日常

上田紀行「ダライ・ラマとの対話」

2012-09-17 09:43:41 | 
上田紀行さんの「ダライ・ラマとの対話」講談社文庫 (2010/5/14)を読みました。


ダライ・ラマ(Dalai Lama)とはチベット仏教のトップにして、チベット元首でもあるお方。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされています。
ダライ・ラマという名前は代々受け継がれていて、今は14世(テンジン・ギャツォ)。
ダライ・ラマが亡くなった時は、チベット全土から僅かな情報を元に魂が輪廻した化身としての子供を探し出して次の代表を決めます。チベットでは輪廻転生(生まれ変わり、reincarnation(the wheel of life,samsara))が当たり前なわけですね。


そういえば。
生まれ変わりと言えば、森田健さんが書いた「生まれ変わりの村 1-3」(河出書房新社)を元にした映画「スープ」というのも最近上映していましたね。上映期間が短かったので見逃しましたが、DVDで是非見たい。
この森田健さんの本は、中国のある村で前世の記憶を覚えている人たちばかりが住んでいる村のお話。その村人の話によると、三途の川のようなものを渡る手前でスープのような液体を飲まされるのですが、それを飲むと前世の記憶が失われるらしい。ただ、そこの住民はその仕組みを知っている人ばかりなので、あえてそのスープを飲まない人が多い。その結果、多くの村民が前世の記憶を保持している、という中国に実在する村のお話。 
この辺りは、人間の根源に関わる深いテーマだとも思います。日本人は「生まれ変わり」をなんとなく信じている人が多いとされますが、その「生まれ変わり」のメカニズムとなるとなかなか難しい。人間の肉体以外の魂の存在や、死んだらどうなるか、生まれる前はなんなのか・・・いろんな現象を少ない事例から冷静に考察する必要があるわけですが(自分はそれなりに考えをまとめていますが、図示しながらじゃないとそう簡単には説明できない・・・・)、今の科学ではその辺りは「非科学的」(?)と一蹴されてしまい残念なとこです。すごく面白くてすごく大事なテーマだと思うんですけどね・・・。



ところで。今のダライ・ラマは1935年生まれなので今は77歳とご高齢ですが、震災後は石巻に慰霊法要でも来られましたね(2011/04/29「東日本大震災特別慰霊法要」2011/11/5「ダライ・ラマ法王石巻慰霊法要(日本語字幕付)」

『セブンイヤーズ・イン・チベット』(1997年・アメリカ、主演:ブラッド・ピット)という映画がありますが、若き日のダライ・ラマ14世とアイガー初登頂をした登山家ハインリヒ・ハラーとの交流を描いた、ハラーの自伝的映画です。





ということで、そんなダイライ・ラマ14世と、文化人類学者、上田紀行さんとの対談「ダライ・ラマとの対話」講談社文庫 (2010/5/14)の中で、印象に残った部分をメモ書き。


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<内容(「BOOK」データベースより)>
「利他的な社会はあり得るか」「私たちの人生において一番大切なもの」
「怒りは悪か」「心の科学としての仏教」「慈悲の実践」「愛と執着の区別」
「利己主義と自己嫌悪」「他者依存と悟り」…。
仏教を、宗教として、というよりも、より良く生きるための「智慧」「哲学」として学びたい人へ、激しくも熱い対論集。

<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より>
上田/紀行
1958年東京生まれ。文化人類学者。東京工業大学大学院准教授(社会理工学研究科、価値システム専攻。
86年より、スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後、「癒し」の観点を最も早くから提示する。
著書『生きる意味』(岩波新書)は、2006年度大学入試で出題率第1位になるなど、その日本社会変革への提言は大きな注目を集めている。
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日本の寺には憤怒相の不動明王が祀られていますが、これは衆生の間違いを諭すために、思いやりから「怒り」を表現しているのです。
心の底に慈悲の心を持っていて、そういった心の動機によって「怒り」を方便として使うということです。

心の動機が相手への嫌悪で、その嫌悪感を「怒り」という形で表現してアクションを起こすと、それは破壊的な行為となります。これはネガティブな行いです。
しかし、相手を思いやるがゆえに、相手への愛と思いやりを心の動機として「怒り」のような何らかの行為をなすことは、許されるよき行為となります。
原因の段階における心の在り方が問題なのです。
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→なんでも、その人の「真心」が大事ですよね。
結果がある程度失敗しても、それが「真心」や「良心」に基づくものであれば、それは肯定されうると思います。
ただ、それは究極的にはその人にしか分からないものなので、自己正当化含め、究極的にその人個人の良心や真心そのものの問題というところにも戻ってきますが・・・。



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捨てるべき執着とは、偏見に基づいている欲望のことです。
しかし、偏見のない心が持つ価値ある欲望は、捨てるべき執着ではありません。
つまり、仏教において執着をなくすということは、偏見に基づいた欲望をなくすという意味であり、価値あるよき欲望は私たちにとって必要なものなので、それらは滅すべきではないのです。
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釈尊も、知識だけたくさん持っていても、自分の心がまったく鎮められていなければ何にもならない、ということをはっきりおっしゃっています。
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自分の師から何らかの教えを受けるとき、それを単なる知識的なレベルにとどめるのではなくて、実際にそれを自分の心のなかに取り入れて、自分の心の流れを鎮めていくことに使わなければいけません。
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→知識を他者にひけらかすために使うのではなく、あくまでも自分の心のために使う。
仏教では、常に自分の足で歩いて独り立ちをする自立の道を教えられているような気がします。
そういう風にして嘘や偽物やフェイクから「目覚める」(ブッダは目覚めた人、という意味)ことを求められるんだと思います。



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釈尊の教えは二つのレベルからなる。
それは智慧と方便の二つで、言い換えればそれは世界の原理の理解、そして実際にとるべき行動、という二つのレベルである。
そして、智慧とは縁起の見解、すなわち「空(クウ)」の理解であり、方便とは非暴力の行い、すなわち慈悲の実践を指す。

「空(クウ)」とは、すべてのものはそれ自体の側から存在しているのではなく(無自性)、すべてのものは因と条件に依存して生じたものを概念化しただけの存在である(縁起)、ということです。
縁起に基づく「空(クウ)」の意味を理解すると、生きとし生けるすべてのものたちが得ている苦しみの根本には「無明(むみょう)」の心が存在していること、そしてその「無明」は滅することが可能であるということを理解できるようになるのです。
「無明」とはまさにすべての物事が「空」であること、相互依存していることを理解していないことですから、「空」の見解を強くか確信すればするほど、「無明」の心はその力を失っていくことがわかります。
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智慧は「空(クウ)」、縁起を理解すること。
つまり、全てはつながり、関連性があるということ。これはこの世の善だけでなく悪も含め、光だけでなく闇も影も含め、全ては関連しあって相互に依存しあった関係性を持っている。その事に自覚的であれ、ということだと思います。
それぞれの対象物に惑わされるのではなく、その間にある目に見えない関係性(=縁起)をこそ見つめないといけないんだと。

方便は非暴力の行い、それは内的な「怒り」を外的な形で行動化しないこと、だと思いますね。
それはあくまでも抑制する、などと言った抑圧の方向性ではなくて、「怒り」や「暴力性」を生む自分の根拠や源泉を見つめて観察して見据えることかな、と思います。そうすると、それは自然治癒の力で消えていくもので。
そうして、慈悲(キリスト教で言うと「無償の愛」でしょうか)を、観念だけではなく何らかの形で実践することが求められるのでしょう。



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人生において最も大切なものは、人間の深いレベルにある人間的な価値であり、慈悲深い友人たちなのですが、そのことが認識されなくなっています。
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スリランカの悪魔祓いの儀式では、踊りあり笑いありの、村人たちが一体となった徹夜の儀式によって病んだ人は癒されていきます。
そして、大変興味深いのは、スリランカの義とたちが「孤独な人に悪魔が憑く」と考えていることです。そして、「孤独な人に悪魔のまなざしがくる」というのです。
ですから、悪魔祓いは村人一体となって患者をサポートし、一緒に場を共有し、笑い合うことで、孤独を病んでいる人に村人のあたたかさ、思いやりに満ちたまなざしを回復させる場でもあるわけです。
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精神神経免疫学によると、私たちが互いに協力的で他者と信頼で結ばれ、受け入れられている状態、つまり愛と慈悲に満ちているような状態では、私たちの免疫能力はたいへん高まった状態にあるとのことです。
逆に、免疫力や自己治癒力が最大に低下するのは、孤独感と無力感が重なった時だというのです。
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内なる価値は薬や注射や機械によっても作り出せません。
唯一の方法は、私たち自身が内なる価値、人間のよき資質がいかに大切なものであるかを認識し、自分自身がそれをはぐくみ、高めていくように努力をすることなのです。
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→その人の内なる価値は、独立したものではなくて、人間的なつながりの中で得られていく。
そのことはその人個人の治癒力や生命力を産み出す源にもなる。

今の医療は「病気になったらやっつける」という、ある意味で暴力的な思想に基づいていますが、むしろ「病気(病人)にならない」「病気が併存していても、それはそれとして尊重して、全体として調和的な状態を保つ」という、調和的な発想を主眼にしていく時代に入っていると思いますね。
「病気」という観念が「病人」という人格を作り出すようなもので。
それは治療する側と治療される側との場が作り出す相互依存的なもので、それぞれがある種の役割を演じてしまう。病人という役割を演じることで、「病人」という存在に自己同一化していき、いづれ「病人」そのものの存在が生み出されるようなもので。
どんなに「病気」があっても健康で元気な人はたくさんいます。「病人」に思えない人は、「病人」に自己同一化してないんだと思います。それは、「老人」でもなんでもそうですが・・。



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菩提心というのは単なる知識ではなく、自分の心に備わるべき資質(mental quality)なのです。
「何をするにしてもそれが菩提心に伴われていなければ、ただ単に真言を多く唱えたりしても、蛇に生まれ変わってしまう」という言葉もあります。
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釈尊は、誰かに依存するということではなく、究極的にはあなた自身がブッダとなるべきであるということを説かれているのです。
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→まあ要するに。つべこべ理屈で考えずに、自我を捨てて直観で、利他的に慈悲と無償の愛を持って頑張りなさい、ってことですかね。笑


ダライ・ラマ法王の本は、深いことを書いてあるのにいつもシンプルで分かりやすく、こういう人を本当に智慧のある人なんだな、といつも感銘を受けます。
この本は昔買っていたのですが、なんとなくその辺に置いてあったのを読みだしたら一気に読んでしまいました。
互いのキャッチボールがうまくいってる対談って、自分もその場でLIVEで聞いているようで楽しく読めます。
そういうLIVE感っていうのは、まさしくLive(Life)ってことなんでしょうね。他にも色々読みたい。

2 コメント

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化身 (amyjumy)
2012-09-19 10:45:53
不動明王が大日如来の化身で
閻魔大王が地蔵菩薩の化身と知った時
大変嬉しかったのを思い出しました。

一人の中の父性と母性のようだなと思います。

元々の気持ちの発生のところに“愛”があるといいなと思いつつ・・・
実践は実に困難ですが(目の前の同居人に対し、それが子供相手だろうが・・・内心しょっちゅうプリプリする私(^_^;)情けない)
目指したい境地です。

読書して智慧を拝借し、実践!
それが何より大事。
目の前のこと、慈しんで・・・ですね(^^♪


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修行の日々 (いなば)
2012-09-19 19:58:11
>>>amyjumy様
不動明王が大日如来の化身、閻魔大王が地蔵菩薩の化身。
確かにそのようですね。
お地蔵さんっていう存在は、なんとなく見かけていますが、あの世とこの世の橋渡しをする存在だと聞いてから、また見る目が変わりました。

そうですね。いろんな物事も、最終的に“愛”のことを語っていると感じます。
ただ、それが執着やエゴの言い訳としても使われることがあるから、仏教では愛をあまりいい意味では使わず、その代わりに慈悲という言葉にしたんだと思いますね。仏陀は生きることは基本は苦しいんだ、のように、初期設定をマイナスに設定して、そこから知恵を獲得して目覚めていく、というプロセスを重視していると感じますが、慈悲というのも、<いつくしみ>と<かなしみ>ですし、なんだか日本人の心性にあっているような気もします。

実践は実に困難ですね。ほんとそうです。
自分も仕事相手にイライラしたり、ムッとしたりするとき、一日の終りには自己嫌悪になりますねぇ。まだまだ修行が足りないと日々痛感しております。今生の修行はすべてが修行ですね。
読書もそのひとつ。仕事を言い訳にして「忙しい忙しい」と自分をダメにするマントラを唱えないように注意しつつ、日々内的世界を深めるためにも読書時間は作りたいものです。とか言いつつ、今週土曜にある学会発表の準備と、来週水曜が締め切りの抄録作成に追われてますが・・・(^^;

ダライ・ラマ師も年内に一度東京に来られるようですが、平日にあわただしいスケジュールらしく、講演なども機器に行けなさそうで残念です・・・・
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