織り成していけば、いわゆる「芸術」のような洗練されたものへ昇華できるのかもしれない。
そして、その全体性を織り成す一本の糸は、振り付け家の人間性そのものであったり、踊り手で作られる「場」そのものであるのかもしれない。
僕らは意味の世界に縛られている。
常に意味があることをしないといけないような思いに捉われているし、
何かの目的に沿った仕事や行動を取るように習慣づけられる。
そして、それを24時間、365日、絶え間なく続けないといけない気がしてくる。
この世は、果たしてそんなに意味があるものばかりで成立しているのだろうか。
森羅万象の意味を、僕らが全て説明できるだろうか。
「意味の王国」で自分が閉じられると窒息しそうになるから、「意味を必要としない王国」との窓を定期的に開けて換気しないといけないのだろう。
そんな風に、僕らが知らぬ間に住んでいる「意味で縛られた世界」へ、一陣の風として吹いてくるのが、プロジェクト大山の踊りだと思った。
踊りの原点は、そんな風に意味を超えた世界から吹いてくる、気持ちいい一陣の風のようなもかもしれない。
意味に縛られず生きること、目的に縛られず生きること。
なんか聞いたことある。
そう、これは「徒然草」(卜部兼良=吉田兼好)の世界観と同じ!
プロジェクト大山は、現代の徒然草(踊り版)と言ったとこかもしれない。
(徒然草に関しては、『『徒然草』(卜部兼好)を複数で輪読して』(2009-05-25)で書いてたりします。)
・・・・・・
僕らは、目に見える世界に引きずられる。
視覚情報に多大な影響を受ける。
世界を歪曲して自分に都合よく作りかえることがある。
そして、錯覚するし、錯覚していることさえ気づかないことがある。
古代の原始的な世界で生きていた人は、イマ、ココに生きている不思議さや、自分の実存への不思議さ、自分が存在し続けていることの不思議さ、そんな意味を超えた不思議な世界自体に畏敬と感謝の念を持っていて、単に思うだけではなく、踊りという行為で他者と呼応しあいながら世界に表現してきたのかもしれない。
プロジェクト大山の踊りもそうだけれど、自分の心をわし掴みにする「芸術」は、自分が当たり前だと思って疑いすらしない、自分で作った意味の世界の楼閣を強く揺さぶる。
暗くなっていた自分の足元に光を当てて、改めて見つめさせてくれる。
そして、自分で深く深く考えることに気づかせてくれる。
そんな風に、自分の中に一陣の風が吹いてきて、すごく心地よい何かを実感したんです。
プロジェクト大山の踊りを通して、そんなことをふと感じました。
いやあ、本当に感動しました。
あれは、やっぱり言葉で表現しがたいけれども「確実に良いもの」だと思うので、なんにせよあの場に連れて行ってくれてありがとう。
あの後いろいろと考えてみました。
とても斬新でジャンル分類はできないような新しい表現にもかかわらず、懐かしさや心地よさ、いつまでも見ていたいと思わせるような癒しの力を持っていたのは、見ていた私を自然と開かせてくれる力があったからなのではないかなと思いました。それも力づくではなく、自然と。
あの踊りを最も適切に一言で表現する語彙が、私にはまったくないのが悔やまれますが、これはとにかく生を一目見てほしい!というのが感想です。(←小学生のような感想でごめんあそばせ)
いやあ~よかった!
ちょい前に書いた、『イイものをイイと言うこと』ですな!
本当に新奇なものとか、びっくりするようなものって、なかなか言語化できない。
でも、そんなときに沈黙するのはよくないと思うのですね。
まず、『イイものをイイと言うこと』。
ここから始まる。
そして、そのあと何十年もかけて謎を解いていけばいいと思うのですよね。
未来が誰にも分んないのと同じで、
ある日突然降ってわいたように分るときがくるかもしれない。
そのとき、なんか天から降ってきたような気がしちゃうかもしれないけど。
僕は『イイものをイイと言うこと』という形で、間違いなく過去に記した点が、
そこでつながって線として意識されただけなんだと思いますね。
だから、僕は『イイものをイイと言うこと』という形で、
未来への自分に点として残したい。
Makiさんが『懐かしさ』を感じたってのは、
僕はMakiさんの同じような過去の点と現在で出会って、
そこに一陣の過去の風が吹いたことで、『懐かしさ』として感じたのではなかろうか。
村上春樹の『1Q84』を読み終わって色々妄想していただけに、
そんな過去や現在の入り乱れを感じてしまいます。
とにかく、また踊り見に行こう!
Is君も、<フラリと踊りを見に行ってみる同好会>の会員ですから。笑
きっと過去に同じ体験というか感動をきっとしていて、それがリフレインされたことで『懐かしい』という感想になったのだと思う。
プロジェクト大山の方々との出会いは、「今」でとてもよかったと思う。と同時に、また数十年たったときにこれをどう感じるかというのもとても楽しみ。
それにしても、全く新規のジャンルをここまで恐怖感などなく思いっきり受け入れられるのって、そうないと思います。
最近では、『いいものをいいという』ために、自分自身がアンテナを張り巡らせていることはもちろんだけど、とても信頼している人が「いい」というものとは積極的に会いに行く、というのもとても大事なことだと思っています。
ぜひともまた、お声かけてくださいな~~
それから、『1Q84』、読むまで絶対としくんの最新の記事は読まないようにしておきます!!
また読み切ったらぜひ感想を!
「好きな人の好きなものは、きっと自分も好きなもの」だと思うのです。
そんなわけでMakiさんの好きなものも随時教えてね!
それは、ドーナツの輪のように他者によって自己が規定しているとするならば、
ある人を知るためにはその人が愛している他者を知るのが最もわかりやすいからです。
プロジェクト大山の古家さんが、大駱駝艦、黒沢美香&ダンサーズ、コンドルズの踊りは好きみたいなので、
今度これも見に行かない?かなり濃い踊りだと思う。
まあ、いわゆる前衛的な踊りっていうと、こういうのをイメージするっていう感じの踊りかもしれんね。
『1Q84』、はっきり言ってほとんど感想書いてないけどね笑。
でも、わしは深いレベルで人間の『実存』の問題を書こうとしていると、直感的に感じたから書いたのです。
また読み切ったらぜひ感想を! ま、なかなか感想もいいにくい作品だと思うけど。
エロの描写も結構どぎついからねー。あの本が100万部も売れるっていうのが不思議だよー。
本当に行きたかった!!!!!!
いなばさん、れいこちゃん、まきさんのブログの感想を読んで、追体験したけれど、なんか今まさに自分に必要なのは、このタイプの踊り、舞、地面をたたきつけ、飛び跳ねるような躍動感が感じたいのに!だぁーー
と、本当に悔やまれますが、稲葉さんのコメントにこれまた刺激を受けました。
「夜通しで集団で踊ることで、時間を超え、自意識を超えたような境地に入っていたんだと思う。」
そう、そう。もう意識を超えている感じ。ただただ体が動く、祭り太鼓のようなシンプルな音に合わせて、地を蹴る大地を踏み鳴らす音に合わせて。そういった太古の昔から存在する人間の営み。
9年前の卒業旅行で、インドネシアのバリ島のウブドという場所でケチャを見たけど、炎の明かりだけで老いも若いも躍るケチャは本当に神秘的で原始的で、それでいて異様さは全くなく、自分もその祭りと一体になった感じを受けました。そういう、意識を超えたレベルで肌で感じられる一体感。その神秘を素晴らしいものと思う。
きっと、プロジェクト大山にはなんらかの感じるものがあったように思うから、本当に残念。。。
あと、「僕らは意味の世界に縛られている。」この言葉がキーワードになって、自分の中が揺さぶられ始めました。そう、確実にそうなっている。呪縛の中にいるよう。自分で自分を違うほうに追い込んでいるのかもしれないけれど、なんか・・・・ね。
次回のダンスこそは!ぜひ行きたいので、また誘ってくださいな。
ともこさん
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
いやーともこさんだったら、きっと飛び回って喜んでたと思うんだよねー。絶対好きだと思うもの。
わしもHPとかでちょこちょこチェックしてるんで、次の公演があるときは誘うねー。
でも、ほんと一期一会で、それは音楽のコンサートとかもそうなんだろうけど、こういうのに出かけていかないといかんなーって強く思いましたよ。毎日仕事に埋没していると、基本的に仕事は仕事として閉じていく傾向にあるからね。
僕らのような医療業界は、専門分化が激しいし、閉じていく方向性は凄まじいから、日々痛感しておりますよ。
バリ島にいったんだー!
あそこも踊りとか祭祀とかいいらしいよねー。
俺も最近は民俗学とか先住民とかに強く惹かれていて、こんなに世界が文明化されても現在も残っている、人間の原始的な姿というものに激しく興味を持っています。
そして、僕ら医療の世界は、間違いなくそんな世界から多くのものを得る必要があるんだと思っていますね。
医療も、数百年前まではオカルトだったし、魔術だったし、そんな医療の歴史と、人間の生死の物語に興味があるのです!
「意味」って、妙に磁場が強いんだよね。
「それ、やって意味があるの!」みたいな言説がすごく多いし、意味がないとダメみたいなのが当たり前のように浸透している。
でも、意味なんて僕は後付けだと思う。
僕らが納得して安定するための、閉じて安定するための言葉なんだと思う。
意味にこだわらないことっていうのは、自分を意味の世界から開くこと。
意味から抜け出すと、すごく楽になる。
自分のきゅう覚や本能を一番大事にすればいいんだと思えるしね。
もちろん、次もまた誘いまっせー。次回こそは一緒に行けるといいねー。