
『仏教とわたし』に関して、書きました。最後にあります。
まず、長い前置きから。
・・・・
映画監督の後藤サヤカさん。女性性と男性性とが同居するパワフルさと繊細さを両立させた稀有なお方です。
『Buddhist -今を生きようとする人たち-』という映画を作られています。
まだ見ていないのでいつか上映会をしながら、自分も見たい。
「自然と共に生きる」暮らしが続く沖縄の久高島を、現代の女性の視点でとらえた、
映画「はじまりの島」という映画も作られています。
こちらも民俗学上映会とコラボでやってみたい。
この映画『Buddhist -今を生きようとする人たち-』にも出られている藤田一照さん。本当に素晴らしい方です。
●<藤田一照 公式サイト>
東大教育学部教育心理学科を出られ、その後僧侶となり、マサチューセッツ州バレー禅堂でも禅の指導をされていました。曹洞宗国際センター所長でもあります。
語られ放たれる言葉も仏教に閉じられていなくてとても分かりやすい!!
観念的な仏教ではなく、行動し、身体で体感する仏教としての身体知を豊富にお持ちの方です。
自由でとらわれがない方です・
●藤田 一照『現代坐禅講義―只管打坐への道』
→座禅を通して人間の身体への深い洞察に満ちた超名著です。自分が野口整体を習っている松田恵美子先生も対談相手に出ております。

●ティク・ナット・ハン、 藤田 一照『禅への鍵』
→あのティク・ナット・ハン師の著作を翻訳されているのが一照さんです。自分も昔、感想書いてます。
→ティク・ナット・ハン「禅への鍵」(2012-12-23)

●鈴木俊隆、 藤田一照『禅マインド・ビギナーズ マインド2 (サンガ新書 66)』
→スティーブジョブスが愛読していた鈴木俊隆禅僧の本を、翻訳されています。

●廣瀬 裕子、 藤田 一照『あたらしいわたし (禅 100のメッセージ)』
→鎌倉にお呼びいただいた廣瀬裕子さん(広瀬裕子さん)も、なんと対談本を!!

・・・・・
ということで、どれだけ不思議な仏縁があるんだというくらい接点の多い藤田一照さんですが、藤田一照さんの有料メルマガ「仏道探求ラボ」に、<仏教とわたし>というタイトルで文章を書くことになりました。毎回、どなたかが寄稿しております。
これもブッダからの仏縁だと思い、書かせて頂きました。
有料メルマガですので特定の方しか読めずに残念なので、エディターの後藤サヤカさんからご了承頂き、こちらでもShareさせていただきますね。
お時間ある時、ご供覧下さい。
===============
仏教とわたし
自分は特定の宗教には所属していないが、あらゆる宗教の切実さには影響を受け、その歴史と本質は学んでいる。
自分は特定の仏教の宗派にも所属していないが、その長大の水脈の源流にいるゴータマ・シッダルタという一人の人間の存在や行動や言葉や思索のすべてには、特に多大な影響を受けている。意識的にも無意識的にも。
●
自分は西洋医学の医師として心臓を専門にした仕事に従事している。
医療の現場ではあらゆる人と毎日遭遇することになる。主に、何らかの意味で「困っている」人たちと出会う。
自分も「困ること」は何度も経験しているので、その気持ちには共感できる。
自分に余裕がある時は、困っている人の力になりたいと思う。だから医師になったのだろう。
医療の現場では、怒っている人にもよく遭遇する。
怒っている人は、たいてい何かに困っているのだが、「自分が困っている」という事を自覚できていなかったり、そのことを認めたくなかったり、困っていることから一時的に逃れるため、怒るという爆発的なガス抜きでその場しのぎをしている。
表面上は怒っているように見えても、その深い部分では困っていることを伝えられない、という魂の叫びのようなものが同時に伝わってくる。
そういう構造を知っているから、怒っている人に巻き込まれることは、ほとんどない。
ただ、怒る技術が巧みな人もいて、自分も時に怒りが伝染することがある。ムカッとする。
そのときは素直に相手の熟練の技に感心する。そして、人というものの奥深さを感じ、更なる人の体や心への深い理解へとつながることになる。
困っている人は、一つの原因で困っているわけではない。なぜなら、そうであればすぐに解決するからだ。
実際には、生老病死を核とした、あらがうことのできない人間の本質的なプロセスが内在しており、複雑な因果関係が絡んでいる。
人は、生まれ、生き、時には病を経験し、時には老いを経験し、死んでいく。
このプロセスは人間だけに限らず、動植物や細菌や虫など、あらゆる生命体にいえるプロセスだ。
水や雲や風も定義次第では生命と呼べると思うが、ここでは性と食を中心にして、個体として種として生死を繰り返していく存在を生命と暫定的に呼ぶ。
●
ゴータマ・シッダルタという人は、生命やいのちの深層に魂が触れ、射ぬかれ、貫通し、いのちそのものに切実に向き合った人だと自分は思う。
生老病死も、「いのち」の一つの顕現だ。
多くの人は、いのちの宇宙的な歴史性や、いのちの深層からやってくる「謎」そのものに気付かないため、その表層の問題として「困る」ことになる。
いのちの深層の謎に源を発した複雑な因果関係の果てに、その顕現として、心や体の問題や人間関係のトラブルが起きる。
医療現場では、そういう表面的で現実的な事柄に対して極めてプラクティカルな対応を行うことになる。
そして、困っている人は少し問題が軽減され、また日常へと立ち返ることができる。
●
自分は幼少時に体が弱く、何度も死ぬような体験をしていた。
一日一日生き抜くことが極めて切実な問題だった。
そして、一日一日が常に世界の終わりであり、世界のはじまりであった。
一日一日が常に人生の終わりであり、人生のはじまりでもあった。
切実な事柄として、いのちを生きていた。
結果的に、自分は様々な人や存在からの愛の力(仏教的な用語では「慈悲」という言葉に置き換えてもかまわない)を受け取り、その力が凌駕したことで、今はこうして元気に生きている。
そして、困っている人を助けるまでの立場になったのは、光栄なことだ。
人生でやってくる複雑な因果関係の仕組みやそのメタファーは、そう簡単に読み解けるものではない。
いのちや宇宙の謎と同じようなものとして、常に自分の深い場所に響き続けている。
●
自分は生きることの切実さから、あらゆる宗教の本質を探ることになった。
それは人の体や心の本質を探ることにもつながった。命の本質に触れたいという、止むにやまれぬ衝動でもあった。
その過程の中で、必然的にゴータマ・シッダルタという人にも出会う事になる。
ゴータマ・シッダルタ(ブッダ)からは膨大な事を学んだ。自分の思考の一部とも分かちがたく結び付いている。
ブッダは外側だけではなく、既に内側にいる。
自分が困ったときも、自分の内側へと入りこんだブッダと対話をする。
「こういうとき、あなたはどうするのですか。」と。
ゴータマ・シッダルタという存在の影響は時空を超え、仏教という巨大な流れやうねりとなり、日本でも様々な人へと影響を与え続けた。
仏の教えとしての仏教は、時代と共に深層の本質を共有しながらも、表層は万華鏡のように変化しながら、僕らの世代へと伝わっている。自分は、その全てから影響を受け続けている。
●
自分は一臨床医として一人の人と、一人の人生と、日々向き合っているつもりだ。
だからこそ、常に一人の人間にこそ、興味がある。
所属や宗派やイデオロギーは、一人の人間を構成する様々な要素の部分に過ぎず、一人の人間という全体性の中に複雑な配合と組成で芸術的にまとめられている。
仏教という教えにも興味があるが、それ以上にゴータマ・シッダルタという一人の人に興味があり、その影響を受けて仏教の歴史を彩る一人一人の覚者、人そのものに興味がある。
一人の人間の中には仏教的なものも非仏教的なものも、善なるものも悪なるものも、・・・・あらゆるものが萌芽として混在しており、その中で一人の人間は総合的な存在として生きているからだ。
先人たちのブッダへの深い敬愛の思いから、様々なものが現在へと手渡され続け、私たちはその恩恵を受けることができるのはありがたい事だ。
自分の中に仏教は大きな核として存在し続けている。
それは自然やいのちや人に対する存在のあり方や、コトバや思索の本質に至るまで様々な影響として。
ビッグバンの後の宇宙背景放射のようなものとして。
●
いのちというものは、受け取ると決めた人が受け取ることができる。そうして、いのちは数十億年の単位で静かに受け渡され続けてきた。自分は科学や医学からそのことを学んだ。
仏縁というのもそういうことだろう。
仏様のご縁を受けとろうと決めたら、誰もが受け取ることができる。
そして、次は未来の世代へ手渡す番へと、役割が交代していくのだと思う。
・・・・
このような仏縁を頂いた後藤サヤカさんには本当に感謝します。
ほんとうにありがとうございます。
まず、長い前置きから。
・・・・
映画監督の後藤サヤカさん。女性性と男性性とが同居するパワフルさと繊細さを両立させた稀有なお方です。
『Buddhist -今を生きようとする人たち-』という映画を作られています。
まだ見ていないのでいつか上映会をしながら、自分も見たい。
「自然と共に生きる」暮らしが続く沖縄の久高島を、現代の女性の視点でとらえた、
映画「はじまりの島」という映画も作られています。
こちらも民俗学上映会とコラボでやってみたい。
この映画『Buddhist -今を生きようとする人たち-』にも出られている藤田一照さん。本当に素晴らしい方です。
●<藤田一照 公式サイト>
東大教育学部教育心理学科を出られ、その後僧侶となり、マサチューセッツ州バレー禅堂でも禅の指導をされていました。曹洞宗国際センター所長でもあります。
語られ放たれる言葉も仏教に閉じられていなくてとても分かりやすい!!
観念的な仏教ではなく、行動し、身体で体感する仏教としての身体知を豊富にお持ちの方です。
自由でとらわれがない方です・
●藤田 一照『現代坐禅講義―只管打坐への道』
→座禅を通して人間の身体への深い洞察に満ちた超名著です。自分が野口整体を習っている松田恵美子先生も対談相手に出ております。

●ティク・ナット・ハン、 藤田 一照『禅への鍵』
→あのティク・ナット・ハン師の著作を翻訳されているのが一照さんです。自分も昔、感想書いてます。
→ティク・ナット・ハン「禅への鍵」(2012-12-23)

●鈴木俊隆、 藤田一照『禅マインド・ビギナーズ マインド2 (サンガ新書 66)』
→スティーブジョブスが愛読していた鈴木俊隆禅僧の本を、翻訳されています。

●廣瀬 裕子、 藤田 一照『あたらしいわたし (禅 100のメッセージ)』
→鎌倉にお呼びいただいた廣瀬裕子さん(広瀬裕子さん)も、なんと対談本を!!

・・・・・
ということで、どれだけ不思議な仏縁があるんだというくらい接点の多い藤田一照さんですが、藤田一照さんの有料メルマガ「仏道探求ラボ」に、<仏教とわたし>というタイトルで文章を書くことになりました。毎回、どなたかが寄稿しております。
これもブッダからの仏縁だと思い、書かせて頂きました。
有料メルマガですので特定の方しか読めずに残念なので、エディターの後藤サヤカさんからご了承頂き、こちらでもShareさせていただきますね。
お時間ある時、ご供覧下さい。
===============
仏教とわたし
自分は特定の宗教には所属していないが、あらゆる宗教の切実さには影響を受け、その歴史と本質は学んでいる。
自分は特定の仏教の宗派にも所属していないが、その長大の水脈の源流にいるゴータマ・シッダルタという一人の人間の存在や行動や言葉や思索のすべてには、特に多大な影響を受けている。意識的にも無意識的にも。
●
自分は西洋医学の医師として心臓を専門にした仕事に従事している。
医療の現場ではあらゆる人と毎日遭遇することになる。主に、何らかの意味で「困っている」人たちと出会う。
自分も「困ること」は何度も経験しているので、その気持ちには共感できる。
自分に余裕がある時は、困っている人の力になりたいと思う。だから医師になったのだろう。
医療の現場では、怒っている人にもよく遭遇する。
怒っている人は、たいてい何かに困っているのだが、「自分が困っている」という事を自覚できていなかったり、そのことを認めたくなかったり、困っていることから一時的に逃れるため、怒るという爆発的なガス抜きでその場しのぎをしている。
表面上は怒っているように見えても、その深い部分では困っていることを伝えられない、という魂の叫びのようなものが同時に伝わってくる。
そういう構造を知っているから、怒っている人に巻き込まれることは、ほとんどない。
ただ、怒る技術が巧みな人もいて、自分も時に怒りが伝染することがある。ムカッとする。
そのときは素直に相手の熟練の技に感心する。そして、人というものの奥深さを感じ、更なる人の体や心への深い理解へとつながることになる。
困っている人は、一つの原因で困っているわけではない。なぜなら、そうであればすぐに解決するからだ。
実際には、生老病死を核とした、あらがうことのできない人間の本質的なプロセスが内在しており、複雑な因果関係が絡んでいる。
人は、生まれ、生き、時には病を経験し、時には老いを経験し、死んでいく。
このプロセスは人間だけに限らず、動植物や細菌や虫など、あらゆる生命体にいえるプロセスだ。
水や雲や風も定義次第では生命と呼べると思うが、ここでは性と食を中心にして、個体として種として生死を繰り返していく存在を生命と暫定的に呼ぶ。
●
ゴータマ・シッダルタという人は、生命やいのちの深層に魂が触れ、射ぬかれ、貫通し、いのちそのものに切実に向き合った人だと自分は思う。
生老病死も、「いのち」の一つの顕現だ。
多くの人は、いのちの宇宙的な歴史性や、いのちの深層からやってくる「謎」そのものに気付かないため、その表層の問題として「困る」ことになる。
いのちの深層の謎に源を発した複雑な因果関係の果てに、その顕現として、心や体の問題や人間関係のトラブルが起きる。
医療現場では、そういう表面的で現実的な事柄に対して極めてプラクティカルな対応を行うことになる。
そして、困っている人は少し問題が軽減され、また日常へと立ち返ることができる。
●
自分は幼少時に体が弱く、何度も死ぬような体験をしていた。
一日一日生き抜くことが極めて切実な問題だった。
そして、一日一日が常に世界の終わりであり、世界のはじまりであった。
一日一日が常に人生の終わりであり、人生のはじまりでもあった。
切実な事柄として、いのちを生きていた。
結果的に、自分は様々な人や存在からの愛の力(仏教的な用語では「慈悲」という言葉に置き換えてもかまわない)を受け取り、その力が凌駕したことで、今はこうして元気に生きている。
そして、困っている人を助けるまでの立場になったのは、光栄なことだ。
人生でやってくる複雑な因果関係の仕組みやそのメタファーは、そう簡単に読み解けるものではない。
いのちや宇宙の謎と同じようなものとして、常に自分の深い場所に響き続けている。
●
自分は生きることの切実さから、あらゆる宗教の本質を探ることになった。
それは人の体や心の本質を探ることにもつながった。命の本質に触れたいという、止むにやまれぬ衝動でもあった。
その過程の中で、必然的にゴータマ・シッダルタという人にも出会う事になる。
ゴータマ・シッダルタ(ブッダ)からは膨大な事を学んだ。自分の思考の一部とも分かちがたく結び付いている。
ブッダは外側だけではなく、既に内側にいる。
自分が困ったときも、自分の内側へと入りこんだブッダと対話をする。
「こういうとき、あなたはどうするのですか。」と。
ゴータマ・シッダルタという存在の影響は時空を超え、仏教という巨大な流れやうねりとなり、日本でも様々な人へと影響を与え続けた。
仏の教えとしての仏教は、時代と共に深層の本質を共有しながらも、表層は万華鏡のように変化しながら、僕らの世代へと伝わっている。自分は、その全てから影響を受け続けている。
●
自分は一臨床医として一人の人と、一人の人生と、日々向き合っているつもりだ。
だからこそ、常に一人の人間にこそ、興味がある。
所属や宗派やイデオロギーは、一人の人間を構成する様々な要素の部分に過ぎず、一人の人間という全体性の中に複雑な配合と組成で芸術的にまとめられている。
仏教という教えにも興味があるが、それ以上にゴータマ・シッダルタという一人の人に興味があり、その影響を受けて仏教の歴史を彩る一人一人の覚者、人そのものに興味がある。
一人の人間の中には仏教的なものも非仏教的なものも、善なるものも悪なるものも、・・・・あらゆるものが萌芽として混在しており、その中で一人の人間は総合的な存在として生きているからだ。
先人たちのブッダへの深い敬愛の思いから、様々なものが現在へと手渡され続け、私たちはその恩恵を受けることができるのはありがたい事だ。
自分の中に仏教は大きな核として存在し続けている。
それは自然やいのちや人に対する存在のあり方や、コトバや思索の本質に至るまで様々な影響として。
ビッグバンの後の宇宙背景放射のようなものとして。
●
いのちというものは、受け取ると決めた人が受け取ることができる。そうして、いのちは数十億年の単位で静かに受け渡され続けてきた。自分は科学や医学からそのことを学んだ。
仏縁というのもそういうことだろう。
仏様のご縁を受けとろうと決めたら、誰もが受け取ることができる。
そして、次は未来の世代へ手渡す番へと、役割が交代していくのだと思う。
・・・・
このような仏縁を頂いた後藤サヤカさんには本当に感謝します。
ほんとうにありがとうございます。
ポロッとこぼした時が一番うまい。
書こう、とするとちょっと力が入って
いつものうーまい文章からちょっと外れる。
いなばさんは気負ってない時の方が
最高にうまいYO☆
有難うございます~!(^^
このブログは、自分の<公開 文章練習帳>のようなものです・・・。日々精進しております。
仏教は、好きなんですよね~。
僕も仏教がやっぱりいちばんしっくり来ます。宗教というより哲学というか思考であり習慣でもあり。
ときどき、脳で考えるのではなく、身体の隅々までセンサーしながら行ったり来たりして頭じゃないところと対話するようにしています。これも忙しくなると忘れてしまうのだけど、忘れず続けたいものです。
確かにお久ですね.Facebookも河が常に流れているので面白いと言えば面白いのですが,やはりブログにコツコツ書き続ける方が,自分の日本語能力維持にはいいような気がしますね... あまり反射的にならず,内省的になりますし. 内なる対話を.
仏教はいいですよね.色々なお坊さんともお知り合いになること多いのですが,広いお寺にいるとき,なんだか無性に落ち着きます.