本を同時並行で読んでいるので、読んでいる本に統一性がありません。
村上春樹さんの「1Q84」を読んで、そこからカルト宗教について考えていた。
村上春樹さんが「1Q84」で僕らに出した問いや宿題のようなものは、「アンダーグラウンド」(講談社文庫)、「約束された場所で -underground 2」(文春文庫)から連続して問い続け、考え続けていたのだと思った。
「アンダーグラウンド」は単行本が1997年。「約束された場所で」は単行本が1998年の作品。もう10年近く前になるのか。
特に、「約束された場所で」(文春文庫)。
「悪」や「宗教」を入口に、河合隼雄さんとの対話ですごく深い部分をえぐった考察が入っていてとても面白い。
特に印象に残った一説を、いまさらながら紹介したい。
======================
P273
悪というのは、僕にとっての一つの大きなモチーフでもあるんです。
悪の一面については書けるんです。
たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。
でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。
======================
======================
P285
こんなに多くの人を惹きつけるストーリー性とはいったいどんなものだったのか。そしてそのようなストーリがどうしてあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか。
そう考えていきますと、物語には善き物語と悪しき物語があるんじゃないか
・・・・
P287
ある現実的な部分でそのネガティブ性が本人を超えちゃうと、それは致死的なファクターを帯びてくるんじゃないかと
・・・・・
P288
物語の本当の影とか深みとかを出すのはほとんど全部ネガティブなものなんです。ただそれをどこで相対的な世界と調整していくか、どこで一本の線を引くか、それが大きな問題になると思います。
======================
======================
P291
ただし、そのようなネガを飲み込むより大きなポジがあれば、それはうまく行くと思うんです。言い換えれば、物語を飲み込んでいく、より大きな物語ということです。
結局のところ、それは善悪の勝負というよりは、スケールの勝負になるんじゃないかと思います。
・・・・・・
個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるんじゃないか
======================
======================
P295
僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追及するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。
・・・
でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に最終的責任を引き受けるか、というところですよね。
・・・・・・
僕らが世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその中に箱があって・・というやつです。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もう一つ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。
そのような理解が我々の世界に影を与え、深みを与えているわけです。音楽で言えば倍音のようなものを与えている。
======================
======================
P311
誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。
だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです。
・・・・・・・
悪というのは人間というシステムの切り離せない一部分として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。
それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしたりできるものでもない。
というか、それは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。
つまり、こっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような。
ところが、それだけでは説明のつかないものも確かにあるんです。
純粋な悪というか、悪の腫瘍みたいなものがわっと結集して出てくる場合があるような気がします。
======================
======================
P314
ほんとうの良い音楽というのはいろんな陰がありますよね。哀しみや喜びの陰みたいなのが。
・・・・・・・・
僕は音楽というのは人間の心理ともっとも密接に結びついているものだと思っている
======================
======================
(あとがきから)
P327
オウム真理教事件にあるものは、「広い世界観の欠如」と、そこから派生する「言葉と行為の乖離」である。
P329
「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」
「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたを復讐するでしょう」
P331
どこかで致命的な「ボタンの掛け違え」が始まる。現実の相が少しずつ歪み始める。約束されたはずの場所は、ふと気がついたときには、もはや自分が求めていたものではない場所に変わってしまっている。
マーク・ストランドの詩が語っているように、そこでは「山々はもう山ではなく、太陽はもう太陽ではない」のだ。
======================
・・・・・・・・・・
ここまでは引用と紹介。
ここからは感想。
現実世界には、自分が予期せぬいろいろなものが転がっている。予期せぬことは大抵不条理なこととして記憶されやすい。うれしい、たのしいという正の感情だけではなく、辛さ、怒り、哀しみ、裏切り・・などの負の感情のときもあるかもしれない。負の力は強く刻印されるから、記憶の表面には負の感情ばかりがプカプカ浮かびやすい。
あるがままの現実。それに耐えきれなくなるとき、それを「塵ひとつない清浄な世界」に作り替えてしまうと、すでにそれは現実を歪ませたものにすぎなくなっている。
歪んだ現実は、あるがままの現実の中にある一つの小さな箱にすぎない。
「塵ひとつなく清浄で光と慈愛に満ちた」世界は、内的な精神世界では容易に到達できるかもしれない。
空想や妄想や想像と精神世界を連結させることで、「塵ひとつない」「光と慈愛に満ちた」世界を作り出し、その小さな箱を巨大な箱として見せかけだけは提示することもできるかもしれない。自分のイマジネーションの世界の中では、基本的には誰にも邪魔されないからだ。
そんな清浄で穢れのない精神世界と現実ではどうしようもない乖離がある。
想像が膨らめば膨らむほど、その溝、大きくなると断絶に耐えられないかもしれない。
そこで引き裂かれると、自分が裂けるような分裂するようなバラバラになる思いをする人もいるだろう。
ただ、現実は常に変化して一定ではないものだ。
世界は無常であるけれど、それを認識する私も、あなたも、全てが無常である。
それは、ひとつの救いでもある。
たとえば、本を読み返す時に、その本から全く違う印象を受けることがある。
それは、本という固定化した情報を通して、変化している自分を合わせ鏡で感じているのだと思う。
この世も塵がなく美しく素晴らしい世界に見える日もあれば、ゴミだらけで汚い欺瞞に満ちた世界に見える日もあるだろう。
ただ、それは世界が変化しているからでもあるけれど、同時並行で自分が変化しているからでもある。
自分の心や言葉やあり方が変化することで、世界は大きく変貌していく。
それは、同時に起きる。暫定的にはどちらかを固定して考えてみるけれど、変化は同時に起きる。
同時に変化する変数を同時並行で考えにくいだけだ。
自分は変わらない存在と信じ込んでしまうと、世界が勝手に変貌していると思いこんでしまう。
そこで整合性を保つために外に広がる世界だけを歪ませていこうとすると、それと対応して自分も更にいびつに歪んでいく。
その結果、色々なものを無理やり歪ませていくことで安定を保つようになってしまう。
別の見方でいえば、「全体」を都合のいい「部分」で切り取って、その「部分」の歪みの無理やり整合性を保たせると、結果として全体の中に「自分」という存在がゆがんでいかざるを得ないのかもしれない。
僕らは目で世界を見ている。
視覚能力は、絵画や写真のときと同じように「全体」から「部分」へと世界を認識していくシステム。
1900年頃から映像やテレビが発達した。ここ100年は視覚やイメージ優位の世界だったのかもしれない(NHKスペシャルの「映像の世紀」というのもそれを象徴している?)。
このあるがままの現実の中に、小さい箱に過ぎない歪んだ現実世界を作りその箱の中に閉じこもる。
そして、それが全てだと錯覚する。
このあるがままの現実自体も、実は大きい箱の中の一つの小さい箱にすぎないのではないかと疑ってみること。
この世界が、そんな無限の入れ子構造になっているのを感じる瞬間がある。もちろん、どこかに着地しないといけないので、暫定的に自分の箱を決めるわけだけれど。
ただ、そうして自分の立ち位置を相対的に突き放してみることができると、自分の認識世界が果てしなく無限に広がるように感じる時があって、そんな瞬間を自分が成長しているように感じる。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚・・・という複合的な認識システムを前提に人体は作られている。
僕らはそういう人体システムの箱ののぞき穴から世界を感じているようなものだ。
人体という箱にも、子供の箱、老人の箱、女性の箱、弱者の箱・・いろんな種類の箱がある。
人体に限らずとも、昆虫、植物、鉱物・・・いろんな箱から見た世界がある。
さらにその箱が重層的に無限に重なり連なっているのがこの世界とも言える。
権威や地位やお金も、宗教で求める解脱も悟りもなにもかも、それは常にある小さい箱の中での話にすぎない。それを突き放してみると「おとぎ話」ともいえる。
そして、自分が生きている箱自体が、さらに大きい箱に包まれているということを感じる。
そういう無限の連なりを人生と重ねていけるかどうかが、大事なことなんじゃないかと思う。
それは繰り返し。果てがない。だけど、果てがないから、時間は流れている。
イマという瞬間だけではなく時間が流れているのは、そういう風な人生の幅を目いっぱい感じるために大事な要素だ。
そんな色んなことを、この本を通して考えさせられました。
まさしく、「人生、いろいろ」です。
村上春樹さんの「1Q84」を読んで、そこからカルト宗教について考えていた。
村上春樹さんが「1Q84」で僕らに出した問いや宿題のようなものは、「アンダーグラウンド」(講談社文庫)、「約束された場所で -underground 2」(文春文庫)から連続して問い続け、考え続けていたのだと思った。
「アンダーグラウンド」は単行本が1997年。「約束された場所で」は単行本が1998年の作品。もう10年近く前になるのか。
特に、「約束された場所で」(文春文庫)。
「悪」や「宗教」を入口に、河合隼雄さんとの対話ですごく深い部分をえぐった考察が入っていてとても面白い。
特に印象に残った一説を、いまさらながら紹介したい。
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P273
悪というのは、僕にとっての一つの大きなモチーフでもあるんです。
悪の一面については書けるんです。
たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。
でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。
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P285
こんなに多くの人を惹きつけるストーリー性とはいったいどんなものだったのか。そしてそのようなストーリがどうしてあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか。
そう考えていきますと、物語には善き物語と悪しき物語があるんじゃないか
・・・・
P287
ある現実的な部分でそのネガティブ性が本人を超えちゃうと、それは致死的なファクターを帯びてくるんじゃないかと
・・・・・
P288
物語の本当の影とか深みとかを出すのはほとんど全部ネガティブなものなんです。ただそれをどこで相対的な世界と調整していくか、どこで一本の線を引くか、それが大きな問題になると思います。
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P291
ただし、そのようなネガを飲み込むより大きなポジがあれば、それはうまく行くと思うんです。言い換えれば、物語を飲み込んでいく、より大きな物語ということです。
結局のところ、それは善悪の勝負というよりは、スケールの勝負になるんじゃないかと思います。
・・・・・・
個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるんじゃないか
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P295
僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追及するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。
・・・
でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に最終的責任を引き受けるか、というところですよね。
・・・・・・
僕らが世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその中に箱があって・・というやつです。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もう一つ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。
そのような理解が我々の世界に影を与え、深みを与えているわけです。音楽で言えば倍音のようなものを与えている。
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P311
誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。
だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです。
・・・・・・・
悪というのは人間というシステムの切り離せない一部分として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。
それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしたりできるものでもない。
というか、それは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。
つまり、こっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような。
ところが、それだけでは説明のつかないものも確かにあるんです。
純粋な悪というか、悪の腫瘍みたいなものがわっと結集して出てくる場合があるような気がします。
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P314
ほんとうの良い音楽というのはいろんな陰がありますよね。哀しみや喜びの陰みたいなのが。
・・・・・・・・
僕は音楽というのは人間の心理ともっとも密接に結びついているものだと思っている
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(あとがきから)
P327
オウム真理教事件にあるものは、「広い世界観の欠如」と、そこから派生する「言葉と行為の乖離」である。
P329
「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」
「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたを復讐するでしょう」
P331
どこかで致命的な「ボタンの掛け違え」が始まる。現実の相が少しずつ歪み始める。約束されたはずの場所は、ふと気がついたときには、もはや自分が求めていたものではない場所に変わってしまっている。
マーク・ストランドの詩が語っているように、そこでは「山々はもう山ではなく、太陽はもう太陽ではない」のだ。
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・・・・・・・・・・
ここまでは引用と紹介。
ここからは感想。
現実世界には、自分が予期せぬいろいろなものが転がっている。予期せぬことは大抵不条理なこととして記憶されやすい。うれしい、たのしいという正の感情だけではなく、辛さ、怒り、哀しみ、裏切り・・などの負の感情のときもあるかもしれない。負の力は強く刻印されるから、記憶の表面には負の感情ばかりがプカプカ浮かびやすい。
あるがままの現実。それに耐えきれなくなるとき、それを「塵ひとつない清浄な世界」に作り替えてしまうと、すでにそれは現実を歪ませたものにすぎなくなっている。
歪んだ現実は、あるがままの現実の中にある一つの小さな箱にすぎない。
「塵ひとつなく清浄で光と慈愛に満ちた」世界は、内的な精神世界では容易に到達できるかもしれない。
空想や妄想や想像と精神世界を連結させることで、「塵ひとつない」「光と慈愛に満ちた」世界を作り出し、その小さな箱を巨大な箱として見せかけだけは提示することもできるかもしれない。自分のイマジネーションの世界の中では、基本的には誰にも邪魔されないからだ。
そんな清浄で穢れのない精神世界と現実ではどうしようもない乖離がある。
想像が膨らめば膨らむほど、その溝、大きくなると断絶に耐えられないかもしれない。
そこで引き裂かれると、自分が裂けるような分裂するようなバラバラになる思いをする人もいるだろう。
ただ、現実は常に変化して一定ではないものだ。
世界は無常であるけれど、それを認識する私も、あなたも、全てが無常である。
それは、ひとつの救いでもある。
たとえば、本を読み返す時に、その本から全く違う印象を受けることがある。
それは、本という固定化した情報を通して、変化している自分を合わせ鏡で感じているのだと思う。
この世も塵がなく美しく素晴らしい世界に見える日もあれば、ゴミだらけで汚い欺瞞に満ちた世界に見える日もあるだろう。
ただ、それは世界が変化しているからでもあるけれど、同時並行で自分が変化しているからでもある。
自分の心や言葉やあり方が変化することで、世界は大きく変貌していく。
それは、同時に起きる。暫定的にはどちらかを固定して考えてみるけれど、変化は同時に起きる。
同時に変化する変数を同時並行で考えにくいだけだ。
自分は変わらない存在と信じ込んでしまうと、世界が勝手に変貌していると思いこんでしまう。
そこで整合性を保つために外に広がる世界だけを歪ませていこうとすると、それと対応して自分も更にいびつに歪んでいく。
その結果、色々なものを無理やり歪ませていくことで安定を保つようになってしまう。
別の見方でいえば、「全体」を都合のいい「部分」で切り取って、その「部分」の歪みの無理やり整合性を保たせると、結果として全体の中に「自分」という存在がゆがんでいかざるを得ないのかもしれない。
僕らは目で世界を見ている。
視覚能力は、絵画や写真のときと同じように「全体」から「部分」へと世界を認識していくシステム。
1900年頃から映像やテレビが発達した。ここ100年は視覚やイメージ優位の世界だったのかもしれない(NHKスペシャルの「映像の世紀」というのもそれを象徴している?)。
このあるがままの現実の中に、小さい箱に過ぎない歪んだ現実世界を作りその箱の中に閉じこもる。
そして、それが全てだと錯覚する。
このあるがままの現実自体も、実は大きい箱の中の一つの小さい箱にすぎないのではないかと疑ってみること。
この世界が、そんな無限の入れ子構造になっているのを感じる瞬間がある。もちろん、どこかに着地しないといけないので、暫定的に自分の箱を決めるわけだけれど。
ただ、そうして自分の立ち位置を相対的に突き放してみることができると、自分の認識世界が果てしなく無限に広がるように感じる時があって、そんな瞬間を自分が成長しているように感じる。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚・・・という複合的な認識システムを前提に人体は作られている。
僕らはそういう人体システムの箱ののぞき穴から世界を感じているようなものだ。
人体という箱にも、子供の箱、老人の箱、女性の箱、弱者の箱・・いろんな種類の箱がある。
人体に限らずとも、昆虫、植物、鉱物・・・いろんな箱から見た世界がある。
さらにその箱が重層的に無限に重なり連なっているのがこの世界とも言える。
権威や地位やお金も、宗教で求める解脱も悟りもなにもかも、それは常にある小さい箱の中での話にすぎない。それを突き放してみると「おとぎ話」ともいえる。
そして、自分が生きている箱自体が、さらに大きい箱に包まれているということを感じる。
そういう無限の連なりを人生と重ねていけるかどうかが、大事なことなんじゃないかと思う。
それは繰り返し。果てがない。だけど、果てがないから、時間は流れている。
イマという瞬間だけではなく時間が流れているのは、そういう風な人生の幅を目いっぱい感じるために大事な要素だ。
そんな色んなことを、この本を通して考えさせられました。
まさしく、「人生、いろいろ」です。
GO TO HELL
少し内容の意味がわかりかねますので何ともコメントしようがありませんが・・・。
わざわざ書きこんでいただいたということは、何らかの御縁があるかと思いますので、今後ともよろしくお願いします。