日常

小原田泰久「木村さんのリンゴ」

2013-10-01 21:25:51 | 
小原田泰久さんの「木村さんのリンゴ」学研パブリッシング (2013/6/4)を読みました。

木村さん関連本。固め読み真っ最中です。(^^


木村秋則「すべては宇宙の采配」(2013-09-26)
山崎隆「奇跡のりんごスープ物語」(2013-09-20)



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<内容紹介>
世界で初めて無農薬のリンゴ栽培に成功した木村秋則さんは臨死体験のほか、UFOや異星人、幽霊と遭遇したりと、不思議な体験をしている。
木村さん曰く、すべては自分にとって真実だという。
農業も人生も、本当に大切なことは目に見えないと教えてくれる。
<著者略歴>
小原田泰久
1957年、三重県に生まれる。名古屋工業大学卒業。
1988年、中国旅行中に気功と出あったことをきっかけに、気や癒しの世界を取材し、執筆活動を展開。
イルカ好きが集まる「イルカの学校」を主宰し、御蔵島や小笠原へのドルフィンスイムツアーを企画している。
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目次
第1章 芽
 ―次に歩いてくる人に、いい道をつくってあげたいのな
 木村さんの後ろにつづく長い行列
 奇跡のリンゴが岡山を変えた ほか
第2章 種
 ―今の人間、自然から離れてしまっているのだと思うな
 ジャガイモを植えるときは、切り口が下向き?
 無農薬栽培を開始、リンゴ全滅の大ピンチ 
第3章 花
 ―あれ、私が会った宇宙人とそっくりなのな
 宇宙人に遭遇、UFOに連れ込まれる!
 ローマ法王に米を食べさせた人物との出会い
第4章 実
 ―笑顔にまさる宝物なし、だな
 月の裏側には地球人が住みついている!?
 自然栽培、UFO、宇宙人が常識になる日 
第5章 再び、種
 ―願い事をしたのは、あのときだけな
 九死に一生、木村さんを助けたものは?
 棚から落ちてきた本で無農薬栽培を知る 
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この本は、実際の木村さんの発言を口語体で紹介してくれている。だからとても親しみやすく親近感がわきます。





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「冬にさあ、雪道を歩いたことがありますか。除雪も何もしていない深い道。
ひざまで雪に埋まって歩くのな。道なき道な。
雪のないところなら5分もあれば着くけど、10メートル歩いては休み、また進むという歩き方だから、30分以上かかる。

でも、最初に歩いた人が道をつければ、2番目、3番目は楽に歩けるものな。
私はよお、次に歩いてくる人のためにも、いい道をつくってあげたいのな。
私の失敗は、次の人たちの答えだと思っている。
こういうことをすると失敗するという答えなのな。
すべてが順調にいったら、自分が鼻高々になってしまうしな。」
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冬山登山でも「ラッセル」というのがある。雪の中に最初に道を作ること。

最初に道を作る人は危険も伴う。大変な行為だ。道を歩く人は、誰かがつくった道だと気づかないけど、道は必ず誰かが作っている。
すべての道は、最初からそこにあったわけではなく、誰かが作った道でもある。
そういうことに敬意を持ちたいと思う。


もちろん。あまりに色んな人が歩いた道が、常識として君臨してしまうと、そこから少し道を外れるだけで落伍者の烙印を押されてしまう事もある。
そういう時は、木村さんのように新しい道を作り出す人になればいい。
もちろん、言うのは簡単だけれど実行するのは難しい。
だからこそ木村さんを尊敬する。






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「ある養豚場で驚いたのは子豚に尻尾がないことな、生まれるとすぐ切ってしまうんだってな。
豚、30頭くらいが、ひとつの柵の中に入っている。小学校の教室みたいだな。
そこでいじめがある。みんなで餌を食わせないのな。
仲間はずれにされた子豚は、食べられないから、やせ衰えて死んでしまう。

尻尾を何故切るかというと、豚はストレスを発散するのに尻尾をかじるのな。
それで最初から尻尾を切っている。かじる尻尾がないから、今度は耳をかじったりするんだそうだ。

昔、豚は8カ月で肉屋さんに出荷していた。今は2ヶ月半。
食べる前に太るのを助長する化学物質を入れている。
強いものだけを早く大きくし、弱いものは淘汰する。

死んだ子豚、一輪車に乗せて償却場に運ぶんだよ。あれ見ていると、人間社会の縮図に見えてきたな。
豚も、食べ物を変えると変わるんだよ。
尻尾かじりはなくなる。」
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こういう話には素直に驚いた。
こういう内輪の話を聞くと、それぞれの人が色んなことを感じるはずだと思う。
どんなジャンルでも、内部では当たり前になっていることが多い。
内部では常識でも外部では非常識に感じることもあるものだ。
やはり、どんなものでも透明性や風通し、というのが大事なのだと思う。
普通の素人の人の目から見ておかしい、と思うことは、やはりおかしいことが多いのだ。







ミカンの腐敗実験の話。

農薬・肥料を使った普通の栽培のミカンはカビてくる。
自然栽培だとしぼむだけ。皮はしぼんでも中はみずみずしい。

水膨れで大きくなったのは腐って行く。きちんと細胞分裂して大きくなったのは、しぼんでいって、最後は枯れて行く。

つまり、自然天然で育ったものは腐らず、枯れる、というのが自然のプロセスらしい。






「買ってくれる人の顔を浮かべながら栽培するのが百姓だよ。」





「葉っぱが教えてくれること。」
を聞いて驚いた!!


葉脈を見れば樹木全体のデザインが分かると!


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「葉脈をよく見ると、何に見える?
まるで木のような形をしているんじゃないかって、私は思ったのよ」
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樹木を剪定する時、葉脈と樹木全体をよく見比べて、葉脈にない枝を落としていくとのこと。

この発見はすごい!

西洋医学と違い、東洋医学でも、生命体は部分に全体が宿っていると考える。
手のひらでも、中指が首から頭、人差し指と薬指が両手。親指と小指が両足。手のひらが腹部。手の甲が背中と対応している、と考える。

足裏マッサージのリフレクソロジーや官足法でも、足の裏に人体が対応しているとする。
手相にはその人の運命や性格がデータとして記録されているとする。
手のツボも人体と対応しているし、
耳たぶは、胎児が逆さに寝ているものを現すとする。
目の虹彩を人体と当てはめる光彩学(Iridology)もある。














・・・・・・・



自然界はそうした入れ子構造になっているのを古代の人は直感したはずだ。
そこから、人体をミクロコスモス(小宇宙)と見る発想も生まれる。

全体を知るために部分へと分割する。ただ、バラバラにしたままでは元も事もない。
その部分が全体を反映する、ということで元に戻る必要がある。
そうした部分と全体の精妙な関係性は、自然に沿っているようだ。

実際、すべての細胞にDNAという設計図が情報として格納されているが、それは人体の部分でありながら人体全体のデータを丸ごと保存している。道理にもあっていると思う。






ダイズを引き抜くと、茎から枝が出て葉がついている形が葉脈とそっくりの形をしている。
さらに驚いたことに、根っこも葉脈と同じ形で伸びている。
という発見はすごい。

先入観なく自然を観察した人にしかわからない発見だと思う。
上だけではなく下も見る。
見える世界だけではなく見えない世界も見る。



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(小原田さん)
農業はきつくて泥まみれになるばかりではなく、クリエティブな部分がいっぱいあるということを教えてくれる話である。
農業というのは、本来命を扱う仕事だ。
医療と同じくらい重要なものなのに、今は、底辺の仕事のように思われてしまっている。
その理由は、多くの農家が生命の神秘に目を向けないところにあるのではないかと思ったりする。
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肥料や農薬は本来の育ち方を狂わせる。
その狂いは、やがて葉脈にも出てくる、木村さんの畑の大豆は葉脈が左右対称に広がっているが、通常栽培の大豆は左右がアンバランスになっている。
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葉脈と社会構造。葉脈の細い所は1次産業。木全体で言うと葉っぱ。
ここが栄えてないと植物は木が枯れる。木を支えているのは枝葉。枝葉を大事にしないといけない。
葉脈のように木のように、社会構造、経済を構築していったら、すべて豊かになる。
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作者の小原田さんの記載に納得。同感。

農業は「いのち」を支える重要なジャンルだ。
現代の我々が農業をどうとらえているかということが、生命をどうとらえているか、ということと相似形でつながると思う。

抗生物質や点滴などの対症療法から、自然治癒を生かした根本治療へと移る必要がある。
それは同じ「いのち」を扱う医療が行くべき未来ともぴったり重なる。





ジャガイモを植えるとき、通常では切り口を下にする。木村さんは逆だという。

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「ジャガイモは種イモから芽が出ると、その首のところにつくのな。
切り口を下にすると、種イモの上にジャガイモができるから、お日様があたらないように土をかけるわけだ。
しかし、切り口を上にすると、ジャガイモは、種イモの下とか横につくのな。
だから土をかけなくてもいいのな。」
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常識そのものを疑うことが、大きな進展につながる。






木村さんはよく「虚栄心を捨てろ」と言っている。

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「夏の暑い日、地面の温度を計ってみたのな。
草が生えているところは、外気温が28‐29度あっても18‐24度の間だったのな。
でも、草を刈ったところは30度もあった。
これではリンゴの木もさぞかし暑いだろうと思ったのな。

人間は暑ければ日陰へ移れるけどな。リンゴの木は移動できないものな。
もし、自分がリンゴの木だったら、草が生えていた方が涼しくてありがいな。」
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「リンゴの木に触れながら声をかけていると、風もないのに小枝がふっとゆれたりしてな。
リンゴの木が「わかったよ、わかったよ」と言ってくれているように感じたな」
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「虚栄心は捨てたつもりだったけど、捨てきれなかったんだろうな。
申し訳なかったけどよお、隣の畑との境にあった木には声をかけなかったのな。
82本あった。それは全部枯れてしまってさあ。
かわいそうなことをしたな。私の虚栄心のせいだな。」
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「部分だけではなく全体を見る」ことの重要性。


アブラムシの天敵はテントウ虫とされる。
暇な時、テントウムシを観察したが、アブラムシを1日で7‐8匹しか食べないのでおかしいと思う。
そして、アブラムシの本当の天敵は小さなハエのような昆虫であることに気付く。

このハエは、ハマキムシやシャクトリムシの体に卵をうみつける。
幼虫が孵化すると、自分の宿主になっているハマキムシやシャクトリムシを食べる。
次の段階として。幼虫はアブラムシを餌にして成長していく。

虫を細かく観察していると、畑の中では驚くほど精密な自然の法則が成り立っている事を木村さんは観察するのだ。



害虫と益虫の関係も同じ。それは相対的なもの。

自然の中では、すべての命が継続的に生き続けているようコントロールされているようだ。

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(小原田さん)
自然というのは、無駄なものはつくらないと言う事だろう。
人間が勝手に、害虫、益虫というレッテルを貼っているだけでのことで、どんな虫にも役割がある。
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「ひょっとしたら、虫たちは、人間が土に自然じゃないものを与えるから集まってくるんじゃないかと思うのな。
虫は、それを排除しようと思っているんじゃないかってな。

人為的に肥料をあげた作物は早く腐るのな。
腐りやすいものは、人間にとってもいいはずがない。
害虫が、そういう作物を食べるのは、人が食べてはいけないものを食べてくれているんじゃないかって思ったりするのな。」
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木村説を取れば、害虫への憎しみや嫌悪が感謝に変わる。
物事は考え方次第だ。意識の転換が起きると見える風景も変わる。







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「私はよぉ、自分がダイコンだったら、ニンジンだったらと、置き換えて考えるのな。
そうすると、これはやっちゃいけないことだ、こうしてあげればいいということが分かってくるのな。
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こういう基本的なことから。





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(小原田さん)
木村さんの体験は、そういった世の中に警鐘を鳴らす物である。
少しでもよい方向に世の中を向けられるかどうかは、「見えないもの」をいかに大切にするかという意識改革にかかっている。
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人間を肉体(個人意識)、心(地球意識)、魂(宇宙意識)と分けて考えてみることで、僕の中では自然栽培のことも、宇宙人の事も、徐徐に整理されてきた。
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医療の世界では、自然療法があるとき広がりを見せたが、それぞれが「自分の方法がいちばんだ」と、自己主張をすることでによって広がりが阻害されてきた。
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自分の主義主張にこだわりすぎないよう、常に変化と進化を求めて。




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「いろいろと足を引っ張られる事もあるでしょう。そんなときはどうするんですか?」
「宗教かぶれとかな、気が狂っているとか、いわれたな。小バカにするようなことを言う人もいるよ。
でもな、批判をするということは、興味があるということな。そういう人は、味方になってくれる人でもあるのな。
私はよぉ、笑顔だと思うのな。
いつも笑顔でいると腹も立たないしよぉ。
相手もな、批判したのに笑顔だったらな、自分の器が小さかったなぁって、そう思うんでないか。
笑顔にまさる宝物なし、だな。」
そういうと、歯のない口を大きく開けて、再興の笑い顔を見せてくれた。
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仏教でいう「和顔愛語」。
手持ちに何もなくても、お金もなくても、笑顔で正しい言葉を使うことは最高の布施であるとのこと。

美輪さんも「すべてに通用する通行手形は微笑みです」と言っていたのを思い出す。








作者の小原田さんが最後に述べている4ポイント。

・農業と医療は薬に頼らなくなる、
・環境やエネルギーの問題を解決する
・異種間コミュニケーションができる
・宇宙とのつながりが強くなる

これは確かにそうだな、と思いました。


苦労して苦労して苦労し続けて、絶対に不可能とされた無農薬リンゴ栽培をされた木村さんだからこそ、一つ一つの言葉が深くて重い。それでいて、ユーモアと軽みがある。松尾芭蕉のようですね。

木村さんから学ぶこと、多いなー。(^^


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ふと、大天才の大学者である井筒俊彦先生が、松尾芭蕉を論じた文章を思い出してしまいました。
ここからは関係ないけど、松尾芭蕉を論じた(ついでにリルケやマラルメの詩人も)井筒俊彦の名文をご紹介。


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井筒俊彦「意識と本質」より


イスラム哲学の術語に、「本質」は二つある。
マーヒーヤとフウィーヤである。

マーヒーヤは、普遍的(一般的)本質であり、自己同一性を規定する。
フウィーヤは、個別的(特殊的)本質であり、一切の言語化と概念化を峻拒する。
両者は共に存在者の「本質」である。あらゆる事物には、この二つの次元の異なる「本質」が認められる。


『松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ』と門弟に教えた芭蕉は、
『本質』論の見地からすれば、事物の普遍的『本質』、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。
だが、この普遍的『本質』を普遍的実在のままではなく、個物の個別的実在性として直感すべきことを彼は説いた。

言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。
マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成する瞬間がある。
この『本質』の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。
俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。


一々の存在者をしてそのものたらしめているマーヒーヤを、芭蕉は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。
千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は悟った。

「本情」とは、個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本質」だ。
内在するといっても、花は花という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層に露わに見える普遍者ではない。
事物の存在深層に隠れた「本質」である。
 

・・・・・・・

主体客体が二極分裂し、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶ。
この存在表層を越えた、認識論的二極分裂以前の根源的存在次元が、芭蕉の見た存在深層である。 

このように、本来的に存在深層にひそむ「本情」は、表層意識では絶対に捉えられない。
つまり、普通の形での「・・・・の意識」の「・・・・」にはにはなりえない。「・・・・の意識」とは、二極分裂的自我意識だからである。

モノの「本情」に直接触れるためには、「・・・・の意識」そのものの内的機構に、ある根本的な変質が起こらなければならない。
この変質を、芭蕉は一見すこぶる簡単な言葉で表現する。
「私意をはなれる」と。
私意を離れて、つまり二極分裂的でない主体としてモノを見るのだ。


このような方向に自己を絶えず美的に修練していくことが、すなわち芭蕉のいわゆる「をのれが心をせめて、物の実(まこと)しる事」(『許六離別ノ詞』)だった。
芭蕉のいわゆる「風雅の誠」である。


・・・・・・・・・・・


この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れる。
普遍者が、瞬間的に自己を感覚化するのだ。

そして、この感覚的なものが、その時、その場におけるそのモノの個体的リアリティなのである。
人とモノとの、ただ一回かぎりの、緊迫した実存的邂逅の場(フィールド)のなかで、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。
だが、すべては一瞬の出来事にすぎない。

だから、「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」。
「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならない。 


・・・・・・・・・・・


芭蕉は、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認める。
ただ、マーヒーヤをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉えようとする。
存在の真相をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直観しようとする。


これに対して、同じく存在の真相を探る詩人でも、個別存在者のフウィーヤだけに意識の焦点を合わせ、ひたすらその方向に存在の真相を追求していく人もいる。リルケのように。
この型の詩人にとっては、マーヒーヤは始めから概念的虚構であって、なんら実在性をもたない。
リルケの「即物的直視」は、ただ事物の個体的リアリティを、その究極的個体性において直視するにとどまる。
芭蕉とリルケは、「即物直視」を事とする詩人の二つの型だ。

これとは別に、同じく存在の意識体験的な真相開明に執拗な情熱を抱きながらも、一切の「即物的直視」を排除し、マーヒーヤをそのイデア的純粋性においてのみ直視しようとする詩人もいる。そのきわめて顕著な例はマラルメだ。
マラルメのようなイデア追求型の詩人の普遍的直感は、哲学の領域では、普遍的「本質」の実在論に直結するのである。

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井筒先生の文章が素晴らしく美しいので長くなった・・・。(^^;


木村さんのポエジーは、松尾芭蕉のポエジーに通じます。

マーヒーヤ(普遍的(一般的)本質)が、フウィーヤ(個別的(特殊的)本質)へと次元転換する。
『本質』が普遍から個別へと次元転換する微妙な瞬間を、お二人は正確にとらえていると思うのです。
「自然」という精妙な全体性を言語で切り取るときに、そういう出来事が起きているようです。

2 コメント

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 (いなば)
2013-10-03 17:21:30
>>まーこさん
名前と人格の関係、確かにそうですね!
まーこさんも、最初「サイバー(cyber)まーこ」かと思いました。電脳少女ですね。笑

自分も<稲の葉っぱ>なので、確かに<稲>のキーワードには反応しちゃいますね。

自然農法をアルゼンチンで15年以上実践している友人も素敵ですね!
自然と共生していくというのはなかなか大変ですよね。自分も山に入るたびに思います。ただ、そうして考えると、近代はなんと仕事を人工的に増やし続けた世界なんだろう、とも思います。本来はなかった不必要としか思えない仕事がどんどん増えて、そのせいで自然に沿った生き方をする時間がないとしたら、なんとなく本末転倒のような。科学技術も、人間に時間を与えるために生み出されたもののはずですが、結果的にはそれに振り回されているわけで。。。。WWOOF(ウーフ)の自然農法ネットワークともいいつながりがあるといいですねー。

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片山洋次郎さんの「整体。共鳴から始まる」は素晴らしく刺激的ですよね!
→片山洋次郎「整体。共鳴から始まる」(2012-09-26)
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/bbf0d7bc3aa77d85ef954d1f43a42615


野口晴哉先生のが「野口整体」を現代社会にうまく応用している方だと思いますね。さすがに、昔はこういう電脳時代が来て電磁波が飛び交う世界になるとは夢にも思わなかったでしょうしね。

自我が強いと社会には適応しやすいですが(社会は強い自我を持つ集団で成立していますし)、他の人と「気」という曖昧なものを媒体にして共鳴することは難しくなります。「気」で共鳴していく事は、有る程度自我を柔らかくして自我と他者の境界を曖昧にして共鳴・共振していかないといけないわけですからね。
本来は、その二つの世界を一つ上の次元から見るような視点を持っていかないといけないんでしょうが、今は対立概念のようなものになってしまっている。 だから、気で共鳴しやすい人はこの社会では行きにくいし、学校生活も集団生活も都会生活も馴染みにくい。それでいて、その人たちが「場の調整」という大きい仕事を影でやっていることに気付かないので、そういう人たちへの敬意もなくなってしまう。これは残念なことです。
その矛盾を良くも悪くも大きく反映しているのは教育界と医学界なのかな、と思いますね。

だからこそ、そういうジャンルにいる人が、真剣に伝えて行かないといけないものだと思います。その時にいい補助線になるのが「気」という概念だと思います。


僕らが無意識に「気」を使う言葉を当り前のように使っていますし、誰もが潜在意識では理解している言葉でもあると思いますよね。


「気」っていうのは不思議なコトバです。
「非科学的」な感じですが、日常用語で毎日のように使います。
いろんな言葉の中に顔出します。神出鬼没です。

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気が合う、気がある、気がいい、気が移る、気が多い、気が大きい、気が置けない、気が重い、気が利く、気が差す、気が知れない、気が進まない、気が済む、気がする、気が急く、気がそがれる、気が高ぶる、気が立つ、気が小さい、気が散る、気が付く、気が詰まる、気が強い、気が遠くなる、気が通る、気が咎める、気がない、気が長い、気が抜ける、気が乗る、気が早い、気が張る、気が晴れる、気が引ける、気が触れる、気が減る、気が変になる、気が紛れる、気が回る、気が短い、気が向く、気が滅入る、気が揉める、気が弱い、気が若い、気で気を病む、気に入る、気に掛かる、気に掛ける、気に食わない、気に障る、気にする、気に留める、気になる、気に病む、気も漫ろ、気を失う、気を移す、気を落とす、気を利かせる、気を配る、気を遣う、気を尽くす、気を付ける、気を取られる、気を取り直す、気を抜く、気を呑まれる、気を吐く、気を張る、気を引く、気を回す、気を持たせる、気を揉む、気を許す、気を良くする、気を悪くする、気合いを入れる、気負う、気後れ、気落ち、気配り、気概、気掛り、気兼ね、気軽い、気変り、気位、気苦労、気絶、気忙しい、気違い、気詰り、気取り、気に入り、気の毒、気晴し、気味悪い、気品、気風、元気、やる気、短気、内気、・・・・・
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片山さんにある「気」の説明も分かりやすいです。腑に落ちる感じがあります。

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「気」とは、心身のあいだ、体内諸器官のあいだ、人と人のあいだ、人と環境のあいだに響きあう何か。
「気が合う」のは意識や意図以前に互いに「合って」しまうもので、「気が付く」のも思わず自然発生的に立ち現れるものであり、「気持ちいい」も心持のことであり、身体そのものの気持ちいいとしか言いようのない感覚でもあり、居場所(環境)そのものの気分の良さでもある。

意識‐身体‐環境のどこかに主体があるとも言えるし、どこにも主体がないとも言えます。
この身体の内側から湧き上がり、のびのびと何か(=気)が世界に広がることが、深く息をしているということであり、安心感そのものであり、良く生きることそのものでもあります。
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この辺りをどんどん開拓しながら、みんなで共有していけば、人間の意識も変わって行くと思いますね。というか、実際変わってきていると思います。

実際、木村さんがおっしゃっている内容ともシンクロする気がしますし。
植物や農作物や細菌たちと、気を通じ合わせる事ができれば、いいわけですからね。


社会の中で、あっという間に喫煙席がなくなって、公共空間では禁煙が増えましたよね?驚くようなスピードで変化した。もう気付かないくらいになりました。昔は飛行機も電車も喫茶店も、タバコぷかぷか吸うのが普通だったのに、今ではほとんど想像できない。
おそらく、時代が変わるときはそんな感じで急速にかわると思います。それだけ潜在的に変化するのとを求めている人が多い分野であればなおさらですね。

今後とも楽しくやっていきましょー(^^
返信する
稲葉の葉 (まーこ)
2013-10-02 11:46:20
こんにちは!
ふふふ、木村さんブーム続いてますね。稲葉さんの深~い記事に、浅~いコメントで恐縮ですが、それぞれの人の生き方や興味や職業が、名に表れてることって多いなあ(当社比)と思うのですが、どうでしょうか?漢字も、木、火、土、金、水の五行に大別できる・・・ことが多いですよね。(ざっくりしててすみません・汗)
名前の漢字が持つ性質に、人が引っ張られるってことは多少なりともあるのではないかと。

木村秋則さんも、村で木を育てて秋にりんごが実る・・・みたいな見事なお名前だし、「星出」さんは宇宙飛行士だし、木彫りに夢中な私の旧姓は「林」だし、「太(ふとし)」という名の肥満児を二人知っています(笑)。そして、稲葉さんが「まつり」の時に、葉っぱを出して「葉脈は設計図」の話をしてた時も、「稲葉さんが葉をね・・・ふふふ…(またまたエビデンスゲット)」とほくそ笑んでおりました。

ところで、前にお話した、福岡正信さんの自然農法をアルゼンチンで15年以上実践している友達(時子ちゃんって言います。旦那サマの名前は時雄。彼らの名にも何かある!)に、WWOOF [ ウーフ ] について伝えました。ありがとうございました。良いご縁があるといいな~。彼らも実にストイックに自然と共生している人々なので、そろそろ宇宙人のご招待があると思われます。
彼らの農場のサイトです↓

時子ちゃんと時雄さんのサイト
「のうじょう真人」
http://nojomallin.web.fc2.com/


2011年に、TVで取り上げられたことがありますが、その時の映像。農場の雰囲気が見られます。(番組の前半だけ、アップしてあるみたいです。)

ボルゾンの日本人 その1

http://www.youtube.com/watch?v=LjOp24S5Kkg


ところで☆
片山洋次郎先生の本、おススメありがとうございました!実はもう買ってありますが、まだ読んでいませんでした。(他にも、「身体にきく」と「骨盤にきく」も持っていますが、買っただけで安心して未読!笑)
稲葉さんが抜粋してくださった文を読んだだけで、体にビリビリ電流が走りました。
息子について、ぼんやりと思っていたことがバッチリ書いてある!読まなきゃー!
稲葉さんが、本のソムリエだということは知っていましたが、アラート機能も搭載だったんですね。ありがとうございました!


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よく生きるためには、「息が詰まる」「気疲れ」するような閉鎖的で硬直した同調を強いるような場ではなく、「乗り降り自由」「出入り自由」のゆるやかで開かれた共鳴の場が必要です。
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本当にそうですね(握りこぶし)!
しかし現在学校という場は、『閉鎖的で硬直した同調を強いる』場合がほとんど。
この状況が、もう無理だと思います。




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後で経験的に分かってきたのだが、言語を持たない子供たち(自己を強く持たない、自己が希薄)は、みな気的コミュニケーション(共鳴力)を持っている。実はその子達によって気的世界に招き入れられたのだ。
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役に立つ、自己主張がある、という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。
気的コミュニケーションは誰でも意識下に行っていることなのだが、それは自己を強く持とうとしたり、人を支配しようとするほど弱くなり、自己を希薄にするほど強くなる。
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共鳴関係(ゆるやかな間合い)はエネルギーの発散を促し、緊張関係(緊密な間合い)はエネルギーの集中を促す。
生きるということは不断のエネルギーの集中(緊張)を必要とするが、その裏には必ず発散があって、「発散・共鳴」というカオスをはらむほど、より思い切り生きられるのである。
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まさに、息子のような子供についての記述だと思いました。
彼は、昔から先生に『話を聞いていない』と言われ続け、私も悩んだものですが、今、彼は言葉ではなくエネルギーで感じていたんだというのがわかります。

考えてみれば、教室に通ってくる子ども達とのコミュニケーションもそうでした。
たわいない会話の裏で、「先生、私ってこれで大丈夫?」「僕って、悪い子?僕のこと好き?」など、本質的な会話を、言葉なしでやりとりします。
そのやりとりが、すごく好き。子どもと関わる仕事の醍醐味。

家族や友達が一緒にご飯を食べたり、ダラダラと一緒の時間を過ごす、ということも同じかも。そこで交わされる会話の内容なんて、本当はどうでもいいのかも。一緒にいることで、温かいエネルギーのやりとりすることこそ、大切なのかも・・・。

私は言葉を操る事を生業にしていますが、どんどん言葉を信用しない方向に心が傾きつつあります(笑)。
言葉と楽譜は似ている気がします。楽譜は便利で必要だけど、音楽そのものではない。
先回の和の花会でご一緒だった、同時通訳の師匠である井上先生の教えの一つは、「通訳するときはスピーカーの言葉を聞いてはいけません。人は言葉を言い間違えます。言葉を超えて、スピーカーが言いたいことの本質を聞いて訳しなさい」ですが、井上先生も、多分無意識にエネルギーを視る方だと思います。



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「障害」を持っているようにも見えず、幼児でもないが、共鳴力の高い人たちというのがある。
「障害」児や幼児がそうであるように、「自己」が希薄で「存在」を照らす鏡のような存在であり、無欲で透明感が高く、存在感は薄い。
誰にも存在価値を認められない場合も多く、気的に果たしている役割が大きいのに、それは目に見えないので無理解にさらされやすい。
・・・・
自他の区別が薄く、自己と世界が連続的なのである。
自己はエネルギーの集中する場であるから、当然エネルギーが集中しようとするのだが、集中すると同時に発散してしまって、一定の状態が長続きしないのである。

時間感覚で言えば、今の瞬間比重が大きく、過去はすぐ忘れるし、未来のことは考えられない。
空間的にいえば今いる「ここ」の比重が大きい。

つまり、「今、ここ」という場での反応が過剰で、それより他のことがずっと遠くに感じる。

自己に周りのあらゆる情報が流れ込んでは消えてゆき、止まるることがない。
意識が自己というより、自己と他者との間に移動しやすいので、話の主語(主体)があいまいになりやすいし、相手の気分がダイレクトに伝わって、自分の原因のないことで気分が変化させられるわけである。
さらに深く共鳴した場合は、互いにエネルギーの停滞が発散され、相手が浄化される。
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自己の希薄な、気的に過敏な存在は、目に見えない、役に立たない、無視されやすい存在だが、見方を変えれば気的コミュニケーションの中心であり、家族のつながりや社会的なつながりを内で支えているのは、そういう存在である。
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わーーん、ここの文章、何度読んでも泣けます(;-;)
学校は、『役に立つ、自己主張がある、という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す』という側の能力だけ、極度に偏って奨励される場。息子のように、「共鳴力の高い」子ども達が息苦しくなるのは当然です。
『気的に果たしている役割が大きいのに、それは目に見えないので無理解にさらされやすい』の部分を、どうにかしたいです。

まず、教師の意識を変える必要があります。時間は必要でしょうが、不可能ではないと感じます。
教師側も、自分の中の「共鳴力」を殺して、学校の制度に合わせて仕事をしている人達がゴマンといます。心を病んでしまう教師が多いのも、それが原因の一つかもしません。「もうこの制度、続行無理。」現場にいる教師なら、誰もが感じていることだと思います。
あらゆる分野で、変革の時期を迎えているのを感じます。これからが楽しみですねー!








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