ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)の「禅への鍵」春秋社; 新装版 (2011/04) を読みました。
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<本の内容>
なぜ坐禅するのか? 禅問答の意味は? 公案とは何か?
禅に興味を持つ人が知りたい疑問に著者が明快な論理で答える。
祖師の問答を解説し、仏教思想の流れを平易に説明しながら、観念的な教理や神秘思想といった歴史の垢をそぎ落としたときに現れる、仏陀の直系としての禅のラディカルな行動の思想を明らかにする。日本では知られていないヴェトナム禅の公案集「課虚」の邦訳を付す。
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日本語の目次は
第1章 マインドフルネスの修行
第2章 一杯のお茶
第3章 庭の柏の木
第4章 山は山、川は川
第5章 空の足跡
第6章 人間性の復興/付録 課虚
となっています。
英語版も読んだのですが、英語で表現する方が禅(Zen)は分かりやすい時もあります。
言語による概念化(コンセプト)から自由になることを禅では求めるので、異国の国の方が言語に対する先入観が少ないからなのかもしれません。
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Zen Keys: A Guide to Zen Practice
Thich Nhat Hanh
Three Rivers Press
************************
<INDEX>
1.The Practice of Mindfulness
The little Book
Necessary Awareness
Mindfulness
2.A Cup of Tea
Seeing into One's Own Nature
Bodhidharma's Statement
The Buddhist Revolution
Not-Self
Things and Concepts
The Interbeing of Things
The Vanity of Metaphysics
Experience itself
The Moment of Awakening
3.The Cypress in the Courtyard
The Language of Zen
The Finger and the Moon
"If you Meet the Buddha, Kill Him!"
"Go and Wasb Your Bowl"
The Good reply
The Kung-an and Its Function
The Significance of the kung-an(公案)
Chao-Chou's "NO!"
Emerging the Circle
The Mind Must be Ripe
4.Mountains are Mountains and Rivers are Rivers
The Mind Seal
True Mind and False Mind
Reality in Itself
The Lamp abd Lampshade
A Non-Conceptual Experience
The Principle of Non-Duality
Interbeing
5.Footprints of Emptiness
The Birth of Zen Buddhism
Zen and the West
Zen and China
The Notion of Emptiness
Complementary Notions
Anti-Scholastic Reactions
Return to the Source
The A Which Is Not A Is Truly A
Penetrating Tathata
Subject and Object
The Three Gates of Liberation
The Eight Negations Of Nagarima
The Middle Way
The Vijnanavada
School
Classification of the Dharmas
Conscious Knowledge
Method of Vijnanavada
Alaya as the Basis
The Process of Enlightment
6.The Regeneration of humanity
Monastic Life
The Retreats
The Encounter
The Role of the laity
Zen and the World of Today
Future Perspectives
Is Awalening Possible?
Spirituality versus Technology
7.Lessons in Emptiness
************************
ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh 釈一行、1926年10月11日 - )はベトナム出身の禅僧・平和運動家・詩人で、平和活動に従事する代表的な仏教者です。行動する仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもあります。アメリカとフランスを中心に活動を行なっている禅僧です。
ちなみに、この本のちゃんとした書評を読みたいお方は、松岡正剛さんの書評を読んでもらう方が賢明です・・・(^^:
さらにちなみに、この本を訳している藤田一照さんの座禅観はとても面白いです。
以前、偶然NHKの番組で見て感動しました。
最近本も出されたようで、購入済みです(まだ読んでない)。
○藤田一照「現代坐禅講義―只管打坐への道」佼成出版社 (2012/7/24)
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■■
この本はとても面白かった。禅の勉強になりました。
最初にフィリップ・カプロ―という禅僧のまえがきがあるのですが、それ自体がすでに刺激的。
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フィリップ・カプロ―(禅僧)
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本当の敵は人間ではなく、ひとりひとりの心の中に巣くうむさぼり、怒り、妄想なのだ。
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何をしている時であっても「はっきりと目覚めている」生き方から生まれてくる深い気付き(awareness)を通して、存在の真理が浮かび上がる。
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禅においてはすべての行為は自己を実現するための媒介となる。
あらゆる行為は全身全霊をもって、あますところなく自己のすべてをあげて行われる。
それは仏を表現すること(Expression of buddha)。
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禅的自覚に入る、「目覚める(wake up)」とは、統制の利かない思考という、いわば習慣のようになってしまった病がこころから一掃され、純粋なこころ本来の状態に戻ることに他ならない。
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禅では静かに座禅の修行をするより、世俗の真っただ中でする修行の方がより強大な力を発揮すると言われている。「自分自身のために働く(work for oneself)」ことが大事だ。
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真の創造は、心からあれこれの物思いがなくなり、手元の仕事に完全に専心しているときにのみ可能となる。
仕事と一如になると、超越と成就の喜びが味わえ、創造的行為のうちでこそ直感的叡智と喜びがおのずから働きだす。
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無時間的なものはことばでは説明されえないのだ。
我々が知りうるのは概念的で有限な世界でしかなく、それはアクチュアルな真実の世界からは程遠い。
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集中した気づきの心、人為的な生活に対抗する簡素さと自然さのある規律取れた生活、自己中心的で攻撃的な生活ではなく、我々自身と世界の安寧に慈愛深く関わって行く生活という、もっと広い意味での禅である。
短く言えば、ものの自然な秩序にあらがい葛藤状態にある生活ではなく、それと調和した生活のことである。
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人が豊かであるというのは、何を所有しているかによるのではなく、尊厳さを持って何を持たないでいることができるかによるのだ。
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→
人里離れた自然の中でひとりで座禅を組んで悟りを開いて、悟りや座禅そのものが目的になってしまうと、それは自己完結してしまいます。そのことを手段して何に使うのかが重要な気がしています。どんなもんでも善にも悪にも応用しうるものですし。閉鎖的になり自己完結してしまうと、自我肥大につながり、たいてい色んな物事はおかしくなります。現実という地(そこには自我ではとらえることができない途方もない色んなものごろがありますし)に足がつくことは重要かと。
「世俗の真っただ中でする修行の方がより強大な力を発揮すると言われている」というのはその通りですよね。
この世の中では思い通りにならないことがほとんどですが、「思い通り」になるというのはある意味危険な状況ですし。
酸いも甘いも日常の中で負けないように自分の心の修行の場ととらえ、それでいて「自利利他」であることが大事な気がしています。
座禅も悟りも、あくまでも何かの手段。そこを目的にすると、そこは行き止まり。
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「沙弥律儀要略」
『時間と人生は貴重なものであるから、それを放逸のうちに浪費してはならないということを肝に銘じよ』
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「酔生夢死」
『うっかり生きているのなら、夢を見ている間に死んでしまうぞ』
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浄・不浄、増・減、こうした概念はこころのなかにあるだけだ。
inter-being(相互依存的存在)の真実相はそういう二元性を越えている。
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Mindfulnessは、すべての存在や行為に光をあてるエネルギーであり、集中力を生みだし、深い洞察を目覚めをもたらします。
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自分にしている事に気づきの光を当てるということは、うっかりしたこころの状態から生じるあやまった知覚や、周囲の出来事が自分の中に侵入してくることに対して、抵抗をはじめるということなのです。
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禅仏教の狙いは、真実をはっきり見ること、つまり物事をありのままに見ることです。
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智慧をもたらす過程を三学と言います。
戎(シーラ)・定(サマーディ)・慧(プラジュニャー)です。
戎(シーラ)とは、マインドフルネスの修行に基づいた、自分自身の洞察から生まれてくるものなのです。
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禅を学ぶものは、自己の存在すべてを証(さとり)の道具としてつかわなければいけません。
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自分を完璧に統御する事ができ、完全な自由をわがものにして、幸・不幸や人生上のあらゆる浮き沈みを、絶対的な平静さと明晰さをもって見ることのできる精神的な力をそなえた人。
菩提達磨(ボディーダルマ)とはそういう理想的人物像のことなのです。
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彼の人格の本質は、絶対的真実とは何かという問題に対して彼のとった哲学的立場とか、その不屈の意志力にあるのではありません。
自分自身の心と生命の真実に対する深い洞察にこそあるのです。
禅では、その洞察のことを「見性(自己の本性を徹見すること)」という言葉で表現します。
このまったく新しい理解・洞察から、深い平安とこの上ない静寂が生み出され、無畏(恐れがないこと)という特徴を持つ精神的な力が生まれます。
見性、すなわち自己の本性を徹見することが、禅の目標に他なりません。
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→
「真実をはっきり見ること、つまり物事をありのままに見ること」とは、誰かが作った夢から覚めること、でもあると思います。
社会や誰かがつくり出した集合的な幻影のような夢のまどろみの中にいることがあります。
自分が子供のころを思い出すと、すべての偏見や固定観念から自由だった状態を思い出します。それこそ「初心忘るべからず」。どんな物事にも「初心」という初めのときがあって、そのときは見るものすべてが新鮮で斬新で面白かったはずです。その感覚を失うということは、自分の感覚をなおざりにしていることではないでしょうか。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分の頭で考える。これは簡単なようで勇気がいることです。そういう転換点がどんな人の人生にもあるはずです。
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教外別伝(経典以外に別に伝えられるものであり)
不立文字(言葉や文字に頼らず)
直指人心(人の心を直接に指し示して)
見性成仏(自己の本性を徹見して、仏になる)
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サンスクリット語のBudhは、「知る」を意味し、後に「目覚める」の意味を持つようになりました。
仏教とは目覚めの教え、洞察と智慧の教えです。
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ブッダが生まれた当時のインドは、バラモン教の伝統的権威がすべてを支配していました。
ヴェーダの啓示、ブラフマーのこのうえなき神聖性、生贄の神秘的力、の三つが根本原理となっています。仏教は、ヴェーダの絶対的な権威に反対し、カースト制度と闘いました。
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仏教では、くせ(習癖)と思い込み(先入観)を取り除くために思い切った方法がしばしばとられます。
はじめ、釈尊は先入観を壊すために、「無我」(アートマン我に対して、アナートマン無我)の考えを用いました。「我」は単なる概念でしかない。何ものもそれ自体の内に絶対的な同一性(自性)をもっていないということです。
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無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な指導原理として学ばなければいけません。
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たとえば、この机は時間的にも空間的にも、「机ではない要素」からのみ成立しています。机が存在しているということは、すべての非机的要素が存在しているということ、言いかえれば全宇宙が存在している事を示しているのです。
華厳思想の中では、「重々無尽の縁起」と言う言葉で表現されます。
「一即多、多即一」ということです。わたしはそれをinter-being(相互依存的存在)と呼んでいます。
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あるものを見るとき、それをひとつの独立した実体とは見なさず、真実全体の顕現(あらわれ)として見るのです。
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禅僧ダオ・ハン
『もしひとつのものが存在するならあらゆるものが存在する、それがたとえ一片の塵であっても。 もしひとつのものが空無ならば、すべてのものが空無である、それがたとえ全宇宙であっても。』
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→
すべてのものは何らかの形でつながっています。
この世界にはどこにも切れ目はなく、切れ目をつくるのは言語であり、人間の意識の問題です。
このことは、井筒俊彦先生が鋭く考察されているので、また別の機会にご紹介したいです。
○井筒俊彦「意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 東洋哲学覚書」(1993/3)
言語や意識は僕らがよりよく生きるための手段であり道具なはず。
そこにとらわれ、縛られることの危険性を禅では主張していると感じます。
それはくせ(習癖)と思い込み(先入観)として現実世界に現れる。
その根本歴なことを気付くために、ブッダは「無我」と表現した。
<「我」自体も単なる概念でしかないのではないでしょうか?>と問うたのです。
「我」がないとしたら、生も死もありません。わたしもあなたもありません。そういう分別心(分ける)がなくなれば、僕らは生まれ変わることができるのでしょう。
気功の中先生も、「<さとり>とは、<差を取ること>だ。」とおっしゃっていたのが印象的でした。そういうシンプルな感覚なのでしょう。そのことは慈悲、いつくしみやかなしさ、優しさなどにも通じていく世界だと思います。
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概念は真実を忠実に反映する事はできません。
釈尊は、形而上学的な思弁に、時間とエネルギーを浪費してはいけない、と、弟子たちに語りました。
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直接経験を通じてのみ、真実には到達する事ができます。
唯識では、概念化を「分別智」と言い、概念を経ずに直接真実を経験する能力を「無分別智」と言います。
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禅は語られるべきものではなく、じかに経験されるべきものです。
この目覚めはその人の内側に留まらず、太陽のようにおのずと光を放ちます。
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目覚めた人には特有の印があります。何よりもまず、その人には自由があります。さらに、その人には冷静さ、なんともいいようのない微笑み、そして深い落着きとして外に現れる精神的な力が備わっています。
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禅の言葉は概念で考える習癖を壊すことが目的ですので、禅の言葉は危機的な状況を引き起こす事が多いのです。それによって目覚めという貴重な瞬間を生み出そうとしているのです。
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言葉によって、分別(分ける働き)という現象がおきます。
禅では、言葉で切りこみが入る前の世界、この世界が切れ目なく連続している「無分別」の世界(真如)を感じさせようとしますので、それはまるで宇宙空間に取り残されるような状態です。
その状態を不安定で恐ろしいと感じるか、不安定の中の絶対的な安定さを感じて無上の喜びや感動を受けるのか・・・。
どんな直接体験でも、ショックを受けたり、ガーンときたり、グサッと来たりする体験はとても重要ななのだと思います。
それは、何か自分の固定概念が崩されたしるしです。
ただ、それが「おそれ」や「不安」と勘違いすると、以前抱えていた同じ固定概念(偏見)を再度強固に作り直そうとしてしまいます。それはさらに固い殻に覆われるようなもの。
そうではなく、それをさらに大きく広く包含する器をつくればいいのです。そして、それは伊勢神宮の本殿のように、定期的に壊して再構築すればいいだけのこと。
そうして、僕らの心は柔らかく柔軟なものへと成長していくのだと思いますね。それは、多様性を受け入れる素地になります。
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「円覚教」
『ブッダのといたことのすべては、月を指す指であると理解しなければいけない。(指月の喩え)』
指を月そのものだと思い込んだ途端に、指が指す方向を見ることを止めてしまうことに注意をしているのです。
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仏教には、8万4千もの法門、つまり真実への入り口があると言います。
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禅の方便の働きは、知識や偏見と言う牢獄から人を解放する事です。
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禅を学ぶものは、真理がはいってこれるように、知識へのとらわれから自由になり、こころの戸を開けることができるよう努めなければいけません。
「臨在録」
『逢仏殺仏。逢祖殺祖。(仏に会ったら仏を殺せ。祖師に会ったら祖師を殺せ。)』
真理とは真実そのものであり、それについての概念ではないのです。真実が姿を現すためには、真実についての「概念」を「殺す」必要があるのです。
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→
登山に登り口や登り方が無限にあるように、仏教でも「真実」という山への入り口には「8万4千もの法門」があると言ってくれている。それだけ、人間の心や人生が多様であることを認めているのでしょう。
それぞれ、人に依存せずに人のせいにせずに、自分の意志で山を登ることが大事なのでしょう。
登るべき山をどんなに頭で重い浮かべても、行ったことがなければそれはあくまでも「概念」に過ぎません。頭の中で都合よくこしらえたものです。
そういう意味で、真実についての「概念」を「殺す」必要があると、やや挑発的な言葉で表現しているのでしょう。
それだけ痛みを伴うプロセスである、ということも示唆しているのだと思います。
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本当の家に帰ること、自分の本性を見るためには、自己のひとつひとつの行為に光を当てること、いかなるときもマインドフルネスの状態で生きることによって行います。
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生きるということは概念ではなくそれ以上のものなのですから、概念とやり取りをしてその中で迷い続けてはいけません。
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心印を受け継ぐというのは、自分の本性をはっきり見ることなのです。
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真心とは存在そのものの清浄にして輝ける本性です。
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曹洞禅では、座禅での5つの原則を示しています。
只管打座(主題を持たず座禅するだけで十分である)
修証一如(座禅と覚りは異なった二つのものではない)
待悟禅の否定(覚りを待ち望んではいけない)
無所得無所悟(獲得しなくてはならない覚りは存在しない)
心身一如(心と体がひとつになっていなければいけない)
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道元
『一心一切法。一切法一心。山河大地日月星辰これ心なり
(こころはすべてである。すべての現象はこころである。そのこころは川や山や月や太陽をうちに含んでいる。)』
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覚りを開いた人は概念によって限定されることがありませんし、概念の虜になることもありません。
概念はいまやその人が自由に使いこなす、このうえない「方便」になっているのです。
一切の事物の本性である完全で分別を越えた存在を十分に自覚しながら、ものを見、聞き、します。
つまり、事物をinter-being(相互依存的存在)において深く見るのです。
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→
「概念」に振り回されてはいけませんよね。
それは法律でも慣習でもなんでもそうです。それは常に僕らが使う手段であり道具であるはずなのですから。
自分の本性を見ることを「本当の家に帰ること」と表現しています。
家に帰る為には、一度家を出ないといけない。それが思春期であり若い修行の時期なのでしょう。そこで一度不条理な社会の荒波にもまれる必要がある。
でも、そこで誰かの催眠状態で満足する(誰かの家に住まい続ける)ので満足するのではなく、いづれは自分の本当の家にかえらなければいけない。旅をして、いろんな成長をして、自分の家に帰るのです。
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金剛教には、AではないAが本当のAである、という形式の表現が数多く見られます。
真実は概念的に考えることはできませんし、言葉で記述する事も出来ません。それはかくある(如)として言いようがないのです。これが真如という言葉の意味するところです。
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空(くう)は有という概念の反対概念ではありません。
空は手段として与えられたものであって、それを真実そのものと理解してはいけません。
それは月を指す指であり、月そのものではないのです。
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現代の日常生活は、精神を消耗させ、時価を食いつくすようなものになっています。
自分自身に気付き、より深い自己に立ち返る機会などどこにもなくなっているのです。
私たちは、いつも何かに「占領されている」ことに慣れきっているのです。
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今日の生活は「理性」に従い組織されています。自分の存在のほんの一部である知性や意識だけを使って生活しているのです。より深くより重要な部分は無意識にあります。
私たちの存在の根が食い込んでいる根本的基盤である「蔵識(アラヤ識)」は、理性や意識そのものでは分析する事はできません。
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「蔵識(アラヤ識)」は生命と精神の深い基盤ですが、意識とマナ識は要素や観念や概念を思案する場所です。
アラヤ識は、有と無の基盤です。アラヤ識は、諸法において顕現するエネルギーと本質を保存し維持します。これらのエネルギーと本質は種子(しゅうじ:ビージャ)と呼ばれます。マナ識と意識はアラヤ識を基盤として顕現します。
この過誤から生じてくる根はアラヤ識の中に押し込めれますが、それは随眠と呼ばれます。
inter-being(相互依存的存在)について瞑想する修行者は、アラヤ識の核心部で変化を起こします。これらの変化は随眠の根を変容させ、無効なものにします。
悟りはこの変容の成果であり、それは転依(てんね)と呼ばれます。玄奘によれば、この言葉は転換とよりどころという意味を持っています。
転換とは破壊する事ではありません。よりどころとは、依他起性(inter-being)のことです。
依他起性の原理を基盤として用い、無明の種子と根を、悟りの種子と根に変換するのです。
この転換はマナ識と意識で起こるのみではなく、アラヤ識そのものの中心部でも起こります。
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→
自分が変わる時、生命と精神の深い基盤である「蔵識(アラヤ識)」と呼ばれる深い深い意識できない場所で起こります。それほど、僕らは深い場所にある生命(精神)エネルギーのような泉の力で生かされているとも言えます。
この「蔵識(アラヤ識)」で眠っている「種子(しゅうじ:ビージャ)」に、光や水を与えることで、春が訪れそこから芽吹きます。
そういう深い場所で眠っている種に光や水を与えるきっかけをつくるのは他ならない自分自身なのでしょう。深い場所であるからこそ、表層に何重にもコーティングされている偏見というバリアを一度取り除いて、深い場所にも光や養分を与える必要がある。
そういうことを、あまり概念や言葉にとらわれず、何度もアプローチしていきなさい、と禅では教えているようです。
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引用が思わず長くなってしまった。
とてもとてもいい本でした。定期的にこの場所に戻ってきたい。定期的に読むためにとてもいい本です。
ティク・ナット・ハンさんがとても頭が柔らかく自由な発想をされるので、難しい話もとてもよくわかります。
仏教やブッダのことをを少しずつ勉強しています。
最初は意味不明だったことも、繰り返し学ぶと深くわかるようになりますね。
それは、数を覚え、足し算引き算を覚え、方程式を覚え・・・というようなものでしょう。最初は、ある程度乱読して勉強しないとわからないものです。
ただ、こういう勉強も、それが目的にならないように気をつけています。自己目的化。それは袋小路。
医療の世界に応用しながら、<自利>だけでも<利他>だけでもなく、<自利利他>の精神を保ちつつ、何かの手段として勉強をしていることを忘れないようにしないといけないと、心がけています。
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ちなみに、禅では人間の意識状態のことを繰り返し言っています。
意識状態こそが、この世界の色んなものを形作っていく。
偏見も、愛も、そういう意味では表裏一体な気がします。そこを促す精神エネルギーは同じような物で、その使うべき方向性や質をこそ間違わないよう注意しないといけませんね。
意識やコトバの本質は井筒俊彦先生の著作を重ねてよむとさらに深くわかります。(井筒先生の学問へのあふれるような情熱も伝わってきます。)
井筒俊彦先生の「意識と本質」より
***********
深層意識はそれ自体多層構造を持っている。
現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。
A:表層意識
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面
Z:「意識のゼロ・ポイント」
***************
言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものが「シンボル」である。
「シンボル」はM領域を本来の場所とし、そこは「創造的想像力」が充満する内部空間。
この「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界の只中にやってくる。
このエネルギーの照射を受けると、それまで平凡に見えていた日常的事物(たとえばただの花)が、たちまち象徴性を帯びる。われわれ仏教文化圏における蓮の花を思えばいい。(英語圏のキリスト教徒にとって蓮はただ泥沼に咲く花<lotus>であり、「浄土」を象徴する<蓮華>を意味することはない。はるか紀元前のギリシア神話ではまた少し事情が違うが。)
***************
言語アラヤ識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすマンダラは、「元型」的「本質」の描き出す深層意識的図柄であって、経験的事物そのものの構造体ではない。
表層意識の見る経験的事物は、そのままでは決してマンダラを描かない。
深層意識的事態と表層意識的事態との間には、きっぱり一線が劃されている。
***************
理性の捉える「本質」が、「それは・何であるか・ということ」であらわされる概念的一般者であるのに対して、元型的「本質」は「無」が「有」に向かって動き出す、その起動の第一段階に現成する根源的存在分節の形態であって、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組」が濃密に反映している。キリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラが決して現われないように。
ただどの文化においても、人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。
そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、根源的存在分節のありかたである。
***************
禅者の「正覚」意識の見るがままに、全存在世界の「元型」的「本質」構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものだ。
マンダラは、第一義的には、意識のM領域に顕現するすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。
そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互連関の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根ざしている。
因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻湊する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。
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人間とは計り知れないものです。だからこそ、いい方向への可能性を常に感じています。
勉強はなんでも深めていけばいくほど楽しい!
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<本の内容>
なぜ坐禅するのか? 禅問答の意味は? 公案とは何か?
禅に興味を持つ人が知りたい疑問に著者が明快な論理で答える。
祖師の問答を解説し、仏教思想の流れを平易に説明しながら、観念的な教理や神秘思想といった歴史の垢をそぎ落としたときに現れる、仏陀の直系としての禅のラディカルな行動の思想を明らかにする。日本では知られていないヴェトナム禅の公案集「課虚」の邦訳を付す。
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日本語の目次は
第1章 マインドフルネスの修行
第2章 一杯のお茶
第3章 庭の柏の木
第4章 山は山、川は川
第5章 空の足跡
第6章 人間性の復興/付録 課虚
となっています。
英語版も読んだのですが、英語で表現する方が禅(Zen)は分かりやすい時もあります。
言語による概念化(コンセプト)から自由になることを禅では求めるので、異国の国の方が言語に対する先入観が少ないからなのかもしれません。
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Zen Keys: A Guide to Zen Practice
Thich Nhat Hanh
Three Rivers Press
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<INDEX>
1.The Practice of Mindfulness
The little Book
Necessary Awareness
Mindfulness
2.A Cup of Tea
Seeing into One's Own Nature
Bodhidharma's Statement
The Buddhist Revolution
Not-Self
Things and Concepts
The Interbeing of Things
The Vanity of Metaphysics
Experience itself
The Moment of Awakening
3.The Cypress in the Courtyard
The Language of Zen
The Finger and the Moon
"If you Meet the Buddha, Kill Him!"
"Go and Wasb Your Bowl"
The Good reply
The Kung-an and Its Function
The Significance of the kung-an(公案)
Chao-Chou's "NO!"
Emerging the Circle
The Mind Must be Ripe
4.Mountains are Mountains and Rivers are Rivers
The Mind Seal
True Mind and False Mind
Reality in Itself
The Lamp abd Lampshade
A Non-Conceptual Experience
The Principle of Non-Duality
Interbeing
5.Footprints of Emptiness
The Birth of Zen Buddhism
Zen and the West
Zen and China
The Notion of Emptiness
Complementary Notions
Anti-Scholastic Reactions
Return to the Source
The A Which Is Not A Is Truly A
Penetrating Tathata
Subject and Object
The Three Gates of Liberation
The Eight Negations Of Nagarima
The Middle Way
The Vijnanavada
School
Classification of the Dharmas
Conscious Knowledge
Method of Vijnanavada
Alaya as the Basis
The Process of Enlightment
6.The Regeneration of humanity
Monastic Life
The Retreats
The Encounter
The Role of the laity
Zen and the World of Today
Future Perspectives
Is Awalening Possible?
Spirituality versus Technology
7.Lessons in Emptiness
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ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh 釈一行、1926年10月11日 - )はベトナム出身の禅僧・平和運動家・詩人で、平和活動に従事する代表的な仏教者です。行動する仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもあります。アメリカとフランスを中心に活動を行なっている禅僧です。
ちなみに、この本のちゃんとした書評を読みたいお方は、松岡正剛さんの書評を読んでもらう方が賢明です・・・(^^:
さらにちなみに、この本を訳している藤田一照さんの座禅観はとても面白いです。
以前、偶然NHKの番組で見て感動しました。
最近本も出されたようで、購入済みです(まだ読んでない)。
○藤田一照「現代坐禅講義―只管打坐への道」佼成出版社 (2012/7/24)
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この本はとても面白かった。禅の勉強になりました。
最初にフィリップ・カプロ―という禅僧のまえがきがあるのですが、それ自体がすでに刺激的。
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フィリップ・カプロ―(禅僧)
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本当の敵は人間ではなく、ひとりひとりの心の中に巣くうむさぼり、怒り、妄想なのだ。
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何をしている時であっても「はっきりと目覚めている」生き方から生まれてくる深い気付き(awareness)を通して、存在の真理が浮かび上がる。
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禅においてはすべての行為は自己を実現するための媒介となる。
あらゆる行為は全身全霊をもって、あますところなく自己のすべてをあげて行われる。
それは仏を表現すること(Expression of buddha)。
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禅的自覚に入る、「目覚める(wake up)」とは、統制の利かない思考という、いわば習慣のようになってしまった病がこころから一掃され、純粋なこころ本来の状態に戻ることに他ならない。
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禅では静かに座禅の修行をするより、世俗の真っただ中でする修行の方がより強大な力を発揮すると言われている。「自分自身のために働く(work for oneself)」ことが大事だ。
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真の創造は、心からあれこれの物思いがなくなり、手元の仕事に完全に専心しているときにのみ可能となる。
仕事と一如になると、超越と成就の喜びが味わえ、創造的行為のうちでこそ直感的叡智と喜びがおのずから働きだす。
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無時間的なものはことばでは説明されえないのだ。
我々が知りうるのは概念的で有限な世界でしかなく、それはアクチュアルな真実の世界からは程遠い。
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集中した気づきの心、人為的な生活に対抗する簡素さと自然さのある規律取れた生活、自己中心的で攻撃的な生活ではなく、我々自身と世界の安寧に慈愛深く関わって行く生活という、もっと広い意味での禅である。
短く言えば、ものの自然な秩序にあらがい葛藤状態にある生活ではなく、それと調和した生活のことである。
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人が豊かであるというのは、何を所有しているかによるのではなく、尊厳さを持って何を持たないでいることができるかによるのだ。
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人里離れた自然の中でひとりで座禅を組んで悟りを開いて、悟りや座禅そのものが目的になってしまうと、それは自己完結してしまいます。そのことを手段して何に使うのかが重要な気がしています。どんなもんでも善にも悪にも応用しうるものですし。閉鎖的になり自己完結してしまうと、自我肥大につながり、たいてい色んな物事はおかしくなります。現実という地(そこには自我ではとらえることができない途方もない色んなものごろがありますし)に足がつくことは重要かと。
「世俗の真っただ中でする修行の方がより強大な力を発揮すると言われている」というのはその通りですよね。
この世の中では思い通りにならないことがほとんどですが、「思い通り」になるというのはある意味危険な状況ですし。
酸いも甘いも日常の中で負けないように自分の心の修行の場ととらえ、それでいて「自利利他」であることが大事な気がしています。
座禅も悟りも、あくまでも何かの手段。そこを目的にすると、そこは行き止まり。
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「沙弥律儀要略」
『時間と人生は貴重なものであるから、それを放逸のうちに浪費してはならないということを肝に銘じよ』
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「酔生夢死」
『うっかり生きているのなら、夢を見ている間に死んでしまうぞ』
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浄・不浄、増・減、こうした概念はこころのなかにあるだけだ。
inter-being(相互依存的存在)の真実相はそういう二元性を越えている。
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Mindfulnessは、すべての存在や行為に光をあてるエネルギーであり、集中力を生みだし、深い洞察を目覚めをもたらします。
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自分にしている事に気づきの光を当てるということは、うっかりしたこころの状態から生じるあやまった知覚や、周囲の出来事が自分の中に侵入してくることに対して、抵抗をはじめるということなのです。
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禅仏教の狙いは、真実をはっきり見ること、つまり物事をありのままに見ることです。
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智慧をもたらす過程を三学と言います。
戎(シーラ)・定(サマーディ)・慧(プラジュニャー)です。
戎(シーラ)とは、マインドフルネスの修行に基づいた、自分自身の洞察から生まれてくるものなのです。
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禅を学ぶものは、自己の存在すべてを証(さとり)の道具としてつかわなければいけません。
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自分を完璧に統御する事ができ、完全な自由をわがものにして、幸・不幸や人生上のあらゆる浮き沈みを、絶対的な平静さと明晰さをもって見ることのできる精神的な力をそなえた人。
菩提達磨(ボディーダルマ)とはそういう理想的人物像のことなのです。
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彼の人格の本質は、絶対的真実とは何かという問題に対して彼のとった哲学的立場とか、その不屈の意志力にあるのではありません。
自分自身の心と生命の真実に対する深い洞察にこそあるのです。
禅では、その洞察のことを「見性(自己の本性を徹見すること)」という言葉で表現します。
このまったく新しい理解・洞察から、深い平安とこの上ない静寂が生み出され、無畏(恐れがないこと)という特徴を持つ精神的な力が生まれます。
見性、すなわち自己の本性を徹見することが、禅の目標に他なりません。
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「真実をはっきり見ること、つまり物事をありのままに見ること」とは、誰かが作った夢から覚めること、でもあると思います。
社会や誰かがつくり出した集合的な幻影のような夢のまどろみの中にいることがあります。
自分が子供のころを思い出すと、すべての偏見や固定観念から自由だった状態を思い出します。それこそ「初心忘るべからず」。どんな物事にも「初心」という初めのときがあって、そのときは見るものすべてが新鮮で斬新で面白かったはずです。その感覚を失うということは、自分の感覚をなおざりにしていることではないでしょうか。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分の頭で考える。これは簡単なようで勇気がいることです。そういう転換点がどんな人の人生にもあるはずです。
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教外別伝(経典以外に別に伝えられるものであり)
不立文字(言葉や文字に頼らず)
直指人心(人の心を直接に指し示して)
見性成仏(自己の本性を徹見して、仏になる)
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サンスクリット語のBudhは、「知る」を意味し、後に「目覚める」の意味を持つようになりました。
仏教とは目覚めの教え、洞察と智慧の教えです。
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ブッダが生まれた当時のインドは、バラモン教の伝統的権威がすべてを支配していました。
ヴェーダの啓示、ブラフマーのこのうえなき神聖性、生贄の神秘的力、の三つが根本原理となっています。仏教は、ヴェーダの絶対的な権威に反対し、カースト制度と闘いました。
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仏教では、くせ(習癖)と思い込み(先入観)を取り除くために思い切った方法がしばしばとられます。
はじめ、釈尊は先入観を壊すために、「無我」(アートマン我に対して、アナートマン無我)の考えを用いました。「我」は単なる概念でしかない。何ものもそれ自体の内に絶対的な同一性(自性)をもっていないということです。
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無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な指導原理として学ばなければいけません。
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たとえば、この机は時間的にも空間的にも、「机ではない要素」からのみ成立しています。机が存在しているということは、すべての非机的要素が存在しているということ、言いかえれば全宇宙が存在している事を示しているのです。
華厳思想の中では、「重々無尽の縁起」と言う言葉で表現されます。
「一即多、多即一」ということです。わたしはそれをinter-being(相互依存的存在)と呼んでいます。
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あるものを見るとき、それをひとつの独立した実体とは見なさず、真実全体の顕現(あらわれ)として見るのです。
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禅僧ダオ・ハン
『もしひとつのものが存在するならあらゆるものが存在する、それがたとえ一片の塵であっても。 もしひとつのものが空無ならば、すべてのものが空無である、それがたとえ全宇宙であっても。』
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すべてのものは何らかの形でつながっています。
この世界にはどこにも切れ目はなく、切れ目をつくるのは言語であり、人間の意識の問題です。
このことは、井筒俊彦先生が鋭く考察されているので、また別の機会にご紹介したいです。
○井筒俊彦「意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 東洋哲学覚書」(1993/3)
言語や意識は僕らがよりよく生きるための手段であり道具なはず。
そこにとらわれ、縛られることの危険性を禅では主張していると感じます。
それはくせ(習癖)と思い込み(先入観)として現実世界に現れる。
その根本歴なことを気付くために、ブッダは「無我」と表現した。
<「我」自体も単なる概念でしかないのではないでしょうか?>と問うたのです。
「我」がないとしたら、生も死もありません。わたしもあなたもありません。そういう分別心(分ける)がなくなれば、僕らは生まれ変わることができるのでしょう。
気功の中先生も、「<さとり>とは、<差を取ること>だ。」とおっしゃっていたのが印象的でした。そういうシンプルな感覚なのでしょう。そのことは慈悲、いつくしみやかなしさ、優しさなどにも通じていく世界だと思います。
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概念は真実を忠実に反映する事はできません。
釈尊は、形而上学的な思弁に、時間とエネルギーを浪費してはいけない、と、弟子たちに語りました。
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直接経験を通じてのみ、真実には到達する事ができます。
唯識では、概念化を「分別智」と言い、概念を経ずに直接真実を経験する能力を「無分別智」と言います。
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禅は語られるべきものではなく、じかに経験されるべきものです。
この目覚めはその人の内側に留まらず、太陽のようにおのずと光を放ちます。
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目覚めた人には特有の印があります。何よりもまず、その人には自由があります。さらに、その人には冷静さ、なんともいいようのない微笑み、そして深い落着きとして外に現れる精神的な力が備わっています。
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禅の言葉は概念で考える習癖を壊すことが目的ですので、禅の言葉は危機的な状況を引き起こす事が多いのです。それによって目覚めという貴重な瞬間を生み出そうとしているのです。
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言葉によって、分別(分ける働き)という現象がおきます。
禅では、言葉で切りこみが入る前の世界、この世界が切れ目なく連続している「無分別」の世界(真如)を感じさせようとしますので、それはまるで宇宙空間に取り残されるような状態です。
その状態を不安定で恐ろしいと感じるか、不安定の中の絶対的な安定さを感じて無上の喜びや感動を受けるのか・・・。
どんな直接体験でも、ショックを受けたり、ガーンときたり、グサッと来たりする体験はとても重要ななのだと思います。
それは、何か自分の固定概念が崩されたしるしです。
ただ、それが「おそれ」や「不安」と勘違いすると、以前抱えていた同じ固定概念(偏見)を再度強固に作り直そうとしてしまいます。それはさらに固い殻に覆われるようなもの。
そうではなく、それをさらに大きく広く包含する器をつくればいいのです。そして、それは伊勢神宮の本殿のように、定期的に壊して再構築すればいいだけのこと。
そうして、僕らの心は柔らかく柔軟なものへと成長していくのだと思いますね。それは、多様性を受け入れる素地になります。
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「円覚教」
『ブッダのといたことのすべては、月を指す指であると理解しなければいけない。(指月の喩え)』
指を月そのものだと思い込んだ途端に、指が指す方向を見ることを止めてしまうことに注意をしているのです。
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仏教には、8万4千もの法門、つまり真実への入り口があると言います。
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禅の方便の働きは、知識や偏見と言う牢獄から人を解放する事です。
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禅を学ぶものは、真理がはいってこれるように、知識へのとらわれから自由になり、こころの戸を開けることができるよう努めなければいけません。
「臨在録」
『逢仏殺仏。逢祖殺祖。(仏に会ったら仏を殺せ。祖師に会ったら祖師を殺せ。)』
真理とは真実そのものであり、それについての概念ではないのです。真実が姿を現すためには、真実についての「概念」を「殺す」必要があるのです。
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登山に登り口や登り方が無限にあるように、仏教でも「真実」という山への入り口には「8万4千もの法門」があると言ってくれている。それだけ、人間の心や人生が多様であることを認めているのでしょう。
それぞれ、人に依存せずに人のせいにせずに、自分の意志で山を登ることが大事なのでしょう。
登るべき山をどんなに頭で重い浮かべても、行ったことがなければそれはあくまでも「概念」に過ぎません。頭の中で都合よくこしらえたものです。
そういう意味で、真実についての「概念」を「殺す」必要があると、やや挑発的な言葉で表現しているのでしょう。
それだけ痛みを伴うプロセスである、ということも示唆しているのだと思います。
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本当の家に帰ること、自分の本性を見るためには、自己のひとつひとつの行為に光を当てること、いかなるときもマインドフルネスの状態で生きることによって行います。
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生きるということは概念ではなくそれ以上のものなのですから、概念とやり取りをしてその中で迷い続けてはいけません。
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心印を受け継ぐというのは、自分の本性をはっきり見ることなのです。
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真心とは存在そのものの清浄にして輝ける本性です。
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曹洞禅では、座禅での5つの原則を示しています。
只管打座(主題を持たず座禅するだけで十分である)
修証一如(座禅と覚りは異なった二つのものではない)
待悟禅の否定(覚りを待ち望んではいけない)
無所得無所悟(獲得しなくてはならない覚りは存在しない)
心身一如(心と体がひとつになっていなければいけない)
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道元
『一心一切法。一切法一心。山河大地日月星辰これ心なり
(こころはすべてである。すべての現象はこころである。そのこころは川や山や月や太陽をうちに含んでいる。)』
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覚りを開いた人は概念によって限定されることがありませんし、概念の虜になることもありません。
概念はいまやその人が自由に使いこなす、このうえない「方便」になっているのです。
一切の事物の本性である完全で分別を越えた存在を十分に自覚しながら、ものを見、聞き、します。
つまり、事物をinter-being(相互依存的存在)において深く見るのです。
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「概念」に振り回されてはいけませんよね。
それは法律でも慣習でもなんでもそうです。それは常に僕らが使う手段であり道具であるはずなのですから。
自分の本性を見ることを「本当の家に帰ること」と表現しています。
家に帰る為には、一度家を出ないといけない。それが思春期であり若い修行の時期なのでしょう。そこで一度不条理な社会の荒波にもまれる必要がある。
でも、そこで誰かの催眠状態で満足する(誰かの家に住まい続ける)ので満足するのではなく、いづれは自分の本当の家にかえらなければいけない。旅をして、いろんな成長をして、自分の家に帰るのです。
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金剛教には、AではないAが本当のAである、という形式の表現が数多く見られます。
真実は概念的に考えることはできませんし、言葉で記述する事も出来ません。それはかくある(如)として言いようがないのです。これが真如という言葉の意味するところです。
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空(くう)は有という概念の反対概念ではありません。
空は手段として与えられたものであって、それを真実そのものと理解してはいけません。
それは月を指す指であり、月そのものではないのです。
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現代の日常生活は、精神を消耗させ、時価を食いつくすようなものになっています。
自分自身に気付き、より深い自己に立ち返る機会などどこにもなくなっているのです。
私たちは、いつも何かに「占領されている」ことに慣れきっているのです。
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今日の生活は「理性」に従い組織されています。自分の存在のほんの一部である知性や意識だけを使って生活しているのです。より深くより重要な部分は無意識にあります。
私たちの存在の根が食い込んでいる根本的基盤である「蔵識(アラヤ識)」は、理性や意識そのものでは分析する事はできません。
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「蔵識(アラヤ識)」は生命と精神の深い基盤ですが、意識とマナ識は要素や観念や概念を思案する場所です。
アラヤ識は、有と無の基盤です。アラヤ識は、諸法において顕現するエネルギーと本質を保存し維持します。これらのエネルギーと本質は種子(しゅうじ:ビージャ)と呼ばれます。マナ識と意識はアラヤ識を基盤として顕現します。
この過誤から生じてくる根はアラヤ識の中に押し込めれますが、それは随眠と呼ばれます。
inter-being(相互依存的存在)について瞑想する修行者は、アラヤ識の核心部で変化を起こします。これらの変化は随眠の根を変容させ、無効なものにします。
悟りはこの変容の成果であり、それは転依(てんね)と呼ばれます。玄奘によれば、この言葉は転換とよりどころという意味を持っています。
転換とは破壊する事ではありません。よりどころとは、依他起性(inter-being)のことです。
依他起性の原理を基盤として用い、無明の種子と根を、悟りの種子と根に変換するのです。
この転換はマナ識と意識で起こるのみではなく、アラヤ識そのものの中心部でも起こります。
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自分が変わる時、生命と精神の深い基盤である「蔵識(アラヤ識)」と呼ばれる深い深い意識できない場所で起こります。それほど、僕らは深い場所にある生命(精神)エネルギーのような泉の力で生かされているとも言えます。
この「蔵識(アラヤ識)」で眠っている「種子(しゅうじ:ビージャ)」に、光や水を与えることで、春が訪れそこから芽吹きます。
そういう深い場所で眠っている種に光や水を与えるきっかけをつくるのは他ならない自分自身なのでしょう。深い場所であるからこそ、表層に何重にもコーティングされている偏見というバリアを一度取り除いて、深い場所にも光や養分を与える必要がある。
そういうことを、あまり概念や言葉にとらわれず、何度もアプローチしていきなさい、と禅では教えているようです。
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引用が思わず長くなってしまった。
とてもとてもいい本でした。定期的にこの場所に戻ってきたい。定期的に読むためにとてもいい本です。
ティク・ナット・ハンさんがとても頭が柔らかく自由な発想をされるので、難しい話もとてもよくわかります。
仏教やブッダのことをを少しずつ勉強しています。
最初は意味不明だったことも、繰り返し学ぶと深くわかるようになりますね。
それは、数を覚え、足し算引き算を覚え、方程式を覚え・・・というようなものでしょう。最初は、ある程度乱読して勉強しないとわからないものです。
ただ、こういう勉強も、それが目的にならないように気をつけています。自己目的化。それは袋小路。
医療の世界に応用しながら、<自利>だけでも<利他>だけでもなく、<自利利他>の精神を保ちつつ、何かの手段として勉強をしていることを忘れないようにしないといけないと、心がけています。
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ちなみに、禅では人間の意識状態のことを繰り返し言っています。
意識状態こそが、この世界の色んなものを形作っていく。
偏見も、愛も、そういう意味では表裏一体な気がします。そこを促す精神エネルギーは同じような物で、その使うべき方向性や質をこそ間違わないよう注意しないといけませんね。
意識やコトバの本質は井筒俊彦先生の著作を重ねてよむとさらに深くわかります。(井筒先生の学問へのあふれるような情熱も伝わってきます。)
井筒俊彦先生の「意識と本質」より
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深層意識はそれ自体多層構造を持っている。
現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。
A:表層意識
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面
Z:「意識のゼロ・ポイント」
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言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものが「シンボル」である。
「シンボル」はM領域を本来の場所とし、そこは「創造的想像力」が充満する内部空間。
この「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界の只中にやってくる。
このエネルギーの照射を受けると、それまで平凡に見えていた日常的事物(たとえばただの花)が、たちまち象徴性を帯びる。われわれ仏教文化圏における蓮の花を思えばいい。(英語圏のキリスト教徒にとって蓮はただ泥沼に咲く花<lotus>であり、「浄土」を象徴する<蓮華>を意味することはない。はるか紀元前のギリシア神話ではまた少し事情が違うが。)
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言語アラヤ識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすマンダラは、「元型」的「本質」の描き出す深層意識的図柄であって、経験的事物そのものの構造体ではない。
表層意識の見る経験的事物は、そのままでは決してマンダラを描かない。
深層意識的事態と表層意識的事態との間には、きっぱり一線が劃されている。
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理性の捉える「本質」が、「それは・何であるか・ということ」であらわされる概念的一般者であるのに対して、元型的「本質」は「無」が「有」に向かって動き出す、その起動の第一段階に現成する根源的存在分節の形態であって、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組」が濃密に反映している。キリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラが決して現われないように。
ただどの文化においても、人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。
そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、根源的存在分節のありかたである。
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禅者の「正覚」意識の見るがままに、全存在世界の「元型」的「本質」構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものだ。
マンダラは、第一義的には、意識のM領域に顕現するすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。
そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互連関の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根ざしている。
因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻湊する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。
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人間とは計り知れないものです。だからこそ、いい方向への可能性を常に感じています。
勉強はなんでも深めていけばいくほど楽しい!