日常

武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

2011-10-18 19:21:47 | 
武満徹さんの「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社(1971年)という本は素晴らしい本だ。武満徹さんの文章はとても美しい。


ハードカバーで文庫化されていない本はこの世にたくさんある。
そういう本が新刊として再発されない限り、一般の本屋にブラリと立ち寄ってその本を見るということはない。

でも、そういう本は神保町をはじめとした古書店の広大な網の目の中で循環して、巡り巡っている。

そういう本は、古書店の本棚の、人目に付かない奥底で、まどろみながら夢を見ている。
古書店という全体的な空間そのものに、今という時代から少しはじかれてしまった時間そのものが眠っている。
そして、空間そのものが夢と化している。
そこでは時間軸が複雑な文様を描く。


偏狭な人も聖人も。極度のエゴイストもすっかり自我抜けした人も。
いろんな立場のいろんな人の本がある。
脳の中の「想念」は形なきもの。その形なき「想念」は目に見えない。そのまま長く永遠の眠りについてもよかったのだけれど、その「想念」は誰かが肩を叩いて目を覚ましたおかげで、一時的に覚醒する。
その覚醒した「想念」は形を与えられ、目に見える文字として深く強く本質を刻印される。
本というひとつの紙の集合体の中に、時間を配合剤として浸透する。


本を読む。
その眠れる「想念」は僕らの前に現前化してくる。
その「想念」は自分と寸分違わない身体を与えられ、自分の眼の前に「白い影」として立っている。
その「白い影」はこちらへ歩いてくる。自分のからだとピタリと一致して重なり合う。
その「想念」は自分の身体と一体化する。
それは錯覚ではない。体内へと染み込み、浸透していく。
そうして、「あたらしいわたし」は生まれ変わり、日々の活力を得て、今日という日を送る。


今日という日は、もう二度と永遠にやってこない唯一無二の日。
一日が一生。
一日で全ては終わり、そしてすべてがまたはじまる。


今日の次は今日だし、その次も今日。
新しい今日は、宇宙が傾こうとも、ネコがニャーとなこうとも、職場の人が気だるく虚無的なため息をつこうとも、永遠に続くのだ。



・・・・・・

そういうことを、古書を読みながら感じるわけです。
素晴らしい本を読むと、イマジネーションの小人がかき立てられる。





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武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社(1971年)
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『ぼくは吃りでした。
吃りというのは言いたいことがいっぱいあるということで、想像力に発音が追いつかない。
発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。
このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います。』
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『都会は末梢神経こそ肥大させたかもしれないのですが、四〇キロも見渡せる原野の知覚のようなものをもたらさない。
このときぼくは、音は沈黙と測りあえるほどに深いものでなければならないと知ったのです。』
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『ぼくは宮内庁で雅楽を聴くことになりました。驚きました。
ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。
雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。』
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『日本という文化があまり人称にこだわらないということがヒントになりました。
そう、人称なんていらないのです。
音が鳴るたびに「私は」「僕は」と言わないように音を並べたい。』
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『ぼくは発音する音楽をつくりたいのです。
吃りだったからそんなことを言っていると思われるかもしれませんが、
それもありますが、それよりも、どんな石にも樹にも、波にも草にも発音させたいのです。
ぼくはそれを耳を澄まして聴きたいだけなのです。
ぼくの音楽があるのではなく、音楽のようなぼくがそこにいれば、それでいいのです。』
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『<音>が肉体にならずに観念の所有となるのは音楽の衰弱ではないだろうか。
この私の原則はたぶん変わるまい。
が、これはあくまで観念であって、私はこれを具体的な方法に置きかえなければならない。
民族学的な面から、その手段を発見するのも一つの方法にちがいない。
民謡には美しいものもあるし力あるものもあるだろう。
しかし私はそれに素直にはなれない。
私は、もっと積極的に現代を音楽の手掛かりとしたい。
現代の視点から民謡を・・・などというただし書きはまやかしにすぎない。

なぜなら作者はあまりに現代を客観視しすぎる。
作者が相手にすべきは真に同時代の思想や感情である。
この激しいウズのなかで、おのれをいかし、それを証すことだけが正しく伝統につらなることにはならないか。』
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『図式的なおきてにくみしかれてしまった音楽のちゃちな法則から<音>を解き放って、呼吸の通うようなほんとうの運動を<音>に持たせたい。
音楽の本来あるべき姿は、現実のように観念的な内部表白だけにとどまるものではなく、自然との深いかかわりによって優美に、時には残酷になされるのだと思う。』
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『私は音楽と自然のかかわりについて、いつも考えているが、それは自然の風景を描写するということではない。
私は時として人間のいない自然風景に深くうたれるし、それが音楽する契機ともなる。
しかし、みみっちくうす汚れた人間の生活というものを忘れることはできない。
私は自然と人間を相対するものとしては考えられない。

私は生きることに自然な自然さというもを尊びたい。それを〈自然〉と呼びたい。
これは奥の細道に遁れるような行為とは大きく矛盾するのである。
私が創るうえで、自然な行為というのは現実との交渉ということでしかない。
芸術は現実との沸騰的な交渉ののちにうまれるものだ。』
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『私は音を組立て構築するという仕事にはさして興味をもたない。私は余分を削って確かな一つの音に到りたいと思う。』
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『私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。』
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『ぼくは発音する音楽をつくりたいのです。
吃りだったからそんなことを言っていると思われるかもしれませんが、それもありますが、それよりも、どんな石にも樹にも、波にも草にも発音させたいのです。
ぼくはそれを耳を澄まして聴きたいだけなのです。
ぼくの音楽があるのではなく、音楽のようなぼくがそこにいれば、それでいいのです。』

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